第一三章 「決闘」
日本国内基準表示時刻7月27日 午後4時27分 沖縄諸島北西海域
――――黄金に色付き始めた海原を行く、三条の航跡。
沈み行く太陽に真正面から照らされ、三隻は一定の速力を保ち併走を続けていた。
三隻の真ん中で波を割って進むのは、巨大な補給艦。
艦首に「425」の艦番号を記した巨艦の左右を、母親に手を引かれる幼子のように二隻の艦艇が併進している。直援の護衛艦DD-129「やまゆき」を伴い本土より急行してきた補給艦 AOE-425「ましゅう」が、三日前よりこの海域で遊弋を続けていた二隻の護衛艦と洋上で合流、補給作業を開始してすでに30分以上が経過していた。
ハイライン方式により、「ましゅう」の両舷より延ばされた送油管で繋がった二隻の内一隻―――――海上自衛隊ヘリコプター搭載汎用護衛艦 DD-109「ありあけ」は、「むらさめ」型護衛艦の九番艦であり、「転移」後の現在にいたるまで「むらさめ」型の改良型たる「たかなみ」型と並び、海上自衛隊護衛艦隊の実質上の主力だ。ステルス性を重視したその精悍なフォルムが海を征くさまは、さながら海原を割る日本刀の刀身を思わせた。
そして、もう一方向で併走し補給を受けるもう一隻―――――護衛艦隊でも最大級の「ましゅう」型に匹敵するほどその艦体は大きく、その丈は他二艦よりも高かった。広大な飛行甲板と、前後を塞がぬように配された右配置の艦橋は、さながら「前世界」の航空母艦を思わせた。
その特徴的な飛行甲板では給油作業間際に、上空警戒のため一機のSH-60K艦載ヘリコプターを発艦させ、飛行甲板の中央部ではなお二機が不測の事態に備え発艦許可を待っている状態だった……「ましゅう」型補給艦と並び称される海上自衛隊最大級の洋上戦闘艦 ヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」型二番艦 DDH-182「いせ」である。
――――その、「いせ」艦橋。
「艦長、後五分で補給作業が完了します」
当直幹部の報告に、指揮シートに身を沈めた「いせ」艦長 中瀬 崇一等海佐は、ニコリともせずに頷いた。
笑ってなどいられようはずも無かった。現時点でスロリアでは依然28名の邦人が行方不明。そして今日午後の、ここより大して離れていない海域で起こった戦闘――――というより一方的な虐殺――――で、七隻の巡視船が沈められ、乗員の全員が武装勢力の無慈悲な攻撃の前に消えた。断片的な情報によれば、敵は戦闘機まで出撃させ、漂流する海保隊員を面白半分に銃撃していたという……その報は、南方海域における多国間合同訓練からの帰路の途上、別名あるまで現海域において待機遊弋を命ぜられた隊員たちを痛憤させ、切歯扼腕させたのだった。
「副長……?」
と、中瀬は副長の白井 慎一二等海佐を呼んだ。
「はっ……?」
「皆の士気はどうか?」
「ある意味、危険な状態ですな。このままスロリアに行けないとなると、若い者は暴動を起こしかねません」
白井の冗談に、中瀬は苦笑する。何時如何なる場合でもユーモアを失わないのは、彼に忠実な副長のいいところだが、もう少し、TPOを弁えた発言をして欲しいと思う中瀬だった。
募る焦燥感とともに横須賀は護衛艦隊司令部からの別命を待っていた中瀬達に、待望の「別命」が入ったのは、遡る事一時間近く前のことだ。衛星通信を介したその「別命」は、最大戦速による南スロリア海への急行と、補給艦に続き間も無く合流する見込みの陸上自衛隊 特殊作戦群との共同作戦を明記していた。
「――――武装勢力の艦艇との接触、交戦はなるべくこれを避けよ」
指示書の文面に記されていたこの一節に、「いせ」飛行長 鮎川三佐が、怪訝な顔を向けた。
「敵艦隊との戦闘ではないのですか?」
「違う……簡単に言えば、救出作戦だ」
「誰を救出するのです?」
「身内だよ……とはいっても、予備自だがね」
「しかし特戦群まで投入するとは、穏やかではありませんね」
「朝霞の学生さんは、自分と同じ匂いがする学生さんを放っては置けんのだろう」
「朝霞の学生さん」とも言い、「朝霞の大学生」もしくは「植草四回生」とも言う。特に、防大卒の「正統派」幹部は、大卒幹部候補生出身の自分たちの幕僚長のことをそう言って揶揄することがある。だが、その「植草四回生」が指揮官として無能な人間ではないこと、そして歴戦の勇士であることを幹部の誰もが知り、一定の敬意もまた払っているのだった。
当直幹部の報告が重なる。
「艦長、補給作業完了しました……!」
中瀬はシートから身を乗り出した。
「宜しい、給油管切り離し準備始め……!」
甲板に陣取る隊員が警笛と手旗信号で切り離しを伝える。それに続き、手旗信号による「作業ご苦労さん」の合図が続く。両艦の間隔がゆっくりと開き始め、切り離しを終えた両側の二隻が一斉に速度を上げる。ガスタービンエンジンの加速は任務を終えた補給艦を忽ち後方に追いやり、三隻の密集した併進が二隻の間隔の広い併進に変わるのに五分も要さなかった。
『――――こちらCIC、レーダーに感。方位0-8-2より航空機接近……IFF照合完了。CH-47Jと確認』
「来たか……」
「いせ」艦橋下部の戦闘情報室からの報告に、中瀬は艦橋から見える空を仰ぎ見た。その遥か先に、遡る事一〇時間前に千葉県 陸上自衛隊習志野駐屯地を発ち、今現在も飛行を続けている特殊作戦用CH-47JA改大型ヘリコプターの姿が眼に浮かぶようだった。空中給油受油機能を持つCH-47JA改は行程の途上、沖縄県 航空自衛隊嘉手納基地を発進した航空自衛隊のKC-130空中給油機とのランデヴーを経て、「いせ」を目指し無着陸で洋上を飛行しているのだ。
『こちら飛行管制室。CH-47JAを視認。着艦許可を求めています』
「こちら艦長、着艦を許可する」
