絶望の歌
世間の皆様、お久しぶりです。私の名前を聞くのは五年ぶりくらいでしょうか。もしかしたら、初めて聞く方もいらっしゃるかもしれませんね。そのような方のために自己紹介をしておきましょう。中村梅、二〇一五年九月二十三日に後藤一家殺害事件を起こした張本人です。当時メディアでは私のことでもちきりでした。朝のニュース、昼のニュース、夜のニュース、それらに私の名前が出なかった日はありません。
殺人鬼だと。日本のメディアは声を大にして私を呼びました。否定したかった。理由なくして人を殺す人間ではないと言いたかった。ですが、私の声はかき消されました。誰とは言いません、過ぎたことです。でも無念が晴らされることはありませんでした。だから私は書き、中村梅という一人の人間を世間に改めさせます。拙い文ですが最後までお読みください。
中村梅になる前
私が生まれたのは、一九七二年四月五日。父は証券会社に勤め、母は専業主婦をしていました。比較的裕福な家庭に生まれたのですが、私の両親は仲違いが多く私は蚊帳の外にいました。ご飯も学校も何不自由なく行けたのですが、私は親の愛情というものを貰えず人が辿るレールから徐々に徐々にそれていきました。
中学生の頃に反抗期というものが来て、自分勝手な両親の顔が見るのが嫌になり、私は不良友達と一緒に誰かが使っていたであろう、小さなあばら家で衣食住を共にしていました。類は共を呼び、家出をしている不良青年たちの集まりができていきました。組織というよりも一つの家族になり、仲違いはありましたが仲良く一生懸命に生きていました。十六歳のとき私はある男の子に出会いました。年は私より二つ下で、髪が短くよく他校の人と喧嘩をしていました。喧嘩のたびに怪我をし、私が傷の手当をしていました。そんな生活をしていると、愛着というものが沸いてきて彼のことが好きになりました。彼もお節介な私のことを好きになり、私たちは程なくして付き合うことになりました。
若いが故に情欲を抑える理性を持ち合わせては折らず、性教育もまともに受けていない私たちは暇があれば性交をしていました。でも振り返って見ると、家族愛に飢えていた私たちは、性交をすることでしか互いの愛を確認できなかったのだと思います。数ヵ月後、私の体に異変が起こり病院に行くと妊娠していることがわかりました。不良家族と話し合い、あの場所を捨て彼と二人で独立することに決まりました。みんな引き止めてくれたのですが、あんな環境で小さな子供を育てることはできないと私たちはわかっていましたし、あそこで一生を過ごすことを誰も望んでいませんでした。いい機会だからと、最後は皆に祝福されながら私たちは二人の生活を始めました。
中村梅になって
不良家族から生活費の一部を貰った私たちは、小さなぼろアパートを借りました。どこの不動産が家出娘と家出息子に貸すのかと、疑問に思うかもしれませんがそれは裏の社会があるという一言で、皆様に察していただきたいと思います。彼はアルバイトや日雇いなどで生活費と将来必要な子供の養育費を稼ぎ、私は家で安静にしていました。私も働くと言ったのですが、彼から許しは貰えずそれは私が殺人鬼となる日まで、揺るぐことはなりませんでした。贅沢はできませんでしたが、私たちが互いに求める愛がそこにはありました。薄い布団で二人一緒に寝て、小さなテーブルで互いの顔を見ながらご飯を食べました。他人から見ればみすぼらしい生活に思えるかもしれませんが、当時の私たち、殺人鬼になった私は今でも良き思い出だと思っています。
私が十七歳になってから一週間後に陣痛が激しさを増し、わたしは本能的に産まれるかもしれないと思いました。彼は仕事で家にいなかったので、図書館で得た知識を使ってできる限りのことをしました。お湯を沸かし、数少ないタオルを用意して彼が早く帰ってくることを願いながら私は痛みに耐えました。
