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第一五章 「破局」


 日本国内基準表示時刻8月2日 午前八時一七分 東京国際空港


 「転移」後の混乱から十年。今や新世界でも最大の空の中継点となるまでに復興を遂げた東京国際空港の特別室で、河 正道内閣総理大臣は神宮寺 一自民党幹事長と会話に花を咲かせていた。


 重要な会談の際日本を訪れた賓客、そしてこれから外遊に向かう閣僚や国の重要人物を迎えるべくあらゆる調度の粋を凝らした部屋からは、主滑走路で離発着を繰り返す大小様々な旅客機を見渡すことが出来た。


 異世界に於ける日本の経済的プレゼンスの拡大に伴い、ここ数年で空港を利用する他国の飛行機の数と種類、そして人々の国籍と数は目に見えて増えている。今しがたも、他国の国営航空会社に属する、大きさではボーイングB-747に匹敵する10発の大型プロペラ旅客機が離陸し、それと入れ替りに双胴のジェット旅客機が着陸態勢に入ろうとしていた。

空の玄関口であるのと同時に、この空港は周辺諸国家が「転移」により自力では整備できなくなった機体を持ち込み、適切な補修と整備を施すための設備もまた充実させていた。それは一面では他国との意思疎通を高め、もう一面では、存在する時空の違う飛行機に接することで日本の航空機開発技術を向上させることにも貢献している。


 河と神宮寺、二人の会話の主軸は、やはり「武装勢力」の攻撃に晒されたスロリアの現況解決と、それに伴う今後の国政運営に集中していた。


 神宮寺は言う。


 「……河君。重ねて言う、PKFを展開させるべきだ」


 平和維持活動(PKO)平和維持軍(PKF)に昇格させ、武装勢力に対する武力行使も辞さない姿勢を示すべきだという意見は、自民に留まらず野党たる共和党にも広がっていた。自民、共和を問わず最も過激な意見の持主には、PKFをスロリア西部奥深くまで進撃させ、「武装勢力」の根拠たるノドコールを制圧せよと言う者もいて、現在では彼等が結束して超党派を結成し、要求を国会に提出するという観測まで流れている始末だ。この問題に関し、どちらかと言えば与党内でも穏健派に属する神宮寺は、党内の責任ある立場として彼らを宥め、暴発を抑えることに懸命な状態であった。


 「わしは何も実力行使に出ろと言っているのではない。今後の対話を有利に進める上で、断固たる姿勢を示すのも必要だと言っておるのだ」


 「うむ……」


 神宮寺の意見は外交においても、党の運営においても妥当な策であること位、河は十分弁えている。外交面では相手に対しこちらの意思を明確にし、国内においては党内の急進派を押さえる上で、和戦両様の構えを整えておくことは必要であるように思われた。


 河は、黒縁の眼鏡を押し上げた。


 「……だがその前に、先方の意思を直に確認しておきたい。私が彼らの招請に応じた真意は、そこにあるのだ。先方の首班も来るというし、ここは素直に対応し、そして決断しようと思う」


 「実のところ、わしは今回の渡航には反対だ。ここ数週間のうちに連中が何をやったか考えてもみろ。人を何十、何百と殺すのに躊躇もない連中だ。万が一、危害が君にも及ぶとなると……それを想像するだけで寿命が縮む」


 「滅多なことを言うな。私に危害が及ぶとはまだ決まったわけじゃないぞ。そんなことを一々考えていたのでは、進む対話も進まない」


 先月の外交交渉の決裂。それに続く南スロリア海における二度にわたる衝突……こちらは七隻の巡視船が沈められ、その乗員612名の大半が海の藻屑と消えた。さらには軍事とは何の関連も無い石油掘削施設まで破壊され、ここでも死傷者は100名以上の大台に達している。これに先月末からの武装勢力の侵攻により殺害、拉致された者を含めれば最終的な犠牲者は1000名を越える見込みだった。


 これではPKO隊員の救出作戦の過程で生起した海上戦闘において、武装勢力の潜水艦を一隻沈めたところで何の慰めにもならない。普段ならこの種の自衛隊の行動に何かとクレームを入れて来る労働党も、激昂する国民世論を前に空気を読んだのか今のところ沈黙を守っている。


 「大体、戦車は兎も角として自前の戦闘機や軍艦、さらには潜水艦まで保有している武装勢力が、何処にあるのか!?」


 外交問題を話し合う自民党内の会合で、机を叩き神宮寺に迫ったのは、若手の保守派で知られる蘭堂 寿一郎 国会対策委員長だった。かつては通産省に籍を置き、貿易問題を廻る「転移」後の外交交渉でタフ-ネゴシエーターとして知られた彼の舌鋒の鋭さには、野党ですら一目置いている程だ。


