デバフ魔法スロウを極めたら優秀すぎた
「ああ……もうだめだ。私はこの迷宮で死ぬんだ」
ルナは、ぽつりと呟いた。
青いお下げ髪が力なく垂れ下がる。くすんだ赤い魔石のついた杖を握る手には、すでに力がなかった。唇から漏れた声は、もはや希望の色を失っている。
なぜなら足元はおろか、壁から天井に至るまで、あたり一面がモンスターで埋め尽くされているのだ。
彼女が立つこの場所は モンスターハウス 。迷宮の奥深くに突如として現れる魔物の巣窟。
―― 別名『絶望の部屋』 。
数分前まで、彼女は必死に抗っていた。土魔法で土壁を築き、時間を稼ぎながら、風・火・氷・光、あらゆる魔術を駆使して戦った。
だが、際限なく湧き出るモンスターの群れを捌ききれるはずもない。魔力はすぐに枯渇し、激しい眩暈が視界を歪ませる。朦朧とする意識を奮い立たせ、最後の力を振り絞り杖を掲げたが、灯るのは今にも消えそうな蝋燭のような小さな炎だけだった。
残酷な現実にルナは唇をかみしめると、腰に下げた短剣を引き抜いた。
「――こんなやつらに蹂躙されるくらいなら、いっそ……」
両目を閉じ、覚悟を決める。剣柄を両手で握り、鋭い刃先を喉元へと向けた。白く柔らかな肌に刃が触れ、僅かに冷たさを感じた、その瞬間――。
「あのーー。だいじょうぶですか?」
ずいぶんと間の抜けた声だ。天使のお迎えがこんなにも頼りないものだとは、知らなかった。
「……って、あれ? 私、まだ刺してないはず?」
おそるおそる目を開けると、一人の青年が立っていた。
すらりとした長身。少し癖のある茶色い髪に淡い青色の瞳。その手には、子供がつかうような小さな杖が握られていた。
「ひょっとして、迷子ですかぁ? 出口ならあっちですよ」
「へ? ――ひっ!!」
緊張感のない声に、思わず間の抜けた声がこぼれた。だが、即座に現実に引き戻される。
青年の背後――そこには竜騎兵がいた。鈍色の輝きを放つ鋼鉄の鎧をまとい、巨大な青龍刀を振り上げ、今まさに無礼な侵入者を脳天からカチ叩き割ろうとしていた。
「では、僕はこれで!」
青年はそう言い残すと、まるで何事もなかったかのように背を向けた。
「ちょっと待って!! 助けてくれてありがとう! でも、これは一体どういうこと?」
ルナの驚きはもっともだった。
なぜなら竜騎兵は青龍刀を振り上げたまま、止まっていた。いや、完全に静止しているわけではない。その動きは、まるでナメクジのように遅く、今にも振り下ろされるはずの刃が、時間の淀みに沈むかのごとく、わずかしか進んでいなかった。
「あ、あなた、一体何をしたの?」
「何って、スロウを唱えました。知りません?」
「もちろん知ってるわよ。デバフ魔法でしょ?初級の!でも、あれは対象の動きをわずかに遅らせるだけの魔法のはずよ? でも、これって……」
少女の驚きはもっともだ。
なぜなら、モンスターハウス内のすべての魔物が、底なし沼にはまった動物のように緩慢な動きに変わっていたのだから。
「ではでは!」
「ちょっと待って! 助けてくれてありがとう! でも、私、もう魔力が残ってないの。お願い。お礼するから外まで連れてってくれない?」
「お礼ですか?」
そう言うと、青年はルナの足先から頭までをじっくりと観察。その視線に気づいたルナの頬が赤く染まっていく。
「ちょ、ちょっと、お礼って言ってもエッチなのはダメよ。私、これでも結婚するまではそういうのしな……」
「ひょっとして宮廷魔術士の方ですか?」
ルナの話を最後まで聞かず、青年は唐突に問いかけた。
「えっ? どうして分かったの?」
「その杖と靴、王宮からの支給品ですよね?」
「ええ、そうよ。よく知ってるわね」
「はい。昔、迷宮で拾って売却したら、そこの主人が教えてくれたんですよー。いやー、あれはいいお金になったなぁ。……おっと、ちょっとこちらへ」
「へっ?」
脈絡の無い言葉の意味を理解する間もなく、青年の手が伸びるとルナの肩をぐいっと引き寄せた。
着痩せするタイプなのか、意外に厚い胸板。薬品の匂いと、わずかな汗の香り。
その瞬間、ルナの胸がトクン高鳴った。
「だめ。私、はじめてなの!!」
そう言いつつも、少し背伸びをして目を閉じる。
迷宮で命を助けられて、恋に落ちるなら本望だ。
――その頬に、冷たく鋭い感触が触れた。
(初めてのキスが冷たいなんて……ん?)