彼が帰ってくるまでなんとか痛みに耐え、驚いた彼に事の次第を説明した後は落ち着いて赤ちゃんが産まれるまで見守ってくれました。終始私が指示をしましたが、彼がいたおかげで私は無事に母になれたのです。生まれてすぐへその緒を切りお湯で綺麗に洗うと、彼は私にそっと赤ちゃんを渡しました。赤ちゃんを目にした瞬間、止め処ない涙が溢れました。うれしいのか、こんな環境で生んだことを後悔して泣いたのか、私にはわかりません。ただただ、涙が流れました。これからは三人で生活が始まる。私たちは、私たちを見捨てた親よりも幸せになれると思っていました。
被害者となった
順風満帆に私たちは時を過ごしました。子供は健やかに育ち、彼は出世しさらに忙しくなりましたが生活はより豊かになりました。喧嘩もなく、夫婦の愛が絶えることも、夜遅くに感情を爆発させるわが子への愛情も失せる事はありませんでした。でも我が子を抱くとき、私はふと思っていたのです。我が身よりも大切だと断言できるほど私は子供を愛していたのに、母は私を愛してはいなかった。愛情を感じたことは一度としてなかった。私の体の半分は母でできているのに、私は母のように子供を見捨てる感情を得なかった。どうしてなのか、それが今でもわかりません。あえて理由を述べるとしたら、私が母の子でなかったのか、また母には人間の情がなかったのか。その二つのどちらかでしょう。
私が二十三歳、彼が二十一歳、子供が五歳になった日のこと。私の幸せが奪われました。神がいるのなら今でも問いたい。なぜ私の子供が死ななければならなかったのかと。他の子供では駄目だったのか、見知らぬ子供が被害者ではだめだったのか、私の子供が殺される道理を教えて欲しかった。その頃ぼろアパートを出て、団地に住んでいました。近所付き合いもうまくいき、子供も良き友達、良き環境に恵まれていました。そんな有難くも当たり前だった日のことです。子供は友達と遊びに行くと行って家を出ました。私は家の掃除と夕飯の準備をし子供の帰りを待っていたのですが、いつも帰ってくる時間に帰ってこなかった。そのときの私は心配をしていませんでした。なぜなら私たちが住む地区は治安がよいところだったかです。私は下ごしらえを終え、一休みしようとテレビをつけました。レポーターが深刻な表情で、殺人事件近くの現場でレポートしていたのです。それを見ても私は気づかなかった。そしてレポーターは私が住む地区で、私の子供と同じ年の年齢の人間が殺されたと言ったのです。血の気が引きました。急いで捜しに行こうとしたとき、呼び鈴が鳴ったのです。きっと子供が帰ってきたに違いない。一抹の不安と希望を抱きながら玄関を開けると、子供の死を告げる無力な権力者がそこにいました。子供の死を知った私がどうしたのか覚えてはいません。聞いた話では、血の涙を流しながら警察官を責め、自身の命を絶とうとしたと。今でもその傷は残っています。その傷を見るたびに子供を失った哀しみが、私の心臓を破裂させようと力いっぱい握ってきます。
子供の死を告げられて、警察官に事情聴取され子供がどのように殺されたのかを聞かされました。後ろから鈍器で殴られ気絶した隙にどこかの倉庫に運ばれました。犯人は私の子供を殺すことが目的ではなかった。体のありとあらゆるところに犯人の精液をかけられていました。口、手、胸、髪。女性器にも入れようとした形跡がありましたが、入らなかったため擦る行為を繰り返し行ったそうです。犯人は充分に子供を蹂躙した後、その命までも吸い取りました。犯人が捕まったのは私の子供があげる惨劇に耐える声を遠くから聴いた人が、警察に連絡したからです。数人の警察官が捜索しているところに、血濡れの犯人が姿を現し逮捕にいたりました。犯行の目的はネットで得た性知識を試したかったと、そんな理性の欠片も見出せない稚拙なものでした。