従来のヘリコプター搭載護衛艦に比して格段に搭載、運用する搭載ヘリが多い「いせ」は、その艦橋後部に離着艦及び飛行を管制する施設が充実している。その飛行管制室に陣取る発着艦管制士官の指示と自動着艦装置の誘導に従い、着艦作業そのものは円滑にこなせるようになっている。
そのLSOの視線の先に、雲間を割るようにCH-47JA改の重厚な機影が姿を現すのに、さほど時間はかからなかった。その胴体の、機首から延びる長いアンテナのようなものは空中給油用のプローフだろう。機首の左右から延びる骨組みのようなものは、対地掃討用のミニガンのターレットであるのに違いない。
繭状の機体の前後で空を叩く二基の巨大なローターの回転が、高度を落とすにつれ次第に鈍くなっていくのが肉眼でもはっきりと見分けられた。機体を彩る迷彩は通常の陸自機に比して黒っぽく、胴体の日の丸も小さく、灰に近い色調に描かれている。機首からは航法レーダーやレーダー照射警報装置、さらには前方赤外線監視装置等、光学、電子関係を問わず捜索飛行や特殊飛行に必要な様々なセンサー類が瘤のように顔を覗かせていた。
「『ウミザクラ』より「クロタカ」へ、着艦を許可する。以上」
『――――こちら「クロタカ」。これより着艦する』
LSOのイヤホンに入ってきた声は、抑制を含ませながらも操縦士としての絶対の自信を覗かせていた。
「いせ」艦尾の、大型ヘリ専用発着甲板に重なる巨大な機影……
CH-47JAの四脚が飛行甲板に触れ、ローターの回転が一層緩慢なものとなる。同時にCH-47JAの後部ハッチが開き、ベレー帽と漆黒の戦闘服に身を包んだ屈強な男達の姿を吐き出した。
それを見た「いせ」の乗員は、口々に語り合った。
「オイ見ろよ……あれが、無く子も黙る特戦群だぜ」
「同じ自衛隊でも、何かオッカナイなぁ……」
飛行甲板に降り立ったのは、総勢三二名。只の三二名ではなく、この艦で最強の三二名であり、現地に展開すればスロリアで最強の三二名になるはずだった。陸上自衛隊において対テロ、ゲリラ戦を主任務とする特殊作戦部隊、通称「特殊作戦群」の隊員たちだ。
精鋭部隊、そして秘密部隊としての特殊作戦群の勇名は、すでに自衛隊や日本社会だけでなく、実は日本と友好関係にある中小諸国家の間でも広く知られている。「転移」後、かの「ドルコロイ捕縛作戦」を始め、特殊作戦群もまたPKFの戦力として大小100近くの特殊作戦に投入され、各所で発揮された超人的な戦いぶりは一種の畏敬の念をも集めていたのだ。
――――十分後。艦橋に現れたのは、特戦群の制服に身を包んだ二等陸佐だった。
どちらかといえば高い方に位置する身長はガッチリとした肩幅と均衡を保っており、太い首に支えられた精悍なマスクは赤黒く日焼けしている。彫りの深い顔に穿たれた眼は細く、その奥底にはあらゆる武道と戦闘を極めた者のみが宿すことを許される澄んだ光を湛えていた。特殊作戦群 緊急展開班の指揮官 御子柴 禎二等陸佐だ。
中瀬に敬礼し、二佐は言った。
「特殊作戦群の御子柴です。しばらくの間、お世話になります」
「『いせ』艦長の中瀬だ。遠路遥々ご苦労。休ませたいところだがそうも言ってられん。早速、作戦の打ち合わせに移りたいが」
「本官も同感です。事は急を要しますので……」
御子柴の言葉に、中瀬は頷く。CICに詰める航海長 滝 二等海佐の報告が入ってきたのは、そのときだった。
『――――こちら航海長。本艦、間も無く領海域を脱します』
「……いよいよですな」
御子柴の感慨を間近にし、中瀬はマイクを握り直した。
「……総員に告ぐ。こちら艦長、本艦が向かうは本土にあらず、スロリア周辺海域である。我々の任務は陸自と協力し、今なおスロリアで圧倒的な武装勢力の支配下で奮闘を続けている一人の隊員を救出することにある。たった一人……だが、そのたった一人の仲間も決して見殺しにしないという我々の強い意思を、傍若無人なる武装勢力に知らしめることに、我々が戦場の海に赴く意義があるのだ。本艦はこれより、最大戦速で現場海域に向かう。総員配置に付け……!」
キイィィィィィィ……ン!
艦橋と一体化した「いせ」煙突の、放熱ダクト周辺の空気の揺らぎがいっそう歪みを増した。高まるガスタービンエンジンの咆哮は、さながら非道な敵に対する怒りの発露だった。
日本国内基準表示時刻7月27日 午後4時28分 沖縄諸島北西空域
「……嘉手納管制塔へ、こちらゴースト01、α空域に入った」
『――――ゴースト01へ、こちら嘉手納管制塔。機影をレーダーに確認した』
電波のやり取りを通じた先―――――南方特有の層雲のそそり立つ中を、一機の機影が潜むように飛んでいた。
双発エンジンと鈍重そうな胴体、そして巨大な主翼を陽光に晒し、航空自衛隊 百里基地を発進したC-2R 無人遠距離偵察機母機は気流さざめく高空を舞っていた。
「……こちら機長。これよりキャビンの減圧を開始する」
口にすると同時に、C-2R機の機長 管野秋穂 三等空佐は見渡す限りに広がる雲海の、はるか水平線の向こうに目を凝らした。そこが、現在に至るまで破滅の淵にあるスロリアの方向だった。
操縦席計器盤の中央に位置するMFDは、C-2の置かれた機体の状態、装備、そして積載物に関する情報をすべて数値化、あるいは3Dで図式化し表示できるようになっている。そのMFDの表示からは、管野機の貨物搭載区画が減圧完了したことを表していた。
「減圧完了……姿勢は水平を維持……速度を240ノットまで減速……減速完了。後部ハッチ開け」
「ハッチ開きます……!」
操縦席後部に陣取る搭載偵察機オペレーターが、復唱とともにコンソールを操作する。MFDはその間の機の状態まで、リアルタイムで操縦席から把握することを可能としていた。
「『タンチョウ』、展開します」
