第一一章 「海戦」
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前11時47分 スロリア中部
『――――指揮官機より全機へ。これより爆撃航程に入る』
四機のルデネス-10爆撃機は、一糸乱れぬ雁行編隊を形成し、「敵の勢力下にある」空域を驀進していた。
ルデネス-10は、四発の空冷エンジンを備えたローリダ空軍の大型爆撃機だ。就役当初は空軍長距離打撃戦力の主力として威容を誇っていたが、ジェット推進式の作戦機の普及と、自機の爆弾搭載量の少なさ、高高度飛行に必要な与圧キャビンを欠いていたことがネックとなり旧式化もまた早かった。従って現在ではさして一線級機配備の必要性が乏しい植民地空軍に重点的に配置されている。機体自体も軍の近代化に合わせるかのようにエンジンをより高出力のものに換装し、新型の対空レーダー及び爆撃照準用レーダーが装備されるなど延命が図られている。
事前に収集した情報と、これまでのスロリアにおける戦闘経験に基づく観測とが、「ニホンに大した空軍力など無い」という確信を植民地空軍の司令部に与えていた。戦闘機の攻撃に対し脆弱な爆弾搭載の爆撃機四機を、「ニホン軍残存勢力掃討の支援」という民族防衛隊の要請により、何の護衛も付けずに送り出すという作戦がすんなり実行されたのはそのためである。
「すばらしい……!」
と、窓から眼下の光景を眺めていたアティケナス‐サラ‐リーカスはさながら遊園地に足を踏み入れた子供のように叫んだ。弾けんばかりの太鼓腹を薄汚れた衣服に包み、禿げ上がった頭に束子のような眉毛は太く、全身からは六〇を出たばかりの実年齢に不相応なまでの精気を漲らせていた。皺に覆われた目元を丸眼鏡で飾った彼の顔は頬から首に掛けて弛み切った贅肉が覆っていたが、それでも肌は老人のそれではなく生まれたての赤子のそれかと思えるほどピンク色に火照り、艶やかさを放っている。
薄い雲を透かして広がる薄黄色の大地に、リーカスは目を爛々と輝かせた。
「我が空軍の堂々たる威容を目の当たりにすれば、野蛮なニホン人も眼を回すだろう。ひょっとすれば跪いて慈悲を請うかもしれんな!」
「ニホン人と比べりゃあ、先住民の方が遥かに勇敢ってもんでさあ、監督」
「そりゃそうだ。ディギヴィアンは敵を前に逃げるような真似はせんよ!」
「転移」より遥か以前。ローリダが国家として成立する前のこと、ローリダ本土に彼らの先祖が移民として足跡を標す一〇〇〇年以上も昔から独自の文明を形成し、やがて後から来た植民者に追われるように衰退していった先住民のことを引き合いに出し、彼らは笑った。「監督」と呼ばれたリーカスは、元々植民者と先住民との数々の攻防を扱った「開拓劇映画」で名を上げ、「転移」後の現在では主に政府と軍主導の「解放戦争」を題材にした記録映画を撮っている映画監督だった。
こうした記録映画では、リーカスが以前に関わっていた「開拓劇映画」で植民者たるローリダ人が正義と信念に溢れる主役であったのと同様、ローリダ国防軍が正義と信念に基づき解放戦争を戦っていく風に描かれ、それに抵抗する者は「正義と人道の敵」として描かれるのが常であった。いわば一種の宣伝映画であり、リーカス率いる撮影チームがスロリアに入った真意も、やはりその製作にあった。
空の進撃に身を委ねる中、自分が苦労を重ね、スロリアに一歩を標したのは正解だったと、リーカスは思った。危険地域であることを盾になかなか渡航許可を出さない殖民局を説得することに成功し、「解放戦争」を支持する財界や映画界の有力者からも協力を取り付けた。
さらには元老院の後押し!―――――特に、将来の有力な執政官候補として名高い名門ヴァフレムス家出身の民生保護局長官には、畑違いな分野ながら広範囲に渡り助力を頂いたものだ。業界の知人には、是非とも彼への支持を公言して置かねばなるまい……政府や財界、ひいてはマスコミとの結び付きの強い映画業界において一定の発言権のあるリーカスの意思表示は、それなりの影響力があるのだった。
『――――爆弾倉開け。現針路を維持。投弾間隔を広めに……自動操縦装置起動……爆撃手、後は任せる』
『――――了解』
機首先頭の爆撃照準席からは、一本の枠も無いバブルキャノピーの恩恵で、爆撃手はあたかも空の一点に浮いているかのように周囲や眼下の様子を手に取るように眼に入れることが出来た。その中央に置かれた複雑な配線と緒元調整用ダイヤルに覆われた通称「電気箱」――――夜間/悪天候時用の爆撃照準レーダーと、機自体の自動操縦装置と連動した爆撃照準機――――の照準眼鏡を覗く照準手が爆弾投下ボタンのカバーを開け、そしてボタンに直に親指を触れた……あとは照準眼鏡を覗く先に映る照準点に、目標たる「ニホン兵が潜む森」のど真ん中が重なれば全ては上手く行くようになっている。
『……投下!』
ガコン……ガコン……という爆弾切り離しの衝撃は、リーカスたちのいるキャビンまで響いてくる。同時に、重荷より解放された機が何となくフワリと浮き上がるのを体感する。
「着弾の瞬間を見逃すなよ……!」
リーカスの指示は的確で、かつ絶対だった。撮影カメラを構えた助手が、側面の窓に陣取り機外の様子に一心に眼を凝らす。轟々と唸るエンジン音を除き、投弾の瞬間から静寂の内に時は過ぎ去り、やがて彼らの前に素晴らしい光景が飛び込んできた。
爆発!……連鎖的な爆発。
雲よりも高い高空より臨む漆黒の地上に、一度に複数の炎の花が咲いた。その周囲に遅れて着弾した爆弾の炸裂も加わり、決して広いとはいえない森を炎の触手で絡め取り、朱に染めていくのだった。
「すげえ! 凄まじい眺めですぜ監督!」と、助手が弾んだ声を上げた。
「……偉大なるキズラサの神よ、我等に誉れあれ。我等はいままさに正義の鉄槌を残虐なる敵に下したのだ……!」
その眼を感涙に濡らしながら、リーカスは感激に詰まる胸を振り絞ったかのような声で独白するのだった。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前11時50分 スロリア中部
前日、森に逃げ込んでからすぐに始まった爆撃は、今に至るまで続いていた。
俊二たちの篭る洞穴のすぐ上を、揺るがすようなプロペラ機の爆音が通過する度、そして空を裂くような爆弾の滑空音が流れる度、森の何処かが轟音を発し紅蓮の炎に包まれていく。
彼らのやり方は徹底的だった。およそ生き物が居ると目される場所なら何処でも文字通りに面単位で制圧しようとしているかのようだ。その真の目的が少なくとも自分たちの「始末」にあることは明らかだ。
洞穴の側壁に拠りかかったまま、二人は夜を過ごした。横になると、急な事態への対応が難しくなる。