惨劇を生んだ犯人は隣の地区に住む中学生でした。このような酷い行為をする中学生を生む、寒い世界に私は我が子を解き放ってしまった。犯人への恨みはありましたが、それよりも自分が許せなかった。子供が嘆き苦しんでいるときは、私は暢気に料理を作っていた。私と同じ血が通っているのなら、どうして我が子の危機に私は察することもできず、体は動くこともなかったのか。全能で不完全な神が生んだ欠陥品は、子供一人守ることができないできそこないでしかなかった。
子供を失った私の魂は死にました。子供の通夜も葬式も私が肉体を抜け、過去の思い出に浸っている間に全てが終わっていました。気づけば居間の四隅に埃が積もるほどの時間が経っていました。子供を失った私たちは互いを気遣うことさえできなかった。子供と妻を持ち、生活の支えとなった彼はまだ子供でした。あまりにも大きな哀しみを背負った女を慰める腕を持たず、またその現実を見る目を備えていなかった。彼は家を空けることが多くなり、仕事をする時間はそれに比例してどんどん多くなっていきました。考える時間を作りたくはなかったのでしょう。仕事をしているときだけ哀しみから開放され、家に帰れば少し前まであった幸せな日常の残像が姿を現し、残酷な現実を突きつけるのです。それを耐えられる人間がどこにいましょうか。私は彼を責めることはできません。彼も私と同じように苦しんでいたのですから。
私の魂が肉体に戻ったのは殺人事件などで親族を失った被害者の会という団体がきっかけでした。団体は私に生きる意味を与えてはくれませんでしたが、生きようとする意志を作ってくれました。いろんな方が、色んな形で親を、子を、兄弟を失い、その哀しみを背負いながら賢明に生きているのです。せめて夫のためにと思い私も一歩を踏み出しました。少しずつ、少しずつ、子供がいたときの生活に戻していきました。彼も私が回復するに伴って、家にいる時間が多くなりました。まだ、不良青年だったときのように私たちは新しい生活を始め、触れれば木っ端微塵に砕け散る決意を互いに支え合いました。それでも時々子供の残像が私たちの哀しみに塩を振りかけてきたのです。その度に私は過去を拒絶し、哀しみに目を背けました。そうやって私たち夫婦は普通の生活をおくることができたのです。
加害者になる
完璧とはいえませんが、私たちは過去の日常とそれを失った哀しみに蓋をし、紛い物の幸せを享受していました。そして2015年、近所の奥様方と買い物をしているときに、ある親子を目に入ったのです。その父と子には見覚えがありました。そして記憶がすぐに蘇りました。子供が殺され、被害者として加害者に会った日。私はあの親子とよく似た人相の悪魔と対面し、言葉を交わしました。あの犯人が大人となり、妻を娶り、子供を授かっていたのです。私の子供は体を汚され、わずか五年の人生に終止符を打たれ、生きる喜びを理解できぬままこの世から去った。なぜ、犯人が幸せになり私の子供がそれを享受できないのか。あまりの理不尽に体は頭より早く動きました。周りの音は消え目に見えるのは簒奪の悪魔だけ、早足で悪魔の目の前に行き、肩に手をかけました。悪魔は振り返りこう言いました。「何か?」
忘れていたのです。私の顔を、犯し殺した幼子の母の顔を奴は忘れていたのです。怒りと哀しみが、蓋をこじ開け魂の深い部分まで一瞬で侵食しました。殺意よりも笑いがこみ上げました。この世界は狂っている。犯罪者がまともな幸せを掴むことができるこの世界を、古傷から沸きあがる笑いを持って呪いました。奥様方は狂った私に声をかけてくれ、犯人までも心配そうに声をかけてきたのです。汚らわしい手で私の肩を掴み、虫の羽音よりも不愉快な声で私に「大丈夫ですか」と声のような泥をかけた。