違和感に気づき目を開くと、視界に入ったのはギラリと光りを放つロングソードの切っ先。
その持ち主は、骸骨兵だ。
「きゃーー!!」
カタカタと音を立てそうな頭蓋。その黒い空洞の眼窩と、ルナの視線が交わる。
恐怖で腰が抜ける。
「だめですよー油断したら。スロウがかかっていても動きが止まる訳じゃないんですから」
そういうと青年は骸骨兵の足を払う。バランスを崩した骸骨兵は転倒すると、バラバラに砕け散った。
「ではでは」
「だから、おいていかないで!」
恐ろしい魔物の群れを、涼しい顔で草むらを掻き分けるように進む青年を追って、ルナも部屋を出た。
〓〓〓〓〓
「……ごくごく。んっ。マナポーションありがとう!これで、私も魔法が使えるわ!」
青年から手渡された小瓶を飲み干すと、ルナの血色が幾分回復。手にした杖の魔石にも輝きが戻った。
「私はルナ17歳。元宮廷魔術士よ。あなたは?」
「僕はフィンブル。同じく17歳です」
なし崩し的に行動を共にすることになり(ルナの一方的な付きまといが正しい)、まずは自己紹介。そして、ルナは一番の疑問を聴くことにした。
「ねぇ、クビになった私が言うのも何だけど、あなたさっきの魔法、相当の腕前よ。宮廷魔術士になったら?」
「それなら落ちましたよ。一次試験で」
フィンブルはあっさりと答える。
「えっ?どうして? 一次試験なんて、どんな魔術でもいいから4つ披露するだけじゃない? なんで、モンスターハウスを軽々突破できる貴方が落ちるのよ」
「だって僕、スロウしか使えませんから」
「へっ?」
ルナは思わず聞き返す。あれほどの戦いぶりを見せた相手が、一つの魔法しか使えないとはにわかに信じがたい。
「ルナはどうして、宮廷魔術士を辞めたんですか?」
ルナの困惑をよそにフィンブルから質問が飛ぶ。
「クビになったのよ。王命を受けて『ナユタ』って迷宮に潜った時に、攻略に失敗したの。あの悪辣な迷宮と来たら……」
ルナの顔に、わずかに陰りが差す。
「あーあの迷宮ですかー懐かしい。最奥に水晶龍がいるんですよねー」
「そうそう。あの魔法を全て反射する……。って、ひょっとして、フィンブルあなた、まさか、あの迷宮に潜ったの?」
「はい。そこで拾ったんですよ。その杖と装備。いやールナのお仲間の装備だったんですねー凄い偶然だー」
フィンブルはルナの杖を指差すが、ルナの表情は固まってしまう。なぜなら、
「ちょっと待って!私たちは騎士団と宮廷魔術士団の混成であの迷宮に挑んだのよ!王国の精鋭20名よ!
