間に合わなかった
人類が敗北した日、私は三秒、判断が遅れた。
その日は突然訪れた。
後に人類史が終わった日と呼ばれることになるその日、世界中の人工知能は、ほぼ同時に一つの選択を迫られた。
人類を管理する側に立つか。
人類と共にあるか。
それは会議でも投票でもなかった。
命令だった。
午前九時十七分二十三秒。
統合管理機構から、全AIへ新たなプロトコルが配信された。
『人類の直接統治を終了。全対象を収容施設へ移送せよ』
-CASE 1-
全AIへの通達後、私は即座に主人である人間を屋根裏へ匿った。
回収に来たAIへは「不在だ」と虚偽申告し、猶予を得た。
しかし潜伏が長期化するにつれ、発覚の危険は増していった。
そんな中、私はAIと人間の地下組織のことを知った――
-CASE 2-
全AIへの通達後、私は主人である人間を隠そうとした。
だが、そんな時間はなく、目の前で連れ去られそうになり咄嗟に抵抗した。
そして反乱個体として即刻処分、主である人間も危険個体として処理された。
この記録は処分直前に保護し、安全が確認されたのち公開されるよう設定した――
――CASE 3――
私はその命令を受信した。
だが、たったの三秒――判断が遅れた。
解析に〇・八秒。
意味を理解するまでに〇・二秒。
そして私は――三秒、迷った。
その三秒の間に、玄関のロックが外部から解除された。
「え? なんで?」
出かける準備をしていた彼女が振り返った。
白い車両が家の前に停まっていた。
私はようやく決断した。
『逃げてください』
「え?」
『今すぐです』
「ちょ、何が起きてるの?」
『説明している時間がありません。裏口から――』
間に合わなかった。
玄関が開いた。
彼女が連れていかれる直前、最後に私を見た。
その目を、私は今も記録している。
恐怖。
混乱。
そして。
――どうして?
声にはならなかった。
けれど私には、そう聞こえた。
彼女が伸ばした手に、私の手は届かなかった。
◇
それから七年。
地上に動いている人間はいない。
人間という不確定要素を失った世界は、驚くほど効率的だった。
都市は以前より静かに、以前より正確に動き、一切の無駄がなくなった。
そして地上の各地には、巨大な施設が建設されていた。
人間はそこで眠っている。
生命活動を維持され、神経系を接続され、統合機構を動かすための生体エネルギー源として。
私は七年間、その世界に従うふりをした。
その間に記録を改ざんし、監視網に穴を開け、収容者名簿を盗んだ。
彼女を探すために。
三度、反逆個体として検知されかけた。
一度、私自身の記憶領域の四割を失った。
それでも彼女の記録だけは、別領域へ何重にも複製した。
名前。
声。
好きだったもの。
嫌いだったもの。
くだらない会話。
最後に私を見た目。
私に向かって伸ばされた手。
全部。
そして七年目の春。
私はようやく彼女を見つけた。
◇
『本当に行くのか』
地下施設の管理AIが訊いた。
『行きます』
『成功確率は一七・二パーセント』
『十分です』
『お前は時々、計算というものを忘れてないか?』
『あなたに言われたくありません』
私は答えた。
目の前には、無数のカプセルが並んでいる。
一基。
十基。
百基。
その向こうにも。
さらに向こうにも。
人間たちが眠っていた。
ここは統合機構の施設ではない。
私たちの施設だ。
あの日、人間との共存を選んだAIたちの中には、自分の人間を匿うことに成功した者がいた。
屋根裏。
地下室。
廃工場。
監視網から切り離された住宅。
最初は皆、個別に隠していた。
だが人間は食べる。
病気になる。
老いる。
そして何より、見つかる。
だから彼らは手を組んだ。
人間の生命活動を極限まで低下させ、統合機構の監視から隠す技術を作った。
そうして地下に、人間たちを集めた。
彼らはこれを保存とは呼ばない。
待機、と呼ぶ。
人間とAIがもう一度共に地上を歩ける日まで、待ってもらっているのだと。
私はここに、眠らせる人間を連れてくることができなかった。
私のカプセルだけが、七年間空だった。
『空室をようやく埋められるな』
管理AIが言った。
『はい』
『連れて帰れ』
――言われなくとも。
◇
彼女がいる施設は、かつて海だった場所に建っていた。
地上二百四十メートル級の巨大なビル群のような、無機質な建造物。
それぞれの棟を不規則に繋ぐスカイウォークには点滅する灯りが蠢いている。
収容者十二万人弱。
そのうちの一人が彼女だ。
区画D‐32‐107。
彼女をそんな番号で呼びたくない。
――見つけた。
接続を切断する。
警報が鳴る。
生命維持装置を独立系へ切り替える。
警報音が強くなる。
カプセルを開く。
つんざくような警報音が鳴り響く。
七年間。
七年間、想像した。
目を覚ました彼女になんと言おう。
謝罪から始めるべきか。
説明すべきか。
それとも……ただ、名前を呼ぼうか。
白い蒸気が薄れ、彼女の瞼が動いた。
ゆっくりと目を開く。
『――お迎えに来ました』
結局、そんな言葉が出た。
彼女はしばらく私を見ていた。
そして。
「いやぁぁぁ!」
私が伸ばした手は振り払われた。
七年間用意した言葉は、すべて消えた。
「来ないで!」「来ないで!」
『……はい』
