表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/18

第九章 「逃避行」


 スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午後1時9分 スロリア中部。


 だだっ広い枯野の中を、灰色の制服が散開し歩き続けている。霧が晴れ、強烈な烈日に照らされ黄金色に輝く枯野の中で、兵士達はその中を蠢くだけの黒い影と化していた。その影のいずれも頭と銃身を垂れ、ただ無気力のままに歩みを進めているように傍目からは見えた。


 その日の朝。民族防衛隊を衝撃的な報せが襲った。現地点以東への進撃を停止する命令が下ったのである。進撃の拠点たるノドコールの情勢不安定が、その理由だった。


 「各部隊は別名あるまで到達地点において待機。これ以東への前進を禁ず」


 その報せに、緒戦の勢いを保ち、一気にスロリア全土を併呑せんとした将兵としては意気の消沈を禁じえない。キズラサの神に約束された解放戦争を押し止める理由が、このスロリアの大地の何処にあるというのか?


 そして意気消沈たることを飛び越え、必死になっている男が若干一人いた。


 「貴様ら何をボサっとしてるんだ! さっさと探せ!」


 枯野一帯に、兵士達を急きたてるかのような蛮声が響き渡る。「狩人(ハンテル)」ルガー指揮下の民族防衛隊の一隊が、現在行方不明のリーゼ‐タナ‐ラン看護兵の捜索を始めて、すでに三日が過ぎようとしていた。


 発端は、「ニホン軍の襲撃」を受けた移動医務班の被害状況を確認する作業の最中だった。現場を「偶然」発見した民族防衛隊に続いて到着した国防軍の一隊が、惨殺された味方の遺体を収集する課程でどうしても一人分足りないことが判明したのである。


 それに続く検証の結果。その「足りない一人」の素性まで特定された!……遺体の検証場所となった国防軍の野戦病院で晴れて「行方不明」扱いとなったその従軍看護婦の記録と写真を見せられた時の衝撃を、ルガーは未だ引き摺っていた。


 金髪、蒼い眼の女性など、自分が踏み入ったとき現場にいたか? 否、居なかったではないか!? まさか、あの時の不徹底な探索の結果として、そこにいたはずの彼女を俺たちは撃ち洩らしたと言うのか?……ルガーは混乱し、自問自答した。あの「証拠隠滅」に立ち会った部下もまた同じ意見だった。


 そしてルガーの想像は、彼女が生きて国防軍の前線に保護されれば起こるであろう最悪の未来に行き当たった。程無くして、そこに行き着く脈路こそ違え彼の部下達も同じ想像に行き当たった……そして彼らは、団結した。ただ一点、生存している可能性のある「目撃者」リーゼ‐タナ‐ランを何としても探し出し、忌まわしい過去と共に抹殺するという点において!


 ――その最悪の未来を想像し、一人呆然と枯野に立ち尽くすルガーを部下が呼んだ。


 「隊長! ここには居ませんっ!」


 「居ないわけがあるか!? 貴様らそれでも栄えある民族防衛隊か!?」


 栄えある民族防衛隊なら、自分で誤射を引き起こしておいて尚且つ目撃者の抹殺を図るはずが無い。だが自分の言葉の矛盾に、当のルガーはおろか怒鳴られた部下も全く気付いていなかった。

