盾を舐める
オレの兄はある日とつぜん、世界からいなくなった。盾をひとつ残して。
かれが消えたのは何かとても不自然なことだ、と町内の大人たちのだれもが口にした。
どの学校でもめちゃモテで、声も素晴らしくきれいで、きさくで、なにか哀しいほどやさしい性質で、猫も鳥も犬もかれの近くに行くと安らげるのかやたらとまとわりいた。あれほどの青年なのに一体なぜ? と。
町の人間たちがいろいろと動いてはくれたが、弟の立場からしてみれば、連中は口ばかり動かしてて、まず真っ先に手や足や頭を動かそうとしていたとはどうしても思えなかった。
オレの兄は、今年十九歳だった。たしかに微妙な数字だ。
そしてけっきょく、兄の消失はすべて、カーテンを閉めきった部屋にころがってる盾に集約されることになった。かれに置いていかれた人びとの思いは、すべて。
「にいちゃんの盾から離れてください!」
バタンッとドアを開けながらオレは叫ぶ。
オレはいつも下のなまえで兄をよんでいた。つまり何から何まで演技だった。
「ちっ」
舌打ちしやがった。痴女が、このオレの前で。痴女のくせに。
んぺろぺろぺろぺろべろろろべろろんべべべべろろろろ、と兄の盾を内側から舐め続けている痴女は、昔から近所に住んでいる秋山家の娘だ。
高校の帰りらしく、マフラーをまいたまま、うろんそうな目でこちらを見る。
「あのですね痴女、じゃない秋山さん? よそさまの家で変態行為を再度始めちゃえるその気概を何か他のことに活用したほうが、きっと本当の意味でにいちゃんに近づけることになると思うんです」
んは、ふぅ、はっあっ、と暗い室内に女子高生の荒い息づかいがひびいている。さっきまでずっとドアに耳をつけてタイミングをうかがっていたが、全然きりがなかった。
「小五の前でそんなザマになってるのって、すっごく問題ありだと僕は思いますけどね」
「うっさいなもぉ」
「え。逆ギレ?」
手の甲で涎の垂れた口もとをぬぐい、なぜだか挑戦的な目つきの秋山。
舌打ちして、何ごとかつぶやき、指定かばんを拾って、腰をあげて、敷居に立つオレを見下ろした。オレは、怖い、と思う。
「どいてくんない」
いわないといけないんだけど、オレにはいえない。
間違っているのはわかるんだけど、言葉がわからない。
秋山が階段を降りる音、玄関から外に出ていく音。オレが頭を掻いてると、廊下の壁に背をつけて座っていた奈田さんが小さく、ヨイショといって腰をあげた。
そこで奈田さんは長いこと待っていたのだ。可愛らしくスカートの後ろをポンポンはたく。そうしながら労いの意味で、オレにやさしく笑いかけてくれた。
「大変だね、弟くんも」
じゃそゆことで、と奈田さんはいい兄の部屋に入るとドアを閉めようとするんで、オレはさっと脚を室内にいれた。いやいやいや。
「いやいやいや」
「いやいやいや、ってそれはこっちがいいたいですからね?」
「いやいやいや。まぁまぁ」
「いやいや、させませんよ。なんでみんなそんな舐めようとするんですかっ、舐めちゃダメでしょ盾は! 兄貴の、ゆいつのアレじゃんか、手がかりなんだぞ。舐められる弟の身にもなってよ」
奈田さんを相手にする場合、オレは兄を兄貴とよぶようにした。
「泣かないで弟くん。ごみんに弟くん。だけど、あの、盾が一番、あの人のことを感じれるの。盾を持って立ってるのが感じれるの。ほんとにかっこいいんだよ」
ごめんね、といってほんとに心根のいい、兄を慕っているだけの純粋で可愛らしい年上の人から差しのべられる手だったけど、オレはきっぱり拒絶した。
暗い中、落ちている盾のもとへと駆け寄ったオレは兄のベッドにそっと、それをもたせかけるようにした。
帰ってきて、帰ってきて、そうオレの口は何度も繰返した。
演技を続けながらこっそりと出入口のほうを見やる。
両手の中に顔を埋めた奈田さんがいる。
この意味があるのかないのかわからない劇を無表情にムービー撮影している長女の晴香がいる。
いわないといけないんだけど、オレにはいえない。
間違っているのはわかるんだけど、言葉がわからない。




