第一章 「国会の窓から東京を」
日本国内基準表示時刻5月12日 午前11時43分 東京 首相官邸
その日の首都東京は艶やかなまでに透き通った青空の下にあった。
南中に達した太陽が、年並みに暖かな光を東京各区のビルディング群や市街地に、または勤めの合間のささやかな休息を求めて街路に繰り出した人々に注ぐ頃、同じく窓から差し込む太陽の光にそのスペースの大半を占拠された首相官邸の執務室では、執務を取る手を止めた部屋の主が、窓の硬質ガラスを通じて広がる広大な市街の景色を眺めていた。
黒ぶちの眼鏡の奥に、細い、眠たげな眼を、彼はしていた。目じりに刻まれたしわと収まりの悪い白髪、そして老熟した温和さを漂わせる中肉中背の容姿は、けっして初対面の人間に悪い印象を与えるものではなかったが、むしろ紳士然、あるいは学者然とした彼の風貌は、常人が一国の進路を司る者として彼を見ることを不可能といわぬまでも困難なものにしていたのであった。
「いい意味で威厳が無い」と、彼についてある識者は評したことがある。奇妙な言い方だと、彼自身も思うのだが、彼は国政面の決断力、実行力においても、与党たる自由民権党内の調整能力においても、前者においてはその行政手腕の手堅さによって国民の支持を受け、後者ではその高さ、人望の厚さで党内での地位を揺るぎ無いものにしていた。それはまた、評されるところの「いい意味での威厳の無さ」を彼自身にとっての利点とすることに成功していた。
柔らかな光の下、暖かくなった回転椅子にもたれかかりながら、彼―――内閣総理大臣 河 正道―――は眼前に広がる市街の風景にいっそうその眠たげな眼を細めた。注意深く見れば、河の目じりに刻まれたしわが、ただ年齢と連動して刻まれたものだけではないことに多くの人間が気付くかもしれない。人によっては、彼に生涯をかけてやるべき何かを成し遂げた人間に特有の達成感の発露を、彼の周囲から醸し出される静謐さの中に見るかもしれない。
実際、この街の、そしてこの国の新たな建設に費やされた一〇年もの時間の記憶に、彼は思いをはせていた。一種の感慨が彼の胸を満たすにつれ、それは彼の目元の動きに連なった。
『一〇年……』
その重みを河は思った。
かみ締めるには、重すぎる思い……。それもあれほどの波乱を経た中での日本の再建を成し遂げたという事実を思えばこそだ。今までその中核にあって国家再建に尽くしてきた河が抱いてきた偽らざる気持ちだった。
内閣の運営もこれまでさほどの失策や政権を揺るがすような大きなスキャンダルも無く、支持率の方も好調に推移している。就任前から内閣、与党自由民権党の中央にあって「転移」後の国政運営の大半に裏方として関わってきた河なればこそ、このような堅実な政権運営が可能だったのかもしれない。
――――ここ一〇年の間、日本は自国を取り巻く新たな環境に適応すべく国家体制を再編成してきた。それは、今より一〇年前に起こったひとつの時空変動事象―――「転移」―――に起因する。
西暦20××年、日本列島の各地を時空間配列の異常に伴う天変地異が襲った。具体的には、地磁気の乱調とともに日本の各所に異空間との通り道――――それは日本では「ワーム・ホール」と呼ばれた――――が穿たれ、それらは列島に住む人々に未曾有の波乱を予感させた。
「ワーム・ホール」は出現するや否や拡大の一途を辿り、程無くして激しい気象変動、異常気圧帯の充満を伴いつつ日本列島全体を併呑するに至り、やがて日本は北海道から沖縄、伊豆、小笠原諸島の範囲に至るまで「ワーム・ホール」に元の世界より隔絶された。
――――そして、日本は異世界に「転移」した。
同時期に懸念された国内の混乱は意外なまでに少なかった。当然、「ワーム-ホール」の拡大の末に破滅の訪れを見越し、国を去った者もいたが、それでも多くの国民が、自らが生を享け、自らを育んできた国土に残る途を選び、粛然として、あるいは不安の内に「転移」を迎えたのである。
――――「転移」の果てに日本が放り込まれた世界、それは大洋に広がる無数の島嶼帯、複数の小大陸からなるこれまでの世界とは全く異なる地理的条件を備えた「新世界」であった。すなわち、「転移」とはこれまで日本がひとつの国家、ひとつの民族単位として歴史を刻んできた世界との断絶をも意味したのである。
