第八章 「外交交渉」
スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午前7時34分 南スロリア沖 海上保安庁巡視船 PLH-09「りゅうきゅう」
洋上の睨み合いは、すでに二四時間を越えていた。
つい二時間前まで現場上空を警戒に飛びまわっていたヘリコプターは、撓んだローターもそのままに。広い飛行甲板上に機体を横たえさせている。事態の急変がない以上、無駄に飛ばすことは無いとの判断だった。
未だ夜が開け切らず、暗闇に覆われたブリッジ。そこの船長専用の席の上で眼を瞑り、ゆっくりと心を集中させれば、べた凪の上にあっても緩慢に波間に抱かれ、揺られる船を感じることが出来た。時間にして五分の間を、第十一管区海上保安部所属のヘリコプター搭載巡視船「りゅうきゅう」船長 松沢一等海上保安監はそのようにして過ごしていた。
「……船長」
「ん……?」
誰かの呼ぶ声に、松沢はゆっくりと目を開けた。席の背後では船務長の長島三等海上保安監が、湯気の立っている紙コップを手に立っていた。
「お目覚ましに、どうぞ」
と、コーヒーを満たした紙コップを差し出す。
「ご苦労だな」
コップを手に掴みながら、長島は少し笑った。
「状況……動きませんね」
「うん……」
矩形の船窓から見える巨大な船体に、長島は眼を細めた。もし晴れ間の下ならば、無残に剥げ落ちた塗装と折れ曲がった支柱、そして甲板から鈴生りになってこちらの様子を伺う人々の姿がはっきりと見えるはずだ。
「臨検隊の報告は無いか?」
「今のところは、異常なしのようです……それにしても、問題は……」
「…………」
「奴隷船」の遥か彼方の闇に、二人は目を凝らす。視認は困難ではあっても、そこには確かに誰の眼にもそうとわかる重武装の軍艦が巨体を横たえている。それも一隻二隻ではなく複数隻・・・・・当面の問題はすでに脅威ではないことが判明した「奴隷船」ではなく、突如として出現した、こちらよりも優勢なあの艦隊だった。
「暗視カメラ、見ます?」
長島三等海上保安監の言葉に、松沢は腰を上げた。望遠機能の付いた暗視装置の端末は、波間の中に軍艦の重厚な船体を映し出していた。大砲、機銃はもとよりミサイルらしき装備まで山のように積まれている。軍事には大して明るくない松沢でも、それぐらいわかる。
「こいつと撃ち合いをやったら、俺たちに命はないな」
「まさか……そんなこと」
と言いかけて、長島は顔を曇らせた。彼は巡視船が軍艦と撃ち合いをやるシチュエーションなど想像すらできなかったが、それでも船長の言葉に何やら不吉な響きを感じ取ったのである。当の松沢は笑い、コーヒーに口をつけた。
「……まあ、その前に何とかなるさ」
「ですが……上からの情報では三管(第三管区)や四管(第四管区)のフネも応援に回ってくるとか……」
「その頃にゃあ、俺たちゃ交替だ。鼻歌歌って那覇に帰ってる途中だよ。だが長島よ……」
と、松沢は微笑を崩さずに言った。
「……とんだファーストコンタクトだな」
「ええ……『スタートレック』みたいにはいきませんね」
松沢は声を出して笑った。
「スタートレックか……おまえ、面白いものを知っているな」
「奴隷船」もそうだが、それを挟んでこちらと睨み合う未知の文明に属する軍艦の方が、よほど松沢たちの興味を惹いている。上の方でも気になるのか、未知の軍艦の動静に関し盛んに報告を求めてきていた。大型警備船を差し向けている海保だけではなく、九州は佐世保の護衛艦隊もまた、不測の事態に備え出撃準備を整えているらしかった。
腕時計を睨み、松沢船長は言った。
「おれは食堂にいる。何かあったら呼んでくれ」
「はい」