「あいつらが呼んだのよ」
と、膝を抱えた姿勢のままタナは言った。
「この森を、私たちごと焼き払うつもりなのよ。それか、私たちが外に追い立てられたところを狙っている……」
「そうみたいだね……」
……が、彼女の言うことには解せない点もある。俊二は意を決してタナを凝視した。俊二の只ならぬ表情に気付いたタナも、固唾を飲んで俊二を見返すようにした。
「君に質問がある」
「ウン……?」
いい瞳をしている……と、俊二は思った。自分がこれから聞くことが、彼女を傷つけることになりはしないかと彼は本気で心配した。
ニホン人は、自分の目をしっかり見て話そうとしている……と、タナは思った。自軍の名誉のために、「敵兵」に真実を話したくないという感情の反面、彼には絶対に嘘を付きたくないという決意にも似た悲観が、彼女の胸を真綿のように少しずつ締め付け始めていた。
唾をのみ、俊二は言った。
「ぼく一人ならまだしも、何故君も狙われている?」
「…………」
途端に、タナは俊二から視線を逸らすように俯いた。明らかに、自分の質問は彼女にとって都合の悪いものだった……と、俊二はこの瞬間確信する。
「どうして味方に追われている? 何故だ? 何故なんだ?」
「……あなたに話したところで、どうにかなる類の話じゃないわ……!」
難詰気味な俊二の口調が、返ってタナの頑なさを呼び起こしたかのようだった。
俊二は、質問を変えた。
「君に……帰るところはあるの?」
「え…………?」
「君、ひょっとして脱走兵?」
沈黙と共に気まずい雰囲気が、二人の間に流れた。俊二は言ったことを内心で後悔し、タナは自分の秘密がこれ以上隠し通せないことを感じ始めていた……それでも、爆撃が続く中の静寂を破ったのは、タナだった。
「私……見たの」
「…………?」
「私……あいつらが味方を殺すところを見たの。だからあいつらは必死に私を追っているのよ」
「……あの隊長、そういうことやりそうな顔だったね」
銃を抱く俊二の眼に、熱いものが込み上げてきた。銃を握る手に、力が篭った。それは敵に対する純粋な怒り。あいつらは自分の仲間を残忍な手口で殺し、あまつさえ今行動をともにしているこの優しい彼女さえも手に掛けようとしている……!
「……行こう」
「え……?」
「この森を出よう」
タナは眼を剥いた。
「出たら殺されるわ!」
「ぼくが、君を守るよ……役に立つかどうかは確約できないけど」
「…………?」
決心と不安とが入り混じった眼差しを、俊二はタナに注いだ。完璧に守れるかと聞かれれば、自信を持って「守れる」とは言えない。そこにヒラの二等陸士である俊二の悩みがあった。
それでも、俊二は続けた。
「ここに居ても、どうせ殺される。同じ殺されるなら、最後まで希望を捨てちゃだめだ」
「あなたみたいな野蛮人に、そんなこと言われる筋合いはないわ……!」
タナは叫んだ。絶望感が、心の叫びをぶつける対象を探していた。
タナの涙眼に、俊二はそのことを感じ取った。だから俊二は怒鳴りつけたいのを押さえ、タナの肩を掴むようにして向き直った。
「戦わなきゃ生残れないことぐらい、野蛮人のぼくだって判っているのに、君には何故判らないんだ!?」
口調こそ穏やかだったが、その眼光に烈しい怒りを宿していることにタナは気付いた。他を圧する眼の光は、死への覚悟の表れだった。沈黙の中で俊二と目を合わせ続けるにつれ、怯えたタナの肩から力が抜けた。
「これから、どうするの……?」
無言のまま、俊二はタナの手を掴み、立ち上がった。俊二に導かれるまま、タナは歩き出した。木の燃える匂い、土の焼ける匂いが、眼に染みる黒煙とともに俊二とタナの近くまで漂っていた。それにも怯まず、二人は次第に歩を合わせ、火の廻りきっていない場所まで小走りに進み始めた。
自分の進む先――――燃え上がる森を抜けた先に、何があるのか俊二は知らない。知ろうとも思わなかった。ただ、ひたすらに歩くことで自分を待ち受けるであろう死への恐怖を紛らわせたかった。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後12時12分 南スロリア沖 海上保安庁巡視船 PLH-09「りゅうきゅう」
波が、逆巻き始めた。
航行能力を失い漂流中の難民船「グリュエトラル」号と、その周囲を固める巡視船群に、これまで挑発的な急接近を仕掛けるのみだった国籍不明艦数隻が、急に防衛線を突破し、難民船に強硬接舷を図ろうとしたのだ。
第十一管区海上保安部所属のヘリコプター搭載巡視船「りゅうきゅう」の船橋。その作戦情報室は、十分前より喧騒と緊張に包まれている。松沢船長以下乗員の全てがライフジャケットとフリッツヘルメットを着用の上配置に付き、微速前進の状態にある船は、あと五分足らずで「グリュエトラル」号の前へ出るはずだった――――挑発的な接近を繰り返す国籍不明の軍艦から「グリュエトラル」号を守るために。
船首に陣取る見張員の声が、インカムに入ってくる。
「……該船まで、あと700m!」
「りゅうきゅう」は方位にして一時に、対航する「該船」こと「グリュエトラル」を見る方向にあった。波に洗われるというより、あまりに老朽化した船体を海水に侵されながら進んでいると形容した方がいい「グリュエトラル」を追手から庇うように「りゅうきゅう」は前進し、国籍不明艦の針路を妨害するコースを取っている。
船橋から臨む40㎜単装機関砲。20㎜多銃身機関砲の各銃座にはすでに銃手が取り付き、その黒光りする銃身を、前方から向かってくる暗灰色の艦影に向けていた。だが、平時の交戦規定に縛られた海保の巡視船では、攻撃されない限り威嚇以外の射撃は一切できないのだった。それに所詮は警備船。豆鉄砲に等しい機関砲で軍艦に対抗するには余りにも無理がある。
その「りゅうきゅう」の周囲では六隻の僚船が防護を固め、他方向から接触を図る軍艦への警戒を行っている。内二隻は、関東近海の警備救難任務に当たる第三、第四管区より駆けつけてきたばかりの5000トン級ヘリコプター搭載巡視船PLH-21「みずほ」とPLH-22「やしま」だった。「りゅうきゅう」型より遥かに大型。重武装のこの二隻を睨み合いに投入する辺り、上層部の事態認識の深刻さが伺えるというものだ。
……否、本当に深刻に受け止めているのならば、我々をこの海域より退避させ自衛隊を投入するはずだ……方位にして11時から、回頭する素振りも見せず波を逆立てて突っ込んでくる国籍不明艦の重厚な艦容を、双眼鏡で睨みつけながら松沢は思った。
『左舷より国籍不明艦!……20ノットで接近中!』
船首からの報告に、松沢は怒鳴った。