しかし、断絶とはあらたな「遭遇」をも意味していた、といえるかもしれない。日本の「転移」とは、また一方で「被転移国家群」と呼ばれる、日本と同じく「転移」によってこの「新世界」に出現した国家、種族、自治都市等との接触をも意味するものであったからだ。そして、現在までのところそれらの勢力との関係は、こと日本の周辺に関する限り良好に保たれていた。そのことが同じく「被転移国家群」の一つであり、転移により一切の市場と資源の調達先を失った日本の再建にどれだけ助けとなったかは計り知れない。
一方で、「転移」以前から長きに渡って培われてきた日本の技術力、経済力はこうした「被転移国家群」の「転移」後の再建に大きく寄与しており、このような支援は「転移」一〇年目の今日に至っても行われていた。元来より「新世界」に存在し、驚きと打算を以て「被転移国家群」の出現を迎えた小国家、異種族との関係もまた、おおむね同じように推移しており、これらの国々との良好な外交関係の確立と継続的な発展支援が現在の日本の外交課題だった。
当初「転移」後に大混乱を来たした日本経済も徹底した内需拡大、「被転移国家群」との貿易促進、対外市場開拓策がおおむね成功し、この一〇年の間で「魔術的なまでに優秀」、「神にしか作れない」とまで評された自動車、精密機械等の日本製品は、こと周辺地域に関する限りでは文字通り「新世界」を席巻しつつあった。天然資源の開発権と引き換えに、彼らの国にもたらされた多くの日本製品及び生産設備は、「転移」による破断した現地の生活水準と雇用情勢を著しく向上させ、それがさらなる日本製品と資本移転への需要を拡大させた。「共存共栄」というには未だ語弊があったが、ともかくも日本は「転移」後に崩壊寸前までいった国家体制の再建を一応は果たしたのである。
そんな河の感慨は、外出の時間を伝えに来た秘書官によって現実へと引き戻された。
「総理、お時間です。外に車を待たせてありますが」
「うむ、わかった」
その数分後にはガラス越しに石庭を臨む正面玄関ホールに通ずる階段を下りながら、河は午後の予定を確認していた。階段を下りたところで待ち構えていた番記者達が、河を取り囲んだ。
「首相、これからどちらへ?」
「経団連の役員連中と会食だよ」
「話題の内容はどのようなものになると思いますか?」
「なあに、単なる四方山話だよ」
「近々ノイテラーネとFTA(自由貿易協定)が締結されるようですが?」
「ああ、否定はしないよ」
「周辺各国との高速通信網の整備計画は順調に進んでいますか?」
「順調だし、好評だよ。何せ友好関係の構築に必要なことだからね」
「モレドバの停戦監視部隊の駐留期限が延長される見通しのようですが」
「その通り、しかし第一陣は速やかに帰国させ、部隊規模は縮小される。それに期限延長は周辺各国の強い要請を受けてのことだ」
「エウスレニアの主張する自由通貨基金構想は支持されるおつもりですか?」
「いい案だ、協力はするがわが国としてはもう少し細部を詰める必要があると考えている。来月にでも訪日するエウスレニアの大統領とその点で話し合うつもりだ」
黒塗りの公用車に乗り込もうとする河の視線のはるか向こうを、鋭角的な形の何かが横切った。それを追う河の眼鏡が、鈍くきらめいた。
「あれは、HSPだな……」
「就航からもう四年、早いものですね……」
「過ぎた年月がか? それともあれの足がかね?」
「両方ですよ、総理……」
河は闊達に笑った。―――HSP(国産超音速旅客機)、「転移」以前にはすでに基礎開発が終了していた、約五〇〇名の乗客を乗せてマッハ二級の速度での長距離飛行を可能にした「夢の旅客機」通称YS-01。その夢は「転移」後の現在になって日本と周辺国を結ぶ架け橋として結実した。また、この機の開発事業は「被転移国家群」の「転移」後の経済再建にも貢献している。というのは、YS-01の部品、関連設備の生産事業をこのような国々に割り振ることで個々の国々に多大な経済効果が生まれたからである。
そうした「国際貢献」はなにもHSPだけにとどまらない。
例えば、今までに四基が打ち上げられた気象衛星“HIMAWARI―NEO”もそのひとつである。日本はこれがもたらす精度の高い気象情報を、契約を結んだ各国の天測機関にただ同然の価格で提供し、これらの情報は各国の高い信頼を得ていた。また、HSPと同じく共同開発によって七基が打ち上げられたGPS衛星、日本独自開発の四基の通信衛星……そして、合計八基の各種情報収集衛星もまた今年始めから稼動を始めている―――。