オペレーターの号令一下、専用マニュピレーターと燃料供給及び始動電源用ケーブルで繋がった流線型の飛行体が姿を現す。明灰色一色の機体に日の丸の眩しく、幅の広い主翼を折り畳んだそれは、人間が搭乗するべき席を持っていない。
外気に晒されるのと同時に、その鴎の翼を思わせる主翼が展張を始め、巨鳥を思わせるRJ-01無人偵察機がその流麗な姿を現した。省力化と偵察能力の向上を狙って開発され、ターボフロップエンジンと八翅の高効率プロペラを心臓として持つRJ-01は、「転移」前後に初号機が就役し、30000m以上の高高度を20時間以上の長きに渡って監視飛行可能な優秀な無人偵察機だ。そしてC-2Rは、この無人偵察機を胴体内貨物室に収納し、作戦行動に適した空域まで輸送し、さらに発進と制御を一貫して行えるように改造された特殊作戦機だった。
オペレーターの報告は続いた。
「主翼展張完了!……『タンチョウ』のエンジン始動電源オン」
金属的なタービンブレード回転音の、段階的な高まり……『タンチョウ』は瞬時にして目覚めた。あとは、空に飛び出していくだけだ。
管野の弾んだ声が操縦席にこだまする。
「よろしい、『タンチョウ』を切り離せ」
軽い振動とともに、機が軽くなるのを菅野は感じた。ただ、光ファイバー伝達式の操縦桿では、その感触は操縦者の想像の域を出ない。
『―――――ゴースト01へ、こちら嘉手納管制塔。「タンチョウ」はこちらの管制下に入った。次の会合予定時刻は2036』
「……了解 嘉手納。これより自動操縦に切り替える」
その翼幅だけでC-2の全幅に匹敵するRJ-01は、生来の揚力を生かし何の苦も無く蒼空を駆け上っていく。その遠ざかり行く機影に目を細めながら、これまで何度も行動を共にした「相棒」が、未だ二十を抜けたばかりという救出対象者を発見してくれることを願ってやまない管野だった。
スロリア地域内基準表示時刻七月二七日 午後4時32分 東南スロリア海域
『哨戒海域に入りました……!』
戦術航空士の碇一等海尉の報告に、海上自衛隊第五航空群所属のP-1対潜哨戒機機長 小田桐 毅二等海佐は、眦を決し薄い雲海に隔てられた大海のぎらつきに目を細めた。
対気速度500ノット/時、高度18000フィート……操縦席前面の窓ガラスに映し出されたHUDの刻む緑色の数値を流し目程度に確認しながら傾けた操縦桿――――フライバイワイヤを導入した操縦系統は、操縦士の意のままに哨戒機の巨体を舞わせ、雲海の只中へとP-1の流麗なボディを沈めていく。
「機長より乗員へ――――」
語を次ぎ、小田桐二佐は続ける。
「本機は只今より哨戒空域に入った。対潜探知用意」
間を置き、配置に付いた乗員から次々に「スタンバイ!」の報告が上がってくる。雲の下に出た小田桐は、向かって右側の海原を、睨むように見詰めていた。その視線の遥か先に、現在謎の武装勢力の侵攻を受け、混乱状態に置かれたスロリアがある。
たのむ……生きていてくれ!
スロリアの方向に目を凝らしたまま、小田桐は今現在もスロリアの何処かで圧倒的な武装勢力を前に孤軍奮闘しているという一人の若者に思いを馳せていた。「てんりゅう」破壊の報を受け、緊急発進準備を整えたブリーフィングの中で、彼らは若者の存在を知った。
「――――君たちには救出艦隊に先行し、対潜哨戒任務に当たってもらいたい。潜水艦を発見、捕捉し次第すぐに司令部に報告せよ」
「質問―――――」
と、手を上げたのは小田桐自身だった。
「攻撃は行わないのですか?」
「政府見解では今回の事態を未だ有事とは認定していない。従って実際に先方がこちらに攻撃を加えるまで、我々には一切の攻撃は許されない。君たちの任務は敵潜を捜索、捕捉すると同時にその動向を監視し、逐一通報することにある」
苦渋の表情で語った幕僚の言葉を脳裏で反芻するうち、操縦桿を握る手に力が篭るのを覚える。
ばかな!……有事はすでに始まっているではないか?
スロリア本土の惨状は言うまでもなく、現にいち早く現場海域に展開した海上保安庁は、武装勢力の艦隊の一方的な攻撃を受け壊滅。連中は戦闘機まで仕立て、命からがら脱出した巡視船の乗員を面白半分に銃撃していたという。
……そして、ついさっきに上空を通過した時に目にした、当の敵潜水艦と思しき雷撃を受けた「てんりゅう」の洋上に倒壊し黒煙を吹き上げる無残な姿!――――これだけの状況を前にしても、政府は未だ我々の眼前に広がる現実を否定するつもりなのか!? ただ、遅まきながらも政府が救出艦隊を展開させ、尚且つ我々をこの海域に差し向けたのは状況が好転しつつある兆しであるのかもしれないが……
――――そんな小田桐の静かな憤りを忘れさせたのは、ヘッドセットに飛び込んできた対潜員の報告だった。
『第1対潜員より航空士へ、MADに感!……真下です』
『……航空士、了解』
対潜員と戦術航空士の遣り取りを伺いながら、小田桐は機体を急激な旋回に入れ、スロットルを絞った。螺旋状に降下し、戦術航空士がデータ分析を行い易いようなるべく目標上空に留まるための配慮だった。
戦術航空士は、対潜員や航法/通信員の収集した各種情報を集約し、その上で装備の運用、機の針路等対潜作戦に関わる一切を決定する役割と同時に権限を持つ、いわば哨戒機の頭脳とでもいうべき存在である。戦術航空士にとっては操縦士ですら、自らが最適な作戦を遂行する上での手足に等しい存在であり、哨戒機によっては操縦士ではなく戦術航空士が機長を務めるケースも少なくは無い。
別の言い方をすれば、操縦士と戦術航空士は野球で言うところのピッチャーとキャッチャーの関係――――バッテリーとも表現できるかもしれない。そして機長の小田桐と戦術航空士の碇一尉は、第五航空群、ひいては海上自衛隊航空集団でも望みうる最良のバッテリーと言えるのかもしれなかった。