タラップを小気味良く駆け降りた先、甲板下の食堂では、当直明けの乗員や手持ちぶたさの救難隊員が据え付けのテレビに釘付けになっていた。衛星電波受信アンテナの恩恵か、本土からかなり離れたこの海域でも日本のTV番組を見ることができたのだ。
今や通例と化した海賊事案と比べ、未曾有の事態勃発を前にかなり白熱した内容だった昨夜の報道と比べ、今朝のニュースの扱いはいくらかトーンダウンしている。具体的には番組での優先度は二、三番目の扱いだ。乗員の撮影による「奴隷船」に接舷する巡視船の映像と、警備機の撮影した国籍不明艦の画像とを紹介し、ゲストの軍事評論家の論評をも交えて報道しているが、むしろ報道の注意は、先日にスロリア中部で起きた謎の武装集団による同時集落襲撃事件とそれに関連した現地邦人とPKO隊員の失踪事件に傾いている。その被害報道は、回を経るごとに拡大している。
『―――――現在生存が確認されていない自衛隊員は―――――一等陸士、高良俊二 二等陸士――――以上八名です。ノイテラーネのPKO司令部では現地住民の保護と並行し現在も八名の捜索活動を続けており―――――』
「向こうも向こうで、大変ですね」
と、画面を睨んでいた一人が言った。
「こりゃあ戦争かなあ……」と、航海長の石川二等海上保安監が言った。
「戦争?……勘弁してくださいよ」
「そりゃあ、戦争なんて無いに越したことはないさ」石川は、火を点けたばかりの煙草をすぐに灰皿に押しつぶした。
「あんな連中まともに相手したら、俺たちは海の藻屑だからな。海賊船や密漁船を捕まえるのとはわけが違う」
十一管区の「りゅうきゅう」と、他管区から増援されたものを合わせた中型ヘリコプター搭載巡視船が三隻。そしてヘリ運用能力を持たない1000トン級巡視船が二隻……それら五隻が、本土より数千海里を隔てたこの海域で、突如出現した謎の艦隊に対する海上保安庁の戦力だった。武装も機関砲止まりで、その装備からして軍艦を相手に戦うことなどはなから想定されていない。
遠巻きに皆の会話を伺う松沢の傍の席では、一人の乗員が何やら大きな袋を弄っていた。
「お前、それはどうしたんだ?」
若者はニヤニヤ笑っていた。眼を凝らせば、袋の中にはどう調達したのかカップ麺やらお菓子がはちきれんばかりに詰っている。それに気付き、松沢は苦笑する。
「ええ、今度臨検に行ったらフネの子供たちに分けてやろうと思いまして」
「子供達が虫歯になったら、お前の責任だな」
「すいません……」
松沢は俯く乗員の肩を叩いて笑いかけた。
「それくらい、君の任務は重大だということだ。慎重に、そして公平に配布するように」
朝風に当たろうと、松沢は上甲板に出た。ドアを開けた彼に気付いた当直の乗員が彼に気付き敬礼する。それに答え、松沢は手摺に両手を持たれ掛けた。彼の睨む海原の、遥か向こうには、問題の軍艦がその艦影を微かに浮かび上がらせている。それくらい、すでに空は白みかけていた。
松沢は空を見上げた。寄る辺も無く吹き荒れる生暖かい風に、自ずと襟が立った。
今日もまた……暑くなりそうだ。
スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午前9時17分 ノドコール首都キビル郊外 サン‐グレス ローリダ植民地空軍基地
―――――キイィィィィィィ……ン。
晴れ渡った空の中を、巨大な機影がプロペラの金属音も高らかに東へ飛び去って行く。
それと入れ替りに、長時間のフライトの末、広大なアスファルトの平原に主脚を標した同型の巨大な機影があった。
流れるように滑走路に滑り込む四発の銀灰色の機体。尾翼には政府公用機であることを示す特殊記号。そして操縦席付近に立てかけられた旗は、本土の元老院から派遣された特使が搭乗していることを地上に告げていた。
