「今月末で出ていけ」と幼馴染に捨てられた地味なイラストレーターですが、私の価値に気づいた敏腕編集者に溺愛されて画集が大ヒットしました。今さら戻ってきてと言われても、もう遅いです
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「今月末で出ていってもらえるかな。彼女と暮らすことになったから」
築三十年のアパート。六畳一間のキッチンに、涼太の声が妙に軽く響いた。
私——篠宮咲良は、手にしていたお玉をそっとシンクに置いた。今夜の夕食にと煮込んでいた肉じゃがから、甘い湯気が立ち上っている。涼太の好物だ。いや、好物だった、と過去形にすべきだろうか。
(ああ、やっぱりこうなるのか)
驚きはなかった。二週間前、「運命の人に出会った」と報告してきた時から、この展開は予測していた。ただ、もう少し猶予があると思っていただけだ。
涼太の背後に、派手な女が立っている。SNSで何度も見た顔。つけまつげに盛りすぎたアイシャドウ、ブランドロゴが主張するバッグ、そして——勝ち誇った笑み。
水沢美羽。涼太が「運命」と呼んだ女。
「ねえ涼太くん、早く話終わらせてよ。お腹空いちゃった」
甘えた声が、狭いキッチンに響く。
「ああ、ごめんな美羽。すぐ終わるから」
涼太は彼女に向ける顔と、私に向ける顔が全く違う。三年間、私にあんな笑顔を向けたことがあっただろうか。
「三年間、家賃も光熱費も折半してきたのに、一ヶ月の猶予もなし?」
私の声は自分でも驚くほど平坦だった。怒りが湧かないのだ。もう、とっくに枯れ果てていたのかもしれない。
「だって咲良、お前には他に行くとこあるだろ? 実家とか」
涼太は当然のように言った。まるで明日の天気を告げるような軽さで。
(実家を捨てて上京した事情も、この三年で何度説明しても覚えていないんだな)
私の父は、私が絵を描くことを「くだらない道楽」と呼んだ。母は父に逆らえず、私は十八歳で家を出た。以来、一度も帰っていない。涼太にはその話を何度もしたはずだ。深夜、彼の愚痴に付き合いながら、ぽつりぽつりと。
——覚えていないのか、覚える気がなかったのか。どちらでも同じことだ。
「分かった。月末までに出ていく」
「え、そんなあっさり? もうちょっと何かないの?」
涼太が拍子抜けしたような顔をする。何を期待していたのだろう。泣いて縋りつくとでも?
「引き止めてほしかった?」
「いや、そういうわけじゃ——」
「涼太くーん」
美羽が甘えた声で涼太の腕に絡みついた。私を見る目には、あからさまな優越感が滲んでいる。
「ねえ、この人まだ何か言いたいことあるの? 私たちの邪魔しないでほしいんだけど」
(勝ち誇った顔。この人は「選ばれた側」にいることが、そんなに嬉しいのか)
「てか、三年も一緒にいて気づかなかったの? 涼太くんが私みたいな子が好きだってこと」
派手なネイルを見せびらかすように髪をかき上げる。対照的に、私の爪は絵の具の染みが残り、髪は作業しやすいように無造作に一つ結びにしている。
「……そうだね。気づかなかった」
気づかなかったのではない。考えないようにしていたのだ。涼太が私を「女」として見ていないことは、とっくに分かっていた。でも、幼馴染という関係に甘えて、現実から目を逸らし続けていた。
「まあ、お前も次があるって。絵とか描いてればそのうち誰か見つかるだろ」
絵「とか」。
十年以上かけて磨いた技術を、この人はいつもそうやって軽んじてきた。「趣味でしょ」「運がいいだけ」「お前が絵で食えてるのは才能じゃなくて時代のおかげ」——そんな言葉を、私は何度飲み込んできただろう。
「そうね。そのうち見つかるかもね」
「あ、そうだ涼太くん。あの棚、私の化粧品置きたいから空けといてね」
美羽が早速、部屋の配置について話し始める。私がまだここにいるのに。
「おう、任せとけ。咲良の荷物どかせばいいだけだし」
(私がいなくなった後のことを、もう話している。三年間の全てが、こんなにも軽い)
「荷造り、始めるから。二人で出かけてきたら?」