部下は持参した地形図を広げ、ルガーに指し示した。


 「ここはもう探しました。ここも……ここも、この地点も探索済みです。この周辺にはもう探す場所はありません!」


 「何おぉぉぉぉぉ……?」


 充血する眼もそのままに、ルガーは部下を睨み付けた。一瞬怯んだ様子を見せたものの、部下は意を決したかのようにルガーに向き直った。


 「隊長、もう駄目です。上に正直に報告しましょう。今なら未だ間に合いま……」


 ルガーの返事は即座で、そして撤回不可能だった。一瞬にして引き抜かれた拳銃で、その部下は全部を言い終える間も無く胸を撃ち抜かれたのである。


 「このバカが……血迷いやがって」


 「隊長、これは……?」異変に気付き駆け寄ってきた別の部下が、唖然として上官に眼を向けていた。


 「いきなり俺に銃を向けようとしやがった……だから懲罰を与えたまでだ」


 「…………?」


 眼を白黒させながら、その部下は地面に倒れた同僚を見遣った。その手に、銃は握られていなかった。あまりのことに言葉を失う部下を、ルガーはその血走った眼で睨み付けた。


 「何だ?……俺の言う事を信じられんのか?」


 「いえ……まさか」


 部下の足は、ガクガクと震えている。もはや彼は、上官である男に対する純粋な恐怖に囚われていたのである。


 ルガーは眉一つ動かさずに、倒れた男から血塗られた地図を分捕った。地図を拡げ、ここからさらに東方へと眼を凝らした。


 「もっと東に行くか……」


 「し、しかし隊長。これ以上は軍令により……」


 「誰が戦闘に行くと言った?」


 「ハ……?」


 「これは指揮官たる俺の判断による偵察活動だ。誰が口を差し挟む権限がある?」


 今度は笑みに溢れた眼で、ルガーは部下を睨んだ。先程の追い詰められたルガーとは打って変わった彼の姿に、狂気を感じない者は皆無であろう。




 スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午後1時10分 スロリア中部。


 気が付けば、自分の遥か上空を、大きな鳥が舞っていた。


 「…………」


 多少の希望と羨望とを篭め、俊二は手を空に翳しながら蒼空の舞いに見とれていた。いつか還れるという希望と、自分もあのように空を飛べたら……という羨望とをその眼差しに篭めて。


 希望と羨望こそが、我が歩く望み。


 つい一時間前まで歩いていた枯野の名残は目に見えて消え、今では森の中の、清涼感溢れる川沿いを俊二は歩いていた。丁度いいことには、川は東へと向かって続いている。川自体は決して大きくはないが、それでも水の流れる音は耳に心地いい。自然、脚にも力が入った。


 烈日の支配するスロリアでも、森に入れば多少の涼は取ることが出来る。ただ身に集る羽虫の類を追い払うのが至難の業だ。道もいいとは言えない。それでも、だだっ広い平野を歩き続けてその身を追手の目に晒す危険を冒すよりは遥かにいい。


 首に食い込む吊革に煩わしい疼痛を感じながら、俊二は首に掛けた六四式小銃を見下ろすようにした。その銃身には、しっかりと二五発入りの実弾倉が叩き込まれている。「彼女」と初めて出逢った四日前から、銃の扱いには慎重になっている俊二だった。


 「彼女」と初めて会った四日前の夜は、何時でも鮮明に思い出されてしまう。


 敵か味方かといえば、彼女は敵だった。だが、無害な存在だった。あの時、大破したトラックの荷台で彼女が自分に向けた拳銃には、弾が入っていなかったのだ。そして俊二は彼女に小銃を向け、トラックの荷台から外に出した後、自分が致命的な過ちを犯していたことに気付いた――自分の銃にも、弾が込められていなかったということに。


 ……それでも、彼女は俊二に従った。


 俊二はその晩、かつては死と破壊が支配していたであろう「戦場址」で野営することにした。腹が酷く空いていたことも、俊二を野営への衝動に駆り立てた。

 俊二は枯れ枝とライターで手早く火を起こした。スロリアに赴く直前に日本で受けたサヴァイバル訓練が、ここで役に立った。あのときは鬼のように憎らしく思えた空挺上がりの教官が、自分の手で勢い良く燃え上がった炎を初めて眼にしたとき、神様のように思い起こされたものだ。なるほど「教官は神様と思え」とは、よく言ったものだ。

 炎を前に、俊二は嬉々として戦闘糧食の包みを取り出し、その中から水を節約するためにクラッカーとジャム、そして缶詰とを選び出した。クラッカーの封を開き、待望の一枚目を口に運びかけた時、俊二は自分を凝視している人影に気付いた。


 青い、円らな瞳が、一息つこうとする俊二を無表情に見つめていた。そして俊二は次の瞬間には、炎に照らし出された女性が、稀に見る美少女であることに初めて気付いたのだった。


 「…………」


 俊二は食事を摂る手を止め、未だ封を開いていないクラッカーと、コンビーフの缶詰とを差し出した。


 「これ……食べなよ」


 正確に言えば、差し出そうとした。だが少女は、敵意溢れる眼差しで俊二を睨み付けると、何も取らずに再びトラックの荷台に立て篭もってしまったのだ。


 へんなやつ……俊二は怪訝そうに顔を顰めると、いそいそと野営の席へ戻りかけた……が、再びクラッカーと缶詰とを抱え、彼女を追うように荷台に駆け寄った。


 「これ……ここに置いておくから」


 返事は無かった。


 その夜、枯れ枝を継ぎ足した炎の傍で俊二は眠った。眠る以外にすることが無かったのも確かだが、疲労と空腹を満たしたせいか、眠りが訪れるのは意外と早かった。スロリアは昼夜の寒暖差が大きい気候帯に属するらしく、茹だるような暑さに支配される昼がある反面、夜になる耐え難いほどの肌寒さを感じてしまう。焚き火の傍でも、ぐっすり眠るのには携帯用の寝袋が必要だった。


