第3話 夫的ポジション
話が落ち着くと僕たちは理科室から出て下校し始めた。
「あと、無料で協力させようとは思わないわ。
無事に目標を達したなら成功報酬で1億円払うから」
「そ、そんなに……。というか、そもそもお金なんて必要ないですよ」
「あら、一度にそんなに受け取ると扱いが困るのなら分割で支払うわ。
その時は利息も支払うようにするから」
「い、いや、そんな意味で言ったんじゃないんですけど……」
高取さんは一度に受け取ると困るというように勘違いしたようだが、
僕としては報酬なんかには特に興味は無かった。
それより本当の愛が欲しかった。こんな結婚になるだなんて夢にも思わなかった……。
「私は母の遺産が早くに転がり込んでお金の使い道に困っているぐらいなんだから。
“夫的ポジション”にはそれぐらい払わせてもらうわ。
それに廃案にできなければ払うことはないからね」
「そ、そうですか……」
“夫的ポジション”なんて表現、人生で高取さんから聞くのが初めてだよ。
でも、高取さんとのこの“何とも言えない状態”を適切に表現していた。
「つくづくあなたが夫的ポジションで良かったと思うわ。
私頭が悪い人は嫌いなの。IQが20違うと会話が成立しないって言うじゃない?
候補の3人共、話が通じ合わなかったらどうしようって本当に怖かったのよね」
「それは分かります。僕も話ができないばかりで困ってるんですよ。
ちなみにこの間のIQテストいくつでしたか?」
唯一の親友と言える柴藤だけは会話が成立しているけどね。
「私はIQ186だったわ」
「僕IQ148でした……。これでは会話が成立しませんね」
惨敗だった。ちょっとは自信はあったんだけど……。
でも、よく考えてみれば何でも瞬時に覚えてしまい常に全科目満点で、
司法試験すら突破している高取さん。
それに対して、毎日机にかじりついて何とか学校のテストで490点台を彷徨っている僕なんかでは次元が違うのは当たり前だった。
「気にすること無いわ。あなたは私とのIQ差はさほど問題になっていないわ」
「ど、どういうことですか?」
「皆、私のこういった法律関係の話を聞くと逃げ出してしまうのだもの。
あなたは『逃げ出してない』から、これだけで一流と言えるのよ」
「そ、そうでしたか……」
高取さんは超一流と言うことを暗に言っている。
僕だって逃げ出したくなったけど、あまりの突然の展開と高取さんのマシンガントークの前に足がすくんじゃったっていうのが正確なところだ……。
結婚強制法についてだって自分が元々興味があって色々と調べていたから、
辛うじて理解できているに過ぎない。
「とにかく、施行されたからいよいよ始まったという感じね。
これからスケジュールが大丈夫か再確認しないと……」
高取さんはスマートフォンを取り出し画面に集中する。
スケジュール帳を確認しているのだろう。
スマートフォンには高取さんと釣り合っていない薄汚れた子供っぽい感じのウサギのストラップが付いていたのが印象に残った。
うんうんと頷きながら何かを確認していた。
「そんなに焦る必要あるんですか? 法律が成立してすぐに廃案になることってあまり無いような……」
高取さんはスマートフォンをしまった。そしてギュッと僕を見据えてきた。
ちょっと怒っているような表情なのに恥ずかしくなる。
「と言うより、基本的に今行動しなくては廃案になる可能性はゼロなのよ」
「どうしてですか?」
「皆が皆“こんなものか”とか“意外と良いじゃないか”とか思うようになって、
“文化に根付いた”状態になってしまったらもうお終いなの。
今、急激に状況が変わって不満に思っている人が多いうちに行動や運動を起こさなくては廃案にすることは不可能になるの。
確かに、すぐに廃案にすることは難しいかもしれないけど、社会的な“波“を起こすのは今このタイミングしかないのよ」
「なるほど、流石高取さん。法律のプロですね。状況を熟知している」
「納得してないで、今が正念場ってことをしっかり把握して欲しいところね。
政府はマスコミを使って“良いところの切り取り”を必ずしてくるんだから多くの国民は騙されてしまうの。