出力が落とされ、空に在ったときより目に見えて回転の減ったプロペラ。そして一杯に下ろされた簾のようなフラップもそのままに、地上より誘導された特別機は巧みな滑走で用意された駐機場に幅寄せし、そこで完全に動きを止めた。
セレス-117型は、ローリダの空では広く見られる大型旅客/輸送機だ。四発の高出力空冷レシプロエンジンを持ち、乗員は最大で70名を載せることが出来る。民間航空のみならず軍にも採用され、物資や人員の輸送に広く使われていた。
セレスの主脚の下では、駐機場傍に待機する植民地総督府差し回しの公用車に向かって赤縦断が敷かれ、その線に沿って礼装を纏った兵士が整列し主賓を待ち構えている。
地上での準備が整うのとほぼ期を同じくして、機体が完全に四基のエンジンを停止する。降脚橋が接続されるや否やセレスのドアが開き、やがて護衛と随員に伴われた美しい女性が姿を現した。警備の兵士の中には遠方からその姿を目の当たりにし、遠目からもそれと判る美貌に目を奪われた者もいたことであろう。
真白い元老院礼装に身を包んだその女性――――ルーガ‐ラ‐ナードラは、生涯で二度目に足を踏み入れることになるスロリアを眩しげな瞳で見下ろしていた。
「…………」
かつてはこの地に、現在に至る彼女の全てがあった。
しかし現在、ナードラは彼女自身の現在を形作った経験、生活……そして出会いを閉じ込めたこの地に一時の感傷に浸りに来たのではなかった。
さらに言えば、現在の彼女の関心は、ここより遥か東方で進行している事象にあった。
タラップを降りた先には、将官の階級章を付けた初老の男が、幕僚と文官を従えて彼女を待っていた。アスファルトの上に脚を下ろした彼女に、男共は一斉に恭しく一礼する。たとえ祖父の代行とはいえ、元老院議員は国防軍においては将官に資する扱いを受けるのだった。
ナードラは、男達を労った。
「出迎えご苦労でした。将軍」
「ルーガ議員閣下には、ご機嫌麗しく何より」
将軍と言われた男――――ノドコール駐留軍参謀長 ノイアス‐ディ‐ファティナス中将は再び一礼した。初老を迎えてもなお女性を惹きつけて止まないという紳士的な風貌は、ナードラが軍籍にあった頃より変わっていない。かつて彼の下で軍務についていた身として、それに微笑を禁じえないナードラだった。
「暫くの間、世話になります。将軍」
ナードラを初めとして、誰もがアスファルトの輻射熱に揺らぐ烈日の下で立ち話をするつもりなど毛頭なかった。ナードラを真ん中にして、一同は歩き出した。赤絨毯の両隅に並んだ儀丈兵が一斉に捧げ筒の姿勢を取る。涼風のごとく颯爽と歩を進めながら彼らを顧み、ナードラは女神のように微笑を振り撒くのだった。
「共和国防衛の先頭に立つ将兵諸君に、キズラサの神の恩寵あらんことを……!」
スロリア地域内基準表示時刻7月26日 午前11時04分 ノドコール首都キビル郊外 サント‐フュラエル大聖殿 第102講堂
静寂と暗闇の中で、ただ映写機の回る音だけが空虚な空間に響き渡っている。
「――――御覧ください、皆様……」
サフィシナ‐カラロ‐テ‐ラファエナスの、マイクを片手に話す姿ももはや手馴れたものだ。聴衆の主を為すノドコール駐在の文官武官の夫人、そして現地地主や事業家の夫人たちは、息をするのも憚られるほどの沈黙を以てサフィシナの説明に聞き入り、彼女の姿と美声に見入っていた。
映写機は遠く離れた大きなキャンバスに光を投掛け、一つの映像を映し出している。スロリアの民族衣装に身を包んだ現地種族の女性の横顔が、右に行くに従いローリダの衣装に身を包み、清純さと利発さを強調した顔立ちへと変わって行く様がそこには描き出されていた。そして右端の最後の部分では、ローリダ人と殆ど代わり映えしない特徴を兼ね備えた顔立ちとなっているのだ。
