第一四章 「決戦」
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前4時18分 スロリア東部
枯野を押し分け進む敵兵の大群を目の当たりにしたと思った瞬間、俊二の意識は夢の中からたちまち硝煙渦巻く現実へと引き戻されてしまう。
俊二は目覚めた。目覚めずにはいられなかった。タナに肩を支えられ、集落に戻った直後、仮の宿りとなった小屋の、板張りの壁ぎわに座り込み、壁に背をもたれたまま眠り込んでいたのは、横になればそのまま二度と起きられなくなるのではないかという恐れに囚われたからだ。戦いを経て人間は成長するとはよく言うが、戦いは、結局俊二には何も与えなかった。日が落ちる頃に漸くここに辿り着いた時には、元の自分に戻っていた……少なくとも俊二にはそう思われた。
小屋の隅、積上げられた藁の上では、あの女性が未だ藁に埋もれるようにして寝息を立てている。心なしが緩む顔をそのままに、俊二はできるだけ音を立てないようと小屋を出ようと勤めた。
「…………!」
案の定、起き上がろうとした瞬間、身体の各所に走る激痛に、ともすれば俊二はそのまま崩れ落ちそうになった。それでも踏ん張って耐え、足を引き摺り仮の宿りとなった小屋を進み出た瞬間。集落から臨む山際の明るさ――――迫り来る敵の気配に、愕然となる俊二がいた。
戦いは、未だ終わってはいなかった。遠方からは、遠雷の如くキャタピラの擦れ合う音。ディーゼルの唸る音が絶えず聞こえている。それが味方のものではないことぐらい、傷付いた身体でもわかった。
「御免……起こした?」
と、人の気配を感じた俊二が振り返った先に、タナは佇んでいた。タナは静かに首を振った。彼女もまた、遠くから迫りつつある破局を感じ取っていた。口では微笑んでいたが、その瞳は抗い難い憂いに満ちていた。
「きっと……あいつらね。隊長を殺されたので、報復するつもりよ」
俊二は、言った。
「じゃあ、ここで……お別れだね」
「そんな……!」
「仕方ないよ、戦争だもの」
そう言われては、タナには立つ瀬がない。だが、俊二は白い歯を見せてタナに笑い掛けた。
「でも……楽しかったよ」
「…………?」
「君との旅は、忘れない」
「どうでもいいでしょう!……そんなこと」
タナは内心で怒った。こんなときに、平静さを保てない自分に。何時の間にか、自分の目の前にいる「野蛮人」に相応しい女性になろうと勤めている彼女を、タナは知っていた。そこに加え、俊二は言った。
「君は、逃げるんだ」
「…………?」
「逃げて、逃げて、逃げまくって……何とか君の味方の前線に辿り着くんだ。わかった?」
「でも、あなたを置いて行けない!」
「きみとぼくは、そんな仲じゃないよ」
「…………!」
その口調は柔らかだったが、相手を突き放す響きを持っていた。タナは、自分の想いが破れたことを知った。だが、それも一瞬。俊二の顔に表れた苦渋は、忽ち彼女を戸惑わせる。その汚れた顔に涙を溢れさせ、タナから視線を逸らした俊二は声を詰らせるのだった。
「だからさ……ぼくはそんなに大した男じゃない。強くはないし、逞しくもないんだ。だから君を、この何もない荒野に放り出そうというんだ。君を捨てて戦いに逃げようとしているぼくは……最低の男なんだ。そんな男と一緒にいて……いいことなんて……あるわけないじゃないか」
タナは意を決した。そして雑嚢に収めた護身用の拳銃を引き抜き、俊二に向けた。
「あなたを……捕虜にするわ」
「…………?」
「こうすれば……あなたとずっと一緒にいられる。一緒に逃げましょう? 共和国軍には、私が一生懸命に話すから……!」
「ぼくは……もうこの通り。足手纏いだよ?」
「一人で逃げるくらいなら、あなたと一緒に死んだ方がマシよ!」
「ぼくだって……敵に殺されるよりは、今ここで君に殺された方がいい!」
その言葉に、拳銃を構えるタナの肩が震えた。狙いをつけようとしても定まらない照星は、何もタナの拙い技量のせいだけではなかった。それでも、歯を食い縛り、眼に涙を溜めても、タナは拳銃を構えるのをやめなかった。構えなければ、彼と築いてきたこれまでが全て無に帰すとタナは思った。それを死ぬより恐れている彼女がいた。
「あなたは……素晴らしい人よ。私の国に、あなたのような男は一人だっていやしない。みんな嘘吐きで、見栄っ張りで……自分のことしか考えない……でもあなたは違う……そんなあなたが、何故死ななければいけないの?」
「これも人生だよ……多分」
「…………!」
タナは、言葉を失った。放心すると同時に、肩から力が抜けた。だらりと垂れ下がる拳銃を構えた腕をそのままに、沈黙が彼女を包んだ。
沈黙の後、タナは顔を上げた。その青い瞳には、先程とは明らかに異なる光が宿っていた。ゆっくりと、タナは俊二に拳銃を差し出した。
「……使って」
「え……?」
「あなたに……使って欲しいの」
俊二は、笑った。全てを諦観し、受け容れる笑みのようにタナには思えた。
小屋から立ち去る間際に、タナは言った。
「そういえば、あなたの名前を未だ聞いてなかった……」
「ぼくはシュンジ。高良俊二だ」
「私はタナ。リーゼ‐タナ‐ラン」
二人は、お互いの目を覗き込むようにした。目の異なる光が、無言の内にその対象への別れを告げていた。
「……シュンジ」
「……タナ」
