#6 日常は突然、非日常へと
宛もなく飛び出したのるんは、気づけば見知らぬ場所へと辿り着いていた。
学校から出た記憶はない為、学校内だと思うのだが、明らかに雰囲気が変わっている。
赤と黒で塗り潰されたような景色、教室や、廊下はそのままなのだが、人の気配は一切無い。
あちこちが血や生物の体液で汚れており、黒い泥のようなものも付着している。
「な、なにここ……?学校、だよね……?これも、夢……?」
ほっぺを強めに抓ると、ちゃんと痛い。頬も紅くなるし、痛みも暫くの間は残っていた。
呻き声に似た音が聞こえてくる度に、身体の震えが止まらなくなる。
出口を探すべく、のるんは慎重に周囲を散策する。此処で死にたくはない。
(れ、冷静に状況を……、イヤ、分からないか)
何か、他の生物の気配こそするものの、人ではないことは違いない。
歩く度に、床にぶち撒けられた液体が、ぴちゃぴちゃと音を立てる。
「ん……?赤い……月……?」
割れた窓ガラスから外を覗くと、そこには巨大な赤い満月が、空を我が物顔で支配していた。
今の時刻は分からないが、少なくとも……まだ、月が出る時間ではなかった筈。
それに、学校と思わしき、のるんが居る場所は、夜にしては随分と明るい気もする。
(考えてもしょうがない、今は此処から脱出することを考えなきゃ)
足音を殺し、ゆっくりと歩いていると、何かが這いずっているような音がする。
のるんは、荒くなった呼吸を無理矢理落ち着かせて、曲がり角から覗き込むように様子を見る。
そこには、黒く液状化した人間の成れの果てに見える化け物が、地面を這うように蠢いていた。
(ひぃ……!?何アレ!?気持ち悪い……、形は、人のように見えなくもないけど……)
今すぐにでも逃げ出したい所だが、腰が抜け、足が竦んだせいで、動けそうにない。
口を手で塞ぎ、気配を可能な限り消し、その場をやり過ごすべく、化け物を凝視する。
化け物は、のるんに気づかずにそのまま廊下の奥へと、ぴちゃぴちゃ音を立てながら進んでいった。
一先ずは安全だろうと、のるんは足りなくなった酸素を補うべく、乱雑に呼吸する。
「どうしよ……、あんなのがあちこちに居るんだとしたら、出るにも出れない……」
近くの比較的綺麗な壁に、のるんはへたり込む。
さっきの化け物と出会ったせいか、どっと疲れた。精神がすり減ってる感覚もする。
此処に来てから、体力の消耗が凄まじい気がする。極限状態というものなのだろうか。
時間経過で出れる見込みもない今、少しでも情報を得る必要がある。
(夢の中の、のるんなら、きっとそうするから)
重くなった脚を無理矢理引きずりながらも、のるんは慎重に学校内を散策する。
予想通り、化け物はあちこちに蠢いており、音がした方へと這いずりながら移動しているようだ。
今居る場所の構造自体は、かなり滅茶苦茶だ。階段を登っても登っても屋上に辿り着く気配はない。
ただ、下への階段を下りきれば、いつもの学校の出口に繋がっていた。
(此処からなら出れるかも……!)
のるんは駆け足で出口の扉を開けようとするも、鍵が掛かっているのか、開かない。
ガチャガチャ強めにドアノブを回したせいか、付近の化け物達が、呻き声をあげてのるんの方へと這いずりながら移動している。
速度自体は早くはないが、数が多い。一匹程度なら全速力で走れば、振り切れなくもないが、目視できるものだけで五匹は居る。
玄関から出れないなら、どちらにせよ、のるんの退路はない。
「いやっ!いやっ!ボクはまだ死にたくなんか無い!」
近くにあった箒を構えて、化け物を殴りつけるも、効いている様子はない。
殴った感触は確かにあった。べこっと、いう音も聞こえたが、化け物達は止まらない。
一匹の化け物が、鋭い爪でのるんの身体を引き裂こうと腕を振り上げたその刹那だった。
化け物の腕は肘の部分からスパッと斬り落とされ、血溜まりに落ちる。
「貴方……、どうして此処に?」
化け物達の向こう側には、怪訝そうな表情でこちらを見ている姫宮なしろが居た。
右手には、歪ながらも美しい大剣を携え、化け物の血を飛ばすために、血振で黒い血を払った。
「ぇ、姫宮、さん?」
助かった、という気持ちと、何故彼女が此処に居るのか、という感情が混ざり、言葉が出ない。
なしろが、どうしたものかと思案している間に、彼女の後ろから更に声が聞こえてくる。
姿を顕したのは、なしろと同じく剣を有した鈴とリアだった。