 ……だが、それでも眠れない。何時新手の敵の襲撃を受けるかという不安が、俊二の胸を高ぶらせていたのだろう。寝袋の中で何度か寝返りを打ち、漸くウトウトしかけたとき、近くに明確な人の気配を俊二の神経は捉えていた。


 脱兎の如く跳ね起き、構えた小銃の銃口の先――驚いて腰を抜かした少女が、怯えきった眼をして俊二を見詰めていた。何時抜け出してきたというのか? 肌寒さに耐え切れず、暖を取ろうと近寄ってきたのだ。


 「ご飯……食べた?」


 俊二の言葉に気を取り直したかのように立ち上がると、少女は各所に穴が乱雑に穿たれ、完全に汁気の抜けた缶詰を突き出した。封を開けようと悪戦苦闘した形跡が俊二には生々しくも滑稽な気分になる。それに、不機嫌そうな、目の前の敵兵に対し気後れすまいとしている少女の顔もまた、これまでずっと女日照りな環境に置かれた俊二には可愛らしく見応えがあった。


 無言で缶詰を取り、俊二は蓋に付いたプルタブのピンを引き抜いた。次の瞬間の少女の驚きの眼は俊二には途轍もなく貴重で、新鮮なものに見えたものだ。本当に何か信じられない魔法でも見たような眼を、彼女はしていた。


 ――そこまで思い出したところで、俊二は立ち止まった。先程まで頭上で旋回を続けていた鳥は、再び見上げたときには掻き消すようにいなくなっていた。首筋を流れる汗をそのままに、俊二はもはや何者もいない空を見詰め続けた。


 「…………」


 ふと、彼女のことが思い出された、金髪に青い眼で、端正な顔立ちのあの娘は、今どうしているだろう?……うまく彼女の友軍に拾われただろうか?……それとも、未だあの廃墟で助けを待っているのだろうか?




 スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午後1時10分 スロリア中部。


 踏み締める枯野は、日が高くなるにつれ一層その丈を伸ばしていった。気が付けば、彼女のさして長身とはいえない身体は、金色に輝く枯れ草の絨毯に囲まれていた。


 見えない地面の窪みに足を取られ、姿勢を崩し倒れかける身を、枯れススキを握り締めて支えながら、タナは懸命に歩き続けた。枯野を切り開くというより、その枯草の茂みに翻弄されながらさ迷い歩いていると言った方がいいのかもしれない。


 見上げた空には、眩いばかりの太陽……地上の枯野と同じく、自分の体力をじりじりと奪いつつあるそれを、タナは憎らしげに睨み付けるのだった。


 背嚢の重みは、華奢な女性の身体には時が経つにつれ辛いものとなった。味方の「攻撃」を受けた中を生残った数少ない水と食料とを背嚢と雑嚢に詰め込み、腰には護身用の拳銃――だが、それだけでこの人跡未踏の地を乗り切れる確証を彼女は持っていなかった。


 ふと、廃墟と化した原隊で出会ったあのニホン兵の顔が思い出された。それは彼女にとってあまりに衝撃的で、かつ屈辱的な出逢いであった。原隊を失って追われる身になった上、ぽっと出のニホン兵に恥をかかされた!……四日前の経験を、彼女は内心でそう結論付けていた。


 あいつのせいよ!……現在の自分の境遇は本来なら彼の責任ではないのに、予期せぬ長旅で鬱屈した心情はどうしてもその方向へ向かっていってしまう。


 ――未だ憤懣やる方ない思いを胸に、タナは四日前の彼との出会いを反芻していた。


 「君の故郷には、缶詰がないの?」


 「あるけど……こんな親切な造りじゃないもの」


 それが、この若いニホン兵と、タナとの最初のまともな会話だった。冷え切った夜空が、彼女を寒風吹き荒ぶ暗い荷台から焚き火の下へと向かわせ、そして彼女を再びニホン兵と引き合わせた。

 指一本で開ける缶詰というものを、彼女は想像すらしたことがなかった。だから、缶詰を開けようとナイフを突き立てたり、ブロックをぶつけてみたりと何も知らないまま悪戦苦闘を続けていた自分が、タナは恥ずかしかった。その苦闘の記憶と羞恥心は、目の前でなんと言うこともなく缶詰を開け、彼女に微笑みかけたニホン人に対する純粋な敵意に繋がった。


 野蛮人のくせに!……文明人に恥をかかせるなんて……! 