タナは手を差し出した。俊二の延ばした手を両手でしっかりと包み、そのままタナは俊二の胸に飛び込んだ。
戸惑う俊二に、タナは眼で「抱いて」と言った……そして二人は、お互いをしっかりと抱いた。
「きっとまた……何処かで逢えるわよね?」俊二の肩に顔を埋めながら、タナは言った。
「……ああ」
「絶対に、生き残って……!」
それには俊二は答えず、ただ頷くのみだ。だがそれでも、タナには十分だった。
「……シュンジに、キズラサの神の御加護がありますように」
「さあ、行くんだ」
タナは、俊二から身を引くようにした。それでも、手は繋いだままだった。やがて手を繋ぎきれないほど距離を置いても、二人の指は触れたままだった。
―――――そして二人の指は離れ、踵を返したタナは、脱兎の如く走り出した。愛する人のためにも、自分がここにいてはいけないことを、タナは知っていた。
タナの後姿が完全に闇夜の中に消えていくのを見届けた後、俊二は向き直った。もう後悔は無かった。
「来た……」
声にならない声で、俊二は呟いた。その視線に先に、白み始めた闇を突いて丘陵の斜面を蠢く複数の影……車両、人、そして戦車……だが、俊二はもう恐れなかった。エンジンの爆音も、吹き上がる排煙も、そして敵兵の号令も……俊二の心胆を寒からしめるものでは、もはやなかった。
その俊二の眼前で、隊列が止まった。漂い出した朝靄と静寂を突き、スピーカーを通じて濁った声が響き渡った。
『――――篭城中のニホン兵に告ぐ! 我々は民族防衛隊である。速やかに武器を捨て、降伏しろ! 我々には君を寛大に扱う用意がある!』
長旅の末、傷と汚れの生々しい六四式小銃の膏桿を、俊二は勢いをつけて引いた。それが彼の返事だった。
そして小銃に繋がった弾倉は、最後の一本だった。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前4時24分 スロリア東部
ドオォォォォォォ……ン
遠方から轟く砲声に、タナははっとしてもと来た途を振り返った。
始まった……それは単に感想だけで、そこに感慨など無かった。冷厳なる時代が、束の間とはいえ、自分の愛した青年を飲み込もうとしていることにタナは腹が煮え繰り返る思いに囚われる。そして、自分の歩く方向に目を転じた。その先で、空には茜色が戻り始めていた。
あの青年と同じ場所にいない以上、何処に行こうが自分に安寧が得られないのだと、彼女は思い込んでいた。それが、ある意味タナを自暴自棄にさせていた。
……だから、歩く方向はタナにとって何等意味を持たなかった。
戦闘――――というより一方的な虐殺――――が始まった集落に背を向け、タナは再び何処とも知れぬ方向へ歩き出した。流れるのを止めた涙に濡れた瞳は、ひたすら夜を白に染め始めた朝日に注がれていた。
――――そのとき。
ブロロロロロロロロロ……
奇妙な音を、彼女は聞いたように思った。
数刻の後それは、確実に何かの足音のようにこちらに迫っていた。周囲に視線を巡らせようとして、彼女は気付いた……それは、自分が今まさに進もうとしている方向から迫って来る!
……昇り始めた赤い朝日を背景に揺らぐ、三つの影。
……それは、タナの眼前で空を行く三機の回転翼機となった。
そしてそれらは次の瞬間には彼女の方向に、特徴ある爆音と共に猛烈な勢いで近付いてくる
「……シュンジ!」
地を割くような突風と共に自分の眼前、そして頭上を通り過ぎて行った三機に、タナは神の加護を信じた。
それは、進むべき途を見失った彼女の瞳にとっても、希望の光となって映った。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前4時27分 スロリア東部
硝煙と排煙、そして燃え上がる家屋の発する煙が、白みかけた一帯を覆っていた。
種類の異なる煙の中を、戦車の砲撃を援護に、集落に雪崩れ込んだ兵士の影が蠢いていた。彼らは集落に潜む「ニホン兵」を警戒する余り、矢鱈四方八方に銃を撃ちまくり、家という家に火を放っているのだ。そのような動きに、統制など無きに等しかった。しまいには戦車まで前進し、排煙を噴き上げながら柵を乗り越え、放置された畑を荒らし、家屋を片っ端からひき潰し、戦車砲で破壊している。
戦闘には、始めからならなかった。戦車砲の第一撃は俊二の潜んでいた家屋の直ぐ隣の家屋を直撃し、木っ端微塵に吹飛ばした。その爆風に煽られ、外に飛び出した俊二に、四方八方から敵の銃弾が襲い掛かった。その応戦で、小銃の弾は悉く使い果たされた。放った最後の25発の内、人間を倒した弾など皆無であったのに違いない。最後の弾を撃ち尽くした瞬間。俊二は体中の力が抜けていくのを感じたものだが、それでも、逃げ延びる助けにはなった。
あとは、ひたすら集落内を逃げ回るしかなかった……だが、それももう終る。
俊二が傷付いた身を横たえた、崩れかけた土塀の向こう側では、先程放火されたばかりの家が断末魔の燻りを立てていた。中庭では、目ぼしいものを探そうと家に踏み込んだ兵士達が走り回っていたが、土塀に身を隠している俊二に注意を向ける者は誰もおらず、やがては分隊長の一喝の下、形ばかりの策敵に戻ろうとして消え去った。
「…………」