 その蘭堂は言った。


 「幹事長どのが言いたくとも言えないことを、この場ではっきりと申し上げましょうか? 私としてはこの一連の事態には、国家の介在を確信せざるを得ません。事実、過日の外交交渉において交渉に赴いた外務省の前に現れたのは、向こうの外交担当の人間だったそうではありませんか。何故武装勢力が外務省まで持っているのか?……答えは自ずから出ている。我々が今現在相手にしているのは武装勢力ではない。厳然たる国家です。スロリアへの明確な侵略の意図を持った何処かの強勢な国家が、わが国にもその侵略の手を延ばしている! 違いますか?」


 あまりに礼を失した追及に、神宮寺も年と立場を忘れて声を荒げたものだ。


 「国家だったらどうなのだ? 戦争をするのか? 全面戦争を君は望んでいるのか? これまで築いてきた繁栄を何の躊躇いもなくドブに捨てよと君は言うのか!? 何にしろ直ぐ戦争と言う君の神経を、わしは疑わざるを得んよ!」


 ……だが、蘭堂の意見は実のところ的を得ている。


 圧倒的な装備はもとより、統一された意思、現在に至るまでも占領状態を継続できる巨大な補給、指揮系統……そんなものを、何処の馬の骨とも知れぬ武装集団が、一朝一夕で持てるはずが無い。現時点にいたるまでスロリアを席巻しているのが、こちらの未だ知らぬ国家の意を受けた「正規軍」であることは確実だった。


 ……しかし、それを認めてしまえば日本はスロリアに対する介入権の一切を失ってしまう。国権の発動により戦争の放棄、そして国外におけるそれに不介入の方針を貫いている日本の現行憲法では、冷厳なようだが相手が厳然たる国家ならば喩え侵略であろうと、自国の安全を脅かさない限りにおいては一切の行動を取れないのだ。


 それでも強行すれば、最悪の場合憲法改正の議論にまで話は進む。この事件を機に国内世論を憲法形成にまで持っていくのは確かに一つの方策ではあったが、対外協調外交が主流の現在、それを為してしまえば自民党は国内の穏健派、護憲派の支持を失い、以降の党勢確保は困難なものとなるだろう。神宮寺たちとしては、相手を「武装勢力」扱いしておいた方が、国際協力という名分の下であらゆるオプションを行使し易いのである。


 ―――――そして今月のこの日。内閣総理大臣 河 正道は、「武装勢力」より提示された首脳間交渉に応じ、前回の交渉の舞台となったノドコールへの行程の第一歩を標そうとしていた。



 「……いいな河君、こちらは彼らをあくまで「国家」としては認識していない。我々はあくまで『武装勢力』と交渉するのだ。それを忘れるな」


 「ああ、判っているとも。だが、何時までもそういう状態を続けるわけにも行くまい。いずれは、彼らとも対等な国同士として付き合いを持てればよいと私は考えている……いや、そうでなければならん。今直ぐに、というのは無理だろうが」


 神宮寺の意見は、すでに河の中に入っている。そして諭すような河の言葉に、力強く頷く神宮寺がいた。


 そのとき、秘書官が入って来た。


 「総理、間も無く出発の時刻です。ご用意を」


 二人は同時に腰を上げた。部屋を出て、周囲を随員とSPに囲まれてターミナルを歩く二人を、待ち構えていた報道陣がさらに遠巻きに取り囲んだ。


 「総理! 今回の会談への意気込みをお聞かせ下さい」


 「総理、交渉相手は外部からの侵入勢力なのですか? それともスロリアの住民なのですか?」


 「未だ消息不明の邦人のご家族に一言っ!」


 「総理自ら会談に臨む真意を……!」


 河は立ち止まり、記者たちを一瞥した。


 「今回の会談の、主要な目的は、私の眼で直に相手を知ることにある。ただそれだけです」


 そして、再び歩き出した。外に出、待機する政府専用機を間近に見上げる位置。神宮寺が付いて行けるのはここまでだ。


 「機内で一泊か……まあ、日帰りのようなものだな」


 「じゃあ、ちょっと行って来るよ」


 河の軽口に神宮寺は笑い、肩を叩いた。随員に導かれタラップへと向かう河の後姿に、神宮寺が違和感を感じ取ったのは、そのときだった。


 『河……影が薄くなった……?』


 そう思ったときには、神宮寺は声を上げていた。


 「河……!」


 タラップの半ばを上りかけた河の足が、止まった。神宮寺を振り返らずに、河はただ無言で手を上げるだけだった。そして、再びタラップを上りだした。頭を上げそれを見送る自分の首筋に、冷たい汗が流れているのに神宮寺が気付いたのは、ずっと後のことだ。




 ローリダ国内基準表示時刻8月2日 午前8時21分 首都アダロネス 第一執政官官邸


 その日、第一執政官ギリアクス‐レ‐カメシスは近親の主だった者を招き、朝食会を開いていた。

紙よりも薄く金よりも価値のある陶製の食器に盛られた料理のいずれもが、ローリダの上流社会ではごく在り来たりな朝食の献立だったが、その食材は卵からパン、そして香辛料に至るまで、厳選された最高級のものが何気なく、そして惜しげなく使われている。さらには、出席者の何れもがカメシスの近親とはいえ、個々の肩書きは財界、政界、官界、そして軍をはじめとして学会、芸術、スポーツ、芸能界にいたるまで多岐に渡り、カメシスの家系に連なる者の各界に占める地位の高さ、そして各界に占める影響力の程を食卓の和やかさの内に知らしめていた。


