仙人と幸子の物語
昔、ある山の上にとても美しい宮殿がありました。それはまるで唐の宮殿のようにも思われます。帯のような雲が漂い、そのあたりの崖から、滝がごうごうと音を立てて流れ落ちる様は、いよいよ、仙人の住まうところといった感じなのです。
そこに、険しい山道をよじ登ってきた若者があります。
「いやぁ、ここが仙人の住む山かぁ。仙人になろうとして、遥々、遠方から砂漠の道を歩いてきたのだが、ようやく、到着した。良かった。良かった」
と、若者は汗を拭き拭き、笑顔で独り言を言いました。
見ると、宮殿の玄関は観音開きになっていました。ところが、室内に声をかけても、一向に誰の返事も聞こえてきません。
「はっはっは。これは、おかしいな。ここまで来たのに、お留守ということはあるまいな。心配になってきた。心配になってきたぞぉ」
と若者は、また独り言を大声でつぶやき、どうにも、不安に侵されながら、中へ中へと入って行ったのです。
庭を見ると、桃の花がとても綺麗に咲き乱れています。暖かな日差しを受けています。面白いことに、しだれ桜も咲いております。隣に咲いた梅の花には、上手い具合にウグイスが止まっていて、たまに「ホーホケキョッ」と美しい声で鳴いています。
「これは不思議だ。いくら春とは言え、桃と桜と梅が、同時に咲いているなどという上手い話があるだろうか。いいやっ、ない! これは、仙人の術によるものだ。おそらく、一年中、咲いているのだ。これこそ、真の仙術だっ」
と若者は、また独り言を大声で叫びました。
豪華な宮殿の居間を歩いてゆくと、布団のないベッドがあり、そこに白髭の老人がぐうぐうといびきをかいて、寝ていました。
「おおっ、これでこそ、仙人なり。しかし、起こしてはいけない。かつて、どこぞの人も先生を起こさず、起きるのをじっと待っていたそうじゃないか。ここは、お待ちしましょう」
若者は、また独り言を言って、床にあぐらをかきます。
仙人は、フガフガといびきをかいています。とても気持ちよさそうです。
「さ、幸子……」
仙人は、そう呟くと、涙を一筋流します。
「仙人にも、忘れられない思い出の人がいらっしゃるのだなぁ」
と若者はしみじみと呟きます。
「幸子……」
仙人は、はっとそう呟いて、起き上がりました。そして、若者の顔をぴたりと見ました。
「幸子?」
「違います」
仙人は、目をこすって、若者を見つめました。
「なんじゃ、お主は……」
「僕は、仙人様の弟子になるために、遠方から遥々歩いてきた旅人です。仙人様、どうか、僕を弟子にしてください」
しばらく、仙人は驚いた顔つきで若者を見つめていましたが、しばらくして、
「幸子なのか?」
「違います」
若者は、やれやれと思いました。
「幸子……」
仙人は、立ち上がりながら、若者に抱きついてきました。
「何をするんですかっ」
「幸子ぉおおお!」
仙人は猛烈な唸り声をあげています。
「僕は、幸子じゃありませんよっ」
若者は、近くにあった壺を、仙人の頭に叩きつけました。
「さっ、幸子……」
仙人は、宙をもがくと、そのまま、ベッドの縁に頭をぶつけて、気絶してしまいました。
「なんなんだ。この爺さん……」
若者は、やれやれと思って、仙人のもとに駆け寄ると、腫れ上がった頭を撫でてみます。
「ありがとう……」
「えっ」
「今ので、頭が冷えたよ……」
仙人が起き上がってきます。
「幸子は、出て行った」
「はい」
「もう、ここには来ない……」
「ええ」
「そうなのだろう?」
「知りませんよ」
仙人は、その答えに満足さたのか、二回頷き、ベッドに座り直した。それから、若者の方を向いた。
「なんだって? 遠方から来たのか……」
「そうなんです」
「なんのために」