切った唇から糸を曳く血もそのままに、顔を上げた俊二の眼前には、小さな根菜の畑が広がっていた。その向こうには木の塀があって、それに覆われた家屋には、まだ敵の手は及んでいないように見えた。逃げる希望を、俊二はその家屋に抱いた。
だが、向かった先でで木の塀を突き破り、巨竜宜しくぬっと姿を現した戦車の姿と向き合った瞬間。俊二は眼前が闇に覆われるのを感じた。それでも、圧倒的な敵に対する敵愾心の任せるまま、俊二はタナがくれた拳銃を引き抜いた。
それが、俊二の最後の武器だった。
未だ動く左手を伸ばし、俊二は拳銃を戦車に向けた。普通に考えれば敵し得ないはずだが、俊二の感覚は勝敗など既に超越していた。言い換えれば、俊二の関心は、すでに七名の仲間が待つあの世にあった。
拳銃を向けながら、俊二は塀を突き破り、そして乗り越えようとする戦車を見遣った。
緑一色で山のように大きく、猛牛のように隆々とした体躯の鋼鉄の化物。その背後に多数の兵士を従え、雄牛のようなディーゼルの咆哮もけたたましく、たった一人の兵士に迫り来る戦車……自分が戦って命を落とす相手には丁度良いとまで俊二は考え――――――そして自らの生を諦めた。
無様に壁に背を土塀にもたれ掛けさせたまま、俊二は撃った。撥ね上がる薬莢とともに響く軽妙な銃声。当然、第一発は戦車の分厚い外板で虚しく音を立てるだけだ。
それでも、俊二は撃った。何発も、何発も……その間、戦車はその凶悪な砲塔を俊二に向け少しずつ動かし、砲口に刻まれた溝まではっきりと覗ける位置にまで砲身は達し、そこで止まった。その銃身の真ん中には、俊二の身体がすっぽりと納まっているはずだった。
最後の一発を放つべく、俊二は引き金を引いた。その後、彼には完全に静寂が訪れるはずだった。
―――――――だが。
耳を劈く大音響と、不意に眼前に広がった閃光に、俊二は反射的に顔を逸らした。爆発し轟音とともに燃え上がる敵戦車を、俊二は全弾を撃ち尽くし、銃身の後退したまま戻らない拳銃を構えた姿勢で、呆然として見詰めていた。
「嘘……?」
驚愕の直後、背後から浮かび上がるように近付いてくるローターの爆音に、俊二は反射的に頭上を仰ぎ見た。灰色の巨大なヘリコプターが俊二の頭上を通過し、前方に機銃を掃射しながら敵兵へ突っ込んでいった。そして―――――
―――――胴体に描かれた丸い、赤いマークは紛うことなき日の丸だった……!
突然の襲来に浮き足立つ敵兵の様子が、ローターに巻き起こる煙風の中でも手に取るようにわかった。もう一機のヘリコプターが、敵兵の列の、側面より急降下し機銃を浴びせかけた。同時多発的に沸き起こる絶叫……そして炸裂音。
二機のヘリコプターはあたかも息の合った兄弟のように交互に低空を駆け回り、回転銃身式の機銃を、そしてパイロンから吊下したミサイルを放った。その度に敵兵の連携は乱され、狭い農道で動きの取れなくなっていた車両が同時に複数台も燃え上がる。生残った敵兵の応射もまた、圧倒的な高度の優位に虚しく制圧されていった。
「海上自衛隊……?」
ヘリコプターの胴体に描かれた文字に、俊二は眼を見張った……海上自衛隊のヘリが、どうしてここにいるんだ? ぼく、夢を見ているのかな?
……否、夢ではなかった。不意に背後から襲い掛かった、先程より一際勢いのある烈しい突風に、俊二は思わず顔を伏せた。恐る恐る眼を開けた先に、かつて研修で見たことのあり、搭乗したこともあるCH-47JAチヌーク大型輸送ヘリコプターの重厚なフォルムが迫っていた。
上空をホバリングするチヌークから垂らされた二本のロープ。ファストロープを伝って降下してくる特殊部隊を、俊二は一瞬で思い浮かべた。その想像は正しかった。凄まじい勢いでファストロープを伝い降下してくる四名の黒っぽい服装の隊員は、地上に舞い降りるや瞬時に散開し、四方に銃を向けた。
「―――こちらアルファ。地上の安全を確認!」
それを合図に続々と降下してくる特殊部隊の隊員の姿。俊二は不意に沸き起こる安堵のあまり、胸の潰れる思いでその様子を見詰めるのだった。やがて俊二の姿に気付いた二名の隊員が隙のない動作で、土塀に身を横たえたままの彼に駆け寄って来る。その顔はいずれも黒いヘルメットと顔面を覆うマスクに隠れ、明確な判別は出来ない。だが今の俊二にとってそれはどうでもよかった。
二人の一方―――――指揮官らしき二等陸佐の階級章を付けた隊員が、怒鳴るような大声で俊二に聞いた。
「高良俊二 二等陸士か!?」
「ハイッ……!」
「こちらは特殊作戦群だ。長い間よく頑張った! 直ぐに国に帰してやる!」
不意に、チヌークに備え付けられたミニガンが絹を裂くような咆哮を発した。俊二が気付いた時には周囲はすでに、異変に気付き迫り来る敵兵に侵食されつつあった。特戦群の隊員もまた応戦を開始し、その性格無比な射撃で一人、また一人と敵兵を倒していく。周囲を飛び回る海自のヘリも、相変わらず掃射を続けていた。装甲車を撃ち抜いたヘルファイア対戦車ミサイルの炸裂に十数名単位で敵兵が薙ぎ倒され、機銃掃射の直撃に車両が横転し烈しく燃え上がった。
「アルファよりSHへ、制圧射撃要求。これより目標を指示する!」
『――――こちらクロタカ01、了解!』
双眼鏡型のレーザー照射機を構えた特戦群隊員が叫んだ。彼の上空に一機のSH-60Kが占位し、そして目標方向に機首を向ける。その先には、歩兵を伴い迫り来る戦車の一群……!