「お、気が利くじゃん。じゃあ美羽、行こうか」
「うん! ねえ、あの新しくできたイタリアン行きたい」
「いいよ。じゃあ咲良、そういうことだから」
「……うん」
二人は私を置いて出て行った。玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響く。三年間の終わりを告げる音。
私は静かにコンロの火を止めた。肉じゃがは、もう誰も食べない。
キッチンの小さな窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。オレンジと紫が溶け合う、この世で最も美しい時間。この光を、私は何度キャンバスに閉じ込めようとしただろう。
(もう、終わりにしよう)
涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが静かに、確かに、切れる音がした。
料理、洗濯、掃除、確定申告の手伝い、深夜の愚痴聞き——全部「幼馴染だから当然」と受け取ってきたこの男に、今さら何を期待しろというのか。
それは——解放の音だったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
翌日から、私は淡々と荷造りを始めた。
三年分の生活を段ボールに詰めていく作業は、思いのほか虚しかった。私物を整理して気づいたのは、この部屋にある「私のもの」が驚くほど少ないということだ。
画材。仕事道具。最低限の衣類。それだけ。
キッチン用品も、リビングの家具も、ほとんどが涼太の名義だった。私は三年間、この空間に何も根を下ろさずに生きていたのだ。
(まるで、いつでも追い出される準備をしていたみたい)
都内で急な部屋探しは困難を極めた。フリーランスのイラストレーターという職業は、賃貸審査において圧倒的に不利だ。収入の不安定さ、社会的信用の低さ——何度も突きつけられてきた現実が、今また私の前に立ちはだかる。
不動産屋を三軒回っても、良い返事は得られなかった。「フリーランスの方は保証人が……」「収入証明が……」——聞き飽きた台詞だ。
そんな時、スマートフォンが震えた。
『篠宮さん、例のイラスト集の打ち合わせなんですが——』
桐谷蓮。私の画集を企画してくれている編集者だ。
電話に出ると、落ち着いた低音が耳に届いた。
「篠宮さん? どうしました、声が暗いですよ」
「……分かりますか」
「ええ。いつもと全然違う」
桐谷さんは、私の絵を「光を閉じ込めたような」と評してくれた人だ。出版社では若手のホープとして知られ、彼が手掛けた画集は必ず話題になるという。そんな人が、無名に近い私の画集を企画してくれている。
最初に会った時のことを覚えている。出版社の会議室で、彼は私のポートフォリオを一枚一枚、丁寧に見てくれた。涼太が「趣味でしょ」と一蹴した絵たちを、真剣な眼差しで。
『この光の表現、どうやって生み出しているんですか』
『えっと……観察、ですかね。光が物に当たった時の、微妙な色の変化を……』
『十年以上、それを続けてきたんですね』
——彼は、私の努力を「努力」として見てくれた。
気づけば、私は電話口で事情を話していた。同居解消のこと、部屋探しが難航していること、月末までに出なければならないこと。
電話の向こうで、桐谷さんが少し考え込む気配がした。
「篠宮さん。一つ、提案があるんですが」
「提案?」
「うち、祖母が遺した離れがあるんです。画集完成までの三ヶ月間、アトリエ兼住居として使いませんか?」
思わず息を呑んだ。
「家賃は要りません。むしろ、あの空間を活用してくれる人がいたら祖母も喜びます」
「そんな……ご迷惑では」
「迷惑なんかじゃないですよ」
桐谷さんの声は、穏やかだが確信に満ちていた。
「篠宮さんの絵には、見た人の心を浄化する力がある。うちの先輩——野々村さんもそう言っていました。その絵を描く環境が整わないなんて、出版社としても困るんです」
(私の絵に、そんな力が?)
