友達に戻ろう
彼の部屋に彼女が入ったのはその日が最初だった。
二人は同学年だったが前日まで話をしたことすらなかった。
しかし同じイラストレーターの名前が、頭の中にいくつも入っているということが今日、判明した。二人とも学校図書では美術書をよく借りていた。
お邪魔します。どうぞ。
そして次に彼が見た時には優等生の女の子は天井に膝をついて座りこんでおり、帰れないし優等生でもなくなっていた。
彼女は帰れない。もうこれはしようがないということで、二人は早々と眠りに就くことにする。
小一時間、それぞれの眠り方を試してみたものの、もちろん満足な睡眠をふたりとも得られなかった。
翌日の夜も、その次の夜も。
彼らの通う校舎が古いだけの汚らしい市立中学校にも、動画サイトのコメント欄にも、ふたりの唯一の接点であるバレー部にも、何ら変わったところを彼は見つけられなかった。
彼は、天井に座ったまま帰れない彼女に、その日見たことを報告するようになっていた。
でも結局はそういうことだ。
世界の隅、と彼は思う。
「あたしずっと制服なんですけど」
これ、どう思う?
彼はベッドに背を預けて天井の彼女を見上げていた。すっかり慣れたポーズ。
「落ちないで良かったねと思う」
「ほんとだよ」
身につけていたもの、ポケットに入れっぱなしにしていたものも、日を追うごとに彼女から離れていった。
天井からは生徒手帳、コインが二枚、リボン、ハンカチ、靴下、飴玉、ポケットティッシュ、自宅マンションの鍵という順で床に落ちてきた。
彼女のところから鍵が離れていった日の夜、彼はふたりの見慣れているボールではなくスーパーボールを彼女に投げてよこした。
小さなスーパーボールは部屋の壁や床をはね回った。
持ち物に見離されても同居人は一度も泣いたりせず、笑顔も完全には絶やしたりしなかった。
彼は学校ではほとんど身動きをしなくなり、付き合いで入った部活動にも顔を出さなくなり、楽な姿勢で、勉強と読書だけした。
しばらく経って、雑誌で連載中の漫画が気になるといい出して、彼女は彼を驚かせた。
こんなことにならなきゃ、と彼は書店でピンク色の表紙に顔をしかめて考えた。あの優等生がお花畑みたいな少女漫画を読んでるんだとは、知らないままだった。
こんなことにならなきゃ、と彼の思うことはいくつもあった。
例えば、母親が彼が学校で勉強している間に部屋に忍び入って、読書の傾向について調べているということ。特にレインの本に関して不安視していると彼女から教えられて、彼としては笑うしかなかった。
時どき、少女漫画をふたりで一しょに読んでいて幸せだと思い、彼女に申し訳なく思う。
そんなふうにして、ふたりは中学卒業の日を迎えた。
そういうことの全て、高校生は忘れる。
誰もが彼女を忘れていったのを目の当たりにして同じになるわけには行かないと思った。
彼女の両親でさえ、半年も保たなかったが、彼は自分だけはさすがに同じ症状は出ないだろうと思った。
ただ立っているだけでは彼女には届かないけれど、ベッドから手を伸ばせば彼女に触れた。
無意識に育んでいた独占欲も、高校生は忘れる。
彼女に対しての好意を公言していた、みごとに彼女の存在を忘れた、卒業式のある頃には恋人を作っていた、男子バレー部部長への怒りもきれいに高校生は忘れる。
ただし高校生は、ちかごろ自分のベッドがなぜかしら落ち着かない場所になっていると感じる。でもそんなの誰かに相談するほどのことじゃない。
それだけに最終学年に上がる年、冬の夜に降ってわいたかのように女が部屋にいるのを見ても、思い出すなどという選択肢を高校生が浮かべられるはずもなかった。
正体不明の女は、空から落ちてきたかのように床にうずくまっていた。
彼は、明かりのついた部屋で音楽雑誌を読んでいて、気がつけばもう女は同じ部屋にいた。
ありふれた中学校の制服を着ていた。
顔を確認しようとしたが、女はただちに次の行動に移った。部屋から出ていき、階段を降りる音、ついで一階の母親の悲鳴、ガガッという重い音、ガラスが吹き飛ぶ音、そして唐突に無音。
それから、高校生の名前を呼ぶ声が階下から聞こえてくる。
それでも、高校生は身動きができないままだった。
「友達に戻ろう」
部屋の外の廊下まで戻ってきた声の主が、そんな笑いたくなるような科白を口にしても、高校生はまだ、まだ。