第八七代 小泉純一郎首相のときに完成した、白亜の自然石で作られた簡素さと壮麗さを併せ持つ首相官邸を背に、河を乗せた公用車は一路新宿区にある会食予定場所の高級ホテルへと向かっていた。国会議事堂の前を横切ったところで、河は思い出したように秘書官に語りかけた。
「ところで、今日の代表質問の三人目は確か労働党のやかまし屋だったなあ」
「安佐谷議員ですね。何を言ってくることやら」
「ああ、楽しみだ」
「労働党」とは、「転移」以前に日本周辺地域を取り巻く安全保障問題の過程で世論の支持を失い、勢力を大幅に減退した「革新勢力」の連携によって結成された政党だった。その知的な容姿とあいまって歯切れのよい論調と押しの強い姿勢で選挙民の人気も高い安佐谷 薫議員は、労働党の政審会長を務める気鋭の若手女性議員だった。
「しかし首相、問題はむしろ共和党です」
「うむ、わかってる。」河は共和党党首 士道武朋のふてぶてしい面構えを想像した。こういう場面で
彼らが主張するのはたいていが「新世界」における日本の発言力、軍備双方の強化であった。
その背景には「転移」による、かつて日本の保守論陣の根幹を支えたアメリカ合衆国中心の世界秩序からの断絶に対する恐怖がある。「君民共和」を党是とする共和党は、こうした従来から日本に存在する保守的感情を色濃く反映する政党だった。
河の属する与党自民党、野党共和党、そして労働党。現在の国会は、これら三大勢力によって均衡が保たれていた。
「連中、昨日もうちの幹事長のところに押しかけてナルジニアの海賊鎮圧に海自の機動部隊を動員しろといってきおった。海保の巡視船だけでは生ぬるいそうだ」
「ナルジニアの件ならば、確か先週海保のSST(特殊警備隊)が海賊のアジトを急襲してボスを射殺したそうですが……」
「武器数百点を押収、それと奴隷にされた外国人人質三四名全員を救出だ。たいした成果だよ。しかし、我が方にも死者が二名出たが……。連中、それを問題にしているらしい」
「海自が出れば、犠牲は出なかったと……?」
「もっとも、労働党は警告なしの急襲の方を問題にしているようだがね」
「人命は地球よりも重い、ですか?」
「連中のお題目だからね」
河を乗せた車は新宿方面行きの高速道路に入ろうとしていた。
――――会食の席に上った話題は、二ヶ月前北海道以北の海底に存在が確認された高純度希少金属鉱脈の開発計画についてのものだった。会食自体は滞りなく終始し、午後二時近くには、予定を終えた河は会場となったホテル最上階の一室で、眼下に広がる新宿区一帯の風景を眺めていた。
河の視線の先には、H字状の独特な形状をした東京都庁の偉容が聳えている。思えばこの都庁も、「転移」前後を通じて日本が遭遇してきた激動の歴史の証人といってよいのかもしれない。「転移」後に進展した高層ビル群整備事業の一方で、都庁もいまや数多い高層ビルの中で「古株」となったが、むしろ年を重ねるごとにその威厳を増しているかのようだった。
さらに視線を移せば、いまや「新世界」最大の歓楽街として復活を果たした新宿も彼の視界に入るはずだった。
「転移」後比較的早期に行われた外資導入策と商業目的での「外国人」流入の奨励策が、功を奏したモデルケースのひとつがこの新宿なのかもしれない。
奨励策に応じるかのように大量に流入してきた「外国人」経営の飲食、風俗店、それらに付随する「外国」文化はもともと多国籍的な雰囲気を漂わせてきたこの街に新たな装いと気風を加え、経済の活性化を促した。その反面、「転移」以降これまで低調だった犯罪発生率も上昇の兆しを見せてはいるが……。
「総理、まもなく代表質問が始まります。そろそろ車に入られた方が……」
「わかった、すぐ行く」
……そういえば、今日同席したとある通信大手の会長は世界規模での通信事業において、日本の技術力に対する周辺各国の期待の並々ならぬことを熱弁していた。日本の新たな国際貢献のあり方を考える上で、技術供与という方法が「新世界」でも有効なことを改めて認識させられる話だった。
「被転移国家群」の中には経済的、社会的に劣悪な国情のまま「転移」した国家も少なくない。自力更生の不可能なこれらの国家への経済、技術、インフラ整備面での支援は、国家の再編を果たした日本にとって「新世界」における国際貢献と相互発展の原則に照らし合わせても危急の懸案だった。
「―――われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ……」
国会に向かう公用車の中で河が呟いたのを、秘書官は聞いた。