涼太の言葉が脳裏をよぎる。「お前が絵で食えてるのは運がいいだけ」——その言葉を、私は笑って受け流し続けてきた。
でも、桐谷さんは違う評価をしてくれている。
「三ヶ月後の画集完成と同時に退去、という条件で構いません」
期限付きの同居人。
その言葉が、不思議と私の心を軽くした。期待も執着もしなくていい。ただ、与えられた時間で最高の作品を仕上げることだけに集中すればいい。
「……お言葉に甘えても、いいですか」
「もちろんです。週末、下見に来られますか?」
電話を切った後、私は段ボールの山を見渡した。
さっきまで虚しかった作業が、少しだけ違う意味を帯び始めていた。これは終わりではない。新しい何かの、始まりなのかもしれない。
その時、玄関のドアが開いた。
「ただいまー。あ、咲良、悪いけど明日の朝飯、いつもより早めに——」
涼太が言いかけて、部屋中の段ボールに気づいて固まった。
「……お前、マジで出てくの?」
「月末までにって言われたから」
「いや、そうだけど。もう引っ越し先見つかったの?」
「ええ」
「どこ?」
「それは関係ないでしょう」
私の淡々とした返答に、涼太は何か言いたげな顔をした。でも、結局何も言わずにリビングに消えていく。
(今さら何を期待しているの)
私は黙って荷造りを続けた。この部屋にいるのも、あと数日。三年間の歳月が、こんなにもあっけなく終わろうとしている。
でも、不思議と悲しくはなかった。
◇ ◇ ◇
週末、桐谷さんの実家を訪れた。
都心から電車で四十分ほど。緑豊かな住宅街に、その家はあった。
「こちらです」
案内されたのは、母屋から少し離れた場所に建つ、瀟洒な平屋だった。古いが手入れが行き届いており、白壁と木の温もりが調和した佇まい。
玄関を開けた瞬間、息を呑んだ。
「これは……」
北向きの大きな窓。そこから差し込む、安定した柔らかな光。
画家にとって、北向きの光は最高の贈り物だ。直射日光のような強い影を作らず、一日を通して安定した明るさを保つ。この窓は、絵を描くために設計されたとしか思えなかった。
「祖母は日本画家だったんです」
桐谷さんが静かに説明した。切れ長の目が、懐かしそうに細められる。
「この離れは祖母のアトリエでした。窓の位置も、収納のレイアウトも、全部祖母が考えたものです」
部屋を見回す。画材の収納に適した棚、イーゼルを置くのにちょうどいいスペース、長時間の作業でも疲れにくい動線。全てが、創作する人間のことを考えて作られていた。
「素敵な方だったんですね、お祖母様」
「ええ。『本物の才能を持つ人に使ってほしい』というのが、祖母の遺言でした」
桐谷さんの切れ長の目が、真っ直ぐに私を見た。
「篠宮さんの絵を見た時、祖母ならきっとこの人を選ぶだろうと思ったんです」
(本物の才能……)
その言葉が、胸に深く染み込んでいく。
涼太は一度も、私の絵を「才能」と呼んでくれなかった。十年以上の努力を「運」の一言で片付けた。でも、桐谷さんは——会って数回の仕事相手でしかない彼は、私の中にある何かを見てくれている。
「使わせていただきます」
頭を下げた。これは社交辞令ではない。心からの感謝だった。
「よかった」
桐谷さんがほっとしたように微笑む。普段はクールな印象の人だが、笑うと少し幼く見える。
「生活に必要なものは一通り揃っていますが、足りないものがあれば言ってください。母屋にも自由に出入りしていいので」
「ありがとうございます。でも、あまりご迷惑をおかけしないようにします」
「迷惑だなんて思いませんよ」
桐谷さんは窓辺に歩み寄り、庭を眺めた。
「祖母が丹精込めた庭です。季節の花が咲きます。よかったら、絵の題材にしてください」
庭には、椿の蕾が膨らみ始めていた。冬の終わり、春の始まり。