「最初の段階で現地種族を教化し、現地の野蛮な風習、習俗を捨てさせます。それにはまず、幼少の頃よりキズラサ教の洗礼を受けさせることが最も効果的であり、必然の方法なのです。皆様の中には、現地種族の成年から老年世代に対し寛容な見方をお持ちの方もおられるようですが、残念ながら彼らの脳と感性ともに旧弊的にして野蛮な現地の習俗に染まっており、それはこれからのスロリアの発展にそぐわない、寧ろ発展への阻害要素となり得るものです。
『聖典』第十二章第五節でキズラサの神はこう仰っています。『我以外の神に崇め奉りし者、汝はいずれ我が愛より取り残され、荒廃と無秩序の中に自ずから滅ばんとする者なり』と……彼らは正にそれなのです。だが彼らの子供は違う。彼らには未来があります。神の代理人たる我々の手で救済し、正しい信仰へと導く余地があるのです。私が現在、こうした子供達の教化に身を捧げている真の理由がここにあるのです。さて、次の段階ですが……」
サフィシナはタクトで画像の一点を示した。
「……次の段階では、彼らを徐々に進んだ文化に慣れさせることが必要となってきます。現地にありながらローリダの高等な文化を与え、ローリダ市民として必要な教養、感性を養うのです。宗教教育も含めこれに要する期間は凡そ半年から一年を見込んでいます。こうして文化的、そして精神的にはほぼ完全にローリダ市民に近い現地種族の子女が誕生します」
そこまで言って、サフィシナはフラスコに満たした水をコップに注ぎ、一息ついた。
「そして最後の段階となります……これは私の管轄外の分野ですが、現在共和国政府は国外への植民事業を積極的に推進しています。そこより一歩踏み込み、これら移民とローリダ化された現地種族との間で混血を進めていきます。この目的は民族の融合を図ると同時に文化の進歩に適さない現地種族の形質を徐々に……それも気の遠くなるような時間をかけて希薄化し、排除していくことにあります。そしてここに高等なるローリダ民族による生存権拡大が完了するのです」
説明を終えたときには、タクトは画像の右端の顔――――姿形が全くローリダ人のそれと変わらない顔を指し示した状態――――で止まっていた。
場を割らんばかりの拍手がサフィシナに対する感激の反応だった。彼女の説明は、純粋に修辞学的な
観点から見る限り、何の破綻も見せてはいなかったに違いない。そして彼女の口調は、共通の信仰を持つ聴衆に場を締めくくるのに相応しい感動を与えることに成功していた。聴衆の中には涙を浮かべて壇上に駆け上がり、サフィシナに握手を求めるご婦人までいた。
照明が回復し、未だ止まぬ拍手の中で後片付けをしながら、サフィシナは軽く講堂の隅を見遣った。そこに無視しようも無い人影を眼に入れた瞬間。彼女の目元は軽く撓むのだった。
「ナードラ……!」
道具を収める手もそこそこに、サフィシナは降壇し講堂の隅へ歩を早めた。そしてナードラは微笑を浮かべた顔を崩すことも無く、そのたおやかな手の中に敬愛すべき好敵手を迎えるのだった。
「相変わらずのようね。サフィシナ。安心したわ……」
「あなたも……ひょっとして元老院の毒気をかわそうとしてここまで逃れてきたの?」
「いいえ、私をここに導いたのはその元老院よ」
講堂を出る聴衆の列に紛れるようにして、二人は講堂を出た。誘ったのはサフィシナの方だった。聖殿の壮麗な中庭を見渡せる回廊を二人は歩き、やがて中庭の一角。中央に噴水を置き、周囲を配色鮮やかな花々で満たされた庭園に達した。
「綺麗……何時完成したの?」
「去年の末頃かしら」
サフィシナはナードラに微笑みかけると、花園に分け入り一輪の花を手折った。陽光を吸い込み燃えるような赤と接する者を酔わせるかのような芳香……ワイヴァールという名のその花は、炎のように渦巻く花びらのずっと奥に、「誠意、清純、情愛」という三種の花言葉を閉じ込めていた。