 タナだって、列強国家の一つローリダの人間としての誇りの上に、異種族に対する優越感というものを持っている。荷台で唯一食べることができた岩のように固く、何の味もしないビスケットのことも相まって、自分がこのニホン人の若者に軽く見られているのではないかという疑念が、彼女を眼前のニホン人に対する対抗心に駆り立てていた。


 ――そのまま夜を過ごし、その翌日に別れたニホン兵の容貌は、今でも強烈な印象を以てタナの脳裏に迫って来る。


 ローリダ人の考えるそれを典型的な男らしさと見るならば、そのニホン兵は明らかにそれからかけ離れていた。何処と無く線が細く、その顔は未だ少年の面影を残している。長身で筋骨隆々、そして野趣溢れる顔立ちを典型的なローリダの美青年とするならば、彼はその位置付けでは中の下といったくらいか……


 態度も決して荒々しくは無く、むしろ粗野な性向の人間の目立つローリダ兵よりは遥かに話がわかりそうな気がした……だが、彼女には何故かそれが気に食わなかった。

 その日の夜。タナは焚き火の傍で眠った。彼は決してタナを邪険に扱わず、かといって過度に干渉するというわけでもなかった。何故か、彼のことなどさして危険とは思えなかった。その直感が正しかったと感じたのは、翌日の朝のことだ。焚き火を絶やさないように見張っていたのだろう。銃に拠りかかり、焚き火の傍で座った姿勢のまま眠りこけている彼の姿を最初に見出した時、彼女は言い知れぬ感動に近い感情を覚えたものだった。


 「君は、ここにいるといい」


 と、朝の出発間際にニホン兵は言った。「きっと味方が助けに来てくれるよ」


 「私を、捕虜にしないの?」


 「君を食わせられるほどの食料は持ってないし……第一ぼく、正規の兵隊じゃないから」


 「…………?」


 実のところ、タナは困惑した。確かに彼の言う通りにここに留まっていれば、いずれは味方に救出されるかもしれない。だが、一歩間違えれば味方の国防軍ではなくあの義勇兵の連中がやって来ることもあるわけだ。それを考えれば寧ろ捕虜にでもしてくれたほうが、気が楽だった……一層タナは、自分がニホン人に軽く見られているという観を強くした。


 そんなタナの隔意を他所に、ニホン兵は荷物を整えると、我関せずとばかりに歩き出した。その後には、ただ一人タナが残された。


 そして五分の逡巡の後、タナは残ることを選ばなかった。



 ――それから三日。


 国防軍は未だ進撃を続けているに違いない。あのニホン兵も、今頃は味方の追撃隊の手にかかって死んだか捕虜になっていることだろう。それを考えればあのニホン人に対する敵意もいくらかは和らぐというものだ。

 歩き続ければ何時かは辿り着くであろう味方の前線が、タナの望みだった。あの「おかしな」ニホン兵のことを脳裏から追い出すかのように頭を振ると、タナはその青い瞳を晴れ渡った青空へ向けた。その眼差しの遥か向こうに広がっていた光景に、彼女は思わず眼を見張った。


 太陽を囲い込むように、翼を一杯に拡げて舞う鳥……それは、タナにとって生還への希望の象徴だった。




 スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午後1時30分 スロリア中部。


 枯野を周囲に臨む高台から、双眼鏡に枯れ草を掻き分ける少女の姿を捉えながら男は言った。


 「……いた。あの向こうだ」


 「隊長に報告しろ」


 「ハッ……!」


 ややあって、無線の送受話器を持った兵士が分隊長に報告する。


 「隊長より返信です」


 分隊長は緊張に一変した顔を隠さず、受話器を耳に充てた。


 「こちらグルドゥ。どうぞ?」


 『ルガーだ……あとは判っているな? 一〇分でそっちに行く。それまでに俺が見たいものをきちんと準備しておけ』


 「……ハッ!」


 隊長の「見たいもの」が何であるか、先行偵察に名を借りた「目撃者」捜索の途上でリーゼ‐タナ‐ランを発見した「狩人(ハンテル)」ルガーの部下は十分に弁えていた。彼らの冷酷な指揮官は、もはや生きている彼女に何の興味もなかったのだ。命令の内容はつまり、自分が追い付くまでに彼女を始末しろ、という一点に尽きる。


