第一〇章 「スロリアをわが手に」
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前10時23分 ノドコール首都キビル郊外上空 B-747改 政府専用機
『―――――間も無く着陸体勢に入ります』
インターコムを通じキャビンに響き渡る機長の声に、座席に腰を沈め資料の熟読を行っていた日本国外務省東スロリア課課長 寺岡祐輔は、自らの背中に電流にも似た緊張が走るのを感じた。
傍目からは、禿げ上がった頭に黒縁メガネの印象的な、痩せぎすで気弱そうな中年男という感のある寺岡だったが、事実その通りで彼が現在の地位にあるのも、スロリア方面での外交活動にさしたる成果を挙げたわけではなく、ただ定年までの短い年数をただ消化させるために、外交的優先度の大して高いとはいえない東スロリア方面における日本外交の頭目に祭り上げられた程度の存在でしかなかった。そんな彼を交渉の日本側代表に充てるのには、閣僚のみならず外務省の内部からも異論が出たものだ。
だが……結局は河首相の一存で決まった。その実力の程は別として、スロリア方面で発生した外交懸案への対処にはスロリア課の人間を充てるのが筋であるし、なまじっか交渉力に優れた人間を充てて交渉を先鋭化させる危険性より、指示されたことを愚直なまでに寸分違わず主張してくれる確実性を河は選んだと言える。
交渉の打診からその受諾、そして交渉団の選定から準備までわずか二日――――その間の、東京の本省の混乱振りは、今思い出しても寒気を禁じえない。先方に関する数少ない外交情報や資料を収集、解読し、分析するためにフル稼働する文字解析用スーパーコンピューターの軋み。翻訳係の悲鳴。そして、連絡や予定策定のために省内を縦横無尽に駆け回り、省内の電話回線をパンク寸前まで使い回す所員の怒声……そこまでの努力を払ってもなお、現在もスロリア中~東部で紛争状態を現出しているローリダ共和国という未知の勢力を前に、今日の交渉が成功するという確固たる根拠を、交渉の当事者たる誰もが未だに見出せずにいたのである。
それでも政府の期待は大きい。本来なら、課長クラスが交渉のため外国に乗り付けるのに使用するはずのない政府専用機まで動員されたことが、今回の交渉にかける政府の意気込みが判ると共に、プレッシャーとなって寺岡の肩に圧し掛かってくるというものだった。寺岡たちは、現在進行形にある対立状態の終息の他、武装勢力侵攻時に拉致されたと見られる現地人と現地在住の邦人合わせて1200名を救い出す任務をも負っている。勿論、一機では全員を連れて帰れないため、第二陣を救出するべく用意されたもう一機のB-747がスロリア東端のノイテラーネ国際空港で待機状態にあり、交渉の成功と前後して追及してくる手筈となっていた。
「…………」
相変わらず暗鬱な表情を隠さず、寺岡は機外を臨む窓の外へ視線を転じた。つい五分前まで、スロリア西部空域に差し掛かるや否や出現し、機体の左右前後をがっちりと固めていた「武装勢力」のジェット戦闘機は、すでに散開し影も形も無くなっていた……そう、当初は小火器のみで武装した軽武装の小集団と思われていた「武装勢力」は、その実彼等独自の空軍はもとより独自に戦車、大砲をも保有し、さらには強力な水上戦力すら持っていたのだ……!
