武侠小説:愛多憎生
雪がすべてを覆い隠すように降り頻っていた。
崑崙の山嶺、断崖に突き出した東屋で、二人の剣客が対峙している。
一人は白衣を血で染めた青年、李雲。もう一人は黒装束に身を包んだ美女、沈華。
二人の足元には折れた一振りの剣が転がっていた。
それはかつて、二人の師が「番の剣」として授けたものだ。
「なぜ、止めなかった」
李雲の声は凍てつく風に削られて掠れていた。彼の胸元には沈華の放った短剣が深く突き刺さっている。
「止めれば、あなたは死ぬまで復讐の業火に焼かれたでしょう」
沈華の瞳には涙も憎しみもなかった。ただ、深い淵のような静寂だけが湛えられている。
十年前、李雲の一族を滅ぼしたのは沈華の父が率いる暗殺集団だった。
李雲は生き残り、沈華とともに修行に励みながら、仇を討つことだけを糧に生きてきた。
沈華はそれを知りながら、彼に剣を教え、背中を守り、そして愛した。
李雲にとって、沈華は仇の娘であり、同時にこの世で唯一、己の孤独を埋めてくれる存在だった。
愛しているからこそ、彼女の父を殺さねばならず、憎んでいるからこそ、彼女を離すことができなかった。
「俺の人生は、お前を殺すためのものだったはずだ」
李雲が口端から血を流しながら笑う。その手はゆっくりと沈華の喉元へ伸びた。だが、指先は力なく彼女の頬を撫でるに留まった。
「……だが、お前がいない世界で、何を憎めばいいのかも分からなかった」
沈華は己の胸に刺さっている李雲の短剣をさらに深く押し込んだ。彼女もまた、彼を愛した罪を自らの命で贖おうとしていた。
「地獄へ行くなら、一緒です。そこにはもう、恩義も、家柄も、復讐もありません」
二人の体温が、雪の上に重なり合う。
愛とは相手を生かすことなのか。それとも、相手のすべてを奪い、自分の一部として終わらせることなのか。
「なあ、華……。来世があるなら、次は剣など持たずに会おう」
「ええ。ただの、男と女として」
李雲の瞳から光が消え、沈華もまた、彼の温もりを抱きしめたまま静かに瞼を閉じた。
翌朝、雪は止んだ。
東屋には寄り添って凍りついた二人の亡骸と冷たく光る折れた剣だけが残されていた。
山を降りる風が二人の遺した愛憎を真っ白な虚無へと押し流していった。
愛とは最も純粋な形をした「呪い」なのかもしれない。
救いを与えるのと同時に、決して逃れられぬ枷を魂に刻み込むのだから。