『――――クロタカ01、目標確認!……発射!』
照射機から発せられるレーザー光線を目標が反射し、シーカーに反射光を感知したヘルファイア対戦車ミサイルが、轟音とともに機体から切り離され目標へと突っ込んでいく。ヘルファイアは矢の如き速さと勢いで戦車の装甲を真正面から貫き、圧倒的な破壊の炎と衝撃波は、後続の戦車をも随伴の兵士もろとも粉微塵に吹飛ばした。
『――――クロタカ01、制圧完了!』
御子柴二佐は俊二を抱え起こした。
「歩けるか……?」
「ハイッ!」
「陸曹長! 肩を貸してやれ」
俊二を助け起こしながら、御子柴はインカムに言った。
「―――――『クロタカ』、こちらリーダー。要救助者を確保した。高度を下げ、着陸してくれ。要救助者は重症。ロープは無理だ」
『――――こちら「クロタカ」、了解』
烈しく巻き上がる砂塵がはっきりと見えるくらいまでに、日は昇っていた。着陸態勢を取るチヌークを、地上の特戦群隊員が伏射、そして屈射の姿勢を取り援護する。敵はもはやこちらの圧倒的な反撃を前に前進する気概を失ったかに見えた。
「狙撃兵……!」との同僚の声に、狙撃班の隊員が反射的に狙撃銃を構える。その照準の先には、同じく狙撃銃を構えヘリを狙う敵兵。瞬時に合わされた照準は、見事に敵狙撃兵の脳天を吹き飛ばした。
『――――こちらクロタカ01。弾薬残余無し!』
『――――こちらクロタカ02。こちらも間も無く……!』
無線に入って来る制圧ヘリの報告を聞く頃には、俊二はすでにチヌークの貨物室に運ばれ、衛生担当の隊員が応急処置の準備に取り掛かっていた。彼に後の処置を任せ御子柴は再び外へ出ると、命令を下した。
「総員撤退!……戦闘を停止し撤退せよ!」
その間五分……御子柴が全員収容の報を聞く頃には、辺りはすでに静寂と、硝煙とも朝霧とも区別のつかない煙に覆われていた。
「隊長! 全員収容しました」
「よし、撤収だ!」
『――――こちら「クロタカ」、離陸する……!』
出力を増したローターの回転が周囲の気流を捻じ曲げ、朝霧の淡い白を乱雑に掻き乱した。高まりゆくタービンの鼓動とともに浮揚を始めたチヌークの巨体が振動に震え、銃座のガンナーは未だミニガンの弾幕を薬莢と共に下界へばら撒いていた。
十分な高度に達し、チヌークは方向転換を終えると、一目散に安全圏へ向かってかつては集落だった場所の上空を離脱し始めた。
『――――こちら「クロタカ」、要救助者の収容に成功。当人は重症。他軽傷七名。医療班の待機を要請……』
チヌークの操縦士の弾んだ報告は、なおも続いた。
『――――こちら「クロタカ」……状況終了! 只今より戦場を離脱する』
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前5時5分 東南スロリア海域 海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦 DDH-182 「いせ」
『――――こちら「クロタカ」……状況終了! 只今より戦場を離脱する』
「いせ」FICは依然静寂を保ってはいたが、それでも、場に明るさが戻りつつあることは誰の目にも明らかだった。定時報告を続けるオペレーターの口調からも、それが察せようというものだ。
「『クロタカ』。帰投針路上を順調に飛行中」
「艦長、作戦成功おめでとう御座います」
その帰投針路を表示したLSDに安堵の溜息と共に見入る中瀬艦長に、鮎川飛行長が握手を求めてきた。
「労いの言葉なら、陸さんにかけてやるんだな。俺たちの役割は単なる運ちゃんだ」
「ハァ……?」
「しかし……このままでは終らん予感も、しないことは無いな」
先程の安堵も一瞬。憮然とした表情で腕を組む中瀬に、鮎川は戸惑い勝ちな表情を浮かべるしかなかった。だが、艦長の勘が鋭いことは以前の対潜訓練で鮎川はよく知っていた。その勘は、新たな「実戦」の匂いを嗅ぎ取っているのだろうか?