 「おじい様、今日はどうしてそんなにご機嫌がいいの?」


 と、銀製のフォークでオムレツをつつきながらカメシスに聞いたのは、上流階級専用学校の経営者たる長女の娘――――つまり、カメシスの孫娘――――であった。


 事実、出席者の誰の目から見ても、この日のカメシスは上機嫌だった。卵を五個も平らげ、朝方というのに発泡酒を一本も空けた。傍らに座る妻のエリンダなどは、自分の良人が変な病にでも罹ったのではないかと、半ば本気で心配したほどだ。


 給仕に発泡酒を注がせながら、カメシスは彼の可愛い孫娘に笑いかけた。


 「今日は、いい報せを聞くことになっておるのだ」


 「いい報せ……?」


 首を傾げる孫娘に、カメシスは囁くように言う。


 「悪い奴を……やっつけたという報せだよ」


 「悪い奴って……おじい様が言うのなら、きっとすごく悪い奴ね」


 「そうだ、悪い奴だ。そいつをのさばらせておけば、皆に迷惑がかかる。だから、やっつけねばならん」


 「……で、その悪い奴を、誰がやっつけるの?」


 カメシスは、わざとらしく声を潜めるようにした。


 「わしが、そいつをしかるべき処におびき寄せてある。そこを、エルソス‐ガナスが一発で仕留めるのだ」


 「まあっ、おじい様ったら」


 孫娘は苦笑と共に肩を竦めた。エルソス‐ガナスとは、開拓時代のローリダを扱った冒険活劇の主人公の、銃の名手の名だった。


 たちの悪い冗談は彼女の祖父の悪い趣味だった。そして彼女は、祖父の悪い癖がまた始まったと思ったのだ。




 スロリア地域内基準表示時刻8月2日 午前10時9分 セルベール捕虜収容所


 ―――――収容中のニホン人全員を処刑、処分せよ。


 命令は、電話を取ったグラノス‐ディリ‐ハーレン国防軍大尉に、電流にも似た衝撃を以て受け容れられた。


 「……もう一度お伺いしますが、全員処刑で宜しいのですか?」


 受話器を握る手が、そして搾り出した声が、いずれも震えていた。


 『そうだ。全員処刑だ。蛮族を全て抹殺しろ』


 「お待ち下さい。もう少し、処刑時期を延ばすというのは如何でしょう? 外交交渉も始まると聞きますし」


 『貴公は下級士官の分際で政治に意見しようと言うのか?』


 「ですが……」


 『言っておくが、交渉など時間稼ぎの手段でしかない。特に蛮族に対してはな。貴公もでしゃばらず、もう少し利口に振舞った方が身のためだぞ』


 「…………」


 ハーレンの沈黙を了解と取ったのか、電話は切られた。


 「どうかしましたか? 大尉殿。顔色がすぐれませんが」


 上官の表情の急変に気付いたアスズ‐ギラス曹長が、怪訝な表情を覗かせる。


 「処刑命令が出た……ニホン人を、全員広場に集めてくれ」


 「大尉殿……?」


 「何でもない。君は先に行け。私も直ぐに行く」


 曹長は一礼し、足早に部屋を退出した。一人になった部屋で、机に凭れかかったハーレンは眼を瞑り、肩を震わせたのだった。こんな馬鹿なことがあっていいのだろうか!?……と。


 前線部隊の任を解かれ、この捕虜収容所とは名ばかりの劣悪な監獄の長として、虜囚となったニホン人とともに数週間を過ごす内、ハーレンにはある確信が芽生えていた。彼らは上層部が言うような凶悪な侵略者でもなければ野蛮な種族でもなかった。我々と同じようにものを考え、我々と同じように使命感を持ってスロリアに赴いたまっとうな「人間」だった。


 それは、ニホン人と同じくここに連行され、収容された東部の現地民の彼らに対する態度からもわかる。西部の現地民がローリダ人の入植者や宣教師に払う上辺ばかりの敬意では決してなく、心からの敬意と信頼とを以て彼らを慕い、常にニホン人の周りには多くの住民が集っているのだ。それを苦々しく思う部下の中にはニホン人を現地人より隔離するべきだと主張する者もいたが、ハーレンは決してその策を採ろうとはしなかった。


 あのニホン人たちは、侵略者でも何でもない。ただ単に、この土地の貧困に喘ぐ人々を助けようとしていただけではないか……! その彼らを、我々は単に野蛮であるからといって命を奪おうとしている。

 ……否、上層部の目的は別のところにあることぐらい、ハーレンのような下級士官でもすぐに判る。上層部は、彼らの存在が邪魔なのだ。植民地や解放地を単なる搾取の対象としてしか見做していない彼らにとって、善意からスロリアに赴き、ゼロからスロリアを豊かな大地に造り上げたニホン人など、自分たちの唱えるスロリアを支配する「正統性」を脅かす存在以外の何物でもなかったのだ。

 ……そして、これから彼らを手に掛けようとしている自分もまた、愚昧な上層部の同類となろうとしている。


 私室の机から窓辺に向かい、ハーレンは跪いた。そして手を合わせ瞑目した。

 ―――――偉大なるキズラサの神よ!……貴方は何故、死すべきでない人々に死を与え、真に死に値する輩に生を与え続けるのか?

