表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
木笑み風~木枯らしのなかで奏でる~  作者: 玉時雨
霞と闇と消失と
21/53

「白い天井……」


 霧彦が目を覚まして最初に見た光景。自然と言葉に出してしまっていた。


「霧彦っ」


 鼓膜に突き刺さるような声が響く。そこにいたのは母親だった。隣には父親の姿もあった。


「誠二さん、先生呼んできて」

「わ、わかった」


 慌ただしく出ていく誠二。

 白い純白のシーツ、白い天井、薬品の匂い。病院で味わうこの感覚は霧彦にとって苦痛だった。

 まるで牢獄。


「あんたどこも痛くない?」


 心配の声音で響子が尋ねる。


「ん~~。右手と……強いて言えば右腕かな」


 見てみるとなにか虫に刺されたような腫れ方をしていた。


「あらら、こりゃ蜂かもね~。キンカンでも塗っとく?」

「お願い」

「子どもじゃないんだから、自分で塗りなさい!」


 これが怪我人に対する態度かね。

 普段通りに接してくる響子に少し感謝する。暗い雰囲気が出てしまうとこちらまで暗くなってしまう。それを悟る母親もまた。

 こんな、何が起きたのかわからない体じゃ。

 記憶が抜け落ちている霧彦はこの病院に居る理由すらわからなかった。

 病室に医師が入ってくる。簡単な問診、診察を受けて今日の午後に退院することになった。それまで病室で安静にするようにとも。


「あーーっ、暇だーー」


 無慈悲な静寂が霧彦を苦しめる。病室には相部屋だというのに一人だけ。

 本当に何もない。

 つまらない景色。

 つまらない機械音。

 寒い青空。

 何もかもが無機質に見える。

 厚いガラスの外に広がる軽々しい冬の青空を見上げる。澄み切った青空。とても美しく広がる青はすぐに散って土に還る徒花あだばな。椿のように花ごと落ちてしまうような。そんな儚さがあった。

 感傷というにはほど遠い気持ちを抱えながら退院までの時間を過ごした。


 病院の玄関にある自動ドアが開くと、どっと凍てつく氷のような風が入り込む。


「さぶっ!」

「今日は雪が降るらしいからね。くれぐれも風邪をひかないようにね」


 担当医の若い男性が白衣を風で靡かせながら言った。


「俺、病院嫌いなんでできれば来たくはないです」

「あははは——実のところ僕も嫌いだよ。この場所に来る人はいないほうがいい。その方が幸せだ」


 ニコニコと笑う医者に少し好感を持った。その通りだと、当たり前のことなのに。


「先生、ありがとうございました」


 響子が丁寧に挨拶する。


「いえいえお母さん。それも僕たちの仕事ですからね。彼が何事もなくてよかったです。是非お大事にしてください」


 そう言うとにっこりとした笑顔をした。優しい笑顔だと思った。


 霧彦たちは誠二の運転するセダン車で病院を後にする。山の中にあるその病院は地域にある最大の病院だ。そんなところで治療を受けるとも思わなかったが。


「どうだ、霧彦。このままラーメンでも食べに行くか」


 入院していた人物に言う言葉ではない。

 でも——。


「最高。行こう行こうっ!」


 男は簡単だ。病もラーメンさえ食べればたちまち治っていくと信じれる生き物なのだ。

 そのまま車で山を駆け降りる。木々に囲まれた山道は別世界を何故か彷彿とさせた。見慣れない木々が覆っているようで。

 緑の枯葉てたマルーンのような色合いがなんともわびしくそびえたつ。何本も、何本も。その木々の間に不思議なものを見つけた。


「あれって……」


 若い木と木の空間に一本の古びた老木を見つけた。その木が霧彦を無性に引き付ける。


「ごめん、ちょっとここから歩いて帰ってもいい?」

「ここからだと家まで三十分くらいかかるわよ?」

「ちょっとしたリハビリだよ」

「そうか。ラーメンはお預けか……」

「ごめんな、親父」


 シュンとした親父には悪いがどうしても行かなければならないと思った。

 車を止め霧彦は先程の老木のもとへ向かう。ベッドで寝ていたせいか、少し足が重く感じた。それでも足を進める。


 老木にたどり着くとその木は樹齢千年を超えるほどの立派な大木だった。その木を中心に周りに木が一定の間隔で取り囲みまるで、この森の王であるかのようだった。太いよりか壮大。そして厳格。そんな印象を受けた。