 分隊長は、短機関銃を構えなおした。


 「貴様ら……わかっているな?」


 と、部下達に促した先は高台の頂上に乗り付けた軍用車両。忽ち全員が乗車を終え、始動を終えたエンジンに、反応したホイールが獰猛なまでに空転し泥をかき上げる。一気に高台を下り降りる車両の、荷台の銃座に陣取った一人が機銃の装填レバーを引いた。それが、タナが追手の急追に気付いた瞬間だった。


 「…………!」


 タナが絶句するのと、銃口が彼女に向けられるのと、同時。

 


 ――――森を劈く軽快な銃声を、休息中の俊二は心臓が撥ね上がるかのような驚愕と共に聞いた。


 「…………!」


 反射的に小銃を引っ掴み、俊二は森の外へ駆け出した。


 見るだけだ……あくまで、見るだけだ!……緊張とともに木々の間を駆け、茂みを這って行った先に、先程通った場所より一段高い枯野が広がっていた。身体に溜まった疲労や切れがちな息など、もはやどうでも良かった。息を弾ませながら、俊二は木陰の向こうに目を凝らした。


 そして――森の木陰から臨む森の外。


 「…………!?」


 四日前に別れたはずの、あの金髪の女性が枯野を駆けていた。悪夢に出て来る怪物宜しく轟音を上げて女性の後を追ういかつい車には、あの灰色の服を着た連中が乗り、女性に向けて矢鱈滅多らに銃を連発している。


 俊二は混乱した。あいつらは、味方同士じゃないのか?……混乱に、銃身を握る手が震えた。


 それでも意を決し、俊二は森を出た。一部始終を見届けようと枯野を潜った。枯野に分け入り小走りに進んだ先で、枯野の影に女性の姿が消えた。


 「…………!」


 車が止まり、灰色の服が一斉に降車するのを俊二は見た。手に手に小銃や機銃を握り、枯れ草を分け入ろうとしている。彼女の死を俊二は予感し、心からの憐憫を感じたのだった。だが……


 「この(アマ)ぁ……手こずらせやがって」


 未だ生きている?……安堵とさらなる不安とともに、俊二は目を凝らした。その瞬間彼は自分の心中に、新たな意思が宿るのを覚えたのだった……その意思とともに歩を進め、俊二は銃を構えた。


 ――助けよう。


 震える指で安全装置を外し、摘みが単発を指し示した。弾を無駄遣いしないための、彼の薄れ掛けた平常心の為せる精一杯の配慮だった。


 息を詰め、さらに歩を進める。その先に恐怖に頬を硬直させた女性が、瞳を震わせ追っ手を見詰めていた。


 ともすれば震えだす身体を、俊二は必死で制止しようと努めた。予備自衛官に登録して以来、人を直接に手に掛けるなど、俊二は考えたことがなかった。しかし、人を救うためとはいえ今の自分はその立場に置かれている。その救うべき相手も、敵側の人間……引き金に指を充てたとき、俊二はもう何が何だか判らなくなっていた。ただ照星に入った人影に弾丸を撃ち込んだ後に、全ては考えられるべきだった。


 ……そして今は、覗き込んだ照星に灰色の人影がはっきりと見える距離だった。


 

 逃げる途上で躓き倒れたタナの眼前には、すでに四名の義勇兵が迫っていた。


 「悪く思うなよ……あんな場所に廻り合わせたお前が悪いんだ」


 誤射と生存者の抹殺というおよそ味方にあるまじき行為を成し遂げた連中であることを差し引いても、それは余りにも無茶苦茶な言い草だった。男達が、これから人を殺すとは思えないほどヘラヘラした態度であることも、タナには衝撃だった。


 自然……タナの大きく見開かれた瞳から大粒の涙が流れた。これから死ぬのだという覚悟と相手の理不尽な言い草に感じる怒りとともに、タナは男達を睨み付けるしかなかった。ともすれば直面する死によって失われがちな理性の中で、タナはアダロネスの両親に心から別れを言った。


 そして、こうも言った……慈しみ深きキズラサの神よ、お願い。私を助けて……!


