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終章 「抗争と決意と」


 日本国内基準表示時刻8月5日 午後1時12分 東京 国会議事堂 衆議院


 立法の府たる国会。その国会議事堂は異様なまでの喧騒に包まれていた。


 8月2日の事件の衝撃をそのままに、その翌日から始まった臨時国会は、さながら混迷と紛糾の渦巻く井戸と化していた。端的に言えば、与野党を問わず皆言いたいことを言いつつも自らの発言に責任を取る素振りもなく、単に批判のための批判、議論のための議論に終始している。空虚な議論の応酬はやがて膠着と紙一重の紛糾を呼び、そして首班たる河 正道を失った内閣に、それを収拾する機会も、そして能力もまた与えられていなかった。


 その間、一議員として国会で繰り返される空論の応酬をただ無言で見守っていた神宮寺 一に、ある一つの決意が具体的な形を持って産まれつつあった。


 ……そして、三日目。


 「なあ、神宮寺さん、本当に……いいのか?」


 不毛な国会も三日目の午前の部を終え、議員控室に戻ったところで、副総理から名実ともに内閣総理大臣へと昇格した倉木吾郎が切り出した。


 「君の提案は正しい。だが、世の中正しいことが必ずしも良い結果を招くとは限らない。そりゃあ……総理の椅子なんて、わしは何時でも捨てて構わんよ。わしがもう一回向こうに立って、わしでは有事は乗り切れない。もっとマシなやつを選び直してくれって言って来ればいいんだ。そしてあんたが総理になればいい。老い先短いこの身だ。わしゃあんたと国のためなら、何時だって馬鹿者になってやる。悪いことは言わん。解散なんて止めて、総辞職の後にすぐ首班指名をやれ」


 伊達に勤続年数を重ねていないだけに、倉木の言葉には重みがあった。スロリアが戦場になっているのは勿論のこと、日本とローリダ共和国を僭称する「武装勢力」はすでに実質的な戦争状態に入っている。そんなときに昨夜神宮寺が提案した、政治的空白を作るような決断を下すのはまずい。


 一方で、副総理の座が実質上の名誉職であることぐらい、自民党幹部はおろか野党の平議員だって知っている。だからこそ、こんな弛み切った議論が続けていられるのだと、神宮寺は思っている。かといって新たに総理を選出し直し、河亡き後実質上の自民党総裁として党を仕切っている自分が打って出たところで、今と同じような状態が続くのは目に見えている……とすれば、方法は一つしかない。


 煙草を持った手で顔を拭いながら、神宮寺は言った。


 「構うものか。今の国会じゃあ今度の有事は乗り切れない。ここは一つ勝負に出て、国民の信を問う」


 「どうしてもやるか……解散総選挙を」


 倉木の言葉に、神宮寺は力強く頷いた。


 国会の議席では第一党の座こそ保ってはいるものの、自民は憲法改正に必要な三分の二を確保していない。内閣の下すあらゆる決定に万全の裏付けを与える憲法の改正を可能とする手段を持っていないのだ。それでも今までやってこられたのは、「転移」以降、憲法改正という国政運営上の「重大事」を経ねばならないような事態を、歴代の内閣が経験したことがなかったからに過ぎない。


 ……だが、スロリアで起こった一連の事態が、全てを変えた。


 危機はいまやスロリアの帰趨に留まらず日本という国家の根幹を揺るがす距離にまで迫っている。ローリダという、「転移」以来未曾有の脅威の存在を知った国民の多くがスロリアへのPKF出動に賛意を示し、ローリダへの「武力制裁」を叫ぶ声も日増しに高まりつつあった。当然、そのための憲法改正への機運もまた広がっている。こうした流れを利用して、「有事に強い自民」を押し出して選挙を戦えば十分に勝機はあった。


 一方、野党共和党は、「強い日本」というその主義に忠実なまでに早くから主戦論を唱えている。共和党でも特にタカ派に位置する派閥は、執行部に無断で自衛隊の一部幹部と接触し、有事に必要とされる国家運営に関する事前計画の独自案まで作成しているという噂だった。当の執行部も、その動きを制止するどころか黙認する素振りがあった。有事をこれ幸いに、彼らの言う「高度防衛国家」を実現させる腹積もりなのだろう。