 

 


 スロリア地域内基準表示時刻8月2日 午前10時9分 セルベール捕虜収容所


 「ニホン人は全員外に出、整列せよ……!」


 処刑宣告ではなかったが、セルベール捕虜収容所の日本人には、それと同じ響きを持って命令は聞こえた。

 椎葉正一は、日記を記す手を止め、立ち上がった。すでに覚悟は出来ていた。


 「オイ椎葉さん。わしを置いて行きなさんなよ」


 と、足を引き摺った横山が椎葉の袖を引く。村でローリダ兵と悶着を起こした際に負傷し、頭から片目にかけて巻かれた包帯は、数週間前から全く替えられていなかった。


 「傷を治してから、後から来いよ。そんな格好であの世に行くなんて格好悪すぎる」


 「こんな場所で傷なんて直せるかよ。腐っていくのが関の山だ」


 苦笑と共に、椎葉は横山の肩を支えた。そして囁く。


 「わかってねえなあ……腐っても生きてりゃあ、助けが来る望みもあるだろうに」


 「わしはお上を信用しない主義でね」


 他の日本人も、大なり小なり同じようなものだ。ローリダ兵の高圧的な指示に淡々と従い、疲れ、汚れきった身体を、緩慢な歩調で、キズラサ教で言う「永遠の安寧」が待つ場所へと運んでいく。


 「…………」


 椎葉は周囲を一瞥した。以前はふっくらとしていた石川は、今では骨と皮ばかりの惨めな姿に変わっていた。石川もまた、以前兵士に殴られ、ヒビの入ったままの眼鏡が痛々しい。それ以外の、各地から突然に連行され、ここに収容された日本人もまた同じようなものだ。


 「おじさん! 出るな。出たら殺される」


 子供の声に、椎葉ははっとして振り向いた。村からずっと一緒だったエディロが、鉄条網を引っ掴み叫んでいた。好奇心からか避難していた山から降りて来たところを、やはり捕らえられてしまったのだ。あの逞しく、頼りになったヴァクサはもういない。ローリダ兵が雪崩れ込んできたときの争乱で、村長を庇いローリダ兵の銃剣に斃れたのである。


 ヴァクサだけではなかった。人々は鈴なりになって鉄条網に齧り付き、そして揺すりながらそれぞれ

が懇意の日本人の名を呼んだ。それを傍らで見ていたローリダ兵が銃を向けて怒鳴りつけた。


 「貴様らそこから離れろ。離れんと撃つぞ!」


 数名の兵士が椎葉達を急かす様に押し出し、引き摺った。日本人の間からも抗議の声が上がり、ローリダ兵は彼らの背や腹、そして顔に容赦なく銃床を振るうのだった。処刑場へ押し出される列の中で、椎葉はヴァクサを振り返り、叫んだ。


 「ボウズ。お母さんに宜しくな!」


 「無駄口を叩くな。さっさと歩け!」


 銃剣を構えた兵士が、椎葉をせっついた。露骨に顔を顰める椎葉に、振り上げられた銃床が飛び、その重みは椎葉の腹を捉えた。痛みに耐えられず蹲る椎葉とそれにつられた横山を、ローリダ兵は怒声とともに蹴り上げるのだった。


 「この蛮族が、俺の仲間はスロリアでお前達に殺されたんだ! 思い知れっ!」


 感情の任せるまま銃を向ける兵士を、誰かが引き摺り倒した。


 「…………!?」


 ハーレンだった。愕然として自分の上官を見上げる兵士を、ハーレンはきっと睨み付けた。


 「……さっさと持ち場に戻れ」


 兵士を下がらせると、ハーレンは椎葉を見下ろすようにした。口から血を流していても、体中が泥に汚れていても、ハーレンを見上げる日本人の眼光は変わらなかった。そこに、死を前にしても揺らぐことの無い強い意思を、ハーレンは見たように思った。

 

 「――――異教徒どもに告ぐ。今まさに悔い改め、キズラサの神の御許に己が身を委ねよ。さすればキズラサの神はその無限の慈悲を以て汝らを遇し、汝らに永遠の安寧を与えるであろうぞ」


 荒れ果てた刑場。鉄条網にハゲタカの羽を連ねる刑場に、司教の戒告が響き渡る。


 収容されて以来、彼らは毎日のように椎葉達の許を訪れては改宗を勧めてきた。否、それは勧めるというより日を追うごとに脅迫に近いものとなっていた。改宗することが義務であるかのように彼らは陶酔感に身を任せて語り、あるいはヒステリックにわめき散らしては椎葉達を辟易させたものだ。