「警告しろ!……何語だろうといい!」
無駄なことだとは判っている。だが最悪の事態が起きたときに備え、こちらも最善を尽くしたという証を残して起きたかった。
見張員の報告は続いた。
『該船まで200メートル!』
気付いたときには、「グリュエトラル」の鯨のように巨大な船体は、船橋から臨む右舷一杯に広がっていた。さらに目を転じれば、舵輪を握る要員の目が大きく見開かれ、そちらの方に釘付けになっていた。
松沢の怒声が飛んだ。
「余所見をするなっ! 取り舵!……針路2-9-1! 急げっ!」
「2-9-1っ!……了解!」
急激な回頭に左舷から波を被りつつ、旋回を終えた「りゅうきゅう」船橋の光景が一変する。次の瞬間には、船橋は驀進する国籍不明艦を真正面に捉えていた。
「船長っ!」
航海長の石川二等海上保安監の言葉は、もはや悲鳴に近かった。
「このままでは衝突します!」
「針路そのままっ……!」松沢の指示に、その場の全員が耳を疑ったはずだ。
「速度を15ノットまで上げ。そのまま直進」
その瞬間。船橋のみならず船の全員が直感した……うちの船長、勝負を挑む気だ。それも、自分の倍以上も巨大な軍艦と!……あまりに突飛な展開に、船橋の誰もが無言のまま自分の指揮官を見詰めるばかりだった。だがそれは、彼らにとって決して最悪の決断ではなかった。むしろ海の守り手たる海上保安官にとって、この勝負は最高の勇気の発露の場となる……ただし、生き残ることが出来ればの話だが。
「チキンゲームってやつだろ?……これ」と、直進する国籍不明艦を前にしても一歩も引かない自分の船に、一人の甲板員が呟いた。その隣にいた一人も言う。
「……だが、相手が悪すぎる」
右舷に詰めていた一人の見張員が叫んだのはそのときだった。
『右舷後方より国籍不明艦! 『みずほ』と併進中!』
右舷から上がってくる報告に対応する余裕など、もはや「りゅうきゅう」には残されていなかった。見張員の報告に、松沢はただ頷くばかりだった。その眼前には林立するアンテナの一本一本、さらには甲板上を走り回る乗員まではっきりと見える国籍不明艦の明確な輪郭。
艦首部分に見えた、黒光りする砲身を剥き出しにした砲座に、長島船務長は思わず息を飲んだ。
「総員! 衝撃対応体勢を取れ!」
松沢がインカムに怒鳴った直後、軍艦が針路を換えかけるのを皆が見た。だがそれも一瞬、正面から突っ込む形となった双方は、互いの左舷を不気味な音を立てて擦り合わせながらすれ違っていく。それは、相手の艦の艦橋に立つ人影、そして甲板上を走り回る人影をその表情に至るまで船橋の誰もが眼にすることの出来る距離だった。
接触の間、船を捻り潰すかと思われるほどの接触音と振動に、総トン数3221tでしかない「りゅうきゅう」の船体と69名の乗員は必死で耐えていた。大きさの差の為せる業か、翻弄されるかのように船は激しく揺られ、船橋の皆が満身の力を篭めて手すりを掴んだ。だが耐え切れずに姿勢を崩す者も出る。
『国籍不明艦。遠ざかります!』
未だ動揺の収まらぬ船橋で、手摺に身体を凭れ掛けさせながら松沢は石川を省みた。
「賭けには、勝ったな」
「やはり賭けておられましたか」
石川の方は苦笑するしかない。一息ついて、松沢は床に落ちたインカムを拾い上げた。
「被害状況を確認しろ」
少しの後、各所から報告が上がってくる。
『機関室。損傷、負傷者ともになし』
『こちら左舷甲板。側面に裂傷を認む。航海には支障なし。軽傷二名』
「二名か……意外と少なく済んだな」
松沢はヘルメットを被り直し、本部への報告を指示すると、背後を振り向いた。その視線の先には、先程接触したばかりの軍艦が、遠ざかり行く艦尾を見せていた。ひと段落着いたと言いたい所だが、実のところ彼らにとっての「海戦」は、まだ始まったばかりだったのだ。
「船長。『みずほ』が……!」
船橋員が指差した遥か先……鍔迫り合いを思わせる「みずほ」と軍艦の併進は、急速に「グリュエトラル」に近付きつつあった。
日本国内基準表示時刻7月27日 午後12時14分 東京 総理官邸地下 緊急事態対応センター
『「みずほ」と国籍不明艦が接触します!……「みずほ」依然並走中』
オペレーターの報告に、テーブルを囲む閣僚たちの視線が一斉に巨大な液晶端末に集中する。
緊急事態対応センターの中央表示端末には、横須賀の海上保安庁警備救難司令センターより電送された情報に基づき、青一色を背景に敵味方の配置が指標化されて映し出され、同時に味方各船の状態が数値化されて表示されていた。
総理官邸の地下に設置された緊急事態対応センターは、「転移」前に起こった「東アジア動乱」で平和維持業務への関与を強いられたときの教訓から、その機能と権限を著しく拡大した。災害や国際紛争などの緊急事態への対処はもとより、有事の際には防衛庁の中央指揮所をはじめ、陸上自衛隊の自動データ処理システム。海上自衛隊の海上作戦指揮管制支援システム。航空自衛隊の自動警戒管制組織など、あらゆる防衛関連システムと連動し、より確度の高い情報分析及び決定が下せるようになっている。
『「みずほ」より、映像入りました』
図式化した状況を表示するディスプレーに隣接する、もう一枚のディスプレーに映し出された映像は、「みずほ」から国籍不明艦の舷側を撮影しているものだ。ディスプレーはさらに、現場上空を飛行する搭載ヘリコプターから電送された、舷側を擦れ合わさんばかりに並走する「みずほ」と国籍不明艦の二隻を映し出していた。あたかも映画の一シーンのようなそれらの場面には、場に居合わせた河内閣の閣僚の誰もが我が目を疑い、絶句を禁じえない。だが、彼らの眼前に広がっている光景は、ここより数千キロを隔てた海の向こうで起こっている、紛れも無く現在進行形の事態だった。
「総理……」
と、上座に座る河に語りかけたのは官房長官の上杉久作だ。年齢の程は未だ50代前半で、政治家としては未だ若い部類に属する。端正な顔立ちであるが故に、苦渋の表情には一層の迫力があった。
「我々はいささかまずい立場に置かれております」
「……と、言うと?」と、倉木吾郎 副総理。当選11回を誇る自由民権党の長老格で、名誉職にも似た現在のポストはまさにその年季の故に得たものだった。その本人は今期を契機に政界からの引退を公言しているが、その温和な性格と調整能力の高さから、引退を惜しむ声もまた少なくは無かった。
「新聞やテレビでは今回の陸海の事態を大きく報道し始めております。それも我々にとって決して好意的な報道ばかりではありません。現地の意向を無視した、利権目的のスロリア進出が、武装勢力の侵入を招いたという論調を張る新聞まで出る始末です」