 憲法の国防に関する記載の改定に最も消極的なはずの労働党ですら、改正やむなしの方向に傾きつつあったが、それでもスロリアに関してはローリダに大陸の七割以上を占領された現在の状態を以て「現状維持」に徹し、以降は対話での解決を主張しているあたり、「理想的平和主義」への拘泥という批判は否めない。一方で「前世界」の第二次世界大戦後からの革新系の流れを汲む労働党守旧派の一部には、党を割って護憲政党に徹しようという動きが出て執行部と衝突を繰り返していると聞く。


 ―――――はたして休憩時間の後、倉木は午前に続き再び登壇を求めた。


 『……倉木内閣総理大臣』


 という衆院議長の呼びかけの後、倉木は手に演説の草稿を持って一礼し、進み出た。演台に立ち顔を上げた瞬間、与党側の最上階の末席に悠然と陣取る神宮寺と眼が合った。


 神宮寺が微かに頷いた。倉木にはそれで十分だった。


 「……愛国心と、国際協調の精神に基づく皆様の意見は、ここ三日間で十分に拝聴させて頂きました……!」


 倉木の第一声にも、皆は無感動だった。「お前は三日間ずっと寝てただろう!」という最前列からの野次など、倉木は当の昔に聞き飽きていた。


 「だが、事態は急を要しております。ローリダ共和国を僭称する武装勢力は先月末に突如スロリア東部に侵攻し、現在に至るまで当地域を支配下に置き、土地を追われた多くの現地住民約20万余名が安住を得る寄る辺のない難民となり筆舌に尽くし難い窮乏に喘いでおります。諸君らはこれをどう考えるか? 否、考えるまでもなくこれは行動すべき問題であります! スロリア、ひいては世界の人々は、我々の行動を求めているのです!……」


 原稿に眼を釘付けにしたまま、抑揚に乏しい声で演説を続ける倉木を議場の隅から見遣りながら男が言った。野党共和党の幹事長 三杉 八尋である。


 「この危急時に一体何が言いたいんでしょうねえ……意図が見えてこない」


 三杉の悪態に、隣で腕を組む黒いスーツ、黒縁眼鏡の男が、笑窪の目立つ微笑を崩さずに言った。


 「……あのタヌキ爺、倉木に何か吹き込んだな」


 「え……?」


 「わからないか……神宮寺の顔を見てみろ。あれは絶対何かやるつもりだぞ」


 慌てて、三杉は議場の反対側へと目を転じる。


 「何かって……まさか」


 「そうだ、そのまさかだ……倉木の爺さん、伝家の宝刀に手を懸けたな。あとは鯉口を切るだけだ」


 黒縁眼鏡の男――――野党 共和党党首 士道 武明は不敵な笑みを浮べた。不敵な笑顔は、彼のトレードマークであり、そして武器であった。


 倉木の演説は続いた。


 「……ローリダ共和国を僭称する「武装勢力」は、現在判明しているだけで1200名の邦人を殺害し、非武装に近い巡視船六隻をその乗員もろとも沈め、さらには交渉の用意があると偽り、河前首相を誘き出した上で屈従を迫り、それが叶わないと知るや冷酷にも首相をはじめ外交使節の悉くを殺害し尽したのであります。我が国は残念ながらこれらの正義の名の下に行われた暴虐を隠忍する寛容さを持ち合わせておりません。今まさに我が国は自然権としての自衛権を行使するべきときにあります。今こそ、国民一丸となって発つべきときであります!……」


 「自民は、日本を戦争ができる国にする気ね」


 と野党席の一隅で言ったのは、同じく野党労働党 政審会長 安佐谷 薫だった。生来の美貌に加え長身、短めに纏めた髪が、周囲にない新鮮さと快活さを漂わせているのは常のことだったが、柳眉を曇らせたその顔は険しい。


 「単に戦争をするのなら、一旦総辞職して神宮寺さんが総理になればいいじゃないですか」と、隣席の鹿島 徹 国対委員長が怪訝な顔を浮かべる。


 「神宮寺さんは、私達が邪魔みたい。私達の数がね」


 「……と、いうことは……」


 鹿島が再び倉木に眼を凝らす間も与えず、阿佐谷は言った。


 「鹿島君、全国の党支部にメールを打って。戦闘準備(・・・・)って……」


 国会内の与野党の動きが静かなる争乱ならば、外では文字通りの争乱が始まっていた。議場の外、赤絨毯の敷き詰められた廊下を、号外記事の草稿を振り回した番記者たちが駆け回っていたのだ。