大規模な侵攻から占領まで完遂できるほどの統一された指揮系統を持ち、あまつさえ独自の空軍、そして海軍力まで持つ「武装勢力」などあるわけがない。それらの調達、維持にかかるコストと工業的なバックアップを考慮すれば、今回交渉を打診してきた「ローリダ共和国」を名乗るこの武装勢力の元締めは、相応の社会基盤に基づいた国家形態を持つという予想が防衛筋からは出されていた。要するに、日本にとってそのような国家がスロリアを挟んだ近隣に存在し、その周辺に対し侵略的な意図を持つこと自体寝耳に水だったとすら言えた。
あの「転移」から十年。衛星や各種通信網の整備。そして友好国からもたらされる各種情報など、日本国外の情勢を探る手段は「転移」当初とは比較にならぬほど充実しているとはいえ、この世界にはまだわからないことは数多ある。だが、「転移」から間もない内に、一歩間違えれば重大な事態を惹起しかねない有事が同じ地域で、それも陸海の二正面で起きているという事実は、日本側にとって「転移」以来、日本の国土と国民とに降りかかる創造主の悪意を感じずにはいられないものであったのだった。
「……課長、まもなく着陸します。シートベルトを着用してください」
――――寺岡が我に帰ったときには、客室乗務員の空自隊員が何時の間にか彼の傍にいた。思えば政府専用機の運用を一手に任されている航空自衛隊もまた、今回の事態の急転に翻弄された組織の一つであるのかも知れない。それでも、未知の地域へのフライトプランの作成は勿論のこと、通例の外国訪問ならば予行演習として事前に実機を現地まで飛ばし必ず行うはずの事前飛行も行わない(行えない)異常事態に、彼らは見事な適応を見せている。寺岡たちにとって、不安は現在進行の行程ではなく今後の交渉の展開にあった。
救いを求めるように、寺岡は視線を向かい側の列の席まで泳がせた。寺岡たち外務省職員と数列空席を隔てた反対側に、屈強な、隙のない出で立ちの要員が着席していた。そして彼らは本省の人間ではない。
交渉団は不測の事態に備え、警視庁外事部より派遣された特命チームを連れていた。元は警視庁の対テロ特捜班で指揮をとった経験もある須藤真之警視を始め、警察内の多彩な出自の要員で固められたチームは、身辺警護は勿論のこと、交渉相手による盗聴や脅迫、そして不当な懐柔工作より日本側交渉団を守る役割を負っている。
――――着陸態勢に入る機体の窓からは、暗灰色の滑走路の、幾何学的なまでに縦横無尽に組み合わさった飛行場の全容が迫りつつあった。その一角――――戦闘機と思しき鋭角的な機影が居並ぶ区画に、寺岡は目を見張った。民間の飛行場?……否、ここは軍の基地だ!
「物騒なところですね」
と、寺岡の隣席から外を伺っていた西原 聡 東スロリア課事務官が、苦笑を隠さずに言った。それでも笑っていられるだけ、度量の面では彼の方が寺岡より一枚上であるのかもしれない。
接地……その軽い衝撃から続き、やがて速度をだいぶ落とした政府専用機は、エプロンへ向かいゆっくりと滑走を続ける。先方の準備は万全のようだ。それに滑走路に接したターミナルと思しき建物の屋上からは、物珍しさからか、兵士と思しき緑色の服装に身を包んだ男女が鈴なりになってこちらの様子を伺っている。
機体はエプロンと思しきコンクリート敷きの広大な平地まで誘導され、そこで停止した。
「さて……行こうか」
寺岡はシートベルトを外しながら皆を促した。個人的には気が進まないが、交渉団の指揮権の一切は自分にあるのだ。自分が行くと言わずして、何故皆が付いて来ることがあるだろうか?