「事実無根だ!」と、山之辺琢磨 対外協力庁長官が眼を剥いた。彼は海外の未発展地域における建設受注の確保を目論む建設業界と深い関係にあり、一時期国会でも野党の追及の矢面に立たされたことがあった。
「対外協力事業は現地住民の民生に大きく寄与している。喩え不満があるからといって武力に訴えてもいいというのか!?」
憤然とする山之辺を一瞥し、上杉は報告を続けた。
「一方野党ですが、共和党と労働党ともに早速臨時国会の召集を要求しております。しかし一時でも事態が終息しない限り、このままでは健全な国会運営など望めません」
「健全な国会運営など、いままで為されたことは一度も無い。他人を貶めることしか能のないあの連中と来たら……!」
「もう止せ、上杉君」
河正道 内閣総理大臣は、上杉を制すると瀬尾国交相へ向き直った。
「瀬尾君、海上保安庁は、あの艦隊を止められるかね?」
「それは……残念ながら、交渉次第です。正直、今回の事態は我々の対処能力を越えようとしております。越える前に、外務省の方で何とかして頂けませんと」
「……ふむ」
河は軽く頷くと、末席の二名――――村川防衛大臣と植草統合幕僚長へ目を細めた。
「植草君は、どう思う?」
「総理……」
無表情のまま河へ眼を凝らし、植草は続けた。
「事態は切迫しております。ここは、一旦巡視船を安全域まで撤退させるべきです。このままでは危険です」
「護衛艦隊を出動させろというのか!? そんなことをしてみろ。紛争ではすまん。間違いなく全面戦争になるぞ!」
瀬尾が語気を荒げた。植草のような自衛隊の発言が、海上保安庁ひいては国道交通省の領分を侵す不遜な主張に思えたのかもしれない。だがそれが呼び水だった。同時に、他の閣僚達も口を開き始めたのだ。
「たとえ公海上であるとはいえ、我が国が難民を見捨てたということが世界中に知れてみろ。折角醸成した信頼が全て潰える。護衛艦隊を展開させ、難民船を守るべきだ」
「バカな! 領海の防衛任務なら兎も角、公海上で戦争をおっぱじめようというのか?」
「交渉の結果次第によっては、無条件で難民を引渡さねばならぬことになるやもしれん。そうなったら同じではないか」
植草が、さらに言った。
「いささか踏み入ったことを申し上げますが、このまま行けば相手の対抗手段がエスカレートする可能性をご考慮下さい、現況で彼等がやっているのは単なる脅し(ブラフ)です。だが……それが我々に通用しないとわかったとき、彼らは実力行使に出るやもしれません。現場が日本の領海ではなく公海であることをお忘れなく。現下の法制度では海上自衛隊は、紛争当事国の了解なくして公海上では戦えません」
「……そして今回の事態では、紛争当事国というものは存在しない」と、藤森外相が、放心したように言った。
そのとき、オペレーターの絶叫に近い報告に、閣僚の全員の視線が再びディスプレイに集中した。
『「みずほ」と国籍不明艦が接触!……双方、依然難民船へ併走中!』
「…………!?」
完全に舷側を接した双方のフネに、息を呑まなかった者はいなかった。
そんな中でただ一人、腕を組み熟考していた河が、藤森外相に頭を上げた。
「藤森君、すぐにスロリア西部にいる交渉団に連絡を取れ、現在南スロリア洋上で起こっている事態の事実関係を先方に問い質すのだ。何としても全面衝突は避けねばならん」
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後12時16分 南スロリア沖 海上保安庁巡視船 PLH-21「みずほ」
併走する国籍不明艦が、「小賢しい白い船」を排除しようとこちらへ針路を変えようとした瞬間。「みずほ」船長向井 勝一等海上保安監の腹は決まった。
「面舵!……右五度!」
衝突コースを取るわけではなかった。対象に対し迎え角を取ることで、相手の針路を逸らそうとしたのだ。
総トン数5000t。「転移」前に就役し、領海外での警備救難活動を目的とした海上保安庁で最大級の巡視船「みずほ」が衝突覚悟の接触コースを取ったところで、商船構造の船体ではこちらより堅牢な造りの軍艦に抗し切れるはずが無かった。
「船長っ! このままでは接触します!」
と、右に傾き始めた船橋最上部の作戦情報室で、副長の牧村二等海上保安監が言った。だがそれも覚悟の上だ。
「針路そのまま……! 速力を20ノットまで上げろ!」
下手に低出力では、接触した瞬間に船は相手に跳ね飛ばされ、最悪の場合操舵不能に陥る。しかも、相手の船の方が加速はいい。接触ギリギリの間隔を保ちながら、先手を打って相手の鼻先に出るつもりだった。
「…………!」
右舷一杯に広がる鋭角的な艦影に、牧村は思わず眼を釘付けにした。その全砲塔をこちらへ指向した軍艦の、暗灰色の艦橋にはレーダーと思しき皿状のアンテナが常時回転し、後方に湾曲した巨大な煙突は、全体的にこちらより小柄で細身な艦体の中心部に、こちらとは桁違いに強力な機関を閉じ込めていることを伺わせた。針山のように林立するアンテナと砲座が、戦場に慣れない者を一瞥で萎縮させ、屈服させようとするかのようだった。甲板を行き交い、あるいは佇む青い作業服の人影に、こちらに対する好意的な視線などあろう筈も無かった。
その艦影がさらに眼前に迫りかけた瞬間。向井船長の怒声が飛んだ。
「総員っ……衝撃対応態勢を取れ!」
『……接触します!』
インカムに入ってくる甲板員の報告と、船全体を巨大な鑢で擦られるかのような烈しい衝撃が襲うのと同時だった。
「機関室、出力最大! やつを前へ出すな!」
『こちら機関室っ了解!』
「船長っ!」と、航海長の川中二等海上保安監が叫んだ。
「『グリュエトラル』まで、400m! このままでは衝突します!」
「面舵二〇! 何としても敵艦を近付けるなっ!」
船長の言葉を咎め立てる者など誰もいない。そう、まさに、彼等が現在苦闘している相手は国籍不明艦ではなく、敵艦だった。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後12時18分 南スロリア沖 ローリダ共和国海軍駆逐艦「クネロ」
「ニホン人の小賢しい白い船」が左舷からいきなり競り出し、前方を塞ぐように幅を寄せてきた途端、烈しい衝撃が艦を襲うのをローリダ共和国海軍駆逐艦「クネロ」艦長スラフオス‐ノ‐タ‐デーラ中佐は感じた。
「ニホン人めっ!」
毒付くと同時に、艦長用指揮シートを掴む手に力が篭る。狭い艦橋に詰めていた数名がバランスを崩して転倒し、海図室に置かれていた用具箱が海図台から滑り落ち、床にコンパスやら計算尺やらをぶちまけた。
『艦長! このままでは衝突します!』
