二人と
オムニバス形式での連載です。これは彼と彼女の話になります。
「おいしそうだね」
不意に言われて、私は反射的に体が跳ねるのを感じた。手で弄んでいたリンゴも、それにあわせて一瞬宙に浮かぶ。
「そんな驚かなくていいのに……」
ため息をついて、隣いい?と聞いてくる人物は、細い狐のような目が特徴の同僚だ。名前は確かジウとかいった気がする。名字は知らない。この職業に名字など必要ないから、そもそも名字などもっていないかもしれない。私のように。
「ティーちゃんも今仕事おわり?」
「いや………。ただやることもないから、ボーッと。あとティーちゃんって呼ぶな。ティアナだ」
「えーやることないの? それは羨ましいなぁ、俺なんて今有名な大富豪を殺してきたとこなのに」
ティアナと呼べといったことに関しては完全にスルーして、ジウは自らの仕事に関してペラペラと話始めた。私の知る限り、この仕事をこんなに楽しんで話すやつは初めてだ。
「………お前は仕事が好きなんだな」
無意識に出た言葉は、決して嘘ではない。ただ、ジウがピタッと話をやめてこちらを向くので、なんとなく気まずくなって、私は親指でリンゴの表面をなぞった。
「………なんでそう思うの?」
表情を変えずに、ジウが尋ねる。
「いや…………おまえが仕事の話をするとき、やけに生き生きしてるから……」
「…………そう見える?」
その声がやけにいつものそれと違っていて、私は思わずジウの方を向いた。細い目のその奥に、凍てつくように冷たく暗い瞳が見える。捕食者のようだと、緊張する脳の端で思った。
手からポロリとリンゴがこぼれ落ちた。
ジウが私を見つめる。私もジウを見つめる。だが二人の間には圧倒的な格差があった。殺す者と殺される者。このままこうしてじっとしていれば、いずれはジウに食い殺されるだろう、そんな気さえした。落ちたリンゴに、手を伸ばすことすら許されない。
「…………なーんてね!」
緊張と静寂を破ったのはジウの方だった。
「やっぱ俺にこーいうキャラは向かないや。ティーちゃんがやれば少しはぽくなるんだろうけどなぁ………」
そう言って頭をかく。
「………あぁ、確かにお前じゃ無理だな」
私はとりあえずそう言った。何か口に出さないと、頭の中のなにかが切れてしまうような気がした。
だがその先の言葉が続かない。また静まり返ってしまったなかに、ジウが、ポツリと言った。
「…………殺したくは、ないんだよね」
静かな声だった。
「でも殺した方が幸せなんだよ。俺も、世界も。だから殺したくなくても殺す。それが俺の幸せにつながるから。…………支離滅裂だけどね」
ジウの言葉は私の心にもゆっくり伝わった。そう、彼の言う通り、殺したくないけれど、殺した方が幸せだと言うその現実。最も、一般人ではそれを実際に行動に移すことはしないのだろうが、残念なことに私たちは一般人ではない。国の諜報員。そして密偵。"幸せ"を現実に出きる能力を持ち、かつそれを義務とする種類の人間。
ジウが落ちたリンゴを拾った。まだ艶やかな表面そのままのリンゴ。毒々しい赤は、ジウの指にいっそうはえた。
私がうっかりそれに見とれそうになったとき、仕事用の携帯が鳴った。上司からだ。
「…………もしもし」
『やぁ、ティナアくん。今良いかい? 仕事を頼みたいんだけどね』
どこか嘘っぽい底無しに明るい声が響く。疑問形で尋ねてはいるが、決して有無を言わさぬ口調だ。
「………なんでしょうか」
『あぁ、実はだね―――――――』
会話を始めた私の横で、ジウはどこか楽しげに私を見ていた。口角が少し上がっている。何故かはわからないけれど、私はそれが、彼のその繕った感満載の顔が、妙に寂しく見えた。
「……えぇ。了解しました、はい、じゃあ………失礼します」
携帯の「通話終了」のコマンドをタップ。私がそれをやり終えたのを確認してから、ジウが尋ねた。
「あの人、なんて?」
「仕事の依頼だ。裏金で税金をごまかしているやつがいるから…………まぁ、あとはいつものことだ」
「そっかぁ。俺疲れてるからなぁ、どーしよ」
「………いや、別に来なくてもいいが」
むしろ来る気だったことに驚く。
「えー、そんなつれないこと言わないでさ、ね?」
ジウの言葉を無視して、私は立ち上がった。ソファをまわって、ドアへと向かう。
「あーごめんってば!行きます!行かせてください!」
ジウの声が後ろから私を追いかけた。リンゴを近くにあった机の上において、立ち上がる。
「まってよティーちゃーん」
「はやくしろ。あとティーちゃんじゃなくてティアナだ」
「わかったよティーちゃん」
「…………」
半ば諦めの気持ちで、ため息をつきつつドアノブを握る。
「今日は外は雪だよティーちゃん。コート着ていきなよ」
すると、後ろから黒いコートが一枚降ってきた。
「うぷっ!?」
「それあったかいよー」
ジウは自らもコートをはおり、襟をただしながら歩いてくる。彼のも黒いコートだった。黒は良い。返り血が目立たないから。
「人を……」
言葉が無意識にこぼれた。
「人を殺しにいくんだよな。今から。」
「そうだよ?」
一体何に疑問があるのかとでも言うように、ジウは首をかしげた。いつも通りのキツネ笑い。だが今なら、そのキツネ笑いの奥が少しだけわかる、気がする。
「………行くか」
そう言って私は、ドアを開いた。