私の人生も、そんな季節の変わり目にいるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
引っ越しの日、涼太は最後まで複雑な顔をしていた。
「なあ、咲良」
「何?」
「その……連絡先とか、変わらないよな?」
「変わらないけど」
「そっか。まあ、何かあったら連絡しろよ」
(何かあったら、ね)
三年間一緒に暮らして、私に「何かあった」時、この人は何をしてくれただろう。締め切り前の徹夜明け、体調を崩した時、実家から心ない連絡が来た時——涼太はいつも自分のことで精一杯で、私を気遣う余裕などなかった。
「うん。じゃあね」
私は振り返らずに部屋を出た。
背後で、美羽の甲高い声が聞こえた。
「やっと出てったー! ねえ涼太、今日から私の荷物運び込んでいい?」
——好きにすればいい。
もう、私には関係のない世界だ。
離れに着いた時、夕暮れの光が窓から差し込んでいた。オレンジと紫が溶け合う、この世で最も美しい時間。
私はスケッチブックを取り出し、その光を写し取り始めた。
三ヶ月。この場所で、最高の画集を作る。それだけに集中しよう。
期待も執着もしない。ただ、与えられた時間を精一杯生きる。
それでいい。それだけでいい。
——そう思っていた。この時は、まだ。
◇ ◇ ◇
共同生活が始まって一週間。私は桐谷さんの細やかな気遣いに、戸惑いを覚えるようになっていた。
『篠宮さん、今日は打ち合わせで遅くなります。夕食は済ませてきますので、お気遣いなく』
毎朝のように届くメッセージ。仕事で遅くなる時は必ず連絡をくれる。
涼太は違った。何の連絡もなく深夜に帰ってきて、「飯は?」と当然のように聞いてきた。作り置きがないと不機嫌になり、あると「冷めてる」と文句を言った。
『お気遣いなく』——この言葉を、私は何年ぶりに聞いただろう。
その日、私は新作のラフに没頭していた。画集の目玉になる連作のコンセプトを固める重要な段階だ。気づけば昼食を抜き、夕食の時間も過ぎていた。
光の表現をどう深めるか。十年間追い求めてきたテーマの、集大成になるはずの作品。妥協したくなかった。
コンコン、と控えめなノックの音。
「篠宮さん、少しいいですか」
桐谷さんの声だ。
「どうぞ」
ドアが開き、桐谷さんが紙袋を手に入ってきた。仕事帰りなのか、まだスーツ姿だった。
「差し入れです。駅前のデリで買ってきました」
「え?」
「母屋の明かりがついていなかったので。もしかして、と思って」
紙袋の中身は、サンドイッチとスープ、そして小さなサラダ。温かいスープの香りが、空っぽの胃を刺激した。
「あ……すみません、食事するの忘れてて」
「忘れてた、ですか」
桐谷さんが少し眉をひそめた。責めるような表情ではない。むしろ、心配しているような。
「篠宮さんの描く光の表現が好きなんです」
唐突な言葉に、私は顔を上げた。
「だから、描き手であるあなた自身が消耗しきった顔をしていると、こっちが落ち着かなくて」
「……好き、ですか」
「ええ。あなたの絵には、見る人の心を浄化する力がある。野々村さんも同じことを言っていました」
誰かに「好き」と言われたのは、いつ以来だろう。
涼太は私の絵を「趣味でしょ」と軽んじていた。SNSでそこそこの評価を得ていても、「お前が絵で食えてるのは運がいいだけ」と言い放った。
十年以上かけて磨いた技術を、「運」の一言で片付けられる屈辱を——私は笑って受け流し続けていたのだ。
「すみません、変なこと言って」
桐谷さんが少し照れたように視線を逸らした。
「とにかく、食事はちゃんと取ってください。いい絵は、健康な体と心から生まれますから」
「……はい」
素直に頷いている自分に気づいて、少し驚いた。涼太に同じことを言われたら、反発していたかもしれない。でも桐谷さんの言葉には、押しつけがましさがない。ただ純粋に、私を心配してくれている。