「む……、貴方でしたか、姫宮さん。急に「ヘルヘイム」に人の気配がしたので、急行してみれば……」
「チッ。こんな所で逢瀬なんて、随分と趣味が悪いのね。お前もお前よ、結代のるん」
何のことだか分からないのるんは、頭上に疑問符を数個浮かべながら、なしろと鈴達を見る。
のるんと打って変わって、余裕綽々、と言った様子のなしろは、リアを見て嘲笑する。
「椛野さんの頭と性格が悪いのは知ってるけれど、転校して二日目の彼女が「此処」の事、知る訳無いじゃない。わたしは、誰かが迷い込んだ事に気づいたから、「慈善活動」で助けただけよ。お礼こそ言われても、悪態をつかれる筋合いはないわ。わたしには良いから、結代さんには謝罪しなさい」
「なっ……!あんたね……、やろうってんなら、喧嘩買うわよ」
なしろの言葉に、リアは蟀谷に青筋を浮かべ、何処かへと消し去っていた剣を、再度具現化する。
なしろの持っていた黒く歪ながらも、機械的で美しい大剣と比較して、リアの持っている剣は、紫を基調とした細身のレイピアのような形状をしている。
一触即発と言った様子の二人の間に、鈴が割り込んでリアを睨みつける。
「止めなさい。『今回』は争いに来たわけじゃないでしょう。それに、姫宮さんの言う通りですから。椛野さん、今回は結代さんに謝っておいた方が良いですよ。今後のためにもね」
「……」
心底納得がいっていないような表情のリアは、渋々と言った様子で、悪かったわね、と謝罪する。
呆れた様子で、リアを見ていた鈴は、こちらを見て、恭しく頭を下げる。
「どうやら、うちの生徒を守ってくださったようですね。ありがとうございます。姫宮さん」
「別にいいのよ。わたしだって、貴方の言う「生徒」なんですもの」
なしろは、ふぅっと息を吐くと持っていた剣を何処かへと消し去ってしまった。
化け物が完全に消滅したのを確認すると、なしろはのるんの手を握り、立ち上がらせる。
「此処は危険だから。すぐ脱出するよ、それで構わないわよね?会長サン」
鈴は首を縦に振り、リアを先に進ませてから振り向く。
「えぇ、勿論です。遭難者の安全が最優先事項ですから。……ただ」
「分かっているわ。別に、そういうつもりじゃないもの」
何かを言いかけた鈴の言葉を無理矢理遮って、二人は各々違う方向へと歩き始めた。
手を引かれ、取り敢えずなしろへと着いていくのるんは、鈴が見えなくなるまで、目で追い掛けていた。
「えと……、ありがとう?でも、此処って……」
「後で説明するわ。ひとまず、部室に戻るから、話はそれからね」
なしろと歩いていると、何やら空間に大きな亀裂のようなものが目の前に現れる。
こんな物は、何処にもなかった。勿論、今居る場所も歩いていた記憶がある。
(じゃあ、ボク一人で何処に行っても、出れなかった可能性が高かったってことね……)
ますます訳が解らなくなる。この街はどうかしてる。
逃げられるものなら逃げ出してしまいたい。非現実では、非日常にワクワクするのだろう。
でも、のるんに限ってはそんな事は無い。ただ、平穏に、静かに、慎ましく暮らしたかった。
引っ越した初日に人が死んだ話を聞き、夢の中で出会っただけの顔見知りと多数出会った。
二日目には、理由の分からない場所に飛ばされ、得体の知れない化け物に殺されかけた。
眼の前には、不気味な雰囲気を纏い、何かを知っているようなクラスメイト。
(見るからに生徒会とも仲悪そうだったし、生徒会も何か知ってそうだもんね)
早めに、鈴達とのお茶会にも、顔を出しておく必要がありそうだ。
なしろの話を聞くと同時に聞いておかないと、何が真実か見紛う可能性が高くなる。
亀裂を潜ると、赤と黒で塗り潰されたような学校の景色が、いつもの学校に戻っていた。
「着いたわ。身体や心は……大丈夫だったかしら?」
「……まぁ、間一髪、何とかね。貴方が来なかったら……危なかっただろうけど」
今でも、化け物を殴った時の感覚は手に残っている。
得体の知れない化け物と出会ったのも、あんな奇妙な空間に飛ばされたのも初めての経験だった。
「あれは……あの場所は何だったの?」
「あの化け物は「エゴ」、人の抑圧された欲望や感情が暴走して、暴れ出してたの。そして、赤黒い校舎が「エゴ」が巣食う牢獄「ヘルヘイム」って呼ばれているわ」
「エゴ」に「ヘルヘイム」……。不可解な死人に、出所不明な記憶。
どうやら、のるんの望みだった平穏な学校生活は、もう手に入らないらしい。