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前10時37分 ノドコール首都キビル ローリダ共和国植民地ノドコール総督府
『――――ご覧ください。今ニホン側代表団がサン-グレスに記念すべき一歩を標そうとしています。ニホンは、国防軍の反撃に恐れをなし、今こうして交渉団を送ってきたのです。今この瞬間より、ローリダの輝かしい自由の歴史に刻まれるであろう新たなる勝利の一ページの序曲が、神の祝福の下高らかに奏でられんとしています!』
国営放送局の生中継映像は、戸惑いがちな表情を隠さず、巨大な飛行機のタラップを降りる日本側代表団の姿を映し出していた。
「あの顔を見ろ、品性の欠片もない」
ナードラの批評は容赦がなく、そして的確だった。旧ノドコール中央銀行を接収した植民地総督府の最上階。壮麗な調度品に飾られたノドコール総督の執務室に彼女はいた。
美酒を満たしたグラスに形ばかりの口をつけると、ナードラはノドコール市街の全容を一望できる窓の傍へと向き直り、優雅な歩調で歩み寄った。
「議員におかれては、遠慮のない批評をなさる。人間ではないものの遊び相手をするとでも思えば、多少の気休めにはなるだろうに」
執務室の一隅、そこに位置するソファーに身を沈め苦笑する長い赤髪の若い男は、均整の取れた長身を過度なまでに装飾された軍服と赤いマントに包んでいた。植民地ノドコール総督デルフス‐リカ‐メディスその人である。
メディスの組まれた長い足、グラスを握るしなやかな手付き、爽やかさの影に名状し難い悪意を秘めた笑み……そうした立ち居振舞いの端々に、これまで蓄積された教養と高貴な血筋の発露をそれらに疎い人々の目にも感じさせることができた。今は亡き数代前の執政官の長子として生を享け、若くして総督の職にあること三年。その統治手腕の高圧的なること、独立勢力に対する弾圧の仮借なきこと、さらには植民地における王侯のような振る舞い……それらの何れも本国では広く知られるところであったし、彼の行状に批判的な者は本国にも決して少なくはなかった。
……が、ナードラはそれに言及する口を持たない。
「聡明なる議員におかれては、さぞや今次の交渉に絶対の勝算がおありなのでしょうな?」
「勝算……?」
戯れるようなメディスの問いに、ナードラは微かに笑った。
「勝算とは、識見、知性ともにほぼ対等の相手に抱くものです。私が交渉でこれまで接してきたのは、抱くまでもない者ばかりでした」
「…………」
メディスは、グラスに新しい酒を注いだ。
「で……その交渉のようなものは今日中にでも終るかな?」
「何故……聞く?」
「祝賀会の準備をさせているのでね。出来れば料理が冷めない内に終らせていただきたい」
ナードラは微笑みとともに窓から広がる市の威容を凝視する。ロケット弾の直撃すら跳ね返す超硬度ガラスに延ばした手と、視界の先に広がる征服された市の全容とが重なり、ナードラは沈黙を保ったまま、延ばした手でそれを握りつぶすようにした。
「祝賀会は全てが終ってからでよい。その全てが終るのに、三月もかからないでしょう」
「全て……とは?」
ナードラはメディスを省みた。その眼差しに、「そんなことも判らないのか?」という光を宿していることにメディスは気付いたが、別段気にも留めない。彼女の考えることに、何等興味をかき立てられなかったからだ。
それを知ってから知らずか、ナードラは言った。
「ニホンという国が、この世界から消えるまで」
メディスは低い声で笑った。
「つくづく女の考えることは恐ろしい。逃げ道を作っておくという憐憫もないのかな?」
メディスを省みる眼差しをそのままに、ナードラは言う。
「憐憫もまた……対等の相手に注ぐもの。この世界では弱き者、拮抗できざる者は遅かれ早かれ滅びる。それが三月後でも来年でも変わりはない」
それは、少なからず戦慄を以てメディスの琴線に触れた。