その碇一尉が戦術情報表示端末に目を凝らしたまま、抑揚に乏しい声で報告する。
「MADに感……目標、潜水艦と確認」
MADとは、該当海域上空の磁場の歪みを探知することで、敵潜の存在を炙り出す磁気探知機だ。P-1の尾部から突き出した槍状の突起がその探知部に当たる。
巨大な金属の塊たる潜水艦は、それ自体が周辺の磁場を狂わせる存在となる。そうした磁場の歪みを感知し、敵潜のおおよその位置を探知できるように開発されたのがMADであった。だがMADが有効に作用するには哨戒機は比高150~500メートルの低空を飛ばねばならず、敵潜の位置確認完了までその体勢を維持することが操縦士の腕の見せ所でもある。
「第1、第4エンジンカット……フラップ20パーセントダウン」
矢継ぎ早に行われる操作――――ことP-1の操縦に関する限り小田桐は自らの身体のように機体の特性を知り尽くしていた。
シートからほぼ全周を見渡せるコックピットからは、降下により迫り来る圧倒的なまでの海原の群青―――――それが、何故か小田桐たちの胸を震わせる。
『―――機長、敵潜位置確認。上昇して下さい』
「了解……」
引かれた操縦桿に反応し、P-1の機首が一気にせり上がった。忽ち高度8000フィートに到達、目標位置上空を大きく旋回し、直線飛行の姿勢を保つ。
『機長、ジュゼペル開始します』
「ジュゼペル了解」
「ジュゼペル」とは、パッシヴ‐ソノブイのコードネームである。ソノブイは後部胴体下面の投下孔より目標位置を囲むように投下し、洋上から直に目標の推進音を探知することにより、MADで掴んだ大まかな目標位置をさらに絞り込む。
『投下コース……ヨーソロ。投下いま!』
「投下っ……!」
戦術航空士の指示に従い小田桐が投下スウィッチをオンにした瞬間、武器員により装填されたソノブイが機体下面より次々に飛び出し、減速ローターにより虚空に円形の花が続々と咲いた。円形の花は着水するやローターを自動的に投棄し、代わりにアンテナを展張し水中音の送信を始めるのだった。ソナー一本の探知距離は30海里にも及び、哨戒機が一度に統括できる全てのソノブイを稼動させた場合、その策敵範囲は日本本土の四国の全面積に匹敵する。
やがて……
『――――推進音探知……目標潜水艦と確認、推進音大きい……目標針路0-8-4――――』
見つけた!……対潜員の報告に従うまま、小田桐は操縦桿を傾け、ラダーを踏み込んだ。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後4時48分 スロリア東部
燃え滾るような日は、すでにその下端を地平線の彼方に没しつつあった。
一面の枯野は、一日の終わりを地上の生あるもの全てに告げようとしているかのような烈しい光に照らし出され、黄金に輝きつつあった。その黄金の中に抱かれ、俊二はひたすらに待っていた……自分たちを狙って追ってくるであろう「猟犬」を。
丈の高い枯草の間から、人影の覗くのを期待しつつ、俊二はひたすらに眼を凝らした。もはや彼らを怖いとは思わなかった。ここまでを生きて辿り着けたという自信が、彼に戦意を与えていた。
―――――そして、待っている女の姿を、俊二は思い浮かべた。
「…………」
枯野の向こう側に、蜃気楼の揺らぐ壁から浮かび上がるように現れた複数の人影を眼にしても、もはや俊二は驚かなかった……ただ、無言のまま銃を構えるだけだ。六四式小銃の命中精度の良さには、俊二はすでに揺るがない信頼を抱いていた。
照星の中の人影は、部下を引き連れたあの鷲鼻の男になった。手に持った長身の銃から、自分を撃ったのがあの男であることに俊二は思い当たった。
人影が地上を揺るがすかのような地熱の中で揺らいでいても、引き金を引くのに迷いなどあろう筈がなかった……俊二と彼の眼が合ったのは、そのときだった。
「…………!」
俊二が引き金を引いた瞬間。「狩人」ルガーは傍らの部下の襟を掴み、もの凄い勢いで前面に引き摺り出した。
そして、銃声……乾いた音と共に放たれた一発の銃弾は、見事に部下の胸板を貫いた。
「隊長……!?」
驚愕と苦渋とに顔を歪ませながら、自分より背の低い兵士が倒れるのを、伏せた姿勢のままルガーは無感動に見遣った。命中箇所は、見事に彼の心臓の位置だった。
付近に散開している部下に口笛を吹き、手信号で敵手を追うように命じて、ルガーは狙撃銃の安全装置を解除した。軽い驚愕と感動とが、彼の胸中で渦巻いていた。これまで只ひたすらに逃げるだけだったあのニホン人は、自分を待ち構えていた。あいつは成長している?……そこに自分の行為に対する後悔など、もとからあろう筈が無かった。
第一撃が不成功に終ったことを察するや否や、俊二はもと来た途を走り出した。負傷した足でも未だ走れたが、それも何時まで続くかは判らない。
当初は只の疼きだった足の傷が、歩を進める度に疼痛に変わり俊二に牙を剥く。抗い難くその場に倒れこむ俊二の耳元に近付く足音……その方向に、俊二は反射的に銃口を向けた。
枯草を掻き分け不意に出現した人影に、反射的に放たれた一発は顔面を砕き兵士を昏倒させた。至近で飛び散った鮮血が、俊二の頬を汚した。血を拭う間も無く、背後から駆け寄る足音……振り向いた俊二を真正面から銃撃が襲い、顔面への烈しい衝撃が俊二を反射的に蹲らせる。
「このクソ野郎……観念しやがれ!」
茂みから飛び出した兵士が銃を向け、引き金を引いた。朦朧とする意識の中でそれを見上げた俊二は、自分の死を覚悟した。
だが……一向に弾の出ない銃と、蒼白になった兵士の表情が俊二を救った。
「チキショウッ! こんなときに!」
銃の絞桿を上下させ、詰った弾丸を排出しにかかる兵士。我に帰った俊二は咄嗟に銃を向けフルオートで撃った。狙いを付けるまでも無かった。
ダダダダダダアァァァァァァン!