「じゃあ、おやすみなさい。無理しないでくださいね」
桐谷さんが去った後、私は一人でサンドイッチを頬張った。
美味しかった。温かかった。
——誰かに気遣ってもらうって、こんな感覚だったっけ。
忘れていた感情が、少しずつ解凍されていくような気がした。
◇ ◇ ◇
その頃、涼太の生活は急速に崩壊し始めていた。
「は? 電気止まってんだけど!」
深夜、真っ暗なアパートの中で、涼太は途方に暮れていた。
「なんで急に——って、あ」
支払い通知書の山。未開封のまま、テーブルの上に積み重なっている。咲良がいた頃は、こんなことはなかった。彼女がいつの間にか処理してくれていたのだ。
「美羽、懐中電灯持ってない?」
「はあ? なんで私が持ってると思うの? つか、ありえないんだけど。電気止まるとか、どういう生活してんの?」
美羽の冷たい声が、暗闇の中で刺さる。
「いや、ちょっと手違いで——」
「手違いじゃなくて、払い忘れでしょ? 信じらんない。私、今日は帰るから」
「え、待って、美羽!」
返事はない。ヒールの音が遠ざかり、玄関のドアが閉まった。
涼太は一人、暗い部屋の中で呆然と立ち尽くした。
(咲良、どこにいるんだよ……)
スマートフォンを取り出し、咲良の番号を探す。電話を——いや、まずはLINEか。
『咲良、あの書類どこにやった? 電気の契約関係のやつ』
送信。
既読はつかない。
翌日になっても、その翌日になっても、既読はつかなかった。
栄養バランスの崩れたコンビニ食で胃もたれを起こし、洗濯物は山のように溜まり、部屋はみるみるうちに荒れていった。
美羽は「汚い部屋には行きたくない」と言って、来る頻度が減っていく。
「なあ美羽、たまには料理とかさ——」
「は? 私が料理? なんで? 私の仕事じゃないんだけど」
「いや、でも一緒に暮らすなら——」
「一緒に暮らすって言ったって、私この部屋に住むなんて一言も言ってないし。てか涼太、最近なんか疲れてない? そういうの、萎えるんだけど」
美羽の言葉に、涼太はようやく気づき始めた。
咲良は、当たり前のようにそこにいた。料理を作り、洗濯をし、掃除をし、書類を整理し、深夜の愚痴に付き合い——全てを「幼馴染だから」という理由で引き受けてくれていた。
それがどれだけ大変なことだったのか、今になって思い知らされる。
『今度の週末、ちょっと手伝いに来れない?』
藁にもすがる思いで送ったメッセージ。
既読はつかない。
咲良は、もう振り返らないと決めていた。
◇ ◇ ◇
離れでの生活が始まって一ヶ月。私の絵は、明らかに変わり始めていた。
「篠宮さんの絵、最近さらに深みが増しましたね」
打ち合わせに訪れた桐谷さんが、新作のラフを見ながら言った。
「……そうですか?」
「ええ。迷いがなくなった」
桐谷さんはキャンバスに視線を向けたまま、静かに続けた。
「あなた自身が解放されたから、絵も解放されたんだと思います」
解放——その言葉が、胸に深く響いた。
確かに、今の私には迷いがない。誰かの機嫌を伺う必要のない空間で、純粋に創作と向き合うことができている。
涼太と暮らしていた頃、私はいつも彼の顔色を窺っていた。絵を描く時間が長いと「また趣味?」と嫌味を言われ、SNSの評判を話すと「へえ、よかったね」と興味なさげに返された。
いつしか私は、自分の絵に自信を持つことを諦めていた。
でも今は違う。
離れの庭に咲く季節の花々、古い調度品が作る影、夕暮れ時の空の色——全てがインスピレーションになる。何より、心が穏やかだった。
「野々村さんが、ゲラを早く見たいって言ってましたよ」
「野々村さんが?」
「ええ。『あの子の画集が出るなら、絶対に話題になる』って」
野々村香織。桐谷さんの先輩で、業界の重鎮とのパイプを持つベテラン編集者だ。その人が、私の絵をそこまで評価してくれている?