 それでも無慈悲に突き出される銃口に、タナは眼を瞑った。


 ズダァァァァァァァ……ン!


 眼を閉ざした姿勢のまま、タナは何かが崩れ落ちる音を聞いた。


 「…………?」


 恐る恐る眼を開いた先……そこにはついさっきまで銃を向けタナを嘲弄していた男が、顔の上半分を吹き飛ばされて倒れこんでいた。そして突然のことに呆然とする三人。タナもまた、眼前の事態急変に唖然とする。


 「誰だぁっ……!」


 と怒鳴るまでもなく放たれた二発目がもう一人の胸板を貫き、白目を剥いた男は足元から崩れ落ちた。反射的に身を伏せかけた二人を続けさまに銃撃が襲い、一人の腹を貫いた一発が赤黒い臓物をぶちまけた。金色の枯れ草が噴出す鮮血に染まり、生き残りの一人が周囲に機関銃を連射した。


 「何処だぁーっ!」


 鼻を劈く硝煙の匂い、弾みを付け飛び散る薬莢……さらに放たれた三発の内一発に、男は激痛に顔を歪ませ、血の溢れ出す肩を抑えて倒れこんだ。


 「…………!」何処かからいきなり延びた手が、タナの手を掴んだ。


 「来るんだ……!」


 その手の主にタナは驚愕した。あのニホン兵だった。


 「あなたは……!?」


 「いいからっ!」


 と言いかけた俊二の背に、黒い影が勢いをつけて圧し掛かった。肩を撃たれた男が、ナイフを手に俊二に飛び掛ったのだ。上腕を掠り、喉元に突き立てられかけたナイフを目にした瞬間、俊二の足が反射的に男の脛を蹴り上げた。


 「ウッ……!」


 脛を押さえて蹲る男の顔面を、思いっきり振り上げられた蹴りが襲った。その俊二の足を取り、男は俊二を鮮やかなまでに転倒させる。受身で辛うじて転倒を凌いだ俊二の上に、男がナイフを突き立て覆い被さってきた。


 「…………!」


 鼻先に迫ってきた刃に、俊二の目が見開かれた。渾身の力を篭め両手で支えてはいても、刃は無情にも俊二の眼前に迫ってきた。


 流れる鼻血をそのままにした男の脂臭い息使いを俊二は感じ、勝利を確信した男は残忍な笑みを浮べていた。


 こんなやつに……殺されて溜まるかっ!……俊二は満身の力でナイフを押し上げ、同時に羽根の様な頭突きが男の鼻を直撃した。


 「…………!?」


 激痛に鼻を抑えて飛び上がった男の後頭部を捉えた突然の一撃!……糸の切れたように昏倒した男はそのまま動かなくなった。見事な一撃を決めた意外な主を、俊二は呆然として見上げた。


 「君は……?」


 「…………」


 肩を震わせた女性は、ただ呆然と俊二を見下ろしていた。その手には、逆さに握られた小銃……あれで思いっきり頭を殴られては一溜りもない。


 安堵の溜息と共に、俊二は連中が駆け降りてきたであろう高台へ目を転じた。そこで、俊二の表情が新たな驚愕に強張った。


 倒した四人が乗ってきたのと同じ車が大挙して高台に集り、兵士が降車を始めていた。そして車列の中央に止まったオープントップの主に、俊二は見覚えがあった。


 「あいつは……!」


 部下を率い駆けつけたばかりの高台。オープントップの後席から、ルガーが覗いていた双眼鏡を下ろした時には、彼の口元にはすでに残忍な笑みが宿っていた。そして彼の遥か目先には、あの時撃ちもらしたニホン兵が「死んでいるはず」の看護婦とともにこちらを見上げていた。ルガーは笑みを堪えるのに必死だった。


 ――あいつ、まだこんなところをうろついていたのか!……その感慨はまさに、「まぬけな」ニホン兵に対する侮蔑だった。親愛なるキズラサの神が、俺にこのような廻り合せを用意していてくれたということは、俺は前世でよほど善行を積んだのに違いない……!