 「おい報道部聞こえるか? 今日の番組は差し替えだ。特番組めっ! 総理が衆院を解散するぞ!」


 「夕刊は一面差し替えだ! 解散総選挙は確定! 急いでくれ!」


 一方ではすでに、テレビカメラを前にした国会詰めの報道記者が、マイクを片手に切迫した表情で語っていた。


 「―――――こちら国会です。間も無く倉木総理が衆院を解散する模様。現況では一連のスロリア情勢を乗り切れないという与党執行部の判断が働いたと思われ―――――」


 ――――そして、運命の刻は訪れた。


 「―――――現状を回復し、スロリアと日本の友好協力関係を正常なものとするべく、私、内閣総理大臣 倉木吾郎は、ここに重大なる決断を致しました!……即ち衆議院を解散し。今次の有事に際し国民の意を問いたい!」


 その瞬間、議場は揺れた。場に居合わせた誰もが、そう思い、それを感じた。そして沸騰し拡散した動揺は余震となり、議会はもとよりその外にも急速に広がって行った。


 地震の如き喧騒に包まれた議場で、蘭堂 寿一郎 自民党国会対策委員長はただ淡々と書類を纏めていた。そこに、不安な顔を隠せない一人の若手議員が彼に話しかける。


 「我々はどうなるのでしょうか……?」


 「別に何と言う事はない。いずれはこうなる運命だった」と、蘭堂は噛み締めるように言った。それが今の彼が口に出せる唯一の感慨だった。


 ――――――喧騒は台風のような早さで過ぎ去り、議員の退場に伴って次第に静寂と空虚とが戻りつつある議場を、神宮寺は席から一歩も動かずただ黙々と腕を組んで見守っていた。そこに、解散宣言を終えた倉木が肩を叩きながら戻って来た。


 「ふぅー……っ、疲れたわい」


 「倉木さん、我侭を言って済まなかった」と、神宮寺は頭を下げた。それに、倉木は微笑みかけた。


 「わしに出来るのはここまでだ。あとは、あんたに全てを任せたよ」


 神宮寺は大きく頷き、そして腰を上げた。これから記者会見が神宮寺と倉木を待っている。それが国会に劣らず厳しい言葉の応酬になるであろう事は、二人ならずとも容易に想像ができた。




 ノドコール国内基準表示時刻8月6日 午前11時12分 首都キビル郊外


 「―――――お父様へ

キズラサの神のご加護により、私は生きてノドコールに戻ることが出来ました。部隊が壊滅して以来、一週間もの長きを襲い来る孤独と、敵の襲来への恐怖に耐えられたのは、ひとえにキズラサの神が私に、シュンジという名前の善き旅の伴侶を与えて下さったからです。シュンジは外見こそひ弱で、頼りなさげな青年でしたが、拠るべき部隊を失い途方に暮れた私をよく助けてくれました。彼は自らの蓄えを削って私に暖かい食べ物を与えてくれ、暖かい寝床も用意してくれました。何よりも私がこのニホン人の青年に感銘を覚えたのは、彼は決して偉ぶらず、私にも、そして自分にも正直で、そして素直であったことです。


 お父様、シュンジというニホンの青年に接するにつれ、私は疑念を覚えずにはいられません。ニホン人は、政府や軍が言うように本当に野蛮で暴虐な人々なのでしょうか? 皆が口汚く罵るように、本当にスロリアを恐怖と暴力の下で支配しようとしているのでしょうか? シュンジは元は学生で、自分という人間を鍛えるため彼らの軍に志願したと私に教えてくれました。ローリダのように、大富豪や地主に租税代わりに無理矢理前線に引き出された農奴や小作人とは違うのです。


 そのような学生が、進んで軍に志願する国と私達は戦争をしようとしています。それを考える時、私はこの戦争に一筋の暗雲が垂れ込めるのを覚えずにはいられません。シュンジのように、知性と理想の高い青年が兵隊になって戦う国……そのような国と我が国が戦火を交え、喩え勝ったとしても私達は果たして無事で済むのでしょうか?……」


 タナが久しぶりで記した手紙を書く手を止め、それを隠すようにしたのは、部屋への来客を示すノックが聞こえてきたからだった。ノドコール郊外の高級住宅地。植民地駐留軍の高級士官専用の官舎が、前線から生還した彼女に与えられた新たな住処だった。