「日本国憲法前文ですか?」
「転移前のわが国はその実現に失敗した。今度はかくありたいものだな」
安全保障の面でも、「新世界」に問題が無いわけではなかった。「被転移国家群」の中には内戦状態のまま「転移」したものや、国内に強固な反政府勢力を抱えているものもいる。
「転移」前の日本を取り巻いていた国際状況の記憶からして、対話による解決に限界があることはもはや明らかだった。
このような紛争解決の手段として、これ以外に無いという場合に限り、PKF(平和維持軍)の名と周辺各国の協力の下、自衛隊の実戦部隊を投入することは「転移」前からの法的整備もありもはや黙認されていた。そして、PKFを構成する陸、海、空自衛隊は今のところ各地域で高い実績を上げており、各国のPKFに寄せる関心と支持も高かった。
PKFは現在三方面に展開している。前述のモレドバと、足掛け七年にわたる内戦が終結したばかりのクルジシタン王国、そしてノイテラーネ都市連邦が辺境開発基地を置いているニーベア地方である。中でも今年始めに起こったクルジシタン王国の一都市アーミッドでの戦闘は壮烈だった。
叛乱勢力の司令官ドルコロイを逮捕すべく、PKFは陸上自衛隊東部方面隊に属する第一師団と対テロ部隊の特殊作戦群から約三〇〇名を抽出、市街戦に習熟したこれらの部隊を輸送ヘリコプターと軽車両の支援の下、叛乱勢力の根拠地アーミッドに送り込んだ。
――――その戦果は赫々たるものだった。将軍の本拠地を急襲した陸戦機動部隊はドルコロイとその幹部全員を逮捕、救援に駆けつけたドルコロイ派民兵をも激しい銃撃戦の末撃退し、アーミッドからの離脱に成功した。
PKFは三十数名の死傷者を出したが、将軍の身柄確保という所定の目的は果たされ、作戦は成功した。また、頭目を失った叛乱勢力は次第に求心力を失い、各地で降伏して内戦は終結へ向かったのである。
日本は軍事力を誇示することによって周辺諸国に対する支配的圧力を強めようとしている……そういう声が、主に労働党辺りから聞こえてこないわけではなかった。だが、現在のところPKFが諸国の平和維持に貢献していることは紛れも無い事実だった。そして、自衛隊がその総力を挙げねばならないような深刻な事態もまた、いまだ起こっていないのだった。
この日、午後三時から始まった衆議院代表質問は、平穏な事務的受け答えと、苛烈なまでの質疑の応酬の反復のうちに終始した。特に三人目の、労働党を代表する阿佐谷議員の、安全保障政策面で政府を批判する内容の質疑はさすがに厳しかった。紛争地域へのPKF派遣の正当性を疑問視する立場から、やがてはPKFを構成する自衛隊の「新世界」における存在意義の有無にまで踏み込んだ発言には、さすがの河も緊張を強いられた。
何故なら、簡単に言えば、現在の日本には明確な「脅威」が存在しない。「転移」当初は、自衛隊の存在意義は明確だった。何せ未知の世界。そこに存在する勢力は必ずしも友好的とは限らない。明確に侵犯への意図を顕にする種族もまた、確かに存在したのだった。住む世界は変わっても、自衛隊にはそうした勢力から右も左もわからない日本を防衛するという、明確な目的があったのだ。
だが、日本の周辺に平和な世界が形成されていくにつれ、少なくとも日本の周辺世界に関し、日本の存立を根底から脅かすような勢力など存在しないことが明白となった。だいいち質量共に日本と拮抗する軍事力を持つ国が存在しない。こと外敵から国を守るという点において、国土を守る自衛隊はその戦力を機能させるハードとソフトの両面において他を圧倒的に引き離しており、国によっては国防を担う軍隊や機関が装備や編成の面で、日本において海の国境警備に当たる海上保安庁や警察にすら及ばないというものすらあった。
……それが、労働党の防衛費削減、ひいては自衛隊の縮小という意見に確固たる論拠を与えている。軍事力の削減とはいっても、一度減らした戦力を再び回復することは難しい。特に「転移」前の過酷な現代戦に対応するべく編成され、錬成された自衛隊を「住む世界が変わった」からといって削減することに河は反対だった。「転移」から十年。「新世界」の情勢があの頃とは比べ物にならぬほど判っている現在でも、未だ日本の与り知らぬ地域や勢力というものも確かに存在するのである。それらが絡んだ不測の事態に、現在鋭意周辺世界への進出を続けている企業や民間の対外支援機関が何時、どのような形で巻き込まれるかわかったものではなかった。