 鷲鼻の男の姿に慄然とする俊二の手を、タナは引っ張った。


 「えっ……?」


 「早く逃げてっ!」


 促されるまま俊二は、森へ向かい脱兎の如く駆け出した。

前を走るタナの後姿が、何故か途轍もなく勇ましく、頼りがいのあるもののように俊二には思えた。



 追跡の命令を発しようとした部下を、ルガーは手を上げて制した。


 「どうしました……?」と、怪訝な顔を隠さない部下に、ルガーは顎鬚を撫でて言った。


 「あいつら、森へ逃げたな」


 「はい、そのようであります」


 途端に、ルガーは刃のような笑みを浮べる。


 「オイ……あれ(・・)を呼べ」


 「あれ……と言いますと?」


 「空軍だ。あの森を焼き払う」


 その言葉に、場は騒然となった。顔色を変えた部下が、ルガーに声を荒げた。


 「しかし、明確な敵勢力がいないのに、貴重な戦力を濫用して宜しいのですか?」


 「あの森に潜んでいるのは、生かしておけば組織としての俺たちには十分に脅威になり得る敵だ」


 さすがに言葉を失う部下に、ルガーは笑いかけた。


 「爆撃で全部吹っ飛んでくれるんならそれもよし。たとえ二人が生きていたとしても、隠れる森がなくなりゃあ後は仕事がやり易くなる……」


 「…………!」


 「……そう怖い顔するな。これも戦争なんだ。お前らも生き抜くことが出来ればわかる」


 ルガーは笑った……乾いた、しかも音程の外れた声で。




 スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午後2時24分 スロリア中部。


 追手の気配を感じなくなって、既に久しい。


 歩を進めるに従い、森は一層陰鬱さを増し、立ち入る者を威嚇するかのようであった。それでもさらに奥まで歩き、森を抜け出さねば勝機はなかった。


 薄暗い隘路の真ん中で、俊二は立ち止まった。森のどこかで、鳥とも獣とも区別のつかない何かが、不気味な呻き声を立てていた。だが彼が立ち止まったのは、それに耳を欹てるためでは決してなかった。


 俊二は背後を振り返った。四日前に出会い、今日再び旅をともにする女性が、重い背嚢に喘ぎながら傾斜がちな地面を踏み締めていた。


 「荷物、持とうか?」


 「…………!」


 きっとして、女性は俊二を睨み付けた。それが彼女の答えだった。気位が高いが、意思の強い女性だと俊二は思った。そして彼は、そんなタイプの女性は嫌いではなかった。


 「何故、味方に追われているの?」


 共に飛び込むように森に逃げ込んだとき、俊二が最初に発した質問にも彼女は沈黙を通した。脱走兵か? それとも軍から追われるようなことに手を染めたのか?……と勘繰ってみたりもしたが、外見と立ち居振舞いからして、俊二は彼女にそのような陰の要素を感じ取ることはできなかった。


 タナはタナで、あの場所に彼――――あのニホン兵が居合わせたのは意外だった。そして彼が、自発的に自分を助けてくれたこともまた意外だった。


 何故?……その問いを、タナは胸の奥に仕舞い込みかけた。


 重そうな背嚢に隠れてはいたが、ずっと前を向いているであろう彼の顔を想像するにつれ、タナはもう一度、ニホン兵の表情を確かめたい衝動に駆られていた。

 そのとき、前を行く彼のあることに気付き、タナは彼に呼びかけた。口に出すのには、多少の勇気が要った。


 「……止まって」


 「え……?」


 俊二は振り向いた。彼女の呼びかけが、俊二には意外だった。


 小走りに俊二に駆け寄ると、タナは俊二を座らせた。水筒の水で傷口を洗い流すと、雑嚢から消毒薬の小瓶を取り出し、それを浸した湿布を俊二の傷に充てる。意外な場面で発揮されている彼女の善意を、俊二としては只見守るしかなかった。