外から、入室を求める声がした。会場へ向かう準備が整ったのだ。
交渉開始予定時刻まで、あと一時間……執務室のドアへと歩み寄りながら、ナードラは心中で至近の未来を反芻した。その「未来」によれば、その三十分後にスロリアはもとよりニホンの運命もまた、共和国ローリダの掌中に決するのだ。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前10時38分 ノドコール首都キビル郊外 サン‐グレス ローリダ植民地空軍基地
衝撃は、タラップから地上に足を下ろした途端に襲ってきた。
一行を待ち構えていたかのような、畳み掛けるような報道陣のフラッシュに寺岡達は驚愕を禁じえない。自前の報道機関を連れてきているという点でも、交渉の相手がぽっと出の武装勢力ではなく独自の社会基盤を備えた「国家」であるということは疑いようもない事実だったが、その報道陣が浴びせかけた質問には、それ以上に皆が眼を白黒させたものだ。
「――――西スロリアにおける侵略行為を停止する用意があるというが、本当か?」
「――――『グリュエトラル』号の乗客を解放しないのは奴隷として売り飛ばすためか?」
「――――前線で活動中の国防軍医務部隊の虐殺の責任を認めるのか?」
「――――リーゼ-タナ-ラン看護兵を監禁し、虐待しているという話は事実か?」
浴びせかけられた質問の何れもが、日本側交渉団には青天の霹靂であった。身に覚えのない質問を矢継ぎ早に浴びせかけられ愕然とする寺岡達の前に現れたのは、無表情を崩さない軍服の壁。
「貴公の警備を担当するシュレンガー大尉です。以後お見知りおきを」
寺岡達の前に進み出たのは、いかにも叩き上げといった感じの中年の大尉だった。言葉では矢鱈と警備を強調するものの、その真意が監視にあることぐらい西原でも容易に想像が付く。大尉の命令で過剰なまでの数の兵士――――それも完全武装の――――が有無を言わさず寺岡達の周囲を固め、彼らに促されるがままに寺岡達は歩を進めたのだった。
「どうします? 須藤さん?」
と、西原聡 外務省東スロリア課事務官は隣を歩く須藤警視に聞いた。もとは第一線の警察官として数々の修羅場を潜っているだけあって、彼ら特命班は軍服の威圧の中でも堂々としていた。須藤自身、外見は撫で付けられたオールバックに銀縁眼鏡の似合うエリート会計士といった面持だが、その眼鏡の奥にはかつて「前世界」に於ける朝鮮動乱の折、某組織の拠点への強制捜査時に一睨みで100人の組織構成員を怯ませたという眼光を閉じ込めている。
その須藤が、素っ気無い口調で言った。
「門島君は、どう思う?」
と、須藤は彼の後に付き従う大男に言った。柔道六段、剣道三段、少林寺拳法五段という相撲取りのような恰幅のいい体躯に、やや禿げかけ、短く切り揃えられた銀色の髪。あたかも暴力団の幹部と見紛う程の門島 騏一郎は、元は大阪府警の「マル暴」(暴力団対策班)の出身だった。その筋では「ヤクザより怖い」と恐れられる精鋭部隊だ。
門島は大きな口を開け、笑った。
「こんなの、恫喝の内にゃあ入りませんて」
武装した兵士が一行の両脇で列を成し、ただ彼等が車に乗り込むのを見守っていた。その遥か背後では手空きの兵士か、ラフに軍服を着こなした連中が互いに談笑しながらこちらの様子を眺めていた。彼らは休養中の将兵で、きっとこちらに対する興味から見物を決め込んでいるのだろう。
程無くして交渉団は押し込まれるように車に乗せられた。一行が乗せられたのは公用車とわかる重厚な造りの車だったが、その前後をやはり、完全武装した兵士を満載した軍用トラックが固めている。
「警護と言うより、連行されているって感じですね」
「……まったくだ、俺たちゃここじゃあお客さんというより犯罪者らしい」
西原達は車内でそう話し合った。もちろん小声で。
車列は、市街地に入った。
