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マスク






 私の中学時代の友達で、いまや校内じゅうから保護観察対象となりつつある男の子は、私にいちど吸い込まれた。

 彼と私のあいだでのその異変が起こった最初の場所というのが、またまずくて、十二時の廊下だった。ものすごい衆人環視の中だった。


 それが起こる前、二人に予兆はなかったし、うちの高校に予言者はいなかったし、何かが聞こえてきたり震えたり寒くなったりもしなかった。

 前触れもなしに、突然にそれはやって来た。

 まず、二人の目が合った。それで? 彼のほうはどうしたのか? 実のところ、まだ最近のことだというのに私の記憶はショックで飛び飛びだった。

 廊下であの時、彼のほうはどうしたかったのか? それはもう分からないけれど私のほうがどうしたかったのかは覚えてる。

 そのまま擦れ違ったりしたくなかった。

 彼とまた話ができる間柄に戻りたかった。




 それは、すごく簡単なことだった。

 吸い込む側にまわってみなければ、想像すらしてもらえない感覚だというのは重々分かっているつもり。でも私はただ息をしていただけ。だから加害者の気分になる時もあれば、正直いって被害者の気分になることもあった。


 でも、見ているほうとしては、人体の半分までが口の中に吸い込まれるさまを眼前で唐突に繰り広げられたりしたら、そりゃ、ショックも受ける。

 私が彼の下半身まで吸い込んでから、慌てて吸うのを止めて吐き出した。それ以来、同学年の女子からの憎悪は毎日のように私の私物に降り注いだ。

「大じょうぶ?」

 あの昼、私と一しょに歩いていた同級生の女子が、床にドサッと転がった彼のほうに寄っていって声をかけた時のこともそう。私は一生忘れることはないだろうと思う。






 私は、家の玄関先でマスクを取り出すと装着し、そのまま学校に行った。夏がきても、冬になっても。

 自転車通学も止めにした。駐輪場にある間に前輪がいつもパンクしているから。

 あまり彼に何度も修理してもらうわけにはいかない。


 このままいくと、高校生活では彼と過ごす時間が一番多いことになりそうだ。

 この点にかんして、誰もかれもが不可解だと感じているみたいだった。彼のことを吸い込んだ当の私でさえだ。

 ほんとに私はどういう顔をしてたらいいのか分からない。

 三組の彼は、休み時間になると度々私のいる二組に姿を現した。


 気が抜けない日々が続く。マスクの位置を気にするという最近始まった私の癖、周囲を気にし過ぎている時の私の足を机の下で蹴る最近ふっかつした彼の癖。


 家に帰れば母親がよく電話をしていた。彼のお母さんとだ。

 彼女たちは密に連絡をとり合っていた。登校時間はもちろん、私が外に出る時間はあちらには筒抜けだった。


 父親にはなぜか、いちど平手打ちされた。意味が分からなくて、自室に戻ってから笑った。




 校内では色々な説が飛び交ってた。男子たちから私が同情票を得ている理由として、私は彼以外のだれのことも吸い込まず、それはこれこれこういうわけだから、と考察する人が女子と比較するまでもなく、男子たちには多く見られたからだ。


 男子たちの最有力説、それは私の体内に異世界と繋がっている扉ができているのだ、ということだった。

 彼には果たすべき使命があり、そして彼専用のドアみたいなものがたまたま私の体に発生したのであり、私に落ち度は全くないのであり、悪いのは彼なのであると。


 けれども、私と彼は、そういう話は全然しない。話すのは、ありきたりなことばかり。最近聴いているバンドのこととか大学のこと、最近見つけたかっこいいサイトのこととかだ。



 当然、彼のほうの家でも変化は生じていた。

 ちょっと聞いただけだけど、彼の母親はすごい女性みたいだ。

 彼女は彼の私物に鉄を仕込むようになる。

 彼は、私と全く同じように素知らぬ顔で家を出る。すると途端に盛大なため息をつく。

 それから気を取り直して、息を切らしつつ文字通りに鞄を引きずって駅に向かうのだ。


 靴も細工を施されていた。ママチャリをそれぞれ結びつけられているかのように、ゆっくりとしか彼は歩けない。


 こうしたことを私は彼のクラスの人々に教えられて初めて知るのだった。

 彼の制服の下がいまどんなふうか知ってますか、とある手紙には書いてあった。

「いえ知ってたら逆にアウツですけどね。彼、まるで『ガラスの仮面』みたいなことになってるんですよ。このネタ通じますかね。とにかく彼は日々たくましくなっていっています。僕たちの気持ちが貴女に分かりますか。彼の高校生活は台なしです」

「僕たち」

「私たちは」

「一生、あなたが家を買うことを許しはしないでしょう」




 ポケットにはハンカチとティッシュ、それと予備のマスク。

 つねに一人なのに、つねに何人分ものマスクが私の鞄には入っていた。

 マスクは、マラソン中に女子に突かれて転び土と血で汚れた膝にあてがう物としても、ぴったりの白さだと私は思う。




 その日は彼から二人で帰ろうと誘われても断る。彼のほうでも何か感じ取ったようだった。間が流れた。でも結局別れの言葉を口にしながら手を振っただけ。

 教室で私は黙ったままスマートフォンを見つめ続け、黙ったままクラスメートの手や肘で頭が揺れに揺れるのに耐える。



 今朝、世界じゅうの高校生の笑い声を吸えたらいいのに、と私の頭は思い付いてしまった。



 彼の母親は転校するように彼にいった。あくる日に彼は私にいった、もし自分が転校するとしたら私がそれをした時だろうと。


 だれもいないと分かった時になってから私はようやく目を上げる。

 黒板のほうを見ると、私が直視すべきなのだと彼女たちが考えている言葉の数々が書かれている。

 見回りの先生が来ないうちに私は席を起とうとして、立てなくて、ちょっとま泣いた。

 見回りの先生はなかなか来ない。

 かわりに彼が来る。


「遅かったのか早かったのか分かんねーわ」

 私はマスクの位置を直す。




 彼の手が黒板の中傷文を消すため動いているのはわざわざ見なくても分かる。

 ちょっとした動作でもキイキイ彼の制服の下からは音がするのだ。耳障りで、そして淋しい。


 ゆーぐれのきょーしつ、ふたりきり、と彼の声が出し抜けにいった。

「うーん。ちゃんと青春してんじゃん、オレたち」

 私が望んでいるのは、彼と私のあいだにマスクがちゃんとあるかどうか、それだけだ。



 黙っている私の机の前に彼が立つ。

 恐る恐る目を上げると、彼がまた近づく。

 座ったままの私の頭におそらく彼は顎を置き、目の前が暗い。

 彼はそんな姿勢のままで、中途半端に前に出された私の手をとった。




 私は一回この手を失くした、と思う。

 そして今またここにある。なぜか。

 生まれてはじめての男友達といえる人の手だったことがある手。

 中学二年の冬に、それを壊した手ででもある手。

 またいつか失くすことになるんだろうとしか思えない手だ。


 まるで顎からこちらの考えていることを吸い上げたかのように、彼はぱっと体を離した。

 私は見た。彼の手が、私が気づいたことに気づいて、私がマスクの位置を直さないように、手を拘束するための手になったのを。

 始め、私は彼とまた友達に戻れるかもしれないと思っていたけれど、でもどこかできっと分かっていた。中学生の彼がいっていたとおりだったと、もうとっくに分かっていた。

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