内線電話を通じた甲板士官の報告が、デーラに新たな指示を求めていた。そして新任ながら、艦長たるデーラはこの「初陣」で的確な命令を下す義務があった。
「『衝突』なら、もうしているではないか……!」
インカムを掴み上げると、デーラは前方を睨み付けた。あの白い船の右舷は接触の衝撃で醜くへこんではいたが、それでも怯むことなく、こちらの針路を妨害しようと左舷から拠りかかっている。視認効果を度外視したかのような白一色の巨体に比して艦首に据え付けられた申し訳程度の武装、さらには後甲板一杯を回転翼航空機の発着スペースに使う当たり、何と無駄の多い設計かと呆れたデーラだったが、それでもあれを操っている乗員の技量と度胸には舌を巻かずにはいられなかった。
「…………」
苦虫を噛み潰したような表情と共に、デーラは配線やパイプのむき出しになった天井を仰いだ。先程から頭上で盛んに聞こえてくる煩わしい爆音は、ニホン人の回転翼航空機のものだろう。当初は武装をしているのかと思いきや、先程から旋回や接触を繰り返してばかりいるあたり、何の攻撃能力も持っていないことはすでに明らかとなっていた……それなら、こちらの選択の自由度も広がるというものだ。
デーラは、インカムに怒鳴った。
「針路そのまま。絶対に変えるな!」
そして巡視船に半ばを塞がれた前方を睨み付ける。そのまま針路を維持すれば、高速と運動性を追及した「カナロ」の細い艦首は、殴られた鼻っ柱のようにひしゃげてしまう。
「宜しいのですか? 艦長」
と、副長のディラムス少佐が言った。
「構うものが、こうなれば根競べだ。」そう答えて、デーラは笑いかけた。だがよく見れば、その顔に一切の余裕が失われようとしていることに気付いた者もいたはずだ。
「艦長! 旗艦より入電です。」通信兵が、受電したばかりの電文を記した紙切れを差し出した。
煩わしげに電文をひったくったデーラの表情から、緊張が失せていくのをディラムスは見た。舌打ちの後、デーラは電文の紙切れをゆっくりと握り潰した。
「面舵だっ! 現地点より離脱する」
「離脱……ですか?」
「そうだ、提督の命令だ」
そう言いながら、デーラは「グリュエトラル」号への針路を塞ぐように展開した白い船に眼を凝らした。そして呟いた。
「しぶどいのは褒めてやる……だが、全ての責任はしぶどいお前たちにあるのだ。悪く思うなよ」
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後12時27分 ノドコール首都キビル郊外 ローリダ植民地駐留軍司令部
「これはどういうことなのだ……!?」
西原の怒りは、広い会場に虚しく響いた。
交渉開始以来三十分……交渉としては短い時間ながら、すでに交渉そのものは膠着化している。双方ともに口にする事実と主張は平行線を辿り、それが繋がる可能性は、たとえ地平を幾つ越えようとありえないものであるかのように思われた。
ローリダ側の主張はこうだ……日本はスロリアの開発を名目に、経済的、軍事的にスロリアを掌握し、最終的にはスロリア全体を政治的影響下におくことを意図している。スロリアで「平和的に」殖民活動を続け、「平和的に」布教活動を行い、スロリアを「平和的に」統治しようとしているローリダとしてはスロリアの平和維持、そして本国の安全保障の観点から一連の日本側の行動を座視するわけにはいかない。現行の軍事行動は日本側の度重なる侵略行為に対し、ローリダからの植民者と現地住民を守るべく、やむをえず行った反撃である。日本はローリダの要求を容れ、速やかにスロリアより撤退せよ!
日本側も反論する……わが国のスロリアにおける一切の活動は全て通常の国際協力事業の範疇であり、それらには何ら侵略的意図はない。わが国の国是は対外協調であり、その一環としての対外支援活動は諸外国に広く支持されている。今次の紛争におけるローリダの行動は好意的に解釈しても全くの過剰防衛であり、その過程で出た犠牲及び損害は看過できるものではない。日本側はローリダ側に軍事行動の停止及びそれらの釈明を求め、被害の補償、行方不明者の消息確認も含め今後の原状回復に向けて対話の機会を持つべきである。
そこに、衛星通信回線を通じ入ってきたスロリア海上における状況の激変!……艦船による、海保の保護下にある難民船に対する強行接舷を意図するかのような行為は、明らかにこちらの意向を無視したローリダ側の独断であり、挑発だった。
「我々としては、あなた方に対する事実関係の説明を要求せざるをえない」
政府に指示されずとも、情報が入ってきた以上説明を要求するのは当然のことだ。だからこそ西原は机をペンの柄で突き、語気を荒げるのだった。
日本側交渉団の長たる寺岡東スロリア課課長は、今のところ彼には余りに荷が重い任務に、ひたすら儀礼的な態度と官僚的な答弁に徹することで堪え続けているかのように見える。その補佐たる西原の仕事は、寺岡が順調な答弁を進められるようローリダ側の反論及び主張の矛盾を積極的に突き、ときには敵対感情をも発露することによって、相手に焦燥を誘うことにあった。
だが……何度か議論を応酬させる内、今現在自分が相手をしているナードラというローリダ側の交渉団長に対し、只ならぬ緊張を覚えずにはいられない西原だった。何と言うか、敵に対し踏み込む隙間も与えない印象を強く受けたのだ。中学から大学まで一通り齧った剣道で、熟練した老剣士を前に一歩も踏み出せなかった経験を西原は思い出していた。
緊張を抱えたまま三十分近くが過ぎ、そのナードラは言った。
「私は同意が欲しいのだ。あなた方が自らを我々に委ねるという同意が。議論など、はなから望んでいない。何故なら議論とは十分な発展と文化の成熟を経た、正統な種族との間に為されるものだからだ。私が思うに、あなた方ニホン人は未だその段階に至っていない」
静謐さを漂わせる容貌をそのままに、ナードラは抑制の効いた口調で語ったのだ。だがその内容はあまりに苛烈で、辛辣だった。そのような彼女の態度に、対話を許容する余地など西原には見出せなかった。
「何故判るのです? 何故、対話の余地がないと最初から決め付けるのですか?」
さすがの寺岡も、彼女の主張の尋常ならぬ雰囲気に、顔を蒼白にして身を乗り出した。
寺岡さん、必死になって来た……上司の心情は隣の西原にも伝わってくる。だがそれは決して好ましいことではない。相手が狼狽し始めたと向こうはとるだろう。彼等がその狼狽につけ込むような連中であることは、もはや明白だった。
「何故に私がここで講釈を垂れねばならぬ? あなた方に足りない知性を総動員して考えてみてはどうか? 我々は議論のためにあなた方を招聘したのではなく、我々の忠告を与えにここに招聘したのだ。そしてあなた方は、我々の忠告を受け容れる義務がある」