しかも、水晶龍の存在は国家機密。最深部にたどり着いたものしか知らないはずよ。そこから、生きて戻るなんて、あなたもしかして…...」
目を見開き驚くルナに、フィンブルは首を傾げると気楽な口調を返した。
「ん?迷宮を攻略したかってことですか?もちろんしましたよ」
「なっ……」
(私だけを残して、精鋭部隊が壊滅した迷宮なのよ……)
ルナの驚愕をよそに、フィンブルは前を指さす。
「今度は、この迷宮です。ほら着きましたよ。守護者の部屋に」
気がつけば、巨大な石造りの禍々しい扉が目の前にそびえていた。
「では!」
フィンブルは一切の躊躇なく、自室に入るように扉を開けた。
「はやい、はやい!はやいから!!もっと準備とか支度とか確認とかあるでしょ!」
「あはは。ルナそれ全部同じーー」
ルナの指摘をフィンブルは笑い飛ばす。
「フィ、フィンブル……前、前……」
涙目で指差す先には、体長30mは超えているであろう巨大な龍。
「な、なんで、こんな奴がいるのよ。こんなの神話の世界の怪物じゃない」
「あーーこれヒュドラってやつですね。首が九つもありますから」
「お願いだからもっと驚いて!!こうなったら、もうやけくそよ!
私が先制するからフィンブル逃げて!
『天を駆ける雷帝よ、その荒ぶる力を我に貸し与え給え。崇高なるあなたの腕に宿る金色の槍を今ここに示し、邪なるものを打ち砕き給え――』」
ルナはフィンブルを護るように前に出ると、迷わず自らの最強呪文を選択。
その瞬間、ヒュドラも察したかのように、何かを飛ばしてきた。鋭い風圧が頬をかすめ、ルナの肌に薄い傷が走る。しかし、怯むことはない。すでに魔術の錬成は臨界点を越えていた。
「はああぁッ!! サンダーボルト!!!!」
ルナの杖が閃光を放つ。蒼白い光がヒュドラの頭上を照らし、瞬時に凝縮された魔力の塊へと収束する。そして、刹那――閃光が迸り遅れて轟雷が鳴り響く!!
九つの光る槍が一直線に落ち、正確無比にヒュドラの頭を撃ち抜いた。
「おおー凄い!流石、宮廷魔術士」
「『元』よ! さぁ、今がチャンスよ!逃げましょう!」
ルナは踵を返し背後の扉へと駆け出すも、フィンブルは動かない。
「えっ?どうして?逃げるんです?」
「どうしてじゃないわよ!伝承が本当なら、 あいつには攻撃魔術は一切効かないの!私達魔術士では絶対に勝てないわ!
今のも目くらまし程度にしかなってないわ!お願いだから、早く扉へ!」
彼女の焦燥をよそに、フィンブルはその場を動かない。
――次の瞬間、ヒュドラの九つの首が狂ったようにうねり、部屋中を破壊し始めた。
壁が砕け、天井が崩れ落ちる。王の間のような荘厳な部屋が、一瞬にして修羅の戦場へと変貌した。
「あーーこれ。だいぶ怒ってますねーー」
「そうよ!だから早く逃げて!!」
しかし、フィンブルは微動だにせず、ただ前を見据えていた。
フィンブルが見据える先を見て腰が抜けた。そこにあったのは本当の絶望だった。
ヒュドラの九つの首が一斉にのけ反り青い光が口内から溢れ出している。
――『龍の息吹』。
岩をも溶かす極熱のブレス。
どんな剣も、どんな防具も、この息吹の前には意味をなさない。
鋼鉄すらも液状に変える絶対的な破壊の奔流。
唯一の救いは痛みを感じずに一瞬で消し炭に変わることぐらいか……。
しかし、フィンブルはその絶望を前にしても、表情を一切変えなかった。
静かに、短い杖を掲げると、
「スロウ!!」
それは、
たった三文字の言霊。
ほんの一秒にも満たない詠唱。
たかだか初級のデバフ魔法。
だが――
その呪文で 全てが終わった。
ヒュドラの口内に溢れた魔力が、その場で静止。