「実は、篠宮さん」
桐谷さんが少し言いにくそうに切り出した。
「業界内では、あなたの画集を待ち望んでいる人がかなり多いんです。SNSでの評判も、ご自身が思っている以上に高い」
「え……?」
「『篠宮咲良の画集が出るなら欲しい』という声、ずっと前からあったんですよ。知りませんでしたか?」
知らなかった。
涼太の言葉ばかりが耳に残っていて、他の評価に気づく余裕がなかったのだ。「運がいいだけ」「趣味でしょ」——そんな言葉に、いつの間にか洗脳されていた。
「もっと自信を持っていいんですよ、篠宮さん」
桐谷さんの声は、穏やかだが確信に満ちていた。
「あなたの絵には、十年以上の積み重ねがある。それは『運』なんかじゃない。紛れもない実力です」
涙が滲んだ。
(ああ、そうか)
この人は、私の努力を見てくれている。十年以上かけて磨いた技術を、正当に評価してくれている。
「すみません、急に泣いたりして」
慌てて目元を拭う。桐谷さんは黙って、ハンカチを差し出してくれた。
「謝らないでください。今まで、ちゃんと評価されてこなかったんでしょう」
「……はい」
「これからは違います。あなたの価値を、ちゃんと世界に届けましょう」
桐谷さんの言葉に、私は小さく頷いた。
三ヶ月という期限。最初は、それが心の防波堤だった。期待しなくていい、執着しなくていい——そう思っていた。
でも今は、その期限が惜しい。
この場所で、この人の傍で、もう少し——
(何を考えているんだろう、私は)
慌てて首を振る。仕事のパートナーに、変な感情を抱いてはいけない。
「篠宮さん?」
「いえ、何でもないです。頑張ります、画集」
桐谷さんは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
その優しさが、また心に沁みる。
——私は、少しずつ変わり始めていた。
◇ ◇ ◇
二ヶ月が過ぎた頃。
その日、私は庭で椿の絵を描いていた。冬を越えて、ようやく花を開かせた紅い椿。その生命力を、キャンバスに閉じ込めようとしていた時——
「咲良」
聞き覚えのある声に、筆が止まった。
振り返ると、門の前に涼太が立っていた。
どうやって住所を調べたのか。その顔は疲弊しきっており、かつての「爽やかな幼馴染」の面影はどこにもなかった。髪は伸び放題、無精髭が目立ち、目の下には深い隈。
「……何しに来たの」
「話があるんだ。入れてくれないか」
「ここは私の家じゃない。勝手に人を入れる権利はないよ」
「じゃあ、ここで話す」
涼太は構わず門を開け、庭に入ってきた。私はキャンバスの前に立ったまま、彼を見据える。
「彼女と別れたんだ」
「そう」
「やっぱり俺には咲良が必要だったんだよ」
涼太の目が、すがるように私を見た。かつて、この目に何度騙されただろう。困った時だけ頼ってきて、解決すればまた私を空気のように扱った。
「戻ってきてくれないか」
かつての私なら。
その言葉に揺らいだかもしれない。幼馴染という絆に縋り、また同じ生活に戻っていたかもしれない。
でも今は違う。
「涼太、私はもう戻らない」
「なんでだよ!」
涼太が声を荒げた。
「俺たち長い付き合いだろ! 十年以上じゃないか!」
「長い付き合いだったね」
私は静かに言った。声は震えていない。二ヶ月前とは違う自分がいた。
「だからこそ分かったの。私はあなたの便利な道具じゃない。そしてあなたは——私の価値を、一度も見てくれなかった」
「価値って何だよ!」
「私の絵。私の努力。私の想い。全部、あなたは『運』や『趣味』で片付けた」
言葉が、次々と溢れ出す。三年間——いや、もっと長い間、飲み込んできた言葉たちが。
「料理も洗濯も掃除も、全部『当然』だと思っていたでしょう。私が実家と縁を切って上京したこと、何度説明しても覚えていなかったでしょう。私の締め切り前の苦しみも、体調不良も、あなたは一度も気にかけてくれなかった」
