大熊を狩れ 8
悪寒が走った。
奴の目は他のロックベアーの黒い目とは違い、禍々しさを感じさせる赤い光を灯している。
肩越しにこちらを見ながらゆっくりと振り返り、俺たちのいる場所を正面にして立つ。
奴は確実に俺たちがいることに気づいている。
いつからかはわからない、だがここからなら気づかれないと思っていた俺の考えは、間違っていたということだ。
この一つの事実が俺の思考をかき乱した。
なぜ気づかれた?
相手は予想よりも強い?
戦うのか?
勝てるのか?
逃げるか?
いや、逃げられるのか?
イデアはどうする?
ギルドへの報告は?
パニック状態になった俺は現状を打開することだけに頭を使い、一度に複数のことを解決しようとしてしまっている。
完全に外界から得られる情報を遮断し、自分の思考に没頭している。
そうこうしている間にやつは手に持った木を持ち上げ、頭上に高く掲げた。
木の削り折られた側の先端をこちらに向けて大きく振りかぶり、その腕を勢いよく振り下ろした。
木は魔物が投擲したとは思えない旋回運動をし、俺の顔に目掛けて一直線に飛んできた。
「……ッ!?」
風を切る大きな音が聞こえたことによって、ようやく五感情報を取り入れた俺だったが、それに気づくにはあまりにも遅かった。
俺の今の体勢と背負った荷物ではこれを回避することは不可能だ。
突然引き戻された現実には絶望が広がっていて、もうどうすることもできないと瞬時に悟ってしまった。
トラックに轢かれて死んでしまった時と同じように、俺はまた何もできずに死んでしまうのだと覚悟したその時、
「やあぁぁっ!」
白い影が俺の視界を遮るとともに、可愛らしい声と轟音が耳に届いた。
奴の投げた木を背の大剣で一刀両断したのは、イデアだった。
両断された木の片方は俺たちが隠れていた木にぶつかり、もう一方は俺とイデアの横を勢いそのままに通り過ぎて行った。
目の前にあった命の危機による焦りで、低い姿勢だった俺は後ろに倒れ尻餅をついてしまった。
「ふぅ、…大丈夫?」
イデアは肩越しに一瞬振り返り、俺に声をかけたがすぐに正面を警戒する。
奴は数瞬の間止まっていたが、現状を把握したのか不服そうな声で唸っている。
明らかに敵意を持った視線を突き刺すかのように向けてきている。
怖い。
イデアが優しく声をかけてくれたのに、返答することもできないほどに。
十年前、初めてゴブリンと出会った時に感じた恐怖とは違う恐ろしさを感じている。
あの時感じた恐怖は、まだ未熟な時に出会ってしまった脅威に対するもので、自らを奮い立たせることで立ち向かおうとすることができた。
だが今回は違う、なぜか奮起する気が全く起きないというのもあるのかもしれないが、たとえ立ち向かったとしても勝てる気がしないのだ。
恐い。
奴への恐れからか、怯えて手足が震えている。
自分がこんなにも臆病だったのかと思うとともに、そんな自分のことが嫌になりそうだった。
奴はそんな俺や警戒を続けているイデアを襲うスキを窺うように、ゆっくりと距離を詰めてきている。
あの様子だと、こちらにいつ突撃してきてもおかしくない。
それがわかっているのに俺は何もすることができないでいた。
イデアが木を両断した時に現実に意識が戻ってきた俺は、比較的冷静な思考を取り戻していた。
確かに手足の震えはあるし、普段通りに動くことはできないだろう。
だが何もできないというほどではない。
まして滑稽に尻餅をついたまま立ち上がることすらできないほどではないはずだ。
…いや、今までそういう経験がなかったから、そういう思考が働いているだけかもしれない。
落ち着いて思考ができている、手足は震えているがそれほど酷いわけじゃない、と勝手に自分にとっていいように解釈しているだけじゃないのか?
もし俺一人だったら死んでいた、本当ならこういうことを考えることすらできていないんだぞ。
今自分にできることをやらずにいるのは、本当は何もできることがないからじゃないのか?
そんな俺がこの場にいて何の役に立つ、イデアのじゃまになるだけじゃないのか?
だが、あいつをイデア一人に任せても大丈夫なのか?
…俺は、どうすればいい?