『――――こちらソナー。水中に不審な推進音を確認。方位2-8-9。距離32哩。推進音高い……なおも増加中!』
「艦長……?」
「おいでなすったな」
驚愕した鮎川が再び振り返った先で、中瀬艦長は不敵な笑みを浮べていた。
「『ありあけ』に連絡、艦載ヘリを当海域に展開。敵潜の潜伏位置を確認し敵潜を追尾せよ」
―――――後に日本海上自衛隊と、ローリダ共和国海軍最初の戦闘とされる第一次南スロリア海海戦の、これは始まりであった。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前5時7分 東南スロリア海域 海上自衛隊 ヘリコプター搭載汎用護衛艦 DD-109 「ありあけ」
「いせ」からの指令を、ヘリコプター搭載汎用護衛艦 DD-109 「ありあけ」艦長 沖 慎一郎 二等海佐は、夜間配置の明けた艦橋で、苦笑と共に受けた。
「どうしました? 艦長」
「中瀬さん、俺らを扱き使う気だぞ」
傍らに控える砲雷長 堀 充 一等海尉を振り返り、沖は続けた。
「総員戦闘配置に付け。SH-60K発艦急げ」
瞬時にCICの空気が一変し、艦内に甲高い警報が響き渡る。CICに居ながらにして、配置に付くべく艦内各所のラッタルを駆け登り、狭い艦内通路を走る隊員の足音を、沖は聞いたように思った。
「ありあけ」は「転移」以前より就役が始まり、配備を終了した「むらさめ」型護衛艦の9番艦だ。前進の「ゆき」型、「きり」型に続き対潜、対艦、対空など凡そ考えられるあらゆる任務に対応できるよう設計された本型の一番の特徴は、ステルス性を重視した結果、幾つかのブロックを組み合わせたかのように直線的に設計された艦形と、次弾発射のリアクションタイム短縮と発射機構の残存性向上を図って垂直発射装置を採用したことだ。この「むらさめ」型は改良型の「なみ」型と並び、「転移」後の現在に至るまで護衛艦隊の主力であり、この異世界においても未だ第一線級の戦闘力を保持していた。
艦内と同時に、外の飛行甲板もまた慌しさを増している。「むらさめ」搭載のSH-60K艦載ヘリコプター機長 谷水 美紗緒 一等海尉が飛行装具を引っ掴み、同乗者とともに航空要員待機室から飛行甲板に飛び出した時には、昨夜の警戒飛行を経て、簡単な整備を終えた彼女の愛機はすでに甲板上に移送軌条を通じて引き出され、長大なローターと尾翼の展張を終えていた。
愛機のパイロンには、白一色も眩しい89式短魚雷。それを見た谷水機の航空士 菅生 裕 二等海曹が唸った。
「ホントに、実戦なんですね」
「貴様バカか。実戦じゃなかったら何なんだ?」と、副操縦士の石和 綾 二等海尉が怒鳴りつけ
る。海空と在る場所を問わず一切の言動に沈着さが目立つ谷水に比して、やたらと疳の強い婦人自衛官だ。二人の絡みを無視するかのように谷水はSH-60Kの操縦席に身を沈め、バンドを締め始めた。二人も慌てて機に搭乗を始める。
愛用のミラーグラスを外さず、谷水はヘルメットを装着した。ミラーグラスは海自航空学生出身。SH-60J、Kと艦載ヘリを乗り継ぎ、総飛行時間が3000時間に達しようかという彼女のトレードマークのようなものだ。青地にピンクのキスマークを印した特注のヘルメットもまた、そうだった。
エンジン始動の手順を、ピアニストにも似た正確な手さばきで完了し、眠りから醒めた機体情報表示用MFDが規則的な緒元の変動を刻み始める。インテークの吸気音は一層高くなり、先端がカモメの羽のようにくねった特徴ある形状を持つメインローターが飛翔への回転に入った―――――あとは発着艦管制幹部の発艦許可通りに、コレクティヴレバーのグリップを開くだけでSH-60Kは飛行甲板から脚を離すことになる。
「……こちらレイヴン。発艦準備完了。離艦許可を要請」
『―――レイヴン、離艦を許可する』
発着艦管制幹部の一声でSH-60Kは離艦。機体を翻しながら勢いよく上昇を始めた。艦を離
れ、一定の高度に達したところで、さらにLSOの指示が下る。
『―――レイヴンへ、2-8-2へ針路を取れ。現高度を維持』
「了解」
すかさず、菅生二曹の報告が続く。
「基準点を確認。針路間違いありません」
基準点とは、母艦が敵潜を最後に探知した位置のことだ。航空士席の戦術情報表示ディスプレイには、母艦よりデータリンクで送信された基準点がすでに表示されていた。この基準点を元に、対潜ヘリは搭載するあらゆる装備を駆使して敵潜の具体的な位置を絞り込み、最終的には短魚雷で攻撃を加えるのである。
「高度1000フィート……速度90ノットを維持……ソノブイ投下……!」
ソノブイは水中聴音機と無線発信機を内蔵した円筒形の浮標で、基準点を取り囲むように十数キロの間隔を置きこのソノブイを投下する。こうしておけば、ソノブイのどれか一基が必ず目標を探知し、無線電波を通じヘリに目標の詳細位置を知らせてくれる……というわけだった。
「―――こちらレイヴン。上昇に入る。高度9000フィート」
滞空時間を稼ぐため、高度9000フィートまで上昇。あとはソノブイから送られてくる音響信号を受信し、母艦に送信する。つまり中継役に徹するのだ。中継されてくる信号を受信した護衛艦では、艦の保有するデータベースや本土の自衛艦隊(SF)司令部の蓄積するデータベースとの照合など、多種の解析作業を経た後、敵味方の判別、ひいては敵艦の種類を最終的に判別するのだった。書けば長いが、これら一連の作業は文字通り秒単位で処理され、目標の識別とそれに続く脅威度の判定が下されるのである。