 「――――本国では、連日のように君を英雄と報道しているぞ」


 と先月、ノドコール駐留軍総司令官ナタール‐ル‐ファ‐グラス大将は生還を果たしたばかりのタナを接見した際に、彼女の両肩を抱くようにして言った。タナが驚いたことには、自分が父に無断で、ここにやって来たことをも彼が知っていたことだ。


 大将は言った。


 「父上には私からよく言っておこう。胸を張って祖国に帰りなさい。だが、ご両親に心配をかけるのは感心できんな」


 味方の側に戻り、従軍看護婦にしては異例の勲章授与とともに一時休暇を与えられてからも、タナには未だやるべきことが残っていた。逃避行の遠因となった「同士討ち」で死んだラル‐ル‐カナス看護婦長の遺品を、彼女の良人に手渡す仕事が待っていたのである。


 会見の場となった駐留軍司令部の一室で、夫婦の肖像を中に収めたペンダントを、ノドコール駐留軍で歩兵大隊長をしている彼女の良人たるエイルス‐ル‐カナス少佐に手渡した瞬間、それを待ち構えていた従軍記者たちが、自分に向けて一斉に写真のフラッシュを焚くのをタナは感じた。タナはその瞬間、自分が英雄として遇されているだけではなく、祀り上げられようとしていることに初めて思い当たったのである。それはタナにとってまさに予想外で、不本意な展開だった。事実、後にこの様子はタナの救出と併せ、「戦場の美談」としてローリダ本国で大々的に報道されることとなった、


 不本意と言えば、タナの証言に関わらず、彼女が前線を彷徨う羽目になった直接の原因を作った民族防衛隊に、その後何の処分も下らなかったばかりか、「同士討ち」とそれに伴う「目撃者消去」に関する一切が黙殺されてしまったことだ。タナ自身、この件に関し沈黙を守る旨誓約書に記名することを強いられたことには閉口せざるを得なかった。それでも彼女が従ったのは、一連の件の背後に何か空恐ろしい存在を感じ取ったからである。それにこの件では国防軍、そして民族防衛隊も含めタナ以外の当事者がニホン軍との戦闘で全員「戦死」してしまった以上、告発する同志も相手もいないということも、返って彼女には不利に働いたのだった。

 

 ――――彼女の部屋へのノックは、植民地総督主催の昼食会への誘いであった。そして今のタナは、それを断る権利を持っていない。


 二十分後……かつて軍用トラックの荷台に揺られて走ったキビル市街中央の幹線道路を、植民地総督府差し回しの公用車の、総革張りのシートからタナは無心に眺めていた。


 沿道に停車する装甲車の数は、彼女が初めてこの地に足を踏み入れたときから目に見えて増えていた。そして、スモークが張られた公用車の窓から臨む市街の各所に立ち昇る煙の数にタナは革めて目を見張る。

 近来、食糧分配の不公平を巡り、現地住民の暴動が続発しているという噂はやはり本当だった!……「解放戦争」で起こった莫大な進攻軍向けの食糧需要を現地軍の備蓄と本国からの輸送だけでは賄えず、総督府と軍司令部はついに現地住民に供給する食糧にまで手を付け出していたのだ。それに、ノドコールで事業を展開するローリダ人食糧商の便乗値上げが重なり、市中の食糧価格は高騰の一途を辿っていた。


 幹線道路を抜け、市街地に入ると、街の荒廃ぶりは一層タナの目に付く距離にまで迫って来る。

戸の閉められたままの商店。当てもなく街を彷徨う襤褸を纏った人々。以前の暴動で放火され、全焼してもなお放置されるに任せている軍の車両……これらの光景に、希望という文字を差し挟む余地など何処にもなかった。心なしか車の速度が上がったように感じられるのは、やはり暴徒の襲撃を懸念してのことだろうか?