議論の応酬の合間に醸造される緊張――――河はこの種の緊張が好きであった。相手を説得するか、それとも説得されるか、「議論」というものはまさしくそれに尽きる。また、こちらの政策にいちいちケチをつける野党をこの場で説き伏せるのもまた、総理大臣の仕事のひとつである。
「――――現在わが国は自衛隊をエリシラ湾上およびシンテル海上の護衛艦を含め五方面に展開させており、これら自衛隊の存在は当事国および周辺諸国にとって安全保障上重大な不安要素としてとらえられております。わが国政府としては、これら周辺諸国の不安を払拭することが、未来の平和を見据えた友好関係構築につながるのではないのでしょうか?」
労働党 政審会長 阿佐谷議員のメゾソプラノが、マイクに増幅され勢いよくその場を満たした。労働党の議席は三大政党中最も少ないが、声の勢いだけをみれば、国会は明らかに彼女に占拠されていた。
一八〇cmに達する長身をスーツに包んだ端正な顔立ちの女性の質疑が始まってすでに一〇分。場内は水を打ったように静まり返っている。何度目かの質疑に応えるべく、河はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「議員、あなたのおっしゃられたことに関し、私からも質問したい。あなたは周辺諸国の不安の払拭の必要性を唱えておられるが、それでは、具体的にいかなる方策が必要とあなたはおっしゃられるのか?」
「総理、それは明確ではありませんか、すべての紛争地域からの自衛隊の撤退、それに続く事態収拾のための諸国間会議の招集です。徒に軍事力を弄ぶが如きPKOは、何れ限界をもたらすものと私は考えております。本当に地域大国としての名声を確固たるものとしたいのであれば、そうした近い未来を見据えた方策を採ることも必要でしょう」
彼女が言い終わるや否や、労働党の側からは拍手が沸き、共和党の側からは野次が飛ぶ。そして自民党の側からは失笑が漏れた。
河の視線が、離れた列の一角を泳いだ。そこにどっしり構えている男と、河の眼が合った。
その男―――自由民権党幹事長 神宮寺 一の眼が笑っていた。
河の眼も、笑った。
代表質問が終了した午後六時には、二人は連れたって国会玄関へ続く廊下を進んでいた。日が落ち、うっすらと赤みがかった光が、廊下の窓からほんのりと差し込んできた。神宮寺の自宅で、夕食を共にするのが二人のその後の予定だった。
――――背は河と同じくらいだが、よりずんぐりとした体つき、短く刈り上げられた白髪と、使い古された束子のような眉毛、年季の入ったいかめしい顔つきの微妙な調和が、政治の場において数々の修羅場を潜り抜けてきた老練の政治家振りを印象付けている。その印象がまた、彼の見た目の年齢を、河のそれと変わりない彼の本当の年齢より五、六年ほど引き上げていた。神宮寺は公的には与党自民党幹事長として河を後方から支える立場であり。私的には、河とは大学時代からの親友であり、衆議院議員当選も同期だった。
「あの労働党のお姉ちゃんは今頃番記者の前で息巻いておるだろうよ。河君はまともな答弁もできないって」
「何なら君が替わって答弁してくれてもよかったんだが……」
「いや駄目だ。わしゃあどうも……あんなことをすれば、年に似合わず頭に血が昇っちまう」
二人の会話には、国政の場に深く根を下した者特有の余裕が感じられた。
しばらく歩いて、不意に、河が言った。
「……あれから十年になるな」
「『転移』のことか……」
河が、ゆっくりとうなずいた。神宮寺が、続けた。
「だが見たまえ。依然として日本は日本だ。そして東京も東京だ……あの頃はもう日本は終わりだと言う者が多かったが、結局はあれから何も変わってない」
神宮寺が、窓を見るように促した。二人は窓のほうに歩み寄った。夕日の下、国会の窓から広がる大都市の街並み。それらは「転移」後に衰退するどころか、むしろ拡大した。
いままでの日本を維持する。ただそれだけのために二人は一〇年間働いてきた。彼らだけではない―――――今までどおりの「日常」の継続。それを打ち壊しにした「転移」を経験した多くの日本人にとって、それは新しい世界で生きていく上での潜在的な目標であったのかもしれない――――。
―――――そして、彼らの努力はおおかた報われた。
「これから、変わるかも知れんな……」
河が、ボソッと言った。
妙に予言めいた響きだ。暗みがかった空へ視線を泳がせる中、神宮寺には何故かそう思えた。