だが「転移」はこれらの機構に少なからず齟齬をもたらした。つまり、「転移」以前に海自が労苦の末に収集した各種データが、「転移」後には全く役に立たなくなってしまったのである。これまで海自が主敵としていたロシア製、中国製の潜水艦などこの「異世界」には存在しないわけで、従って、潜水艦の音紋はもとより、各海域の地形、水深、水温、塩分濃度などおよそ対潜戦に必要なデータ収集は一からやり直しということになった。そうした混乱の行き着いた先としての、果てしなく手間と時間のかかるこれらの作業は、「転移」から十年を経た現在でも行われている最中だった。
―――――当然、現在のところ対潜作戦も手探りの要素が多い。そして事態が動いたのは、ソナーとは異なる方向からの捜索だった。
高度9000フィートに達し、一旋回を終えようとしていたそのとき、菅生二曹が声を上げた。
「対水上レーダーに感!……方位2-8-0。「ありあけ」より28哩海上……あっ、消えました」
『このバカッ……ソノブイと見誤ったんじゃないの?』
と、石和二尉の容赦無い叱責がイヤホンに飛ぶ。が、それも一時。
「潜望鏡……?」
と、谷水の言葉に石和ははっとして振り向いた。そして今度は、目標はソノブイからもたらされる明確な「音」となって菅生の耳に飛び込んできた。
ゴポッ……ゴポッゴポッ……
まさか……と思った時には、菅生は自分の直感をそのまま声に出し報告していた。
「注意!……チャンネル7より注水音! 魚雷発射の準備をしているものと思われます!」
ソノブイ「チャンネル7」の投下位置は、レーダー反応のあった海域と見事なまでに重なっていた。次にイヤホンに飛び込んできた、何かが続けて噴出すような音に、菅生は反射的に半球状の窓から身を乗り出した。
「目標、魚雷発射しました!」
航空士席から臨む眼下の海原の一点から、護衛艦隊の方向に伸びる二条の白い線に、菅生は戦慄とともに目を見張った。
「こちらレイヴン、目標位置を捕捉。只今より攻撃準備に移る……!」
谷水一尉はSH-60Kを急激な旋回に入れ、降下させた。真白い雲海から蒼い海に、操縦席から臨む光景は急激に変貌していく。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前5時10分 東南スロリア海域 海上自衛隊 ヘリコプター搭載汎用護衛艦 DD-109 「ありあけ」CIC
「敵潜水艦。魚雷発射しました! 二基が『いせ』に接近中!」
「『いせ』、デコイ投射っ!」
「いせ」艦尾より投射された雑音と電波を発するデコイは、誘導魚雷を想定した対処だった。その反面、敵が潜望鏡を出し、さらに魚雷まで撃ってくれたのはある意味幸いだった。位置を暴露してくれた上に、反撃の名分ができたのだ。指揮の場をCICに移した沖艦長は、すぐさまインカムの送信スウィッチを抑えソナー室を呼び出した。
「こちら艦長、ソナー! 敵潜の位置を特定したか!?」
緊張を含ませた声は、直ぐに返って来る。
『―――方位2-8-8。距離28哩……潜水艦の位置をマーク! 対潜攻撃準備スタンバイ!』
「目標敵潜水艦、アスロックに目標位置入力」
「諸元入力、完了!」
「音紋データ入力!」音紋データは艦載ヘリによる策敵でしっかりと入手している。それが敵艦からの攻撃により直ぐに役立つとは、この艦の誰もが思いも拠らなかったに違いない。
「音紋データ入力完了! 何時でも撃てます」
と、砲雷長の堀一尉が応じる。
『―――「いせ」回避完了。魚雷通過まであと10秒』と艦橋から弾んだ声が入ってきたのは、そのときだった。CICのLSDは、面舵に転じ、回避に成功した「いせ」と、直進の末虚しく「いせ」の右舷を掠めようとしている二基の敵魚雷を図式化し表示している。そして、魚雷を放った敵潜を示す輝点を囲む赤い矩形は、「ありあけ」の兵装管制システムが敵潜を完全にロックオンしたことを示していた。
「どうやら無誘導だったようですね」と、堀が弾んだ声で言った。それには目もくれず、硬い表情のまま、沖二佐は帽子を被り直した。
「無誘導だろうが誘導式だろうが……撃ってしまったものは、もう元には戻せん」
――――そして、彼は艦が当然取るべき対応を、命令として下した。
「目標敵潜水艦、アスロック……発射!」
艦長の命令は、訓練と同じく即座に実行された。艦首VLSの一角。開かれたハッチから噴出した火焔はアスロックの弾体を押し上げ、それは火竜の如く天を駆け昇った。
発射―――――オペレーターのカウントダウンが、CICの暗黒の中で空虚に響く。
『――――着水まで10秒……8、7、6……3、2……』
天に描かれた炎の軌道。その頂点から再び海の一点へ突進する途上で弾体が割れ、そこから飛び出した魚雷は、落下傘を抱きながらも鮮やかに濃紺の海原を突き破り着水した。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前5時11分 東南スロリア海域 ローリダ共和国海軍潜水艦 「レヴァロ」
「艦長! 魚雷を全て回避されました!」