事前の統制が行き届いているのか、付近は静まり返り、付近を走る車はおろか人っ子一人見受けられなかった。飛行場を出て以来、未だ速度を落とさずに走り続ける幅の広く、長大な専用車の中で、西原は憐憫の篭った眼差しで彼の上司を見遣った。その西原の視線の先で、彼の気弱な上司は、交渉の地として指定されたノドコールに一歩を標したときの混乱と衝撃を未だに引き摺っているかのように見えた。その彼と目を合わせた瞬間。政府が交渉団の長に彼を選んだのは間違いだったと、西原は確信した。怯え、悩む長を眼にするだけでも皆の戦意低下は甚だしい。
……と言うか、課長は運が悪かった。日本の外交と安全保障上何等意味を持たない地域を管轄するという、ある意味閑職に近い位置に祀り上げられた彼。その彼も、定年までの僅かな間スロリアで何も起きなければごく平凡な外務官僚として任期をまっとうできた筈だった。彼が東スロリア課課長に就任した時、誰もがそんなところで、まさかそんなことが起きようとは想像すらしていなかったのだ。その点では、寺岡に同情を禁じえない西原だった。
道は市街地を過ぎ、平坦な平野の広がる郊外となった。
そこではまた、趣の異なる風景が寺岡達の前に広がっていた。交渉団の車列とは逆方向に前進を続ける軍用車の車列。黒光りする野砲の砲列。規則正しい矩形に居並ぶ装甲車両の群れ。その間を走り回るオートバイは、恐らく伝令のものであろう。交渉の結果次第によっては前線へ振り向けられるであろう多種多様な兵器の列が、一本しかない交渉団の車列の走る道の両側に、圧し掛かってくるかのような威圧感を持って一行に迫ってきたのだ。
「……こういうのを、本当の恫喝って言うんだよ」
と、須藤がポツリと言った。あれほどの大兵力を前にしても動じる気配がないのはさすがと言うべきか。外の光景に目を奪われる西原は、胸の高鳴りを抑えられないというのに……
車列は重厚な正門を潜り、かつては王宮だったという建築物の広大な中庭に達した。そこが、在ノドコール植民地駐留軍総司令部であった。相手の領土を交渉のために訪れるのはともかくとして、軍の基地、それも相手国の軍の重要施設で交渉を行う辺り、サッカーで言えば完全なアウェイである。
交渉を一種の勝負とするならば、相手は是が非でも勝つつもりで居る……と、西原は確信した。
寺岡達が着くより早く、先方の交渉団は司令部の入り口に車を停めていた。その相手の車列の一台から、水場に降りる白鳥宜しく降車した白衣の女性の美貌に、心を動かされなかった男性はいなかったはずだ。西原もまたその一人だったが、隣席の須藤の言葉に、咄嗟に我に帰ったものだ。
「ああいう種類の女が、一番危ないんだよ」
と、須藤は言った。その時点では気の利いた冗談のように西原には思えたが、後にそれはすぐさま痛烈な教訓となって的中することになる。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前11時30分 ノドコール首都キビル郊外 ローリダ植民地駐留軍司令部
日本側交渉団には、一階の高級士官用会議室が控室として充てられた。
テーブルと椅子、そして燭台などの調度品は決して煌びやかというわけではなかったが、その抑えられた個性が、重厚な造りの部屋に相応しい見事なまでの調和を見出すことができた。さらには、控室の窓からは見事に茂った大木の青々と茂った全容を眺めることができ、ガーデニングが趣味という寺岡に至ってはあたかも自分の家に植えた木に接するかのように、窓から見える風景に目を細めていたものだ。
「寺岡さん、元気取り戻してくれたみたいですね?」
と、書記官が西原に囁いた。西原も、苦笑気味に頷いた。
「交渉が始まる前に、気を取り直してくれればいいんだけど」
寺岡は、席についた全員に向き直った。そこにノドコール到着以来の、緊張に身を任せるばかりの寺岡の姿は既になかった。敵地とはいえ、寺岡の顔は為すべき仕事を前にした男のそれだった。
