木の上
わたしは木の上で本が読みたい。それには最低限、木が必要だ。
手元に本はなくても、目の前に木さえあれば、もしかしたら、木の上で本を読んでいるような気分が生まれることはあるかもしれないと思えるから。
だけど本が一冊あるくらいでは、木に触れている気分には絶対になれない。
たとえ持っている本の内容が、木に触るような話だとしても。
実際上の木の上にいること以上に木の上にいることというのはないのだし、肌と木が触れあっているのを見ることと、紙の本を読むことは、ちょっと似た感触があるように思う。
やはり、立派な本よりも立派な木のほうがわたしには必要なのだ。
うずうずするというより、それを思うとわたしはぼうっとなる。
おそらく、わたしはそういうちょっとはぐれたユーモアの持ち主である女性に憧れているのだと思う。
一度はやってみたい、というよりはなってみたい、という感じ。
単純には行かない。
「わたしは木の上で本が読みたい」
言葉の上では一行の半分も行かないことでも、あらゆる条件がこれには求められてる。
わたしは木の上で本を読むことの難易度がどれぐらいなのかを知らないけれど、それをするための容姿のレベルがとても高く設定されているのは想像に難くない。髪の長さ、脚の長さ。
あとスカートじゃなきゃ絶対駄目、彼女はすでに靴をなくしているか、そうでなければヒールのあるものを穿いている。
一体彼女、これからどんな運命を辿るのだろうと思わせる女。帰り道をなくしている可能性も、見上げている人に感じさせる女。いや、案外、彼女は素足のままで家路につく女なのかも、と感じさせる女。
胸は、もちろんすごい大きさ。自信満々。わたしみたいなにのうでフェチも満点を出さざるを得ない、夏服の女。枝葉も鳥も彼女のためにそこにあるように見える、彼女はそんな女。
そうだ、風のことを考えるのを忘れてた。これだから風って嫌だ。
彼女の目線は、ずっと本に釘づけ。どんなものを彼女は読んでるんだろう。それが分からないのがわたしにはすごく楽しい。空は真っ青で、それは静かな午後だ。
今のわたしにはこの絵を描ける。この女性の行動を素敵と思える。
このアイディアの実現に問題点があるとすれば、果たして自分がこのようなタイプの女になり得るのかということだ。わたしがもう少しして女子中学生を脱いで女子高生を着て、更なる時間経過ののち女子高生を脱いで、そうしてまた何かを着る頃に、果たしてわたしは、いい大人が木に登ることを、まだ今と同じで、面白いことと感じることができるだろうか。
どの本を手に木を登るかも問題だったし、そもそも木登りをしたことがないのも問題だったし、出るところ出ている女性になれるのかどうかも問題だ。だがわたしが一番怖いのは今の考え方、感じ方が将来どう変わっているのか全然分からないこの感じだ。
大人のわたしは今のわたしを見下しているようになってるかもしれない。
木の上にいて自分を見下ろす女を見上げ、無表情の裏で女のことをくさす、そんなタイプになってるかもしれない。
わたしはそういうタイプの人を面白くないと思っているけれど、向こうからしたら、木の上にいる女なんて面白い面白くない以前の存在だと、間違った存在だと思っている。
そうして彼らの想像するのは、木を燃やすことなのだ。いつだって彼らは火を使う、必要ない時でもすぐ火を使おうとする。火を使う機会に彼らはとても飢えているのだ。