やはり……と西原は内心で歯噛みする。彼女の口調には、明らかに勝利を確信した余裕すら感じられた。彼女の隣を固める文官の、嘲弄の笑いを押し殺す素振りが、西原から平常心の鎧を剥がし掛けていた。
込上げる怒りを押さえ、西原は言った。
「あなた方に我々を委ねろと貴方は仰ったが、それは具体的にはどういう意味か? 場合によってはスロリアはもとより我々の主権をも否定しようという算段か? 納得の行く説明を頂きたい」
「主権? 主権を滔々と主張できるだけの軍事力も、政治力もない文明が主権を語るのか? 南スロリア海における両軍の配置を見るがいい。あなた方の勇敢な海軍将兵は、図体だけは大きい警備艇もどきの船で我が海軍の主力艦隊を前に不毛な戦いを強いられているではないか。それは何も海だけではない。陸上でも、二線級の装備しか持たぬ義勇兵を前に、あなた方の正規兵が苦闘を強いられているではないか?」
「何……?」
日本側交渉団の全員が怪訝な顔を見合わせるのを見計らうかのように、ナードラは言った。
「知らないのか? 老婆心ながら教えておこう。昨日午後一時未明、前進停止命令が出た直後。スロリア中部において前線偵察に従事していた我が国の義勇兵が潜伏していたニホン兵に射殺された。ニホン兵は近隣の森に逃げ込み、我が軍は反撃のため目下掃討作戦を展開中である」
寺岡が声を上げた。
「待ってください。その地点にはPKFは展開していない。何かの間違いです」
「本国に照会してみればいかがか? 幸い、通信機器の方はあなた方に一日の長があるようだ。それが自前の技術であるのかどうかは別としてな……」
と、口を挟んだのはロス高等文官だ。すかさず、西原は情報端末を操作する係官に目配せした。係官も目で頷き、流れるような手付きで操作を始める。
ナードラは言った。その瞬間、エメラルドの瞳が鈍い煌きを放った。
「話し合いの場を設けようという配慮で停戦した我等に非情にも攻撃を加えるとは……何と不道徳で悪虐なる種族か……! この場にいて同じ空気を吸うことすら忌まわしく思える」
その声は抑制こそ効いていたが、硬質な怒りの吐露は隠しようもなかった。事実、交渉が始まってすぐに電文報告という形でもたらされたそれに接した時、顔には出さなかったもののナードラは怒った。怒らずにはいられなかった。彼らニホン人は、文明種であることを自称してはいるが、結局はその自称にそぐわないまがい物であることを図らずも露呈してしまったのだ。
……そして現在の段階では、彼女は怒ってはいない。目の前にいる薄ら笑いを浮べた痩せ男をはじめ、あまりに没個性的な服に身を包んだ男どもを、彼女は怒る気にもならず、ただ侮蔑していたのである。
……それに、彼女の怒りを代弁してくれる者ぐらい、彼女の傍にきちんと控えていた。
「テラオカ大使!」
割れ鐘のような、ゴジェス‐リ‐サナキス担当官の声が響き渡る。
「我々はあなた方の撤退を忠告する。今直ぐに本国に掛け合い、貴国の軍艦を撤退させるのだ!」
「それは出来ません。遭難者及び難民の救助は海上保安庁の任務の範疇にある。海保のそれは戦闘行為ではなく、純然たる通常業務です」
寺岡は色を生し、語気を荒げた。ここで引いては取り返しの付かない事態に陥ることに、今更思い当たったかのようだった。テーブルから腰を上げたまま、サナキスはまるでものを言う獣でも見るような眼で寺岡を睨み付けた。
「この期に及んで、また虚言を弄するか?」
「虚言ではない。証明する途は幾らでもある!」
なおも語気を荒げようとしたサナキスを、ナードラは無言で制した。
「戦闘が目的では……無いのだな?」
西原は、無言のまま強く頷いた。それがナードラにとっては合図だった。背後に控える連絡士官を呼び、耳元に囁く。士官が退出するのを見届けた後、ナードラは再び寺岡たちの前に向き直った。
「……では、我々が証明してやるとしよう。彼等がお前達の言う人命救助に徹し一切の反撃に出ないことを、お前達の神に祈るがいい」
「どういうことだ?」と、西原。サナキスが口元に残忍な笑みを浮べた。
「お前達蛮族が、我等文明種と対等な会話が出来る立場にないことを、今教えてやるのだ」
「…………!」
驚愕は、光にも似た速さで日本側交渉団を駆け巡った。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後12時48分 南スロリア沖 ローリダ共和国海軍巡洋艦「クル‐ディラ」
ローリダ共和国海軍巡洋艦「クル‐ディラ」は、随伴の駆逐艦一隻とともに僚艦とニホン海軍との睨み合いを遠巻きに伺っていた。
「クル‐ディラ」は「転移」より遡ること四〇年以上前に就役が開始された「クル‐グゲラ」級大型巡洋艦の二番艦だ。当初充実した砲遁兵装と重厚な艦容で一般国民の人気を攫った本級も老朽化の波には抗いきれず、二度に渡る改装の結果として、各種ミサイルの装備やセンサー類を増設することにより緻密化した現代海戦への対応を可能なものとしていた。
そして、「クル‐ディラ」は現在、海外展開し、解放地や植民地の領海及び権益を防衛するローリダ共和国植民地艦隊の旗艦であった。
――――その「クル‐ディラ」艦橋。
ローリダ共和国植民地艦隊司令官ルトルス‐イ‐ラ‐ヴァン中将は、艦橋司令部で最も高い位置にある司令官用の座席から、「敵艦隊」たる海上保安庁の巡視船群の、味方艦の突進に翻弄される様子を眺めていた。壁を思わせる大柄な体躯を司令官専用に特注されたシートに沈め、二名の従卒に酌をさせているあたり、彼は指揮官というより王者としての風格を漂わせていた。
「無様なものですな」
と、彼の傍に控える副官イドナス‐ガ‐ロディス大佐がしたり顔で言った。細身の身体を包む青一色の、重厚な趣のあるローリダ海軍の制服が、あたかも甲冑のような観がある。
「敵の装備は貧弱な上に、我が軍の巧緻を極めた艦隊運動に翻弄されております。かくの如き目に遭う位なら、港に引っ込んでいればいいものを」
「そう言うな、イドナス」
乾いた笑いと共に、ヴァン提督はグラスにこの日何杯目かの酒を満たさせた。こういう姿勢を取る辺り、優勢な立場にある側の圧倒的なまでの余裕を伺わせる。
「弱いからこそ、こちらは誰も傷付かずに格好の実戦経験を得られるというものだ……それに、輝かしい勝利もな」
「確かに……」
と、ロディス大佐はクックック……と笑った。蛮族という連中は、いつも我々高等種族に実害のない勝利をもたらしてくれる。さらには勝利に付随する名誉をも、一滴の血も流さずして与えてくれる。だから軍人という仕事は辞められない。
「提督閣下。各艦が所定の位置に着きました」
