スパイ
私立高校にスパイが潜入する。彼女は前回の任務先でひとつミスを犯したが、どうにか切り抜けた。頭部の傷を長い髪で、時おり記憶に混乱が生じるようになったことへの不安を胸の奥に隠したまま、新しい任務にのぞんできたのだった。
そしてスパイは案の定、本当の年齢を忘れる。
彼女は自身を高校生と思い込む。
毎日感じている不安については、受験競争に巻き込まれたからだと思い込む。
けれども、長くは保たない。
学校が終わり、がらんとしたマンションの一室に戻るころにはもう、十一月だというのに彼女は不自然な汗をかいている。不自然な本棚、不自然なテレビ、不自然な冷蔵庫の順に見ていき、彼女は何かを探し求める。
途端に思い出す。ホワイトボードの前まで行く。暗号文を読みとく。全ての記憶が蘇る。のたうち回る。これを、スパイは週に何度も繰返した。
いっぽうでは、目的の人物である同級生には何ら疑いを持たれておらず、教室での彼女は着実に彼との距離を縮めつつあった。
これでいいのだ、とスパイは、ぴかぴかに洗顔したあとの肌に惜しげもなく美容液を施しつつ考える。
スパイは大柄だし、ぶざまなくらいに学校の制服が似合っていないし、忘れっぽいし、わりあい気に入らないことが多いし、気に入らないことがあると女子トイレの鏡や壁を素手で壊すし、それなのになぜか無傷だ、ということで女子生徒の大半から煙たがられる。
エキゾチックなあらゆる国を渡り歩き、あらゆる香辛料やシャワー室を彼女は通過してきた。
無論少女たちは、そんなことは知るよしもない。それなのに何かを察知していて、臭いと、暗に明にいわれることが多い。
スパイは驚嘆するが、校内にいるあいだの彼女は無表情のまま上手に傷つく。
友人は大勢できる。例の男子生徒とは会話どころか、今回の最終目標となる彼の自宅がある高級住宅街などにはこの先ずっと縁がなさそうな男子ばかり、とスパイは苛立つ。
けれど教室にいる時の彼女にとって、そのような考え方はたとえ他の誰かの声であっても聞けばひどく気落ちするに違いなかった。
彼女は太い腕と、町に降り立った初日から、通行人たちの目をくぎ付けにしたおっぱいの持ち主である。彼女のクラスには連日、男子生徒が殺到する。男子たちは腕相撲の試合を彼女に申し込む。誰もが彼女に叩きのめされる。誰も、夢の中でさえ彼女を屈服させることはできない。
彼女はテニスやらレスリングやら指相撲やら腕相撲やらで二万と千九百円を稼ぐ。
そして全額、真冬のスーパーマーケットの前で募金箱を両手にさけんでいる中学生たちにやってしまう。瞬間、辺りはしんとなった。
中学生たちは、駅の方向に向かい彼女が信号を渡るころになると再度、幼い声を張りあげだす。どんなに持ってきたって無駄なのだ、と今や女スパイであるところの彼女は、そういった思いにとらわれた。誰も彼らを黙らせることはできない、と。あのこたちにとって、あのブラックホールみたいなものを放り出して、それを放り出しても誰も何もいわないくらいの、それだけの脅威や言葉を俺が降らせることができればいいのに。
スパイは何かを目にしたからといって、切なくなりたくはない。今すぐにこんな感情は忘れてしまいたい、とスパイは願うと同時にそう願っている自分を見つめている。一人冬の町を歩きながら。
次にスパイは自分の人生を見た。
彼女にどんな災厄が降りかかったのだろう、なんて悲痛な声だろうと通行人たちがたじろぐような声で、スパイは笑った。