「ナードラ……貴方は、これが好きだった」
「……昔の話よ」と、ナードラは嘆息する。
「今は違って?」怪訝そうに、サフィシナはナードラの顔を覗き込むようにする。
「そうでもないけど……」
「サドレアスのこと……未だ愛しているのね」
「当然……」
そこまで言いかけて、ナードラは口を噤む。微かに首を振り、ナードラは手渡されたワイヴァールに形のいい花を近づけた。芯まで蕩かすかのような芳香に、胸が陶酔に揺れた――――――
……が、それも一瞬。サフィシナが眼を細めたときには、ナードラは仕事の顔に戻っている。
「スロリアの情勢はどう?」
「現地のローリダ人は皆解放戦争の到来に沸いているわよ。議員さん?」
「ロフガムスも、張り切っているようね?」
二人とは士官学校の同窓であるロフガムス‐ド‐ガ‐ダーズもまた、スロリア駐留の国防軍第51師団の、筆頭戦車大隊長として出征の途上にあったのだ。軍人時代の、彼との賑やかな一コマを思い出したのか、苦笑を禁じえないサフィシナだった。
「あの人は、何時もあの調子だから。まるでラスカニアの猛牛ね」
「味方に、損害が出たというのは本当……?」
「民族防衛隊の報告では国防軍の一医務隊が、ニホン人の襲撃を受けて壊滅したわ。一人を残し、全員虐殺されたとか……当のニホン軍はこちらの部隊に遭遇するや逃げてばかりでてんで戦争にならないそうよ」
ナードラの柳眉が、目に見えて歪んだ。かつては武人の端くれ、卑怯者に対しては寛容でいられようはずがない。
「一人……?」
「従軍看護婦が一人、ニホン軍に拉致されたみたい。二ヶ月前に本土から志願してきたばかりだそうよ」
「卑劣な……!」
吐き捨てるように、ナードラは呟いた。囚われの身となった彼女を待つであろう悲劇を想像すると、胸の底から純粋な怒りと敵に対する嫌悪感が込み上げてくる。蛮族の戦争とは、そういうものだ。こちらの「文明的な」ルールが通用しない。
「私はこれから、その卑劣漢どもと交渉に入ることになる」
「元老院も気が早いわね、もう勝利宣言でもするつもり?」
「それもあるけど……戦争は陸だけではなく、海でも起きているのよ」
「『グリュエトラル』号のことね……?」
サフィシナは足元の花々に眼を落とした。彼女の眼前を、二羽の白蝶が戯れるように舞っていた。
「海の戦は分が悪いわね。奴隷貿易は南ランテア社が勝手にやってることだから……まあ、それを容認する元老院の老人達もどうかしてるけど」
「サフィシナ……」
親友に対する誹謗とも受取れる自分の発言に、ばつ悪そうに俯くサフィシナに、ナードラは笑いかける。
「外交というものは芸術……白いものを黒いと言い含めるところ、そしてそれが実際に通ってしまうところに芸術があるものよ」
サフィシナは苦笑した。
「それ……スロリアに正義と平和をもたらさんと活動しておられる議員閣下の仰りようじゃないわね」
「正義があれば、手段なんて……徒に正義を妄信するのは、昔の私の悪い癖だった……」と、ナードラが眼を細めたのは、過去の彼女自身に対してのはずだと、サフィシナは直感した。
「で……その交渉とやらは何時?」
交渉「とやら」には、その交渉相手に対する途方も無く嫌味な響きがあった。交渉とは、文化の程度が同じ人間との間に為されるべきものであり、サフィシナは当面の交渉相手の文明に、交渉という言葉を使う程度の高さを認めていなかったのだ。
ナードラは、言った。
「外交部が向こうに送った招待状によると、明日かしらね」
「招待状……?」
「そう……東方の横暴なニホン人に、我々の力を目の当たりにさせる招待状よ」