「弟子になるために、です」
仙人は首をかしげた。
「弟子になんか、とってもねぇ……」
「駄目ですか」
「幸子の代わりにはならないし」
「………」
「悩むねぇ……」
若者は、もう一度、壺で殴ろうかなと思いました。
「誰なんですか。幸子って……」
「えっ?」
仙人はちょっと照れたらしく、顔を赤らめて、うつむきました。
「わしのこれじゃ……」
と小指を立てます。若者は思わず、
「やだなぁ……」
と呟きました。
「何が嫌なんじゃ」
「曲がりなりにも、仙人でしょう? そんな、小指なんか立てちゃって、フケツですよ」
「ふ、フケツ……!? そっ、それは、わしの見た目のことを言っておるのか?」
「違いますよ」
仙人は、この失礼な若者は何だろうか、という目つきでまじまじと見つめていました。
「そんなに仙人になりたいのか?」
「はい。なりたいです」
「わしみたいな顔になりたいのか?」
「いや、顔は……」
「どうなんだ。もし、どうしても、仙人になりたいのなら、わしが言うことをよく聞くのだ」
「はい」
「仙人になりたいのなら、幸子を連れ戻してきてくれ」
「何をおっしゃる……」
「わしは不老不死の身だが、幸子がいない不老不死など、死んだ方がましじゃ」
「そんな」
「幸子を連れてきてほしい」
「分かりました……」
若者は頷きました。それから、若者は、十年の間、ゴビ砂漠を歩きまわり、仙人の語っていた幸子を探しました。もう幸子は生きていないのではないか、という不安を抱えながら。
「幸子やーい」
「はい、なんでしょう?」
「幸子さんですか?」
「そうですよ」
「この仙人のこれの?」
と若者は、仙人の絵姿と小指を立てます。
「失礼ね。んなわけないでしょっ」
ベシッ!
「ぐはっ」
という感じで十年が経ちました。それから、しばらくして、幸子らしき人が、四川省あたりの村で見つかりました。もう、よぼよぼのおばあちゃんでしたが、最高の麻婆豆腐を作ることで、地元では有名になっていました。
「幸子さんですか?」
「はい」
「このご老人の絵姿をご覧ください」
「あらま。仙人じゃない?」
「お知り合いですか」
「私の愛している人です」
若者は驚いて、すかさず、幸子と硬い握手をしました。
「どうして、仙人のもとから、離れてしまったのですか?」
「わたしが側にいたら、修行の邪魔になると思ったの。あの人、本当に仙人になりたかったものね。わたしがいることで、邪魔したくなかったの」
「仙人を想って……。あなた、良い人ですね」
幸子は、その言葉に微笑んで、
「知ってる……」
と呟いた。
「すぐに仙人のもとへ行きましょう!」
「モチのロンよ」
ふたりは、心を一つにして、ゴビ砂漠を走り、仙人の住んでいる山へと戻りました。
「仙人さーん?仙人さーん?」
若者は、笑顔で呼びかけましたが、おかしなことに、仙人の返事はありません。どうしたのかな、と思っていると、あの寝台の上に、仙人が横たわっていました。
「仙人?」
ところが、仙人は、静かに息を引き取っていました。幸子は、駆け寄って泣いていきました。その横で、若者はこんなことを思いました。
(この人は、寂しさのあまり、不老不死の術を解いてしまったのかな。それとも、幸子さんがいない身では、不老不死になどなりたくなくて、はじめから限りある寿命だったのかなぁ)
いくら考えても、若者は、答えを出せませんでした。また、なんだか、答えを出すのも意味がない気がしたのです。
若者が、窓の外を見ると、庭にあれほど咲き誇っていた、桃と桜と梅がすべて散ってしまっています。その向こうでは、赤々とした夕焼け空に黒い雲がたなびいています。それは、なんだか儚くて、とても、この世のものとは思えない美しさなのでした……。