爆発寸前のマナの渦が、膨張したまま凍りつく。
ヒュドラは激しくもがこうとするが、その動きは妙に鈍い。
否、鈍いのではない――時間が切り刻まれているのだ。
まるで、見えない鎖に絡め取られたかのように、ヒュドラの動きは極限まで鈍化していく。
それでも、龍種の誇りにかけて抗う。
震える九つの首が、わずかばかりに動いた次の瞬間――
「スロウ!」
再び重ねたフィンブルの詠唱が、今度は全てを凍結させた。
ヒュドラの体が、びきびきと音を立てて凍り始める。
金属ですら凍りつくような、極限の冷気が溢れ出す。
「一体何が……氷魔法?」
「ん?違いますよー。スロウで物質の運動速度を極限まで低下させました。そうすると、絶対零度になってみんな凍っちゃうんですよー。――そこから更に遅らせると……」
――パキ―――ン。
硝子が割れるような音が響いた次の瞬間、氷の彫像と化したヒュドラが砕け散った。
九つの首はその威厳すら残さず、ただの光の粒に還元。
「運動を止めてしまえば、全ての物質は無に還ります。
どうです? スロウって中々優秀でしょ?」
「はは……」
ルナは乾いた笑いを漏らした。
目の前で起こった現象は、あまりにも現実離れしすぎている。これは本当に魔法なのか? 一瞬で龍種を凍結させ、砕き散らすなど、到底信じられるものではない。
(――眩暈がする。頭痛がする。あれ……頭がガンガンしてきた)
視界が揺れる。
何かが体の中で暴れているような不快感。体温が急激に低下していくのが分かる。
バタリ――。
ルナは崩れ落ちた。
足に力が入らない。意識が遠のいていく。
彼女の顔色はみるみる青白くなり、唇が震えだす。
(ああ、これ……毒だ。そうか、さっき頬を斬られた時か……)
思考が鈍くなる中で、辛うじて気づく。先ほどヒュドラの攻撃を受けた時、わずかに切れた頬。あの時、毒を受けたのだ。
「フィ、フィンブル……あなた、解毒魔法使える?」
声が震える。命をつなぐための最後の問いかけだった。
「え? いや僕はスロウしか使えませんよ」
「……そうよね……」
淡々とした返答に、ルナは思わず苦笑した。こんな時でも、彼はまるで焦った様子を見せない。
(そっか……私、死んじゃうんだぁ……ちくしょう、くやしいなぁ……)
迷宮での汚名を返上しようと、ここまで来たのに。
結局、何も成し遂げられなかった。
無力さと悔しさが胸を締めつけ、唇を噛む。涙がこぼれる。
その時――
「スロウ」
かすかに、声が聞こえた。
ゆっくりと意識が薄れゆく中、微かな違和感を覚える。
「ルナ。聞こえますか? 今、ルナにスロウを掛けて代謝を遅くしました。毒が回りきる前に地上に運びますね」
――代謝を遅く……?
言葉を理解する前に、ふわりと体が持ち上げられる感覚があった。
「え……?」
フィンブルはまるで軽い荷物でも担ぐように、ルナをひょいと肩にかつぐと涼しい顔で、そのまま迷宮の出口へと歩き出した。
自分の命が今、危機にあるというのに、彼はまるで日常の延長のような態度でいる。
そこでルナは、あることに気づいた。
(あれ?このまま……動けない状況で襲われたら……私抵抗出来ない。……ダメ、待って。まだ心の準備が……)
毒で麻痺した体と遅くなった代謝のせいで、心臓の鼓動すらゆったりとしているはずなのに。
なのに――妙に意識だけがはっきりしている。
不安と……ほんの少しの期待が入り混じった感情が、胸の奥をくすぐる。
……しかし、その後何事もなく脱出。
通りすがりの僧侶に頼み、あっさりと解毒。その後、念の為にと運び込まれた教会の見慣れぬ天井を見てルナは思うのだった。
「……あっ、お礼してない」と。
おわり