「逃げてもいいんだよ。」
「…えっ?」
顔を上げると、肩越しにイデアの横顔が見えた。
「あの魔物の相手は私一人で十分だから。倒せる、とまでは言えないけど、稼げるだけ時間を稼ぐから。」
「でも、イデアは…。」
「大丈夫、これでも一応先輩だよ?引き際くらい自分で判断できる。本当に危なくなったら私も逃げるから。」
そう言って優しく微笑むと、身の丈ほどもある大剣を中段から大上段に構える。
イデアは態勢を低くし、雪を固く踏みしめヤツに向かって突貫した。
蹴り飛ばされた雪が舞い上がり、視界が一瞬塞がれた向こう側で激しい音が響く。
振り下ろされた大剣と、奴の腕が交差した音だ。
奴もイデアが動き出したのを見て、合わせるように向かってきていた。
主導権はイデアにあった。
身の丈に合わぬように見える大ぶりの刃を、まるで自分の体の一部のように扱い、間断なく責め立て奴が防戦一方になるように立ちまわっている。
きっと俺を逃がすためにわざとやっているのだろう。
さっきの魔力切れの影響がまだ残っているはずなのに、無茶をしているのが見て取れた。
それを受けている奴は一切動じずに、イデアの動きに反応し確実に受け止めていた。
金属同士ぶつけ合ったような音が聞こえることから、奴の腕の硬度が金属並みであることを物語っている。
それは、イデアの攻撃が奴に通じていないことを意味していた。
普通の魔物と違い奴には明確な知性があり、確実のこちら側の攻撃を見切り適切に対処している。
あれでは勝ち目はない、本人も倒すつもりはないと言っていたが、これではあまりにも一方的だ。
ほとんど児戯に等しい戦いだ、止まらない連撃によって奴が動いてないだけで、一度でも反撃されれば形成は一気に逆転するだろう。
それを、俺はただ見つめているだけ。
わかっている、早く何らかの行動をとらなければならないということは。
だが、この局面に陥っていて、未だ震える手で立ち上がろうとしては失敗することを繰り返している。
ふざけんなよ!
イデアは俺を逃がそうと必死に戦ってくれているんだぞ!
この時間を無駄にするな、動け、動け!!
ようやく、震える脚に活を入れ立ち上がることができた矢先のこと。
「っうぁ!!」
大上段から振り下ろした一撃を両腕で受け止められ、そのまま押し返されたことによってイデアの攻撃は止み、更に態勢が崩され明確なスキが生まれてしまった。
それを奴は見逃さない、確実かつ屠る一撃を叩き込むべく大腕を高く掲げた。
あれは絶対に避けられない。
それがわかった時には、すでに俺は駆けていた。
意識しての行動じゃない、体が勝手に動いていた。
両手で別々の魔方陣を描きながら、全力で走る。
今までにないほどの高速記述を無意識化で行いながら、ひた走る。
この時、なぜか手足の震えはなくなっており、逃げるという思考はなくなっていた。
ただ、ここで立ち上がらなければ、前に出なければ一生後悔すると、本能が叫んでいた。
「『身体能力上昇』、『魔力形成:小盾』!!」
誘拐事件の時に使っていた『身体能力補助』の強化版である『身体能力上昇』で加速し、奴が腕を振り切る直前にイデアとの間に滑り込む。
そして、右腕に形成した小円形の盾で受け止め、奴がさっきやったように爪撃をはじき返した。
すかさず振り返り、イデアを抱え後ろへ下がる。
一度息を整え小盾を解除し、新たに魔方陣を描く。
「な、なんで逃げなかったの!?」
イデアが驚愕の声で叫ぶ。
「俺にもわからない、勝手に体が動いていたとしか…。さっき助けてくれたお礼だと思ってくれ。」
「えぇ……。」
非常に困惑している様子だが、それは俺も同じだ。
だがこうなった以上やるしかない。
さっきまで感じていた恐怖の感情はどこへ行ったのか、今は何ともない。
しっかりと奴を見据えることができている。
俺の身に何が起こったのかはわからないが、動けるようになっているならそれでいい。
「無理させて悪かったな。もう、みっともない姿は見せない。まだいけるか?」
「う、うん。大丈夫!」
「よし、一人じゃ倒せなくても二人ならやれる。今ここであいつを倒すぞ!」