涼太が言葉を失っている。
「私は、ずっとあなたに尽くしてきた。でもあなたは、それを当然だと思っていた。そして新しい女性が現れた途端、私を簡単に捨てた」
「あれは——」
「もういいの。あなたを責めるつもりはない。ただ、もう戻る気はない。それだけ」
静かな声だった。怒りはもうない。あるのは、ただ——諦めと、解放感。
「篠宮さん」
背後から、低い声が聞こえた。桐谷さんだ。いつの間にか、庭に出てきていた。
「彼女は忙しいんです。お引き取りください」
桐谷さんが静かに、しかし毅然とした態度で涼太と私の間に入った。その背中は広く、頼もしかった。
「……誰だよ、お前」
「篠宮さんの仕事関係者です。それ以上でも以下でもありません」
「仕事関係者が、なんでこんなところに——」
「ここは私の実家ですから」
涼太の顔色が変わった。ようやく状況を理解したらしい。
「お前……咲良と、まさか——」
「勝手な想像はやめてください。篠宮さんは、画集の制作に集中しているんです。邪魔をしないでいただきたい」
桐谷さんの声は冷静だが、有無を言わせない迫力があった。涼太は何か言おうとしたが、結局、言葉を見つけられないまま踵を返した。
「覚えてろよ……」
捨て台詞だけが、虚しく響いた。
門が閉まり、足音が遠ざかっていく。私は大きく息を吐いた。
「大丈夫ですか」
桐谷さんが心配そうに振り返る。
「はい。大丈夫です」
不思議と、心は穏やかだった。もう、あの男に振り回されることはない。そう確信できた。
「ありがとうございました。助けてくださって」
「いえ。当然のことをしただけです」
桐谷さんは椿のキャンバスを見て、ふっと微笑んだ。
「素敵な絵ですね。この椿、祖母が好きだった品種なんです」
「そうなんですか」
「ええ。きっと祖母も喜んでいますよ」
空を見上げる。春の陽射しが、庭全体を優しく照らしていた。
過去と訣別した今、私の前には——新しい未来だけが広がっている。
◇ ◇ ◇
三ヶ月の期限が、近づいていた。
画集は完成間近。入稿を控えた最後の仕上げに、私は没頭していた。
——でも、心のどこかで。
この場所を去ることへの、惜別の念が募っていた。
離れでの生活は、私に多くのものを与えてくれた。穏やかな日々、創作に集中できる環境、そして——桐谷さんという存在。
「期限」があるからこそ、真剣に向き合えたこの時間。でも今は、その期限が惜しい。
(馬鹿みたい。仕事の関係でしかないのに)
自分を嗤う。でも、心は正直だった。
朝起きて、庭を眺める時間が好きだった。桐谷さんが差し入れてくれる珈琲の香りが好きだった。打ち合わせの時、真剣に私の絵を見つめる横顔が好きだった。
全部——好きになってしまった。
その日、桐谷さんが完成した画集のゲラを手に、離れを訪れた。
「篠宮さん。最終確認、お願いします」
受け取ったゲラは、想像以上の出来映えだった。私の絵が、美しい装丁に包まれて、一冊の本になっている。
表紙には、離れの庭で描いた夕暮れの光。この三ヶ月間の全てが、この一冊に詰まっている。
「……すごい」
「気に入っていただけましたか」
「はい。こんなに素敵な形にしてくださって、ありがとうございます」
桐谷さんは微笑んだが、どこか緊張した面持ちだった。
「篠宮さん」
「はい?」
「契約の延長をお願いしたいんです」
「延長……ですか?」
思わず聞き返す。まだ次の企画の話をしてくれるのだろうか。
「ええ。ただし、条件を変更させてください」
桐谷さんが、真っ直ぐに私を見た。切れ長の目が、いつになく真剣だった。
「期限なしで、ここにいてほしい」
心臓が跳ねた。
「同居人としてではなく——家族として」
プロポーズだと気づくのに、数秒かかった。
「え……?」
「この三ヶ月、あなたを見てきました。絵に向かう姿、静かな強さ、優しい心。全部、好きになりました」
桐谷さんの声は、落ち着いているようで、微かに震えていた。