 ……だが、到着し、足を踏み入れた植民地総督府の大広間では、外とは全く違う光景が広がっていた。


 「魚のスープは御嫌いかな?」


 と、昼食会の席で銀の匙を落としたまま、呆然とスープを凝視しているタナに、上座に座るノドコール総督デルフス‐リカ‐メディスが言った。


 「いえっ……そんな」


 タナは慌てて顔を挙げ、豪奢な大広間の、豪勢な食卓を見回した。白身魚のスープはもとより、ロブスターの蒸し物。冬瓜のグラタン。鴨と鶉のゼリー。キャビアの塩漬けに牛肉の燻製、七面鳥の詰め物に砂糖とココナッツのタップリと入ったケーキ……タナにとって昼食会とは、凡そ想像できる限りの豪華な献立を、最高級のワインと発泡酒とともに胃袋に流し込む「儀式」以上でも以下でもなかった。


 美食の粋を凝らした皿上の創作物をナイフとフォークで切り刻み、口に運んだそれで舌を悦ばせ、おそらくこの外にいる人間が一生関わることのないであろう話に花を咲かせる……それを感じる度、本来なら甘美なはずのこの時間が、タナには返って針の筵に腰を下ろすのにも似た苦痛を感じさせたのだった。料理の一皿一皿をつつく度に彼女の脳裏を過ぎったのは、あの逃避行の夜。シュンジと一緒に食べたシチューの味。一枚を二つに割って齧ったビスケットの味……あれ以上に美味な食べ物を、自分はもう食べることはないだろうと、タナは思った。


 来客の一人に、タナは眼を凝らした。自分とは向かい側に座るラファスという名の将軍は、乾杯の音頭を取る際、


 「暴戻なる蛮族ニホンの首班に神の業罰が下りしことを祝して……!」


 と言った。それはタナの胸に無形の悔悟の矢となって突き刺さった。もしあの優しく、勇敢なシュンジが彼の言葉を聞けばどうしただろう?……自分がこの無神経な男の同類と彼に思われるであろうことに思い当たり、暗然とするタナだった。


 ――――そして、彼の隣で黙々と紅茶を啜る女性……全ローリダ女性の鑑と称され、タナも一度は目通りしたいと思っていたルーガ‐ラ‐ナードラはこの昼食会中、何か別のことを考えているかのようにずっと無言だった。彼女を凝視するタナに気付いたのか、顔を上げたナードラの白皙の顔を見た瞬間。彼女は何かに口を開くのを押し止められたかのように目礼し、冷めかけたスープに向き直った。


 「スープが冷めてしまいます。お取替えいたしましょう」


 手を差し出した給仕に遠慮の意を伝える間も、昼食会の他の席で会話は続いていた。


 「ここ半月で、麦の価格は二倍になりました。私としては、あと五割は上げたい」


 「五割?……というと半月前の2.5倍ですか?」


 「いえいえ……半月前の三倍、ということになります。儲けられるときに儲けるのが商売の基本ですぞ」


 「……まったく、戦争というやつは止められませんな。ぼうっとしていてもカネが湯水の如く入ってくる」


 その後に続いた下卑た笑いをタナが聞いた瞬間。タナは込上げて来た怒りの任せるままに、反射的に立ち上がった。唖然としてタナを見遣る周囲の視線に気付き、声を震わせる。


 「少し……外の風に当たりたいのですが……」


 了解など得る時間も惜しかった。可能な内にこの場から離れたかった。踵を返し、逃げるように場から離れるタナの後姿を、ナードラだけが、ただ無言の内に眼で追っていた。



 元が高層ビルであるだけに、昼食会場の大広間から大分離れた展望室では、キビル市街の全貌を見下ろすことが出来た。

 そこからタナが見下ろしたのは決して素晴らしい眺めではなく、現在の「植民地」ノドコールを取り巻く紛れもない現実であったのに違いない。地上に張り巡らされた道路の各所が暴徒の侵入を恐れて封鎖され、上階から臨む街の所々から上がる黒煙は、タナの両手両脚の指を使っても数えきることが出来そうになかった。


 市街の上空を軍の観測機が旋回し、近隣の丘や山から撃ち下ろされる野砲の砲弾は、暴徒が集る広場や街区で無差別に、そして無警告に着弾している。暴動鎮圧の光景と言うより、市街戦という表現が似つかわしいこと甚だしい。それらは「スロリアの解放」という大義名分を信じていたタナにとって、あまりに衝撃的な光景だった。