「さて皆さん、これより交渉の手順を……」
「……待った」
と、寺岡を制する声。一同の視線が末席に集中する。
「……須藤さん?」
西原の絶句に何も言わず、須藤は人差し指を口に当て、「静かに」という身振りをした。そして隅に控える門島たち特務班に目配せする。それだけで意思は通じた。門島たちは鞄から巨大な覆いを取り出すと、窓という窓を塞ぎ始めたのだ。作業はあっという間に終わり、薄暗くなった部屋の中で突然のことに困惑する寺岡に、須藤は無言のまま紙切れを手渡した。
「…………!」
紙切れを手に取った寺岡の表情が一変する。驚愕の色を隠せない寺岡に続いて紙切れを受け取った西原は、走り書きされたその内容に我が目を疑った。
『注意。盗聴されている』
口をあんぐりと開けたまま、西原は須藤へ目を転じた。須藤が普段と変わらない平静な表情を浮かべたまま、軽く頷いた。その手には、小型の逆探知機が握られている……自然、情報交換と手順の打ち合わせは、「原始的ながら確実な対処法」である筆談で進めることとなった。
交渉自体は、現地に持ち込まれた小型軽量の高精度衛星通信アンテナと連動した携帯用情報交換端末を通じ、官邸の指示と助言を仰ぎながら行う。予定では、現時点で日本ではすでに緊急安全保障会議が招集され、総理官邸地下の緊急事態対応センターに総理大臣をはじめ閣僚や安全保障関係の専門家が集まり、交渉の推移をリアルタイムで関知し、交渉団への助言をも行うことができるようになっているはずだった。
衛星通信用アンテナを起動させた技術官が、「準備完了」の合図を送った。控室には特務班と、技術官をはじめ数名が残り本土との通信に従事することになる。
筆談による煩雑な打ち合わせが終了するのと、あのシュレンガー大尉が部屋に現れるのと、ほぼ同時だった。
「……ニホン側交渉団には、間も無く交渉の開始時間であるので、至急に会場へ入って頂きたい……!」
大尉の声に明らかな焦燥が混じっているのを、西原は聞いたように思った。
―――― 一方、司令部の最上階の一室。ノドコール駐留軍総司令官の執務室。
「……駄目です。ニホン側交渉団の動きは全く掴めません」
連絡士官の報告に、ノドコール駐留軍総司令官ナタール‐ル‐ファ‐グラス大将は、そのでっぷりとした体躯を揺らしながら、忌々しげに安楽椅子を蹴り上げた。
「シュレンガーも存外役に立たん。ニホン人の動静を一秒たりとも掴めんとは……!」
「盗聴が露見したとか……?」と、傍らに控えるノイアス‐ディ‐ファティナス参謀長。
「それはない……ないはずだ。彼らにはあの部屋しか出入りはさせないようになっている」
と言ったのは情報部長のクヴァル‐サル‐レディス中将だ。サルのような頬髯を弄びながらも、曇りがちな表情は隠さない。
盗聴の拠点は、ニホン人の控室のすぐ隣の区画にあった。傍目にそれとわかる出入り口はない、いわゆる「隠し部屋」というやつだ。短日時の内に設けられた幅三メートル、奥行き五メートル四方のその部屋は、交渉期間中情報部の要員が詰め、電子機器を通じた監視活動を行えるように改造されていた。
これまでの外交交渉はそれで通用した。壁に設けられた耳、窓に設けられた目を通じ、彼らは自在に相手の外交方針を把握し、それに応じて交渉の戦術を変えてきたのである。そうして戦果を上げた相手の悉くが、今やその国家主権を喪失し、ローリダの軍門に下ってきたのであった。
……だが、今回は少し勝手が違った。事前の情報が全く得られないのだ。言い換えれば相手には、隙がない。
困惑する男達の会話にも、ナードラは超然とお茶を啜っていた。
「あの部屋で彼らが何をしようが、私の関知するところではありません。何故なら……」
男達の目が、ソファーに身を沈めるこの場でただ一人の女性に集中した。
「……彼らが何を謀ろうが、結果は既に決まっているからです」