全身から鮮血を噴出しながら倒れこむ部下の下士官を、ルガーは遠方から冷酷な笑みとともに見ていた。
「…………!」
「…………」
替わって立ち上がったニホン兵は口を切らし、弾丸に微かに抉られた頬からは赤い血が垂れていた、その青年とルガーの眼が合ったとき、一陣の風が廻り、枯草の穂を大地の向こう側へ巻き上げて行った。
「何だその眼は?……蛮族のくせに」
「…………」
俊二は無言だった。だが無言ゆえに、その汚れきった体からほどばしる烈しい憎悪に戦慄するルガーがいた。
「あの女……ローリダの女の味はどうだ? それとも、蛮族のお粗末なアレじゃあ満足させてやれなかったか?」
「……うぜえよ、タコ」
「…………!」
激発の赴くまま銃を構えたルガーと、反射的に銃を構えた俊二。両者の火線が質の異なる銃声ととも
に交差したのは同時だった。
乾いた銃声……数刻の静寂
……遠くから、獣の啼く声を二人は聞いた。
それを、最初に破ったのは俊二……彼は銃を取り落とし、低い声で呻きながら跪いた。
ルガーは勝利を確信した。止めの一撃を放とうとしたとき、狙撃銃の機関部にめり込んだ銃弾に気付き、憎憎しげに顔を歪めた。
「…………!」
舌打ちと共に、ルガーは銃を棄てた。そして肩から提げたサーベルを引き抜いた。
崩れ込んだまま動かない俊二にゆっくりと歩み寄りながら、ルガーは言った。
「感心にも、あの女に手を出さなかったようだな……じゃあ、女は俺が犯る。俺がお前の分まで楽しんだ後で殺してやる……!」
首を持たれ掛けた俊二の背後に、ルガーは回り込んだ。
「お前のそっ首を、本国に持っていく……剥製にして俺の家の居間に飾ってやる……鹿や猪と同じさ。敵ながら大した奴と言いたいところだが、結局はお前も俺の前じゃあ只の獲物ってわけさ」
戯れにサーベルを振りながらも、ルガーの独白は続く。
「……悲しむことは無い。お前の仲間も、後でちゃんとコレクションに加えてやる。ニホン人を殺す機会は、これからも腐るほどあるだろうからな」
「…………」
俊二の横に立ち、ルガーはサーベルを一杯に振り上げた。
キズラサの神の敵に、永劫の死を!……その眼には、哀れな獲物に対する憐憫と侮蔑と、そして神の敵を掃滅するという高揚感が宿っていた。もの凄い勢いで振り下ろされたサーベルが俊二の首筋に達しかけた直後、俊二は首を横に反らした。
「…………!」
空を切ったサーベルに、ルガーが呆然とする暇は無かった。怒りに煌く眼光とともに、俊二は腿から短剣を引き抜いた。流れるような手付きとともに突き出されたナイフはルガーの腹を貫き、そして抉った。
「バカな……!?」
ルガーの見開かれた眼と、俊二の怒り渦巻く眼とが合い、ルガーは流血とともに薄れ行く意識の中でそれに戦慄した。
「おまえ……最低だよ」
満身の力を篭め、俊二はナイフを抉る手に力を入れた。刀身に貫かれた傷口からドクドクと溢れる血は、その色も鮮やかに流れ出す勢いを増していた。焦点を失った目もそのままにルガーはその場に倒れこみ、もはや動くことは無かった。
完全に事切れた敵の指揮官を尻目に、俊二は再び腰を上げかけて、また跪いた。震える肩と手で、俊二はその場にだらしなくへたり込んだ。脂汗と血に塗れた顔もそのままに、俊二は視線を大腿部の傷に転じる。きつく止血されたはずの傷口からは、相変わらず血が噴出していた。
「血ぃ……出過ぎたかなあ」
声にならない声で呟くと、俊二は仰向けになった。横になれば、いくらか楽になるというものだ。
再び人の気配を感じると共に、俊二は曇りがちな眼で周囲を探るようにした。仲間の仇は取った……もう、何が来ようが傷付いた俊二にはどうでも良かった。
駆け寄る人の気配は、やがて枯草を掻き分け、あの女の姿となった。息を切らして俊二を見下ろす女性の頬は紅潮し、瞳には涙が溢れていた。
「駄目じゃないか……こんな所に来ちゃあ」
俊二は、タナに語りかけた……俄か作りの微笑とともに。
タナは、有無を言わさず俊二に飛び付いた。そして半身を起こした俊二の肩を抱き、大泣きに泣いた。さすがの苦しさに、俊二がタナの肩を抱いて離したとき、二人の、趣の異なる目が正面から合った。ゆっくりと大地を撫でる風に、身を委ねねたまま、二人は暫くの間お互いを見詰め合った……それは、安堵の瞳と、その見る先に抱く熱いものを宿した瞳。
「…………」
「…………」
お互いの安堵の溜息を頬に感じたとき、お互いの肩から力が抜けていくのを二人は感じた。互いの理性から遠く、そして気高い処に導かれるまま、眼を閉じた二人の唇が重なった。ゆっくりと互いの唇を貪りあった後、タナは余韻に満ちた瞳もそのままに、たどたどしい口調で聞いた。その白い頬が赤く染まっているのは、疲れによるものだけではなかった。
「あなたの国にも……キスはあるの?」
無言で頷き、戸惑いがちに俊二は聞いた。
「……君、ひょっとして……初めて?」
今度は、タナが無言で頷いた。直後、互いの額を磨り合せ、枯野をじゃれるように転がりながら二人は大声で笑った。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後4時50分 東南スロリア海域 海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦 DDH-182 「いせ」
艦隊作戦の戦術指揮艦という性格上、「いせ」には艦自体の指揮運用を掌るCICの他、もう一つの指揮中枢が設けられている。旗艦用司令部作戦室というのがそれで、CICの三倍近くの広さを持つその区画には、最大で25名もの要員が詰め、本土より送信される海域の気象や敵の脅威度などの各種事前情報を収集、分析すると同時に、指揮下艦艇の位置及び状態、そして装備の使用など細部に至るまで自動リンク網を通じて把握し、艦隊の指揮管制に機能を発揮できる。強力な通信能力はまた、本土の護衛艦隊司令部や防衛庁指揮センターとの意思疎通はもとより、ひいては官邸との直接の情報交換をも行えるようになっていた。
―――――その、「いせ」FIC。
昼間でも暗く、肌寒い「いせ」FICに初めて足を踏み入れた者なら誰でも、管制室全体を埋め尽くす、個々の|LSD《ラージ-スクリーン-ディスプレイ》の表示する情報の羅列に押し潰されるような感覚を覚えるはずだ。
それ一枚がタタミ一畳分の広さに匹敵するLSDは大小六枚。LSDの補助的な役割を担っている小型のディスプレイならば、この空間に何枚存在するのか両手両足の指を使っても数え足りそうにはなかった。その一枚一枚が艦隊の布陣、策敵、脅威度の判別など多様な性格の情報を表示、処理できるようなプログラム作成が可能となっており、この一室だけで、護衛艦隊の全艦はおろか陸海空自衛隊の全部隊に至るまで理論上は指揮が可能とされている。