 「…………!」


 背後に人の気配を感じ、タナは振り返った。あのナードラが、彼女の目の前にいた。気圧されるように一礼するタナに、ナードラは言った。


 「ここの料理が、あまりお気に召さなかったと見えるが……?」


 「いえ……そんなことは……」


 「実を言うと私も、ああいう場は好きではない」


 そう言って、ナードラはタナに微笑みかけた。タナも笑ったのは、彼女の笑みに安堵を覚えたからだ。


 ナードラは、眼下の光景に向き直った。


 「あの風景を、どう思う?」


 「私には……政治とか軍事とか……そういうことはよくわかりません」


 ナードラは横目でタナを見遣り、軽く頷いた。


 「巧い切り返し方だな……お前はいい政治家になれそうだ」


 「からかわないで下さい」と、タナは顔を曇らせる。


 ナードラは騒乱が広がっているであろう街を指差した。


 「ニホン人は命拾いした。あれのおかげで当分わが軍は占領地から動けない」


 「彼らはきっと、このまま引き下がらないでしょうね」


 「彼ら……?」


 「ニホン人のことですわ」


 「それは……どうかな。彼らは弱者にも平気で攻撃を加える卑怯者で、さらには首班の仇を取ろうともしない臆病者だ。論評するに値せぬ」


 「それは違います……!」


 「…………?」


 途端に声を荒げたタナに、ナードラは眼を丸くした。タナもまたナードラをきっと睨み付けるのも一瞬、我を取り戻したのか気まずい表情を浮かべ、ナードラから視線を逸らすのだった。


 「すいません……つい」


 「疲れているのだな……」


 タナは無言のまま一礼し、そそくさと会場へもと来た途を戻ろうと歩を進めた。歩く内彼女の足は鈍り、彼女の瞳には湿っぽく光るものが宿った……そして彼女は、逃げるように走り出した。


 「…………?」


 その彼女の頬が異様なまでに紅潮しているのを、ナードラは見逃さなかった。それが恋をした女性の顔であることを、彼女は知っていた。




 日本国内基準表示時刻8月6日 午前11時23分 沖縄近海 海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦 DDH-182 「いせ」


 着艦したMCH-101大型掃海/輸送ヘリコプターが巻き起こすダウンウォッシュで、護衛艦「いせ」の艦尾飛行甲板は烈風の巷と化した。


 エンジン出力を絞るにつれ、次第に収まりゆく人口の突風の中を、先にMCH-101の貨物区画から飛び出した機上整備員が、腰を屈めて歩み寄る着艦誘導員とローター音に負けないような大声で一言二言会話を交わす。それで全ては済んだ。背後を振り向いた着艦誘導員が手信号で「OK」のサインを送り、それを離れた距離から見ていたもう一人の着艦誘導員が、艦橋の隅に控える「乗客」に声を上げた。


 「前進! 速やかに搭乗……!」


 鹿屋から那覇を経由し、今し方着艦を果たしたばかりのMCH-101の胴体からは交替の要員が続々と飛び出し、ダウンウォッシュの影響の及ばない艦橋の傍で乗艦手続を始めていた。一方で搭乗しようとMCH-101に向け歩を早める海自の真白い常装服の幹部。そして青い作業服姿の海曹、海士に混じり、未だ傷の癒えぬ俊二もまたその中にいた。


 艦を離れるその日、俊二は「いせ」艦橋まで呼ばれた。艦長席から無言のまま俊二を見遣る艦長の中瀬一佐に敬礼しようとした時、当の右腕が松葉杖で塞がっている事に気付き、俊二はばつ悪そうに俯いた。先月からの足の傷は、未だ完全に歩ける程には癒えてはいなかった。


 困惑した俊二に、中瀬は苦笑した。


 「左手でいい。海自(ウチ)は陸さんほど格式には拘らんからな」


 気を取り直し、俊二は左手を上げた。上手く決まった敬礼に、中瀬は微かに笑い、答礼した。


 「いい敬礼だ。高良俊二 一等陸士」


 「え……?」


 「市ヶ谷からの辞令が来た。君は今日付けで一等陸士に昇進だ。もっと言えば来週には陸士長に昇進し、予備自を退いてもらうことになっている」


 「……そうですか」


 俊二は俯いた。基本的に本格的な実戦任務に投入されることを想定していない予備自衛官が、事前の想定に反し本格的な戦闘を強いられたという事実は、陸幕の上層部に困惑を以て受け止められていた。俊二の戦いは、志願に当たって必ずしも実戦への参加を考慮していない他の予備自衛官の士気にも悪影響を及ぼす恐れが出るわけで、俊二の除隊は影響の波及する前に打たれるべき手であったわけだ。


 中瀬は続けた。


 「君は自衛官として義務を果たした。だが苛烈な戦闘を経験した以上、正規の隊員でない者がこれ以上隊務に就くことは道義上許されることではない。それぐらい君は十分に戦った。退職金こそ出ないが、大いに誇ってよい」