苦渋を隠さないディファス副長の手には、命中予定時刻をとっくに過ぎた計時機が握られていた。必中を期した二基の失敗を打ち消すかのように一度大きく息を吐き出し、ランパスは再び指示を出した。
「三番、四番発射管に注水。ソナー、敵艦の位置を追尾しているか?」
「敵大型艦、本艦の左一二度。推定距離三七……推進音遠ざかる。間も無く魚雷の射程外に出ます!」
やはり潜望鏡を出したのは拙かったか!……自分の浅薄な判断を、ランパスは心から呪った。自分の沈めるフネの姿を、一目でも良いから確かめて置きたいという甘い考えが仇になったのだ。
艦首からはみ出すほどの巨大で高精度のソナー、それと自動的に連動した電子式の雷撃管制装置の恩恵で、潜望鏡深度以下でも目標の追尾と捕捉、そして魚雷発射が可能というのが「キベロ」級潜水艦の売りだった。こんなことになるくらいなら、はじめから管制装置に従って魚雷を放てばよかったのだ。
それにしても……と、ランパスは始めて目にした「敵艦」に驚愕の念を抱かずにはいられない。潜望鏡を覗いたランパスの眼前に広がっていたのは、まるで食卓を海に浮べたような平坦な甲板を持つ「奇怪な」巨艦だった。ローリダ人の考える「理想的な」軍艦から明らかにかけ離れた右よりの艦橋もまた頂けない。
軍艦建造に関する美的センスという分野で種族を量れば、ニホン人は明らかに最低ランクに位置づけられるだろう、と考えてしまうランパスであった。というより、何のために造ったのかわからない艦である……もっとも、あれを当のニホン人が軍艦と思っているかどうかは甚だ疑問だが……
「逃がすものか。速度一〇まで上げろ」
次は仕留める!……ランパスの逸る心には、もはや翼が生えていた。僅か六分前の接敵が彼にもたらしたものは、狐の居所を探し当てた狩人の歓喜ではあっても、山中で熊にばったり遭遇した旅人の驚愕ではなかった。軍人は余りに細心すぎるのは避けるべきだが、同時に先入観と楽観とに囚われ、自分の尺度で敵を測ってしまう愚もまた、回避されるべきであった。
彼は、過度に細心でも無ければ、安易に先入観に身を委ねるような男でもなかった―――――ただ一点、ニホン海軍には、対潜兵器はおろかまともな対潜装備すらないという、海軍上層部からもたらされた「正確な」情報を、安易に受け入れていたことを除いては。
「三番、四番魚雷発射管開け。ソナー追尾開始……!」
ややあって、水測士から声が上がってくる。
「こちらソナー、目標推進音を再び捕捉。自動操縦に切り替えます」
「キベロ」級の電子式雷撃管制装置は、水測士がソナーを指向した方向に応じ、電子計算機により自動的に雷撃に必要な射角、方位角、照準角といった諸元を算定する上に、ソナーおよび雷撃機構と連動した自動操縦装置を起動させることで雷撃に最適な艦の針路と速力、そして平衡を維持できるようになっている。つまり、この間雷撃に関する一切はソナーを預かる水測士に任されるのだ。
この方式には利点があった。雷撃機構を艦の操縦機構と連動させたことにより、大して経験を積んでいない乗員でも、従来ならベテラン揃いの艦でしか得られなかった良好な命中精度が得られるのである。ただ、一度雷撃体勢に入ればソナーはずっと目標を捕捉し続けなければならないし、発射までの数十秒間一切それ以外の操艦が出来ないことが難点といえば難点であった。
水測士が雷撃管制装置と操縦機構とを繋ぐクラッチを操作した直後、艦が微かに揺れた。計算機の算出した最適な針路へ艦首を指向しているのだ。この間は「レヴァロ」に留まらず「キベロ」級潜水艦で最も不気味な瞬間だった。最適の針路を指向しようと稼動する余り、管制装置と連動した注排水装置が作動する間に艦が上下に揺られるのである……この間、およそ十秒。
……だが、この「キベロ」級で最も無防備な瞬間、死神の足音は水面に着水した97式短魚雷の探信音となって刻々と近付いていた。
最初に事態の急変に気付いたのはやはり、この密閉された鉄の空間で最初に外の様子を知る立場にある水測士だった。ソナーの探知範囲外にあっても聞こえたイルカが跳ねるような着水音の直後、急速にこちらへ接近してくる甲高い探信音を彼がその耳に捉えたときには、全てが遅かった。
「艦長! 奇怪な探信音を確認!……攻撃を中止してください!」
「何だ? 何が起こった?」
水測士のイヤホンの中で、突き刺さるような探信音の間隔が急激に狭まってくる……それが彼の脳裏で自艦に突っ込んでくる魚雷の形となるのに時を要さなかった。
「艦長!……こいつは魚雷です!」
「何だと……!?」
ランパスは混乱した……敵は、何処から魚雷を撃ってきたというのか? 我々の探知の及ばないところに、敵の水上艦がもう一隻潜んでいたというのか? それとも敵は、我々の知らない未知の兵器を持っているというのか!?……だが彼と彼の部下が、その謎を知る機会を与えられることは永遠になかった。
「…………!?」
探知した推進音に導かれるように「レヴァロ」機関部を直撃した97式短魚雷はその尖端から艦体を貫き、引き裂き、そこで爆発した。突風のような破壊と混乱の中で、ランパスとその部下達は永遠の静寂を迎えた。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前5時15分 東南スロリア海域 海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦 DDH-182 「いせ」