FICにある六枚のLSDの内三枚は、その全容から南東部沿岸、さらに内陸部に至るまでスロリア亜大陸の詳細な地形図を表示していた。30分前より始まったFICにおける救出作戦の詳細な打ち合わせはその大半を終え、後は当人の位置確認と作戦開始時刻の策定を残すのみとなっていた。だが、当人に関する情報だけは外部からの報告待ちだ。最悪の場合、高良俊二の消息はおろか生存すら確認が覚束ないまま救出作戦に入る恐れも多分にあった。
そして他の一枚は、南スロリア海に進出した味方哨戒機による対潜作戦の状況を図と数値を交え表示していた。遡る事午後一時、正体不明の敵による海上石油試掘リグ「てんりゅう」への攻撃後、護衛艦に先行する形で「通例の」哨戒飛行を行うべく現地海域に入ったP-1対潜哨戒機からの急報!……P-1の優秀な探知システムは現海域において国籍不明の潜水艦を探知し、その追尾状況は現時点に至るまで高速通信回線を通しリアルタイムでFICに表示され続けている。
LSDの表示に見入りながら、中瀬一佐は呟いた。
「潜水艦の様子は、依然変わらずか……」
十分前に一度潜望鏡深度まで浮上して以降、潜水艦は潜航状態のまま3~6ノット/時の速力で東進を続けている。浮上目的はおそらく水中推進用電力の充電のためだろう。速力から判断するに、相手は通常動力潜、性能はあまりいいとは言えない……「前世界」において、世界最高水準と評されたこちらのディーゼル潜水艦と比較しての話だが。
それでも潜水艦は、このまま東進を続ければ明日未明にはこちらと接触する可能性が高い位置にある。場合によっては、対潜水艦戦をも考慮に入れることになるかもしれない……その思いを、中瀬一佐はDICの暗闇と静寂の中に飲み込んでいた。その設立以来、対潜任務に特化し鋭意訓練に、そして警備任務に励んできた海上自衛隊の一員として対潜水艦戦闘には絶対の自信があり、南スロリア海の仇を討ちたいと思う中瀬だったが、その心中の何処かで衝突を厭う気分もあることは確かだった。
会議に出席した幹部達は、口々に話し合った。
「向こうは、潜水艦に気付かれず追尾を続けているようですね」
「こっちの技量が高いのか、それとも向こうの技量が低いのか……どっちなのだろうな」
「おそらく両方でしょう。哨戒機に発見されるなんて、潜水艦乗りの恥ですよ」
―――――そのとき。
『――――こちら「エンジェル」。目標を失探した。再度、策敵に入る』
「どういうことだ……?」
哨戒機からの報告に、中瀬は訝る表情を隠さない。P-1の優秀な策敵能力は折り紙付のはずだ。すかさず、情報分析モニターを操作するオペレーターが状況を補足する。
「どうやら変音層に入ったようです。センサーが馴れるまで時間がかかるでしょう」
作戦海域としてのスロリア周辺海域の調査に、海自は大して本腰を入れていなかったが、それでも海底の地形や深度によって潮流の変化、海水の温度及び塩分濃度に明確な差が現れる箇所の存在ぐらいは大まかに掴んでいる。そうした場所ではソナーの感度や索敵音波の到達範囲に若干の乱れが出るのは当然とも言えた。そうした特徴を巧く利用する辺り、相手がこの海域の状態に十分な知識を持っていることは容易に想像が出来る。
敵は、手強い……その思いを抱いたのは、何も中瀬だけではなかったはずだ。しかもこちらは、任務の性格上その潜水艦に実際に攻撃されるまで、攻撃を控えるべき立場にある。
中瀬の隣席に腰を下ろした御子柴二佐が口を開いたのは、そのときのことだ。
「潜水艦が、気になりますか?」
「……職業柄、どうしてもね」
「それ、わかりますよ。我々も帰るところを失っては元も子もありませんからな」
格闘漫画の登場人物のように、周囲に緊張を強いる雰囲気を漂わせる二佐にユーモアの才があることに、中瀬は意外というより少し救われたような気がした。
「御子柴二佐は、敵が怖いと思ったことは……?」
「ありません」
判で押したような即答に、中瀬は苦笑した。だがそれが、今の彼には頼もしい。
「そうはっきりと言われては、私も形無しだな」
そのとき、飛び込んできたオペレーターの報告が、和やかになりかけた空気を一瞬にして崩した。
「先行偵察のR-01無人偵察機の画像、入りました」
「出してくれ」
「ここからは陸さんの範疇だな」
と、中瀬は硬い表情をし御子柴に言う。
ややあってLSDにアップされた画像は、スロリア東部の一地点に集結の動きを見せる武装勢力の上空映像だった。それに目を凝らした御子柴の眉が、不審げに歪んだ。
「敵さんは中隊規模……戦車二両の支援を受けている……統制は、余り取れているとは言えない……不正規の民兵隊と言った方がいいでしょう」
「たったこれだけで、そんなことが判るのか?」
「見る人が見れば……ね」
「高良二士は、この付近にいると思うか?」
「移動経路と地形から判断するに、その可能性は十分にあると思います。空さんに連絡して、この辺りを徹底的に精査させるべきです」
中瀬は大きく頷いた。直後急に席を立つ御子柴に、彼は呼びかけた。
「何処に行く?」
「事態の急変があれば、すぐにお伝え下さい。小官は格納庫でお待ちしております」
颯爽と部屋を出る御子柴に、砲雷長の佐々木 三佐が顔を曇らせた。
「無粋な人ですね」
「だが、万人に対して平等に無粋だ。ああいう人間は、かえって信頼できる」
『―――CICより報告。本艦、スロリア沿岸域にさらに接近。現在のところ周辺海域及び空域に脅威は認められません』
オペレーターの報告に、中瀬はすかさず内線用無電地電話に手を延ばした。
「CIC?……こちら艦長だ。周辺警戒のため対潜ヘリを出せ。一機でいい。それと、『ありあけ』にも対潜警戒を厳にするよう伝えろ。以上だ」
電話を置いた中瀬に、佐々木が笑い掛けた。
「艦長……やる気満々ですね」
「まあ、まさかの時は奴さんに撃たせてやるさ。その後のことは……責任は持てんがね」
苦笑と共に、中瀬はすっかり冷め切ったコーヒーを啜るのだった。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後7時52分 東南スロリア海域 ローリダ共和国海軍潜水艦 「レヴァロ」
「―――艦長。所定深度に達しました」
「宜しい。潜舵戻せ……針路そのまま」