 「あんたの言うキズラサの神とやらが自分に似せてあんた達を創ったというのなら、その神もやっぱり女を抱くのかい?」


 椎葉の戯れに投掛けた疑問は、明らかに彼らの意表を突いていた。


 「どうなんだ? あんたらの神様もやっぱり下げてるもんは下げてるんだろ?」


 舌打ちと共に、司教は引き下がった。その後司教たちは顔を見せなくなったが、椎葉達に対する監視側の干渉が急激に増したから「野蛮なニホン人」の言が相当腹に据えかねたのだろう。


 ――――だが、それも今日で終る。いささかどころではなくあまりに不本意な終り方だったが。思えば自分は、こうなることも覚悟して、そしてこの地に骨を埋める覚悟でここスロリアに赴いたのではなかったか?……そう思えば、死に赴くにあたって萎みかける気分もまた晴れようというものだ。


 「さあ、どうだ? 洗礼を受ける気になったか?」


 「あんたの詰らん御高説を、これから未来永劫聞かずに済むのかと思う方が救われる気分がするがね」


 と、椎葉は司教に言った。一瞬で顔を引き攣らせる司教に、呆れたように彼は苦笑した。他の皆の意思も、また同じ。苦虫を噛み潰したような顔の司教が声を上げようとしたそのとき、歩み寄ってくる人影に椎葉たちの視線が止まった。


 「所長さんか……?」


 衛兵の制止を振り切り、ただ無言を保ったままハーレンは椎葉に歩み寄った。目の前の若い士官が、自分たちに多分に同情的であることを、椎葉達は前から知っていた。


 少し戸惑ったような表情を見せた後、ハーレンは言った。


 「何か、言い残しておきたいことはないか?」


 『君達には、何もしてやれなかった。』……などと、弁解がましい事を口走るつもりはなかった。ただ、永久に話が出来なくなるまでに、彼らの感情の一片にでもハーレンは触れておきたかった。


 「何だ。いまさら同情か?」


 「いや……規則だ」これは嘘である。下等種族の言葉に耳を貸すなと、ローリダ軍人は平素から教えられている。


 「なるほど……規則ね」


 椎葉は、古ぼけた帳面を取り出し、差し出した。それは、こうなる直前までつけていた日記帳だ。


 「あんたになら、これを預けておいても良さそうな気がする」


 ハーレンはそれを手に取り、一瞥もせず軍服のポケットに放り込んだ。


 「見ようともしないのか?」


 「ニホン語は読めないものでね。ただ預かっておくだけだ。ところで……」


 「…………?」


 「……怖くは、ないのか?」


 椎葉は、少し考え込む素振りを見せて言った。それはどう見ても、死を前にした男の表情ではなかった。それが、自分の父親に近い年齢の椎葉に接するハーレンに、不思議な感銘を与えた。


 「多分……怖くはないんだろうな。おれはスロリアで死ぬつもりだったから……本望が叶ったと思うべきなんだろう」


 「こんな形で、君のような男に出会うことになるとは……つくづく残念だ」


 そう言って、ハーレンは苦笑した。椎葉も笑った。そしてハーレンは衛兵を招き寄せた。


 「彼らの戒めを解いてやれ」


 「自由にするのですか?」


 驚きの色を隠さない衛兵に、ハーレンは言った。


 「彼らは逃げない。そういう連中だ」


 手を拘束する戒めは解かれた。実際、解かれたところで逃げる場所など何処にもない。悄然としたニホン人達が佇むのを見守りながらハーレンは後ず去りし、命令を下したのだった。


 「銃兵、前へ……!」


 そのとき、司教が色を為して声を荒げた。


 「待って下さい! 異教徒は火あぶりなのではないのですか!?」


 改宗すれば銃殺というのが、事前の取り決めだった。司教の難詰に近い疑念に、ハーレンは素っ気無く言った。


 「彼らにいかなる刑を以て死を与えるかは、小官の専管事項です」


 「これは司令部に報告しますぞ。大尉……!」


 「どうぞ、ご自由に」


 憤然として帰る司教の後姿を見遣りながら、ハーレンは厳かに言った。


 「ローリダ共和国の正義の名の下に、お前達をこれより処刑する。罪状は、占領地に於ける圧制の幇助……死刑を以てしか、これに遇する途はない!……銃兵構えっ!」


 ―――――五分後。乾いた複数の銃声が刑場を圧し、ハゲタカの群れが一斉に蒼穹を目指し羽ばたいた。さらに一分後。死亡確認のため歩み寄った先で、かつては「野蛮なニホン人」だった八体の骸を前に、ハーレンは兵士達に厳かに言い放った。