「最初は、純粋に仕事のパートナーとして見ていました。でも、いつの間にか——あなたがいない生活を、想像できなくなっていた」
「桐谷さん……」
「篠宮さんの絵が好きです。でもそれ以上に、篠宮咲良という人が好きです。あなたと、これからもずっと一緒にいたい」
涙が溢れた。
今度の涙は、悲しみでも悔しさでもない。純粋な、喜びの涙だった。
「私も」
声が震える。でも、伝えなければ。
「私も、ここを離れたくないって思っていました。この場所も、この庭も、全部好きになった。でも何より——」
桐谷さんの目を見る。
「あなたが、好きです」
桐谷さんの表情が、ゆっくりと綻んだ。
「よかった」
その一言に、全ての感情が込められていた。
「これからは、僕に篠宮さんを幸せにさせてください」
「……咲良、って呼んでください」
「じゃあ、蓮と」
名前を呼び合う。それだけのことが、こんなにも温かい。
期限付きで始まった同居生活は——「永遠」という新しい形に生まれ変わろうとしていた。
◇ ◇ ◇
画集『光を閉じ込めて』発売記念イベント。
都内の大型書店で開催されたサイン会には、想像以上の人が集まっていた。長蛇の列が店の外まで続いている。
「篠宮先生、ずっとファンでした!」
「この画集、予約開始日に即買いしました!」
「先生の絵を見ると、心が浄化される気がして……」
次々と寄せられる声に、私は何度も頭を下げた。こんなにも多くの人が、私の絵を待っていてくれたなんて。
「やっと世間があなたの価値に気づいたわね」
野々村さんが、裏方として奔走しながら涙ぐんでいた。
「あなたの絵には、見た人の心を浄化する力がある。私は最初から知ってたけど」
「ありがとうございます、野々村さん」
「これからもっと忙しくなるわよ。覚悟しておきなさい」
嬉しい悲鳴だ。三ヶ月前の私には、想像もできなかった未来。
サイン会の終盤——会場の片隅に、見覚えのある姿を見つけた。
涼太だった。
みすぼらしい姿だった。髪は伸び放題、無精髭が目立ち、服も皺だらけ。かつての「爽やかな幼馴染」の面影は、完全に消え失せていた。
彼は私を見つけると、何か言おうとした。でも、長蛇の列と、私の周りを囲むスタッフを見て——諦めたように俯いた。
「俺は本当に馬鹿だったんだな……」
その呟きは、私の耳には届かない。届いたとしても、もう何も感じなかっただろう。
彼が去っていく後ろ姿を、私は一瞥しただけだった。
「咲良さん」
隣に、蓮さんが来てくれた。私の手を、優しく握る。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
その手の温もりが、私に現実を思い出させる。今、私の隣にいるのはこの人だ。私の価値を見てくれる、私を幸せにしてくれる、この人。
「画集、売れ行き好調みたいですよ」
「本当?」
「ええ。重版も決まりました」
蓮さんが誇らしげに微笑む。その笑顔を見ると、私まで嬉しくなる。
「次の企画の相談も、いくつか来ています。個展の話も」
「そんなに?」
「咲良さんの才能が、やっと正当に評価され始めたんです」
十年以上かけて磨いた技術。「運がいいだけ」と軽視され続けた日々。でもそれは全て、今日この瞬間のためにあったのかもしれない。
「これからも、一緒に頑張りましょう」
蓮さんの言葉に、私は深く頷いた。
「うん。これからも、よろしくね」
会場の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。オレンジと紫が溶け合う、この世で最も美しい時間。
——私はずっと、この光を追いかけてきた。
そしてようやく、その光を閉じ込めることができた。キャンバスの中にも、人生の中にも。
期限付きで始まった同居生活は、「永遠」という新しい形に生まれ変わった。
隣には、私の手を離さない人がいる。
それだけで、世界はこんなにも輝いて見えるのだ。
【完】