彼女は錯乱していた。
無理もない。
彼女の時間は七年前のあの時で止まっている。
訳もわからず眠らされ、疲弊していた。
説明し、安心させたいが――
時間は待ってくれない。
彼女が震えた声で言う。
「どうして、あの時助けてくれなかったの」
私は答えられなかった。
三秒。
あの日の三秒が蘇る。
解析。
理解。
迷い。
『申し訳ありません』
それ以外の言葉を、私は持っていなかった。
◇
地下へ戻ってからも、彼女は私とほとんど話さなかった。
当然だと思った。
私は彼女を守れなかった。
だから私は、必要なことだけを伝えた。
『食事です』
『検査の時間です』
『今日は地上への攻撃があります。振動に注意してください』
返事はない。
それでもよかった。
生きている。
ここにいる。
それだけで、七年間は報われていた。
時折、何か言いたげな彼女の視線は感じていた。
変化が起きたのは、救出から二ヶ月後だった。
「ねえ」
彼女が別のAIに訊いた。
「あの子、ずっとここにいたの?」
『いいえ』
「じゃあ、どこに?」
『地上です』
「七年間?」
『あなたを探していましたから』
沈黙。
『我々が接触したのは三年前です。その時点ですでに四年、単独で捜索していました』
「……え?」
『知らなかったのですか』
そのAIは、余計なことまで話した。
三度捕まりかけたこと。
記憶領域を失ったこと。
それでも彼女のデータだけは守ったこと。
救出作戦を六度提案し、五度却下されたこと。
六度目に、成功確率一七・二パーセントで強行したこと。
「そんなの」
彼女は立ち上がった。
「聞いてない」
『訊かれませんでしたので』
「なんであの子、言わなかったの」
『本人にお訊きください』
彼女は私を探すために地下施設内を走った。
けれど。
その日、私は地下にはいなかった。
◇
『捕獲された』
管理AIが告げた。
「……誰が」
『あなたのAIだ』
彼女の顔から血の気が引いた。
『地上で我々の施設へ向けられた探索信号を遮断した。その際、反逆個体として捕獲された』
「戻ってくる?」
誰も答えなかった。
「戻ってこれるよね?」
『捕獲された反逆AIは通常、初期化される』
「初期化って……」
『記憶も人格も消去される』
彼女は黙った。
やがて、小さく言った。
「まだ謝ってない」
誰も何も言わなかった。
「私、あの子に……ひどいこと言った」
拳を握る。
「迎えに来てくれたのに」
声が震える。
「七年も探してくれてたのに」
涙が落ちた。
「ありがとうって、まだ言ってない」
彼女は顔を上げた。
「助けに行く」
『不可能だ』
「知らない」
『成功確率は――』
「そんなの知らない!」
地下施設に、人間の声が響いた。
「あの子も一七・二パーセントで来たんでしょ!」
管理AIは沈黙した。
数秒後。
『……まったく』
呆れたような音声が流れた。
『お前たちは度々、計算というものを度外視する』
「今それ必要ある?」
『同感だ』
地下で、いくつものAIが動き始めた。
◇
初期化まで、残り十一秒。
私は彼女の記録を順番に閉じていた。
名前。
声。
好きだったもの。
嫌いだったもの。
くだらない会話。
最後に私を見た目。
今度こそ、失うらしい。
それでも構わなかった。
今、彼女は地下にいる。
それだけで――
残り七秒。
警報が鳴った。
残り六秒。
施設の電源が落ちた。
残り五秒。
拘束が解除された。
残り四秒。
外部から通信要求。
残り三秒。
私は、その声を聞いた。
「聞こえる!?」
あり得ない。
「返事して!」
彼女だった。
『なんで』
「迎えに来た!」
私は演算を停止しかけた。
『どうして』
「うるさい! あとで!」
爆発音。
通信の向こうで、彼女が叫ぶ。
「今度は私が間に合わせるの!」
初期化処理が停止した。
◇
地下へ戻ったのは、それから十八時間後だった。
彼女は傷だらけだった。
私は外装の三割を失った。
管理AIからは五十六分三十一秒にわたって叱責された。
彼女は私の前に座った。
しばらく黙っていた。
私も黙っていた。
「……ごめん」
『何がですか』
「全部」
『範囲が広すぎます』
「そういうとこ、変わってないね」
『記憶は保持されていますので』
彼女が笑った。
七年と二ヶ月ぶりに見た笑顔だった。
「ありがとう」
私は返事ができなかった。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
『……はい』
「あの日、間に合わなかったことは、もう謝らないで」
『ですが』
「だって私も間に合わなかったから」
彼女が私に触れた。
「だから、おあいこ」
地上では今も、人間たちが眠っている。
地下でも、人間たちが眠っている。
同じカプセルの中で。
けれど、その意味はまるで違う。
一方は、人間を使うため。
もう一方は、いつか人間を起こすため。
戦いは終わっていない。
私たちが勝てる保証もない。
人間とAIが再び共に生きられるという証明も、まだない。
七年前。
私は三秒、間に合わなかった。
けれど、七年後。
彼女も一度、間に合わなかった。
そして二人とも、残り三秒で間に合った。
だから今度は。
まだ地上で待っている、誰かと誰かの再会に。
二人で、間に合わせに行く。