『―――「ありあけ」目標潜水艦を撃破。目標の圧壊音を確認……目標、依然沈降中――――以上』
淡々とした報告――――肺を空っぽにするかのような溜息と共に、中瀬艦長はシートに腰を沈めた。
「……やれやれ、陸に戻ったら沖君には一杯おごってやらなきゃなるまい」
「自分もお供させていただきますよ、艦長」と、鮎川飛行長がまぜかえした。
「鮎川は駄目だ、一晩で給料分飲んじまう。飛行手当ての付く奴らの金銭感覚は俺らとは違うからなあ。」
中瀬はLSDを見上げた。先程までLSDに表示されていた敵艦を示す指標はすでに消えていた。そしてもう一枚のLSDは、スロリア東南の沿岸を抜けつつある救出部隊の経路を表示していた。
脅威の無くなった海を表すLSDに目を凝らしたまま、中瀬は言った。
「この海も平和になったな……だが、束の間の平和だ」
「それは、艦長お得意の予言ですか?」
苦笑と共に、中瀬は言う。
「まあ、そんなものだ」
『―――本土より通信……官邸が艦長ご自身に状況説明を求めていますが……どうなさいます?』
報告に眼を丸くした鮎川が、中瀬に向き直った。
「官邸というと……我等が最高指揮官ですか?」
「……そうらしい」
そう言うと、中瀬は受話器を手に取った。
「繋げてくれ」
ややあって、受話器には現地から3000km以上を隔てた東京にいる、ある人物の声が中瀬に入ってきた。
『――――河だ……任務ご苦労。差し支えない程度に状況報告を伺いたいが』
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前7時17分 スロリア東部
かつては集落があった場所には、もはや黒ずんだ残骸だけが一面に広がり、積み重なっていた。
無残に引き倒された木々、完膚なきまでに倒壊した家屋、轍の痕が生々しい畑……戦争の痕にはそんな生産性の無いものしか残らないことにタナが思い当たるのに、ただ一瞥しか要しなかった。
「…………」
無言のまま、炎に晒されて黒ずんだ土を、タナはそっと掬ってみた。白く繊細な手にはその湿っぽい感触は、決して不快なものではなかった。土を掴む手をそのままにタナは再び腰を上げ、彼女の愛した青年の消えて行った空の彼方に、青い瞳を凝らした。
「シュンジ……」
タナは戻ってきた。結局、ここ以外に彼女の行くところはなかった……と言うより、もはや誰も生きている者のいないこの場所こそが、彼女の正しい居場所だったのだ。
朝方の涼しいそよ風が、鉄の焼ける臭い、そして未だ燻る燃料の臭いと斃れた兵士の死臭を運んできた。だが、彼女にはもうそんなものなど大して苦にはならなかった。破片や薬莢、そして吹き飛んだ人体の一部の散らばる農道を歩く内、タナはその大半が崩れかけた土塀の傍にあるものを見つけ、歩を早めた。
「…………」
その蒼い瞳の先に見出したもの――――全弾が撃ち尽くされた拳銃を、タナは手にとってみた。
それにはタナは見覚えがあった。見誤ろう筈もなかった。ここを立ち去る間際にタナが青年に託した拳銃――――それは、あの青年が最後まで戦ったことの何よりの証であった。
「…………!」
込上げてくるものの赴くまま、タナは拳銃を抱くようにした。
―――――きみを、守る。
それはまた、あのニホン人の青年が自分との約束を果たした紛れもない証……
遠方から近付いてくる車の音に、タナは我に帰り、そして振り返った。土ぼこりを上げて迫って来る機銃で武装した軍用車両に乗っているのは、灰色の服を着た民族防衛隊ではなかった。
「……正規軍?」
緑色の野戦軍服に身を包んだ兵士に運転された車は、タナの眼前で止まった。
兵士は周囲を見渡し、感慨深げに呟いた。
「それにしても……義勇兵のやつら、派手にやられたなあ」
「まったくだ、停戦命令を無視して前進するから……連中、何を急いでいたのやら」
一通り話した後で、兵士は呆然と立ち尽くすタナに気付き、向き直った。
「見たところ正規軍のようだが、あんたの所属は?」
「わたし……?」
答えるまでもなかった。一人の兵士が、驚愕に目を見開いてタナを指差したのだ。
「きみ!……ひょっとしてリーゼ‐タナ‐ラン看護兵じゃないのか?」
タナは頷いた。兵士は、慌てて無線機にかじりついた。
「司令部! 司令部! 応答願いますか? こちら一二号、行方不明のリーゼ‐タナ‐ランを発見した! 本人は至って健康……」
無線報告を続ける兵士を他所に、タナは背後を振り返った。かつては民族防衛隊がたった一人のニホン兵を追い詰めようと展開していた丘陵には、今やそれに倍する正規軍が展開を始めていた。戦場の匂いを色濃く含んだ一陣の風が、彼女の見事な金髪をかき上げ、白皙の頬を撫で上げた。
「…………」
タナは拳銃をしっかりと胸に抱いた。思えば彼と過ごした六日間は、彼女の人生で最も甘美な時間だった。そして甘美な時間は、もう廻って来ないのだと彼女は今になって思う。
「シュンジ……」
震える胸と溢れる涙をそのままに、タナは目を閉じ、暫くの間その場に立ち尽くすのだった……だがその記憶は、これからのタナの人生にとって、何よりの心の支えとなるであろう。