警備兵が、シュレンガー大尉の戻ってきたことを告げた。程なくして彼らの前に現れた大尉は、明らかに顔を紅潮させていた。それは東方からの使者に対する、やや「理不尽」な怒りのためであるのかもしれない。
「議員閣下に置かれましては、為し得る準備は全て整いまして御座います」
「シュレンガー大尉……?」
突然のナードラの呼びかけに、シュレンガーは恐縮して背を正した。
「ハッ……!」
「ご苦労でした。あとは私の仕事です」
恐縮しきりのシュレンガーを退出させると、ナードラはファティナスを省みた。
「この交渉が終れば、またあなた方の力を借りることになるでしょう」
「場合によっては、交渉中であっても協力することになろう」と、ブランデーをグラスに注ぎながらファティナスは言った。
「……そうでしょうね」
肩越しにファティナスを見詰めるナードラの口元に、浮かぶような微笑が宿った。
スロリア地域内基準表示時刻7月27日 午前11時42分 ノドコール首都キビル郊外 ローリダ植民地駐留軍司令部 将官用大食堂
彼我合わせて二十人前後で交渉をするにはその部屋は広すぎ、そして豪華すぎた。日本側交渉団の中には、西原の他にもそう思った者はいたはずだ。
「…………?」
呆然として、西原は頭上に下がる金色のシャンデリアを見上げた。シャンデリア自体は比較的最近になって取り付けられたものらしい……というのは、シャンデリアの調度と、高さにして一五メートルはあるかという天井を飾る彫刻から感じられる「文化」に、西原は名状し難い違和感を覚えていたのだった。何というか、文化の異なるものが不自然に並存しているような印象を、西原は受けたのだ。
もっと言えばそれは、この壮麗な建物と現在の主との間にも感じられた。文化とその担い手から感じる印象が釣り合わないということが、果たして在り得るのだろうか? ひょっとするとここは……ここは、元々彼らの領土ではなく、彼らに占領された他の種族の土地?
そのまま、日本側交渉団は十分ほど待たされた。
日本側を待たせて入室して来たローリダ側交渉団の中央に、入場する間際に見た美しい女性を眼にしても、西原は意外という感を抱かなかった。その女性に、生来の美しさの上に指導者としての風格を、彼が無意識の内に感じ取っていたためであったのかもしれない。
西原は女性に目を細めた。歳の頃は二〇代後半? 礼装と思われるマントと古代ローマの長衣を組み合わせたような白衣に、長身の部類に入る肢体を涼しげに包み、艶やかな白い肌の各所からは、大きくもなくさりとて細々とはしていない宝飾品がその煌びやかさを控えめに主張している。隣に居並ぶ男達と比して、彼女の趣味はいい……と、半ば本気で思う西原だった。
少し癖のある黒髪に覆われた卵型の顔立ちは息を呑むように美しく、日本側の幾人かに、「高嶺の花」という単語を連想させたかもしれなかった。この新世界に、こういう美女がいるのかと新鮮な感動にさえも襲われてしまう。
……だが、涼しげな目元の、緑色の眼光が聊かも表情を宿していないことに西原が気付いたまさにその時、隣の寺岡が挨拶した。
「日本国外務省東スロリア課課長の寺岡です。以後お見知りおきを」
「事態は切迫している……自己紹介などしている悠長な暇が、あなた方にあることはいささか理解できぬが、麗辞は受取っておく」
「…………!」
反応の内容の深刻さに日本側の一同が気付く間、ナードラは自分の交渉相手を一瞥した。
黒を基調とした画一的な服装の男達。こちらと対面する形となる横列の、その真ん中で事態を取り繕うとしているかのような、にこやかな笑みを浮べる初老の男。それが日本側交渉団の長だった。
「…………」
沈黙を保ったまま瞳を凝らす内、本来ならこうして自分と向かい合うことすら敵わぬはずのこの小汚い男と、交渉ならぬ非建設的な「会話」を交わすことに、彼女はすでに閉塞感を覚え始めていた。ニホン人とは、かくも無能な出で立ちの男を容易に外交の先頭に据えるほど愚かな種族なのか?