 「有難う御座いました!……艦長」


 俊二は礼を言い、左手で敬礼した。もう一人、礼を言うべき御子柴二佐率いる特殊作戦群は「てんりゅう」に於ける救難作業に協力した後、二日前にすでに本土へ戻っていた。


 「そろそろ離艦の時間だ。高良一士、急いで飛行甲板へ向かえ」


 芯の通った敬礼が、俊二への労いだった。


 ――――再び、「いせ」の飛行甲板。


 足を引き摺りながら数歩歩いたところで、俊二は刺すような陽光に晒された艦橋を振り返った。蒼穹に光の触手を延ばす烈日を背景にした直線的な形状の艦橋。それと一体化したフェイズドアレイレーダーは、俊二が艦を発とうとする今この瞬間にも、常に周囲百数十哩の海空に電子の眼を光らせているはずだった。


 「…………!」


 金属的な轟音が俊二の耳を打った次の瞬間、二機のF-15Jイーグル要撃戦闘機の機影が艦橋マストを掠めるように通過し、ジェットエンジンの爆音も高らかにそのまま蒼穹の高みへと駆け上がって行った。俊二は知らなかったが、沖縄や九州に展開する空自の戦闘機がスロリア近海上空まで脚を伸ばし、不測の事態に備えそのまま戦闘空中哨戒(CAP)任務に就くことが決定されて最初の、これは出撃だった。そして艦隊にとって沖縄は、すでに眼と鼻の先にあった。


 二機のイーグルが見えなくなるまで空に眼を凝らすと、俊二は再び歩き出した。


 『……これより離陸する(リフトオフ)


 機長の号令一下、艦から脚を離したMCH-101は天にも駆け上るかのような勢いで高度を稼いでいく。そのキャビンで俊二は他の乗客と同様、窓の向こうから次第に薄れゆく「いせ」の全容に眼を凝らしていた。


 幾重の白い引込み線と赤い着陸点に彩られた灰色の長方形の艦体は、次第に洋上に浮かぶ一個の点となり、次の瞬間には刃のような航跡を残すのみとなった。雲海を潜るように嘉手納へと向かうMCH-101の機内で、俊二はさり気無く窓からスロリアの方向に眼を向けた。


 「タナ……」


 その呟きはローターの振動音に掻き消され、周囲の誰にも聞こえなかった。だが育まれた想いはローターの爆音で掻き消せるようなものではなかった。銃と重い装備を担ぎ、敵に追われて彷徨い歩いていたときには二度と来るまいと思うほどに忌み嫌ったスロリアの大地が、今ほど懐かしく、そして愛おしく思えたことはなかった。むしろ俊二は、向こうに自分が掛け替えのない忘れ物をしているのだと思っていた。


 ――――それは、今なおスロリアの大地に斃れたままの七人の同僚の記憶。


 ――――それは、あまりに悔いの多き、愚かな戦いの記憶。


 そして……それは、一週間近くの彷徨の間に奇しくも行動を共にした一人の女性の記憶。

 

 彼女は……タナは……無事に彼女の味方に保護されただろうか? 


 ぼくは……結局彼女を……タナを、自衛官らしく守りきることが出来たのだろうか?


 「…………」


 眩暈にも似た感覚に襲われ、暫く顔を伏せた後、眠りから醒めたように俊二は顔を上げた。ヘリは雲海を抜け、窓の外からは眩いばかりの群青が俊二の眼前にその肢体を広げていた。


 「…………!」


 その眼下の群青を背景に、横一線に突き進む幾重もの航跡。俊二は軽い驚愕を覚えた。船列の中央を征く艦の、特徴ある直線的な艦橋には、見覚えがあった。


 イージス艦……?


 護衛艦隊だった。本土を出撃した大小の護衛艦が、白波を蹴立てて南海を驀進していた。その征く先に、何があるのかを俊二ならずとも知っていた。これから起こるであろうことを想像し、軽い戦慄が背筋を走るのを俊二は覚えた。それは、決して不快な震えではなかった。


 もう……あの頃には戻れないんだ。


 俊二は思った。そして静かに決意した。


 もう一度、スロリア(あの島)へ戻ろうと。



 


 ―――「破局の章」 終―――


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― 新着の感想 ―
>元が高層ビルであるだけに、・・・ ノドゴール王国ってどの位の文明レベル(地球西暦で)だったのでしょう?
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