 「お前達、よく見ておけ……」


 瞑目しつつ、ハーレンは続けた。


 「……我々は、死んでも笑っていられる種族とこれから戦争をするのだ。これがどういうことを意味するかよく考えておけ」


 ―――――同日同時刻。スロリア西部。ローリダ進攻軍の後方に点在する大小六つの収容所で同様の処置は執行され、ある者は火炎放射器の炎、またある者は銃殺により、五八名の東部住人、そして椎葉達を含め三七名の在留邦人が刑場の蜃気楼の彼方へ消えた。




 スロリア地域内基準表示時刻8月2日 午後1時2分 スロリア西部上空


 機上の身とはいえ、河は一切の公務より解放されたわけではない。


 国権の長たる内閣総理大臣は、自らの生活の端々までを公に拘束しているといっても過言ではない。その一日、二四時間が公務なのである。緊急事態の勃発で、暖かい寝床からいきなり決断の場に引き出されることもあれば、災害勃発に際しては憩いの一時を切り上げ、すぐさま公務の場に赴かねばならぬ。国会にあれば野党の容赦ない批判と注文に晒され、党内でも率先して私心を捨て人事の調整に徹し、範を示さねばならぬ。そして外交の様々な局面によっては、自国の命運を決することはもとより他国の死命を制するシビアな決断を示さねばならないときもある。


 総理大臣の座が、第二次世界大戦以来の与党内の派閥間の勢力均衡と年功序列とを反映した調整人事の産物から、他の追随を許さない実力と理想とを与党構成員全てに提示した者に与えられる至高の地位という定義に変わって久しい。激動と変革に彩られた「転移」前後の二十数年間、内閣総理大臣は議会政治における最大の調整役というより、議会の承認の下で絶大な権力と指導力を揮う「リーダー」として機能してきた。


 河 正道もまた、政治家への道を踏み出して以来「リーダー」としての内閣総理大臣たるを志し、志を果して以降もその役割を大過なく勤め上げてきた。それまでの道程が順風満帆であったかというと決してそうではなく、少年期に父を亡くした彼は典型的な勤労学生であったし、国政選挙でも二度の落選を経験している。だが、そうした苦難の積み重ねの上に現在の彼があることもまた、確かであった。


 随員との事前の打ち合わせを終え、一人残った政府専用機の会議室で、彼はただ黙々と書類の決裁を行っていた。


 「失礼します」


 と、会議室に入って来たのは、前回の交渉に続き随員として今回の会談にも参加することになった寺岡祐輔 外務省東スロリア課課長だった。


 「総理、お話があるとのことですが……」


 「ああ、席は何処でもいい、好きに座ってくれ」


 決済を終えた書類を纏める手を休めず、河は言った。


 「君は前月の交渉の際、向こうの代表団と派手にやりあったそうじゃないか」


 「はあ……出過ぎたことをしました。申し訳ありません」


 「いや、あの状況では誰も君以上のことは出来なかった。よく頑張ってくれたと思うが」


 「そう言って下さると、私も気が楽です。退官前に孫にするいい自慢話が出来ました」


 「惜しいな……君もそろそろ退官か」


 「はい……お陰様で」


 「どうだろう、君にはこのまま引き続きスロリアで仕事をしてもらいたいが……もちろん、外務省にも席は用意させよう」


 「いえ……外交なら私より適任が山ほどおります。私のような者が何時までも居座っておりますと後に続く者の士気にも関わるでしょう。できれば、今回の仕事で全て終らせたいものです」


 「……そうか」


 微笑みかけると、河は話題を転じた。


 「ところで……向こうの代表は、目の覚めるような美人だと聞いたが?」


 「はい、それはもう……美人であるだけに、言うこと言うこと私のような中年男にはきつく響きます」


 「確かに……美人の詰問は私のような老人にもちときつい。美人に難詰されるのは嫌いではないのだが」


 河が笑った直後、機が微かに揺れた。窓の外へ視線を転じた寺岡が、「あっ」と小さく声を上げる。窓より臨む雲海の一点に、後退翼を伴った二機の機影がこちらと並行しているのが見えたのだ。河もそれに気付き、身を乗り出すように機外の風景に細い眼を一層凝らすのだった。武装勢力の戦闘機が出迎えに上がって来たのだ。


 「そろそろ……到着ですな」と、寺岡が言った。河はただ頷くだけだ。




 スロリア地域内基準表示時刻8月2日 午後1時34分 ノドコール首都キビル郊外 サン‐グレス ローリダ植民地空軍基地


 軍事基地は、これから敵国の首班を迎える記念すべき場と化すべく異様なまでの熱気に包まれていた。

 兵員を満載していた軍用トラックが飛行場の一角に止まり、そこで武装した兵士を吐き出し、散開させた。ターミナルの屋上に仮設された銃座は目に見えてその数を増し、飛行場周辺に停車した装甲車や戦車の砲口が天を向いていた。敵国の元首といえども外国の代表を迎える式典に臨むにあたり、妥当な華美さも和やかさも見えないそれらの光景は奇異ではあったが、ターミナルの特別室からその光景に見入る者を満足させていた。