そのナードラに代わり、外交部スロリア担当官のゴジェス‐リ‐サナキスが声を上げた。恰幅がいいだけに、声も恫喝するかのように大きい。
「今を遡ること六日前、西スロリアの我が保護領に侵入したニホン人が、現地で布教活動に当たっていた司教に狼藉をはたらき、さらには現地種族の姉妹ラムシア‐ミレスとキュリア‐ミレス両名を略奪し東方へ拉致した。それより三日後の七月二四日。ニホン側の艦艇が南スロリア沖において我が国の商船グリュエトラル号を不法に拿捕し、現時点に至るまで乗員乗客合わせて1451名を洋上において監禁している……」
一息つき、サナキスは続ける。
「……また同日午前。スロリア中部地域で医療支援活動中の我が軍後方支援部隊がニホン軍部隊の攻撃を受け、一名を除きその悉くが虐殺された。その一名、リーゼ‐タナ‐ラン看護兵の消息は現時点に至るまで不明である。ニホン側にはまず、これらの事態を招来した真意及び責任の所在について明確なる説明を求めんとするものであるが、如何?」
寺岡は切り出した。
「近来の一週間近くに渡る事態の急変には、当方も苦慮しておるところです。だが、責任の本質は事前の警告もなく大規模な武装勢力をスロリア東部に浸透させ、非戦闘員に対する数々の破壊、略奪行為を働いたあなた方にある。そしてあなた方の侵攻は現在に至るまで継続し、我が国国民にも少なからぬ犠牲が出ております。その多くが、国際協調の精神に基づき現地において種種の支援活動に当たっていた民間人です。ローリダ側にはまず、前述の現地邦人と、彼らと同じく略取の対象となった現地住民の消息を明らかにするとともに、生命保証の確証を求めたい」
「支援活動……?」
無表情を保ったまま、ナードラは呟いた。対面する日本側にはっきりと聞こえる声で。
「文明を知らぬ原住民にまともな文明を与えようとせず、又は出来もせず、徒に食わせる方法のみを教えるのがあなた方の支援活動か?」
西原が言った。
「我が国には『衣食足りて礼節を知る』という言葉がある。文明云々というより、まずは安定した生活基盤の確保こそが、諸外国の恵まれない人々を段階的に発展させるための第一歩であると考えているがどうか?」
「結論から申し上げれば、我々の考え方はあなた方のそれとは違う」
と、ナードラの隣に控えた短躯、かつ痩せぎすの男が言った。キンキンした、子供じみた声が向かい合う西原には煩わしい。今次の交渉に際し、ナードラの随員として殖民省より付き従ってきた高等文官オルス‐ディ‐ガ‐ロスだった。
「先進的かつ高等に発達した文明は、より発達の遅れ、野蛮な文明の民に自らの文明の優位なることを示し、自らの文明の利器を以って彼らを新たな段階へ導かねばならぬ。それが、自然の摂理であり我々ローリダの民がこの世界に足跡を標した意義というものだ。あなた方ニホン人には、それがわからぬと見える」
「文明の優劣を、誰が、何を以って判断するのか? 出来うれば貴方の私見をもう少し伺いたい」
西原は声を荒げた。返事の次第によっては、この交渉における彼らの真の意図を引き出すことに繋がるかもしれない。
さらに口を開こうとした西原を、寺岡が遮った。笑顔を崩さず、彼は言った。
「いささか脱線が過ぎたようだ。本題に戻りましょう。まずは、あなた方の主張に対する我々の見解だが……」
衛星通信で文書化されて送付され、携帯端末上に表示された資料を元に棒読み口調で政府見解を述べる寺岡の隣で、西原は憮然としてナードラを睨み付けた。当のナードラの方は西原を一瞥もせず、ただ淡々と寺岡へ涼しい眼差しを注いでいる。その超然とした姿に、交渉の困難なることを予期せざるをえない西原だった。