通信士官の報告に、ヴァン提督はほんの数分前に渡された電文に目を凝らした。何度も文面を見返すたび、提督には刃のような笑みが浮かんでくるのを禁じえない。
「遊びはもう終わりだ。そろそろ連中に本物の海戦の何たるかを教示してやらねばなるまい」
そう言うと、ヴァン提督は命令を下した。
「ミサイルの照準を合わせろ。目標は敵の旗艦クラスだ」
俄かに、艦橋の火器管制室がその緊迫感を増した。ローリダ海軍の主要艦艇は指揮機構から火器管制、そして機関制御に至るまで艦を指揮する上で重要なあらゆる機構が艦橋部に集中している。そこから得られた各種情報や緒元は全て艦の指揮官たる艦長一人に集約され、艦長の命令一下で適切な判断が為されるという構想に基づいている。
ただ、「クル‐ディラ」の場合は、艦隊の指揮はおろか艦そのものの指揮もヴァンの手許に握られており、艦長のファルス大佐は実質上の副長に甘んじている。ローリダ海軍において艦隊指揮官が乗艦を半ば私物化する傾向は何も「クル‐ディラ」だけではなく、他の艦隊でも大なり小なり見られたケースではあった。
当直士官の報告が、艦橋に響き渡る。
『レーダーに反応。目標を識別中……捕捉完了。「ゴスポル」対艦ミサイル発射準備よし……!』
よく見ておけニホン人……ヴァンは酒を満たしたグラスを傾け、思った。
これが文明人の海戦というものだ。そしてお前達には、この教訓を生かすべき未来はもうないのだ。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後12時50分 南スロリア沖 海上保安庁巡視船 PLH-21「みずほ」
『……こちらレーダー室。逆探に反応。レーダー波を照射されています!』
この報告が何を意味するか、向井船長は瞬時に察した。
「方向は……!?」
『方位2-8-5。距離24.8海里……船長! 飛翔物体を捕捉。高速でこちらへ向かってきます! 極めて小さい!』
「ミサイル……!?」
船橋に詰めていた誰かが放心したように言った。向井は目を剥いて怒鳴った。
「面舵一杯! 全速前進!」
『駄目ですっ! 回避間に合いません!』
「…………!」
絶句した瞬間。向井は眼前が眩い光に真っ白に覆われるのを覚えた。身体がふっと軽くなるのと同時だった。
向井は思った――――ああ、おれは死ぬのだと――――そして、その実感は正しかった。
「クル‐ディラ」より放たれたミサイルは二基。その内一発が「みずほ」の船橋を直撃し、もう一発が上甲板中央を捉えた。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後1時7分 巡視船 PLH-21「みずほ」はその真白い船体の各所より赤黒い炎を上げ、やがて中央から二つに折れ青黒い海原に呑みこまれて行った。
他の巡視船には僚船を襲った悲劇に愕然とする暇も、そしてその僚船より運良く脱出した乗員を救助する暇すら与えられなかった。「クル‐ディラ」に続き、十分な距離を取ったローリダ海軍の各艦より放たれた対艦ミサイルの一斉射撃が、次々と巡視船群に襲い掛かってきたのだ。
ミサイルの第一波で、瞬時にして二隻の1000t級巡視船が沈没し、一隻の3000t級PLHが大破した。一方で巧妙な操船により、PLH-22「やしま」は二発までのミサイルを回避したが、そこに駆逐艦「クネロ」そして「ヴィネロ」より放たれたミサイル二発が命中。内一発は機関部を直撃し、「やしま」の戦闘能力を一瞬にして奪った。そこに、新たに飛び込んできたミサイル一発が後甲板のヘリコプター格納庫を吹飛ばし、アンテナ支柱を傾倒させた。
火炎の渦巻く「やしま」の船体に、甲板員の怒声が響き渡った。
「ホース出せっ、急げーっ!」
「ポンプ用意! 開け!」
「生存者は? 生存者はいるかぁ!?」
眼前に立ち塞がる炎の壁に、勢い良く海水を噴出す放水銃を構えた若い甲板員が叫ぶ。傷付き、汗と煤に覆われた顔には苦渋が滲みつつも、彼らは未だ船が生残る望みを捨ててはいなかったのだ。住む世界こそ変われども、海の治安維持に従事してきた男達の誇りが、容易に船を棄てることを許さなかった。
「畜生っ、沈めてたまるかぁーーーーーーーっ!」
だが勢いを増す炎は、堰を打ち破る鉄砲水のように隔壁を突き破り、甲板員たちを絶叫と共に薙ぎ倒していくのだった。同時に船体を食い破った浸水は、怒涛の如き勢いを以て機関室の要員を飲み込み、注排水システムの崩壊した「やしま」の浮力を急速に奪っていく。
『総員退避!……退避っ!』
その声も、沈み行く船の中では虚しく響いた。船首より船体を没し、やがて「みずほ」は船体の半ば以上を水面下に沈めていくのだった。その間、さらに一隻の3000t級PLHがミサイル攻撃により沈没した。
PLH-09「りゅうきゅう」もまた間断ない攻撃に晒されていた。
『ミサイル接近!……一一時!』
見張員の絶叫が入ってくる頃には、船は右へ回頭を始めていた。そこに、矢継ぎ早に松沢船長の指示が飛ぶ。
「舵そのままっ! 針路1-5-6に達したら戻せっ!」
「りゅうきゅう」はあっという間に旋回を終え、船首がすぐさま規定の針路に達した。運動性にすぐれたPLHのなせる業だ。
「針路1-5-6! もどせぇー!」
次の瞬間、舵輪を握る操舵員が忙しげな手付きで舵輪を逆方向に回す。彼の腕一本に乗員70余命の生死が掛かっているだけに、彼は鬼気迫る表情で舵輪に齧りつくのだった。全力でジグザグに航行しミサイルの追尾より逃れる手段で、「りゅうきゅう」はすでに二発のミサイルを回避している。だが、これが何時までも上手く行くと甘い考えを抱いている者はこの船の何処を捜しても皆無であった。これが自衛隊の艦船なら幾らでも回避手段が備わっているだろうが、不幸なことにこれは巡視船だ。少なくとも、現場海域から離脱でもしない限り完全な回避など不可能に近い。
波を逆立てて左に回頭を続ける「りゅうきゅう」の背後に、天界の業罰の如き眩い光弾が迫り来る……!
『ミサイル接近する!』
「面舵一杯……!」
松沢が叫び、船が右に船首を向けかけた次の瞬間。光の矢は「りゅうきゅう」左舷至近に追い縋るかのように着弾した。着弾の瞬間船体は大きく揺れ、逆立つ大波に上甲板の大半が洗われた。船橋でも烈しい振動で海図室の白熱灯が割れ、石川航海長が転倒の衝撃で頭を強かに打ち、一時失神した。
そして、船の速度がいきなり下がるのを船橋の誰もが感じた。
『こちら機関室! ボイラーに浸水!』
衝撃的な報告に、船の足が奪われ行くのを、皆が戦慄とともに実感した。着弾の衝撃、もしくは炸裂したミサイルの破片が船体を破りそこから浸水が始まったのだ。
そこに見張員の報告!