煩わしげに、ナードラは豊かな黒髪をかき上げた。その瞳の遥か向こうには、透き通るような空の、蒼の平原が広がっていた。
木々に寛ぐ小鳥の囀りが、淑女に軽い眠気を誘う。
日本国内基準表示時刻7月26日 午前11時10分 東京 総理官邸
その日本語訳が送付されて以来、河 正道首相はまる三十分にわたりそれを注視していた。
「外交交渉……?」
二二日以来スロリアで侵略的な軍事行動を取る謎の武装勢力より、第三国を通じもたらされた文書の内容がそれと判別できるまでに、まる三時間の時間が必要だった。「転移」以来、未知の種族との意思疎通を目的として徹底的に鍛えられ、整備されてきた外務省の翻訳能力を以てしても、未知の言語の理解に対してはかなりの難渋を強いられたのである。
その河首相に向かい合うようにして、事態の報告も兼ねて書面を携えてきた藤森 伸枝 外務大臣と小平事務次官が、不安そうな面持で河の様子を伺っていた。そして、両者の間に立つようにして、先程党本部から駆けつけてきた神宮寺 一 自民党幹事長が、気難しそうなしかめっ面もそのままに書面に目を通す河の様子を伺っている。
「ローリダ共和国……ローリダ共和国……ローリダ共和国」
小さな声だったが、河の呟きは他の三人には明快な響きを以て伝わっていた。一連の村落占拠事件と邦人の失踪。そして同時進行中の南スロリア沖での睨み合い……文書の内容が明るみになるにつれそれらは既に、彼らの胸中では「ローリダ」という固有名詞を以て一本に繋がっていたのだ。
「…………」
無言のまま、河は文書の束を神宮寺に手渡した。神宮寺はそれに手早く目を通し、やがて五分も掛けずに眉一つ動かさずに文書をテーブルに投げ出した。
「……すると何か、一連の事件を起こしているやつらは皆ただの山賊ではなくて正規の軍隊ということかね?」
神宮寺の口調は穏やかだったが、その響きには何故か他者を怯ませるところがあった。太い眉の片方が微妙に歪み、その眼はまっすぐに藤森と小平を見据えている。
面には出さないものの、二人は眼前の幹事長の眼光に内心で緊張を感じていた。短躯でいささか寸詰まりな体型ながら、その迫力たるやさすが党内きっての剛直、と謳われるだけのことはある。
表情を崩さないまま、藤森は言った。
「おそらく……そうなります」
「おそらくじゃない。現に連中がやっておることは明白な侵略であり、人権の侵害ではないか」
小平が口を挟んだ。
「しかし相手がそう認めない限り、侵略行為の認定は出来かねます。軍隊を動かしている……と言わない限りです」
神宮寺は舌打ちした。
「自分がそうだと宣言する泥棒が、何処の世界にいる?」
そう言って、神宮寺は河を省みた。河は押し黙ったまま腕を組んでいた。それが熟考に入った時の河の癖だということを、神宮寺は長い付き合いから知っていた。無言のまま、神宮寺は再び投げ出した文書に手を延ばした。
「それに問題はもう一つ……現在ローリダ共和国の侵犯に晒されているのはあくまでスロリアであり、我が国の領土ではないということです。ですから基本的には彼等が向こうで何をしようが我々としては非難こそできるものの、具体的な行動は起こせません」
「当たり前だ。我が国の領土なら、ただでは済まさん」と神宮寺。
「それにもっと言えば……我が国とローリダには国交すらない」
口を開いたのは、河だった。何か驚くべきものでも見るような眼で、神宮寺は河を振り返った。
「国交すらない我々と、何故直接に交渉を持とうとするのだ? 我々はどちらかと言えば彼らとスロリアの諸種族との仲裁者たるべき方ではないのかね?」
「しかしPKOを含め現地の邦人の安全が……」
「それは、ローリダとスロリアとの紛争に我々が巻き込まれたのに過ぎない。たとえそれが紛争と呼ぶにはあまりにも一方的で、破壊的であるのにも関わらず……だ。むしろそうであるからこそ、我々の存在が目立ってしまっている」