 「いかがで御座いますか。議員閣下?」


 と、基地司令官ルード‐エ‐ラファス少将が、傍らで眼下の光景に眼を凝らすナードラを省みた。


 「貴公の仕事には感服以外に覚える感情はありません。あとは、主賓が到着するだけ……」


 「そう言っていただければ、これから起こることに対する後ろめたさも、いささか和らぐというものです」


 「後ろめたさ?……それは、人間が人間にたいして抱くものです。人に非ざるもの……特に敵に対してはまた別の感慨があろう」


 「閣下も、相変わらず辛辣ですな」


 ナードラは微かに笑った。恐らく、このスロリアでも最高の笑顔だろう……と、ラファスは思った。管制塔からの報告が入ったのはそのときだった。


 『……管制塔より報告。ニホンの飛行機が着陸針路に入りました』


 「……それにしても、彼らはいい飛行機に乗っておりますな。どうせ『転移』前に何処かから買い付けたものでしょうが」


 「だが、彼らにはそれに見合うだけの軍事力はありません」


 そこまで言って、ナードラは顔を少し曇らせた。去る七月二八日、スロリア東部奥深くまで進撃した民族防衛隊の一隊が、何者かに瞬く間に殲滅されたという事実。そして同日と前後して、南スロリア海でニホンの海上基地を破壊するという武勲を上げた旧友ディラゲネオス‐ル‐ファ‐ランパスの指揮する潜水艦が消息を絶ったという事実が、彼女に脳裏に一抹の不審の影を落としていたのだった。


 ……が、それも一瞬。


 『……着陸します!』


 管制塔からの報告に、ナードラは気を取り直すかのように踵を返した。


 「さて……彼らの首班とやらを、お迎えに上がるとしましょう」




 スロリア地域内基準表示時刻8月2日 午後1時34分 ノドコール首都キビル郊外 サン‐グレス ローリダ植民地空軍基地


 タラップを通じ、随員を伴った河がノドコールに第一歩を標した瞬間。その場に流れる張り詰めた空気を吸ったように皆が思ったことだろう。


 「基地司令官のルード‐エ‐ラファスです。この基地に関する一切に限り、閣下のご案内をさせて頂きます」


 河の前に、武装した兵士を引き連れて歩み寄ってきた中年の将官に、寺岡が眼を剥いた。


 「この待遇はどういうことか? まるで犯罪者でも迎えるかのようではないか?」


 ラファスは事も無げに言った。


 「身内の恥を晒すようですが最近、ノドコールでは争乱が続発しております。ここもいささか物騒になりましてな……閣下には、警備の厳重なることご了承頂きたい」


 「で……あなた方の元首は?」


 ラファスは微笑んだ。その微笑み方に、何か引っかかるものを覚えるのは気のせいだろうか?……と、寺岡は思った。


 「我等が元首、ギリアクス‐レ‐カメシス第一執政官閣下は、あちらでお待ちです」

と、ラファスは基地内で一際巨大な建造物を指差した。彼の導くまま、一行は歩き出した。


 「…………?」


 寺岡は一同を先導する目を凝らす。ただ先導するだけで、一向に会話はおろかこちらと眼を合わせない軍人に覚えた奇異な感覚が、以前の交渉なら眼にした文官や彼らの報道陣が一人として見当たらないことへの違和感に思い当たったとき、軽い戦慄が彼の痩せた背筋を駆け巡るのだった。


 ……だが、それを寺岡は結局、河はもとより誰にも言い出せなかった。


 ターミナルの入り口を潜り、大ホールに足を踏み入れた瞬間。河は立ち止まった。自らの進む先に人影を見たからだ。彫刻を施した金の杖を掲げ、長い黒衣に身を包んだ一群の、先頭に立つ老人をまじまじと見遣りながら、河は寺岡に囁いた。


 「彼が代表か?」


 「いいえ、違うようです」


 不意に、老人が声を上げた。


 「私はあなたに真の信仰を伝えるべく、キズラサの神の意思によりここに遣わされて来た者である」


 「何……?」


 日本側のどよめきを他所に、司教は続けた。


 「……偉大なるキズラサの神は、世界で最も神の意思に忠実なる第一執政官を以て、この大陸の東方住人とさらにその涯のニホン人を征服し改宗せしめることを命じ、執政官の名代たるルーガ‐ラ‐ナードラはこの重要な使命を遂行するべくやってきた」


 「…………!」


 ホールの奥から堂々と進み出た一団の先頭を行く美しい女性には、寺岡は見覚えがあった。唖然とする一団を振り向きざまに一瞥し、ラファスは早足で女性の許へと近付いた。


 「議員閣下、ニホン側代表団をお連れしました」


 鷹揚に頷き、ナードラは河たちに向き直った。その涼しげな眼差しに、何等陰険な意図を匂わせるものなどなかった。ただ、正当な行いに身を委ねているという自信と強い使命感を、河はその緑色の眼の奥に見た。