『八時方向よりミサイルッ! 接近する!―――――』
それは、まさに死神の囁きだった。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後1時9分 ノドコール首都キビル郊外 ローリダ植民地駐留軍司令部
ここより1000km以上を隔てた海の涯で繰り広げられているであろう破壊と殺戮のもたらす衝撃に、そしてそれらを招来したのが自分たちの交渉能力の無さにあるのではないかという疑念とに打ちひしがれている日本側交渉団を、ナードラはただ冷厳なまでに緑の光を湛える瞳で睨んでいた。
「聞けニホン人……この世には支配する者と支配される者しかいない。もし前者たるを望むならば戦を、後者たるを望むならば隷属を……あなた方は、何れをお望みか?」
今現在もローリダ艦隊の攻撃を受け、壊滅の危機に瀕している巡視船群の報に接する交渉団に、ナードラの言葉は冷徹に降り注いだ。
「あなた方の態度は艦隊を差し向けてきただけ敵対とも取れるし、我等の攻撃に無抵抗であるだけ隷属とも取れる……どちらなのだ? その点に関し、我等は納得のいく説明を求めたい」
柳のような指で顎を撫でる仕草は、洗練された王侯のそれだったが、滑らかなソプラノで出る言葉は、悪魔のそれだった。神は残酷だ。このような美女に、かくの如き外交の才を与え、我々の前に引き合わせたという点において!……それを思い、西原は内心で歯噛みした。
「彼らにも……妻や子はいるんだぞ」
ナードラは続けた。西原の言う「彼ら」が、挽回し難い苦境にある海保の隊員にあることを一瞬で察したかのようだ。
「……あなた方の勇敢なる海軍将兵には哀悼の意を表するが、彼らの対処はいささか稚拙の観も免れぬな」
口にする内容にも節度が無ければ、窓から臨む木々に目を泳がせる態度にも一片の礼節も感じられなかった。
「……彼らは兵士ではありません」
沈黙から一転し、改まった口調で口を開いた寺岡に、ナードラの柳眉が歪む。
「何……?」
「彼らは……兵士ではない……!」
震える声で、寺岡はナードラを睨み付けた。かつては温和さを漂わせていたはずの眼鏡の奥からは、すでにそれらは消え、代わりに光るものが宿っていた。
「今現在……あなた方がスロリアの海で行っていることは戦闘ではない。虐殺だ……!」
この声に、対面するナードラ以上に、隣の西原の方が驚愕を覚えたかもしれない。何か信じられないものでも見るような目で、西原は隣席の老外交官に目を見開いた。
「あなた方は、何故に殺すのです? 何故に破壊する? 何故ですか?」
「これほどの事態を引き起こしておいて、あなた方は何の責任も無いとしらばっくれるおつもりか……? スロリアにおいてあなた方の為し、生み出す全てが我等の生存と自由を脅かすものであり、明白なる脅威なのだ」
「…………!」
「……そして我等ローリダは、我等の神の名においてそれら全ての脅威を排除し、掃滅する使命を与えられている。それらは全て、キズラサの神に与えられし明白なる天命なのだ」
「その始まりから滅ぼされてしかるべきものなど、この世には一つとして存在しない!」
寺岡は怒鳴った。そこにはかつてのように、第一線の官僚でありながら日々窓際職に甘んじていたかつての「気弱なお役人」という面影は一片も無かった。間近から彼に接する西原の表情にも、次第に明るさが戻りつつあった。毅然とした表情をそのままに向き直ると、西原は言った。
「……あんたたちの目的が、その実スロリアにないことはよく判った」
「…………」
ナードラは黙っている。その沈黙が、返って無視しがたい不気味さを漂わせていた。
「あんたたちの目的は……日本だな。日本を、滅亡させるのか?」
「我々の神と信仰にとって敵となり得る何者にも、我等は躊躇はせぬ」
「よく判った!……交渉の余地など、無いということだな?」
寺岡が、ゆっくりと立ち上がった。
「今回の交渉で、我々が何も得られないということはよく判りました。またの機会が来るまであなた方の方針の再検討を促し、打ち切りとしたい」
そして、西原へ視線を転じる、西原もまた書類を纏める手を止め、無言で寺岡に頷いた。一斉に席を立ち、退出の用意に取り掛かる日本側交渉団に、ナードラの隣に控えるロス高等文官が、例のキンキン声で語りかけた。
「……残念ながら、スロリア洋上で再び実力行使に出る必要がありそうだ」
「何ですと……?」
椅子に半身を凭れ掛けさせたナードラが、呆れたように嘯く。
「我等も甘かった。あなた方に誠意を期待するというのは有りうべからざる間違いであったのだ」
「どういうことだ?」
西原の問いに、サナキスが下品な笑い声を上げた。
「あの海に展開しているのが、洋上を行く艦隊だけと思っているのか? つくづく……お目出度い種族だ」
「…………!?」
ナードラの両隣に立つ二人の、意味ありげな笑み……それは、西原の問いに対する不吉なまでの回答だった。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午後1時27分 南スロリア沖 海上油田試掘基地「てんりゅう」
「見ろ……!」
一人の作業員が指差した方向には、幾条もの黒煙が立ち昇っていた。それらが圧倒的なローリダ艦隊を前に壊滅状態に陥った海上保安庁の巡視船の、洋上に標された墓標であることに皆が思い当たるのに時間は要しなかった。
「……なんてこった」
ある者は愕然とし、またある者は呆然としてことの顛末に思いを馳せた。二昼夜に及んだ洋上での睨み合いの、あまりに意外で衝撃的な顛末に、語るべき言葉を持つ者はいなかったのである。
「俺たち、これからどうなるのかな?」
「さあ……」
「ここまでいいようにやられたんだ。このままじゃあ引っ込みがつかないよ」
「コラッ、戦争だかなんだかしらんが俺らには関係ねえ。さっさと持ち場に戻らねえか!」
現場監督が、水平線の彼方に目を凝らしながら語り合う作業員達を怒鳴りつけた。
だが事態は、殲滅の現場から100海里近くを隔てた場所から事の顛末を伺っていた彼らに、傍観者たるを許さなかった。
仕事に戻ろうと、コーヒーの空き缶を海に投げ捨てようとした一人の作業員が、水平線の彼方にあるものを認めて顔を曇らせた。
さらに目を凝らす内、それは海中を這うように延びる二条の線となり、こちらにまで迫って来るのがわかった。男は自分の現在拠って立つ採掘リグに、重大な脅威が迫りつつあることを悟らずにはいられなかった。だがその正体に男が気付いたとしても、彼はそれに対しもはや言及する舌を持たなかった。
「魚雷……!?」
声にならない声で、彼は呻いた。
次の瞬間、烈しい衝撃を伴った水柱はリグの支柱の悉くを折損し、振動に足を滑らせた多くの作業員を海原の只中に叩き込んだ。