 消毒薬が傷口に染み込み、不意に襲ってくる疼痛に俊二の顔が曇った。その顔を、タナは心配そうに覗き込むのだった。


 「痛い……?」


 「いいよ、自分でやるから」


 「よくないわ……!」


 諭すようなタナの眼光は、明らかに俊二を圧していた。続けて包帯を取り出し、消毒した傷口に器用に結わえ付けるその手を止め、タナは小声で言った。


 「何故……助けたの?」


 「何故って……あいつらは、ぼくの敵だったから……ただそれだけさ」


 「それだけ……?」


 「強いて言えば……目の前で女の人が襲われて、黙って見ているようじゃ……男として駄目じゃん」


 「…………」


 半ば呆然として、タナは俊二の顔を見詰めた。俊二はそれに笑顔で答えようとして、失敗した。


 「御免、やっぱぼく……そんな柄じゃないや」


 苦々しげに俯く俊二に、タナには込み上げるものがあった。決して、悲しいそれではなかった。


 タナは、笑った。


 「ニホンの男は、恥かしがり屋なのね」


 「そう……?」


 「あなたは、国では何をしていたの?」


 「ぼく……?」


 タナは頷いた。


 「きっと……横暴な指導者に無理やり前線に連れてこられたのね。その……皇帝とかいう……」


 ニホンのことは、国防軍における基礎教育の段階で教えられたことがあった……もちろん、将来の脅威という位置付けで。


 『―――――ニホンはこの世界の、東の最果てに位置する帝国であり、たった一人の皇帝の下に全てが支配される。その周辺国家を暴力と財力とを以って支配し、多くの種族が彼らの苛烈な支配に搾取され、申吟している――――』


 『―――――ニホン人は争いと淫楽を好み、幼少時より国家と皇帝に忠誠を尽くすよう徹底的に洗脳され、場合によっては死をも厭わない強靭な兵士となる。知性が極端に低いのでマンガと呼ばれるローリダで言う幼児向け絵物語に極端に近い書物しか読まず、テレビもローリダでは子供しか見向きもしないような戯画番組を大人も好んで見る――――』


 『―――――ニホンを殲滅するのには、現段階……つまり、ニホンがこれ以上勢力を拡大する前の段階で壊滅的な打撃を与えておくのが望ましい。国防軍はそのための方策を依然実行中であり、それらは近い将来実を結ぶであろう――――』


 基礎教育の講義で、教官担当の士官が話した一言一言が、タナの脳裏に漣のように押し寄せては返っていくのだった。その言葉を思い出す限りでは、ニホン人は愚昧で、野蛮で、さらには唾棄すべき敵……!


 ……だが、自分の目の前の、この青年はどうだろう? 「前線に引っ張り出されたの?」という唐突な言葉に唖然とする俊二に、自分の胸中で次第に大きくなる疑問を覚えるタナであった。確かに、外目はいささか頼りないのは否めない。だがついさっきの彼の行動はそうではなかった。


 俊二は、少し考え込むように顔を曇らせ、言った。


 「そういうわけじゃ……ないよ」


 「え……?」


 「だから……ぼくは志願してここに来たんだ。まさかこんな目に遭うとは夢にも思わなかったけど」


 「志願?……何故? 家が貧乏だから?」


 「ぼくはただ、他の人がしないような経験をしてみたいと思っただけさ。ぼくにとってはそれがたまたま自衛隊だったわけで……」


 タナは目を見開いた。目の前のニホン人がここに赴いた理由と、自分のそれとに、著しいまでの相似があることに彼女は思い当たった。そのようなタナの驚愕を知ってか知らずか、俊二は聞いた。


 「君は、何故ここに来たの?」


 「私は、家出みたいなものだから。いい年して……私って、馬鹿ね」


 「家出?……両親と、喧嘩したの?」


 「うん……そんな感じ」


 「今は、後悔してる?」


 「……ちょっとね」


 「じゃあ、国に帰れるようにお互い頑張らないと」


 俊二の言葉に、タナは頷くのだった。その一方で、彼女がこれまで教えられてきた「ニホン人」というものに、少なからぬ疑念を覚え始めていることもまた事実だった。


 「さあ、行こうか」


 俊二は前進しようと腰を上げた。否、上げようとした。だが、立てなかった。


 「…………?」


 俊二の様子がおかしいのに気付いたタナが、俊二の顔を覗き込む。脂汗の流れるその顔に生気はなかった。歯が、そして銃身を握る手が震えていた。


 「……立てないや」


 「どうしたの……!?」


 「……初めてなんだ」


 「何が……?」


 「人を殺したの……あれが初めてだった」


 「あなた……」


 自分の眼前にいるのが、兵士ではなく一人の人間であることを、タナは同情と共に確信するのだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 「オイ……あれ(・・)を呼べ」 |あ《・》|れ《・》
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