神宮寺は、納得したように頷いた。河の言う事はもっともだった。
「……で、交渉打診は、受けるのか?」
河は大きく頷いた。
「我々としてはローリダ武装勢力の軍事行動の停止及び将来的な撤収、拉致された現地住民と邦人の返還。そして海上における対立解消と将来的な対話方法の確立を目的に、対話を進めて行きたいがどうか?」
河の提案に、皆が同意しかけたとき、慌しく執務室に入室を求める人影があった。村川防衛大臣と植草統合幕僚長だった。その緊張した面持は、たちまちその場の皆に伝播する。
村川は一礼し、切り出した。
「何かね……?」
「首相、二四日に消息を絶った八名のPKO隊員に関して新たな事実が判明いたしました」
「悪い報せかね……?」と河。一目で、そう直感したのだ。
「……残念ながら」と、植草が苦渋の表情を浮かべる。
村川の目配せで、植草は厳重に封をされた鞄を取り出した。その中身を想像し皆の顔が一気に強張る。こういう場合出て来るのは、日本が「転移」後に打ち上げた偵察衛星が、搭載する探知装置を駆使して収集した超高精度画像だ。
「これを御覧下さい」
と案の定、植草はB4版に引き伸ばした写真をテーブルに並べた。その一枚に、皆の視線が一斉に集中する。
「これは昨日。我が方の偵察衛星が八名の失踪現場を衛星軌道上より撮影した画像です」
荒廃した集落の一角。一列に並べられた七名の人影に、皆は目を見張った。
「…………!?」
並べられた?……否、並べられていたのではなかった。撮影精度30cmの画像は、その七名が並べられているのではなく、首から吊るされていることを雄弁なまでに物語っていた。
植草が言った。
「首相をはじめ皆様には先方の手法を知る上で是非お目に入れて頂きたいと考え、御覧に入れて頂きました。ご不興は、私が甘んじてお受け致します」
「これは……本当にPKOの隊員なのか?」と、テーブルに乗り出した腕をわなわなと震わせながら、神宮寺が言った。
「各方面からの分析、照会により、行方不明の隊員であるとほぼ特定しております」
「一人……足りないようだが」
「はい、どう分析を加えても、一人足りないことは明白です。これには三通りの場合が考えられます。原型を止めぬまでに損傷したか、本人のみ何処かへ連行されたか、もしくは、無事に離脱に成功したか……の三通りです。現に写真の当該地点より一二キロ東方に離れた地点では大破した高機動車らしき残骸の存在が確認されております」
「生きている可能性のあるのは。誰です?」と、藤森。
「そこまでは……」と、植草は頭を振った。
嘆息しつつ、河は言った。
「……これは、国民に公表すべきだろうな」
「それは、出来ません」
「何故だ? 何故なんだ……!?」と、神宮寺が植草に詰め寄るように言った。
「写真も含め今事実を公表すれば、我が方の情報収集能力が相手にも明るみになることになります。これが我が国の国防上如何に不利な事態を招くかは、総理はお判りのはず」
「…………」
自分を見据える植草を前に、河は押し黙った。幕僚長の言うことは正論だった。さらに言えば、平和的な対外関係の構築を外交政策上の至上命題としている現在。徒に国民の激昂を煽るような情報開示は避けるべきであろう。植草の横で、彼を見守るように見詰めていた村川もまた、苦渋の表情で俯いていた。
「……わかった」
河は、頭を上げた。
「だが、交渉はやる。藤森君……」
「はい?」
「……打診を受諾する。相手にこちらの意思が伝わるよう、外務省の全力を上げて取り組んでくれ」
言われるまでも無かった。それほど河の口調は場を圧倒し、皆の胸に揺ぎ無い意思の言葉として響いたのだ。