ローリダ共和国海軍潜水艦「レヴァロ」艦長 ディラゲネオス‐ル‐ファ‐ランパス中佐は、指示を下したあとで、蔦のように絡み合うパイプと配線に埋め尽くされた天井を見上げた。ディーゼル臭と金属臭と、外よりも含有量の多い二酸化炭素との合わさった潜水艦の独特の空気に、歴戦の潜水艦乗りとして安心感を得ることはあっても、三時間も前から続く外の世界に対する名状し難い警戒感は、何故かどうしても拭えなかった。
始まりは、聴音士の報告だった。何かが断続的に着水する音はその後も続き、その度に爆雷に対する警戒態勢を取らざるを得なかったのだ。度重なる警戒は乗員の神経をすり減らし、精神的に消耗させている。意を決して潜望鏡深度まで浮上したところで、軍艦はおろか船の姿など影ほども見えない。魚か何かが海上を跳ねる音だろうと言う者もいたが、未知の海域では些細に思えることといえど、そのように片付けていいものだろうか……逡巡にも似た感情を覚えたのはランパスだけではなかった。
ニホン人の海上基地を魚雷の一斉射撃で破壊した勝利の余韻も束の間、何者かに追われている……もしくは、何者かに見張られているという疑念が、ランパスの指揮を慎重にさせていた。狭い潜水艦の艦内で、指揮官の感情は瞬時の内に疫病の如く乗員全員に伝播する。如何なる状況でも泰然たる態度を保ち乗員を安心させることが艦長の勤めの一つならば、ランパスはそれに明らかに失敗していた。
……かといって、軽々しく電波を出し状況を報告するわけにも行かなかった。事前の取り決めとして明日午前八時までは無線封止が徹底されており、命令を翻して電波を出すにしても、最低、潜望鏡深度まで浮上しなければならない。
潜水艦「レヴァロ」は、現時点で12隻が建造されているローリダ海軍の主力潜水艦「キベロ」級の一隻だ。武装は魚雷発射管六門を艦首に搭載し、推進方式はディーゼル/電動機併用一基二軸。日本側の表現を借りれば、典型的な通常動力型の潜水艦である。
外見上の特徴として、長期間の洋上作戦を想定し、良好な居住性を確保するべく大型化した艦橋と、艦首からはみ出すように膨らんだ巨大な水中探信用ソナードームを持っている。後者は主に、水中における対潜水艦戦闘を念頭において装備されたものだった。
大型の艦橋の割にはそれほど広いとは言えない発令所で、ランパスは四ヶ月前、再び任地へ戻る際に士官学校以来の旧友と交わした会話を思い出していた。
「ディラゲネオス。もう直ぐ戦争が始まる」
と、その旧友――――アダロネスの国防軍総司令部の参謀エイダムス‐ディ‐バーヨ大佐はそう切り出した。
「ニホンか……?」
ランパスの言葉に、バーヨは無言のまま頷いた。
「近い内、君の船にも出撃命令が下るだろう。武勲も好きなだけ挙げられるぞ」
「ニホン人のぼろ船を沈めたところで、何の自慢にもなりゃしないよ」
本土の海軍司令部でも、そして植民地海軍でも「ニホン海軍」との戦闘を想定した研究はこの時点で既に始まっていた。その研究の過程で彼ら海軍士官が教えられていたのは、軍艦とは名ばかりの軽武装の警備艦艇で占められている「ニホン海軍」のお粗末な戦力だったのだ。
『――――ニホン海軍の艦艇は貧弱な構造で武装も弱い。乗員の質も悪く、一ヶ月に一回の割合で彼らの艦は事故を起こす。彼らの艦が白色に塗られているのは、見栄えを良くする為と衝突を防ぐ目的で視認し易くする為である。ニホン人の多くは眼が悪く、艦船勤務に適さない、そこで彼らは眼鏡を懸けて洋上勤務に出るのだ。ニホンに大した空軍の無いのもそのためであり、鈍足の回転翼機しかないのも彼等がより高速の戦闘機の操縦に身体的、精神的に対応できないためである』
という共和国海軍大学校の教官の、さも見てきたようなもったいぶった教示を、ランパスたちは本気に受取り、信じていた。
バーヨは苦笑し、言った。
「沈める船があるだけ、君ら海軍は恵まれている。我々空軍には、撃墜すべき戦闘機はおろかまともな飛行機すら敵は持っていないというのに……」
「それもそうだな……君達空軍には、割の合わん戦争だ」
そう言って、二人は大いに笑って分かれたものだ。
―――――だが、今の気分はどうだ。
何か、得体の知れない、人智を超えた何かに追い回されている感覚を、どう説明すればよいというのだ?……こんな気分は、子供の頃に見た悪夢そのものだ。その悪夢が現実のものとなって、現在自分と艦を危険に晒しているような気から逃れられないランパスだった。
「……艦長?」
気が付けば、副長のディファス少佐が傍に立っていた。階級こそ艦長たるランパスより下であるものの、経験と年齢はランパスより一回りほど長く、上だった。これは恐らく彼が決して無能な人間だからではなく、士官学校の学閥に属さない一般幹部候補生の出だからであろう。
熱い茶を満たしたコップを、ディファスは差し出した。
「お気覚ましに、どうぞ」
「有難う、ディファス君」
コップを取り、熱い液体を口に運ぶ。心なしか、陰鬱な空気が潮の引くように晴れるような気分を覚える。だがそれも一瞬、不意に出力を上げた空調機の唸り声が、青年士官の棘棘した勘に触った。
「誰だ、空調を弄ったのは!?」
「自分であります」と、艦橋下の司令室から慌しく梯子を上がってきたのは、機関長の大尉だ。
「居住区と機関部の温度が異常に上昇しております。空調をかけませんと乗員の健康状態に悪影響が……」
「それで……君は何をしに来た?」
「はい……その件で、艦長にご報告を」
「…………」
苦虫を噛み潰したような顔で、ランパスは大尉を睨み付けた。確かに大尉の言には一理あった。気が付けば、雑音低減と節電とを図って空調出力を抑えるよう命令を出していたせいで、艦長のランパス自身、顔から首筋にかけて玉の様な汗を浮き上がらせている。上昇した温度と湿度の共演が、密閉された「レヴァロ」艦内をおそらくスロリアでもっとも不快な居住環境に化していた。
逡巡の後、ランパスは言った。
「……わかった。君の意見を支持する」
「有難う御座います、艦長」
「さっさと持ち場に戻れ」
大尉が去っていくのを見届けると、ランパスは苦々しい顔もそのままに海図台に向き直った……針路をやや北よりに修正するために。
スロリア地域内基準表示時刻7月28日 午前3時32分 東南スロリア海域 海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦 DDH-182 「いせ」
情勢は、急変した。
艦長室で執務を取っていた中瀬が慌しくFICに戻った時には、六枚のLSD全てが刻々と進展するスロリア南東部の情勢表示に指向されていた。