警察を呼ばれ、犯人と奥様方と私は一緒に連れられ何があったのか聞かれました。何も言える事はありませんでした。胸に宿る感情を舌に乗せることを許さず、私は「たまにこういうことがあって、周りに迷惑をかけている」とそう言いました。警察署を出るとき、犯人はいらない親切心を私に見せました。「僕が何かしたのかもしれない。もし気分を害したのならお詫びがしたい。ここに電話をしてください」そう言って私に電話番号がかかれたメモ帳を渡しました。これを受け取ったとき、私はこれをどのように使いそして何をするのかを一瞬で考え決意しました。あそこで犯人に会わなければ、私は狂わなかった。犯人が私を思い出し涙を流しながら許しを請えば、子供と妻を持つ犯人に私は復讐の刃を向けることはなかったのかもしれない。彼には何も告げませんでした。私の手で私の子供を奪った犯人の命を刈り取りたかったからです。でも長年の付き合いです。彼は私の顔を見て、「何を考えているか知らんが血迷ったことはするな。俺たちには深い哀しみがあるが、未来もある」その言葉は狂った私の心には届きませんでした。今でも後悔はありません。私は私の行為に絶対の正義を感じているのですから。
犯人と会ってから三日後、私は電話をしました。「あのときはとんだ迷惑をおかけしました。前回はお詫びをするといってもらったのですが、ぜひ私にお詫びをさせてください。人の温かさを教えてくれたあなたにお礼がしたいのです」その言葉を犯人は無防備に信じ、私の言ったとおり、妻と子を連れ私の前に姿を現しました。長年の隣人を見るかのように、犯人とその妻、子供は私に挨拶をし共に行動をしました。実行したのは遊びつかれた夕方。場所は蛍が見えるということで、地元の人にはよく知られた場所。私たちは簡単な夕食を買い、そこで日が沈むのは待っていました。その時間に私は殺意の剣を抜き身にしました。蛍を見に来たのは私たちだけで都合よく、周りには人っ子一人いませんでした。犯人の妻を誘い、喉が渇いたから飲み物を買いに行こうと誘いました。犯人の妻は警戒することなく、私の提案にうなづき着いて来ました。田舎で人通りが少ない道を歩きながら、私は鞄にしまっていた包丁を見えないように右手で握りました。「あ、あそこ。蛍じゃない」注意を逸らすために発した言葉に犯人の妻はまんまとかかり、その背に復讐の刃を刺しました。膝から崩れ落ちるように倒れました。でもまだ息があり、何か小声で言っていました。最後の言葉を聞くどおりなどないと思った私は、首に深々と復讐の第一歩を刻み込みました。
遺体はそのまま放置し、残りの標的に向かいました。後ろからそろり、そろりと近づき犯人の背中に深々と一突き、そして逃げようとする子供の髪を掴んで、押し倒しその腹に何十回と包丁を刺しました。背中を刺された犯人は這って、逃げようとしていましたが両肩に包丁を刺し、太ももにも包丁を刺して動きを止めました。夢中だったため、犯人が何を言ったのか覚えてはいませんが、自分が何を言ったのか覚えています。「二十年の時間を経て、お前に復讐をするのだ!」そう言って、犯人の顔が潰れるまで包丁を刺し続けました。警察に捕まったのはそれから三十分後。地元の人が偶然通りかかり血まみれの私を見て、通報したそうです。
その後
捕まった後は素直に供述しました。隠すことは何もない。私は自分の子供と夫に胸を張れる行為をしたのですから。ですが、世間は認めてくれませんでした。殺人鬼と揶揄され私の復讐を意味のない行為、残酷な行為として非難したのです。子供を殺された苦しみを知らない世間様は声を揃えていいました。
【そんなことをしても子供は喜ばない】そんなこともできない母親に私は収まりたくはない。子供を失った哀しみは消えない、癒えない。それを理解しない世間は私を非難することをなぜできようか。復讐によってでしかこの深い哀しみを和らげることはできなかった。復讐の衝動を抑える理性は、哀しみに押しつぶされた。涙を流すだけでは殺された人間を弔えないことを世間は理解すべきなのです。誰が私を責めることができようか、誰が私を罰することができようか。それでも、この理不尽で狂った世界は私を罰する。これが世に出る時、私は絞首刑になっていることでしょう。これが私の全てです。これがこの国が生み出す惨劇なのです。私はその惨劇の被害者の一人となったのです。