 自然というものはここまで大きなものを何年もかけて作り上げる。それは計り知れないほどのエネルギーを消費する。だからだろう。

 これほど世界は美しい。

 風が吹く。目を瞑りたくなるような強い風が吹く。

 霧彦はその風を右腕で顔に当たらぬよう防ぐ。それでも霧彦は目を瞑らずにはいられなかった。それほどに強い風。凍てつくような風。

 風が止む。


「っ!」


 霧彦が隠していたその瞼を開くと新緑に生い茂る大木があった。それは当たり前にありあるもの全てがそこに鎮座している。尊厳たるその大木は堂々とそこにあった。

 一つの小さな光が霧彦のもとへ飛んでくる。


「香雪虫」


 香雪虫と呼ばれるその虫は呼び名のように雪の香りがする。ある神論者がこの虫は雪の前触れであり神のお告げだと言った。

 確かにそうなのかもしれない。こんなにも神々しく輝く虫は見たことがない。その存在までもが不確かで。そんな虫などいるわけがないとほとんどの人が笑った。そんな虫が目の前にいる。

 蜂のようなその容姿で虹色に輝く甲を持つ。そんな虫が神の使いだと思っても仕方がない。

 それほどまでに美しく輝いていた。

 美しい光は真っ直ぐにこちらに向かい飛んでくる。スズメバチくらいの大きさの光がゆらゆらと揺れながら、止まり木を探すように。


 揺れていた光が霧彦の胸へ止まった。安心するように光るその光が霧彦には美しく感じられた。


「——っ⁉」


 突然世界が歪んでいく。光を中心として歪んでいく。美しかった世界が、新緑に満ちた世界が、歪んでいく。歪んだ赤、歪んだ黒、澄み切った青、全ての色が交じり合い黒と赤の交じり合った世界が出来上がっていく。

 ひどく吐き気を覚えた霧彦は必死にその吐き気を抑える。その色に飲み込まれないようにするのが精一杯だった。

 再編されていく世界のようでひどく恐ろしい。

 変わる。変換。交換。黒。黒。黒。

 恐ろしく黒いその世界は美しさという言葉を受け付けない。


「——っ!」


 何かが聞こえた。はっきりとした言葉ではない何か。とても大切な何か。温かい、何か。

 その方へ手を伸ばし進む。恐ろしく重い足は黒の重圧で引き千切れそうだった。それでも進む。そのたびに頭痛がひどくなっていった。頭に入り込む何かがそうさせた。


「こ、これは……記憶なのかっ——」


 情報という波が霧彦を襲う。

 世界とは何か。悲しみとは何か。深淵とは何か。人間とは何か。美しさとは何か。

 ピアノの旋律。怒りに満ちた旋律。

 様々な記憶が交差していく。それを受け入れるには恐ろしい真実たちだ。過去に犯してきた人間たちの罪が形となって襲い掛かる。自分が自分でいられなくなる。

 黒い記憶の中に虹色に輝く光があった。それに向かって必死に手を伸ばす。

 光に手が届く。

 その瞬間、黒い世界は晴れ温かい光に包まれた。太陽の光がとても温かい。

 そこでも様々な記憶が流れ込む。けれど苦しみに満ちたものではない。今まで過ごしてきたかつての世界。幸せに満ちた世界。霧彦が忘れてしまっていた大切な友人のこと。


「何故忘れていたんだろう。こんなにも大切なことなのに……なんで——っ」


 温かい。けれど霧彦の心は苦しみに満ちていた。だって忘れてしまっていたのだからなにもかも。なにもなかったかのように飄々といてしまったから。それがとても、苦しかった。


「——ひこ」

「……?」


 音の中に掻き消えて聞こえづらい。


「霧彦」

「——っ!」

「そんなことないんだ。霧彦はヒーローで私たちの味方。だから泣かないでよ。ヒーローがそんな顔しないでよ。まだ消えたわけじゃない」

「——やは」


 必死にその人の名前を思い出す。記憶を辿るように思い出す。


「霧彦は思い出してくれた。忘れ去られたはずのわたしたちを、世界から嫌われたわたしたちを。君は正義の味方じゃなくてヒーロだから」


 優しいその声に答えるかのように。


「——っ、みやはっ!」


 花びらが舞う。冬には咲かない桜の花弁が舞う。その中にいる少女が優しい微笑みで霧彦に答える。


「やっぱりわたしのヒーローだ。正義の味方じゃなくてヒーローなんだ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