その中の一枚に、中瀬の眼が釘付けになる。LSDは、ゆっくりと前進を開始した武装勢力の行動の詳細を、各方面から得た情報を総合し、図式化して表示している。
「衛星画像、出します」
オペレーターの報告と共に、LSDのスペースを割いて浮かび上がる暗視画像は移動する武装勢力と、その移動方向からやや離れた一個の集落を映し出していた。
「倍率を上げますか?」
というFIC当直幹部の言葉に、中瀬は首を横に振った。
「いや……これで十分だ」
「無人偵察機は……?」
と言い掛けて、中瀬は顔を曇らせる。直に送信されてくる生の暗視画像に接したかったが、当の無人偵察機は所定の偵察飛行を終え、すでに母機もろとも帰還を果たしていることに今更思い当たったのだ。
だが、その間「タンチョウ」は一応立派な働きをした……スロリア南東部上空を飛行中、「要救助者」と思しき画像を収集してきたのである。
「画像を出してくれ」
指示の後……出てきた高良俊二「と思しき」画像は、辛うじて銃を持っていると判別可能な、輪郭のぼやけた単なる「像」であった。撮影場所は例の集落。撮影時刻は1930。完全に日の沈んだスロリア亜大陸において、赤外線探知装置による撮影ではこれが限界だった。
「武装勢力が動いたとか……?」
と、急報に接した御子柴が入ってきた。中瀬は頷き、画像を指し示した。
「あれを……誰だと思う?」
「私も考えていましたが、難しいですね……」と、判別し難い画像に、御子柴は顔を曇らせた。
「……だが、向こうまで確認に行く価値はある」
「行ってくれるか?」
「では、決まりですね」
画像の電送以来、隊員はすでに全て特殊作戦群専用のブリーフィングルームに集め、待機をさせている。部下の元にその足で取って返すと、御子柴は彼らの前に立ち、作戦行動開始を告げた。
その後の行動は早かった。それからさらに五分後、格納庫に完全装備で集合した隊員は、同じく特殊戦装備に身を固めた御子柴の先導で飛行甲板へ続くエレベーターへと移動する。格納庫へ下ろされたエレベーターに、列を為して歩を進める彼らの姿に、多くの隊員が作業をする手を止め、その異様な容姿に見入った。
黒い作業服の上半身を、弾倉やサヴァイバルキットを大小のポケットに収納した防弾ベストで覆い、肘、膝にも同じくプロテクターを装着する。携帯無線機のイヤホン及びインカムと一体化した頭の軽量ヘルメットには、黒光りする暗視装置が赤外線レンズの赤い光を覗かせ、首から提げるのは、折畳式銃床とハンドグリップの付いた銃身、機関部上部にダットサイトを装着した特殊作戦仕様のM4カービン小銃。腿にもまた、USP自動拳銃を収めたホルスターが密着している―――――それが、陸上自衛隊特殊作戦群に属する隊員の基本装備だった。その上に、隊員個々の特技に応じ大小の装備に身を固めるのだ。全員がその過酷さを以て知られる空挺レンジャー課程の修了者であり、これまで数々の戦闘任務に参加してきた歴戦の勇士だった。
御子柴の合図で、上甲板へと続くエレベーターが唸りを上げて上昇を始めた。一度に完全装備の哨戒ヘリコプター二機を揚収できるエレベーターは、その養成と訓練費用だけでヘリコプター二機分の調達価格に相当する精鋭を、これより彼らが旅立つ飛行甲板へと持ち上げるのだった。自動小銃はもとより、対物ライフルや狙撃銃、軽MAT(軽対戦車誘導弾)まで持ち込むあたり、彼らの意図は明らかに本気の戦闘を匂わせている。
飛行甲板より広がる、未だ闇の支配する空。「いせ」の周辺を、闇夜を突いて駆け巡る灰色の機影――――作戦部隊の発進に先立ち、僚艦「ありあけ」を発艦したSH-60Kが盛んに上空を旋回しているのは、対潜、対水上の両方の警戒のためだ。SH-60Kの搭載レーダーが探知した目標は、データ-リンクを通して各艦艇にも瞬時のうちにその情報が共有され、護衛艦隊全体の策敵能力を向上させていた。
寒風と潮風の交互に吹き荒ぶ飛行甲板の上では、彼らを現地まで輸送し、一人の予備自衛官を救出するために展開したCH-47JA改が、二機のSH-60K哨戒ヘリコプターとともに隊員たちを待ち受けていた。AGM-114「ヘルファイア」対艦/対戦車ミサイルと対地掃射用のミニガンで武装したこの二機の任務は、チヌークの直援及び地上の事前掃討だ。そしてCH-47JA改自体もミニガンで武装し、一定の自衛機能を持っている。
「全員、速やかに搭乗せよ」
御子柴の命令一下、隊員全員がCH-47JA改の貨物室に姿を消すまでに一分も掛からなかった。それは驚異的なまでの手際の良さと言えた。
全ての隊員を収容した貨物室のハッチが完全に閉じ、最小限の誘導灯以外極端に照明の落とされた飛行甲板で、発艦誘導員がハンドシグナルを送りエンジン出力の上昇を促した。夜間飛行用の暗視装置をヘルメットに装備した操縦士の、コレクティヴ‐ヒッチレバーを握る手に力が入り、メインローターの空を切る音がさらに勢いを増す。
「『ウミザクラ』へ、こちらクロタカ、離艦を要請……送れ」
『こちら「ウミザクラ」。「クロタカ」離艦を許可する。以上―――――』
離着艦誘導士官の許可は出撃命令であった。空を圧するメインローターの轟音も高らかに、チヌークの重厚なフォルムがゆっくりと、だが着実に飛行甲板から離れていく。上昇を続けるヘリ内の隊員の中には、神妙な面持で海上の暗闇に飲み込まれようとしている「いせ」の全容に眼を凝らす者もいた。これまでの訓練や特殊任務とはいささか異なる趣を、その戦士としての本能の中に感じ取っていたのだろう。
「ひゅうが」級ヘリ搭載護衛艦は強力な対潜作戦艦であり、指揮通信艦でもある。そして空母と見紛う程自由度の広い飛行甲板は、彼女に特殊作戦の母艦としての新たな任務をも与えるに至った。
チヌークに続き、対地制圧任務専用の武装を搭載したSH-60Kが離艦する。SH-60Kは従来型のSH-60Jの艤装から機体構造に至るまでを一新し、別機と見紛う程の高い作戦遂行能力を兼ね備えるに至った海上自衛隊の主力哨戒ヘリコプターだった。今回の出撃で「いせ」は五機のSH-60Kを搭載し、同伴する「ありあけ」の搭載機と合わせれば最大で六機の哨戒ヘリをこの海域一帯に運用できる算段になる。
『「ウミザクラ」より「クロタカ」作戦編隊へ、高度1000フィート。針路3-0-2を維持せよ。以上』
CH-47JA改の操縦席。MFDに光の羅列となって浮かび上がる各種飛行情報の表示が、闇夜に馴れた操縦士の目には眩しい。
「……『クロタカ』了解した」
作戦部隊は「いせ」上空に一時集合。艦の上空を大きく旋回すると、スロリア東南の海岸線目指して未だ明け切らぬ闇夜を進み出した。