 ナードラは言った。強く、そして滑らかな声で。


 「首班……? あなたはすでに我等の手の内にある。この上はここに控える司教の言に従い、あなたの母国に我等に対する一切の反抗を停止するよう促して頂きたい」


 「あなたの国には、戦意を持たぬ外国の代表者を武力と脅迫とを以て遇する伝統があるのか?」

と、河は言った。その口調や表情に、何の乱れもなかった。


 「それ以前の問題だ首班。あなた方に、我等と対等な交渉を持つに足る、拮抗する点があるとは我々に到底思えぬ。現に、我等の甘言に踊らされこうして無防備を晒しているという事実こそが、それを雄弁に証明しているではないか?」


 「違う……交渉の確約はその一方で相手とはただ議論と対話に徹するという契約でもある。君たちは、その契約を破ったと見てよいのかな?」


 「契約? 契約もまた、対等な相手との間に為されるものだ」


 「我々にとっての契約とは、立場と力の違う相手が、それに左右されることなくお互いの要望を通すための手段だ。君らの国では違うのか?」


 「なるほど……あなた方との対話が不可能だということだけは、判った」


 ナードラは手を上げた。それが合図だった。各所の物陰から飛び出した兵士が、一斉に代表団に向かい銃を向けたのだ。SPが前面に出、河を庇うようにした。


 「……さあ、首班。あなたに熟考の余地はない」


 ―――――そのとき。


 ズダアァァァァン……!


 素早く拳銃を引き抜いたラファスの、河に向けた一発に続き、各所から銃を構える兵士が一斉に射撃を始めた。百雷を落としたかのような銃撃は三分間も続き。静寂が戻った後には鼻を劈く硝煙の匂いと、失望と苦痛、そして血の泥濘に塗れたニホン側代表団の死体の山が残された。


 「これはどういうことか……!?」


 余りの展開に、ナードラは眼を剥いてラファスに声を荒げた。


 『ニホン人の首班の身柄を抑えれば、今後の交渉は優位に進む。頭目を失ったニホン人は混乱し、我々の要求に従わざるを得ないだろう』


 というナードラ自身の献策に基づき、一切は準備されていたはずだった。それが、土壇場で筋書きが変えられた。


 自分の献策が失敗したときに感じたであろう以上の不快感を、彼女は感じたのに違いない。憤然としてラファスを見遣るナードラに、彼は平然として一枚の文書を差し出した。ナードラはそれを引っ掴むように取り、一読する。眼で追ううち、ナードラはその白皙の頬を一層白くしてラファスを見返した。


 「……執政官の命令?」


 「左様。カメシス第一執政官のご命令です」


 銃を仕舞いながら、ラファスは続けた。


 「これは報復なのです。閣下は先月の潜水艦撃沈の件をお忘れですか? そこでニホン人の首班を殺し、我等の確固たる意思をニホンの蛮族どもに示すことに今次の任務の意義がありました。さすれば奴らは萎縮し一切の抵抗を停止するでしょう」


 「あれは……やはり彼等が……」


 ラファスは頷いた。


 「サルは群れのボスの座を得るために血みどろの抗争を繰り広げるという話をご存知ですかな? 醜い蛮族のことです。ひょっとすれば連中、今後の首班を巡って争いでも始めるかもしれませんな。そうしてくれれば我々軍としても、攻める手間が省けて好都合なのですが……」


 「軍だと……?」


 何かを悟ったかのように、ナードラはラファスを凝視した。


 「なるほど……これは、第一執政官の意思でもある……か」


 「でも」という語彙を、ナードラは強調した。そのナードラから目を逸らすように、ラファスは傍らに控える司教たちを省みる。


 「異教徒にかける慰霊の詞は、持っておられますかな?」

司教は、頭を横に振った。


 「とんでもない。神に従わぬ者にはそれに相応しい行き場所がある。それは地獄だけだ……!」


 「なるほどね……」


 軽く頷くと、ラファスは部下に命令を下した。


 「この目障りな死体を片付けろ。バラバラにして、街の広場にでも晒しておけばいい」


 そのとき、何かに突き動かされるかのように、ナードラは死体の山に歩み寄った。彼女が歩み寄った先、かつてはニホンの首班だった老人の、死に様に比して安らかな死に顔に、ナードラは眼を凝らした。


 「……貴方は、何の理想に縋ろうとしてここに来た? ここにはそんなもの、一つとしてないというのに……」


 その言葉が、彼に対する柄にもない憐憫の気持ちであったことに気付いたのは、ずっと後になってからのことだ。そしてナードラは、このニホン人がかつて自分が持っていた貴重な何かを、死ぬその直前まで持ち続けていたのではないかということに、今になって思い当たろうとしていた……。



 ―――――八月二日に発生し、後に「ノドコール事件」もしくは「河 正道首相暗殺事件」と称されたこの事件は、その衝撃度も然ることながら、後に勃発した日本とローリダ共和国との、スロリア亜大陸における全面衝突の数ある要因の一つとしてしか数えられていない。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 好きな作品で何度も読み返している作品です。 日本人の政治的な動きが丁寧に描かれていて非常に面白い作品でした。
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