海外の御用学者も“有利な研究”を作るために必死だったりするんだから。
分かっている私たちが今のうちから問題点を追及していかないと必ず飲み込まれてしまうわ」
「具体的にはどういうことが行われているんですか?」
「そもそもの母集団が少なかったり、作為的に選んでいることがあるのよ。
質問の場合には前後の質問によって結果が変わる場合もあるし、単純に統計データを信じるのは危険よ。
特に研究結果が少なければ少ないほどこういうことってあるんだから」
「なるほど……しかし社会の不満や問題になりそうなところっていったいどんなところがあるんでしょうか?」
「もう、行く場所は決めてあるわ。迎えの車がもうすぐ来るから」
僕達は気が付けば話しながら校門のところまで来ていた。全くもって無駄が無い。
◇
高取さんが言ってから1分後に黒塗りの横長い車が――ロールスロイスがやってきた。
「うわぁ……高取さんはお金持ちとは聞いていたけどロールスロイスで送り迎えとは……」
そう言えば以前誰かがロールスロイスが毎日のようにいる! と叫んでいたことがあった。
僕は興味が無かったが高取さんの所有物だったとは……。
「さぁ、乗って。靴はちゃんと“玄関”で脱いでね」
何と土足厳禁らしい。昭和にはよくあったらしいが、今の車ではなかなか見ないだろう。まぁ、ヘタに高級車を汚すよりはいいけど……。
「お嬢様。佐久間様。ご結婚おめでとうございます」
スラリとしたスタイルの良い黒いスーツ姿の女性が運転席から声をかけてきた。
「綾音、ありがとう。結婚強制法廃案までの一時の契約的婚姻関係だけどね。
とりあえず役所までお願い。手続き的な問題で婚姻届けを出さないと“非生産者”になっちゃうからね」
高取さんの発言は仕方がないとはいえ、あまりにも無味乾燥な声であっさりと言ってくれたのでショックは大きかった……。
「承知いたしました。佐久間さん私は三田綾音と申します。以後お見知りおきを」
「佐久間建人です。綾音さんよろしくお願いします。
あの、僕はいったい協力と言っても何をすれば……」
「簡単に言えば雑用よ。何もできないか、したくないようなら“仮の夫”として戸籍を貸してくれるだけで構わないから。
私が法令違反で逮捕されないことが一番重要だからね」
「そ、そうですか。足を引っ張らないようになるべく頑張ります……」
「それにしても、今回の法案関係で唯一良かったことがあるわ。
夫婦別姓に関する民法改正も認められたの。私はこの苗字結構気に入ってるからね。
あなたは苗字についてはどう思う?」
「僕は何でもよかったです……。
確か結婚強制法と同時に夫婦別姓が日本でも認められるようになったんでしたよね」
「“左側の主張の人”を取り込むためと言われているわね。
弁護士はもともとそういう人が多いみたいだけど、
結婚強制法について反対派が分裂したのは間違いないみたいなの。
これについては上手くやられてしまったわね。
ただ名字を変えなくていいのは便利なことよ」
「その分、家族がどこまでかわかりにくくなって大変だと思いますけどね……」
「そうね。子供の苗字が親と違うってことが起きると苛めとかにもなるかもしれないわね。
ただ、この“結婚強制法”で名字の違う親と言うのは増えるから大丈夫と言う建前があるようね」
「そうなると、結婚強制法と夫婦別姓についてはトレードオフの関係なんでしょうか?」
「名目上はそうなっているけどそれは所詮外見上に過ぎないわ。
本命はどう見ても結婚強制法で無理やり国民を増やす施策よ。
そもそもな話、名字と結婚を強制することに何の関連性も無いじゃない。
あまりにも身勝手よね。それに乗っちゃった方も乗っちゃった方なんだけど……」
僕はなんだか夫婦で別の苗字だというのはとても寂しく感じる。
でも、外見上の取引としての結婚。僕と高取さんの関係としては相応しいようにも思えた。
「な、なるほど……高取さんはちなみに思想的には左と右どちらなんですか?」
「私? 私は“高取涼子”という位置にいるから特に誰にも迎合しないわ」
「た、高取さんらしいですね……」
とにかくマイペースで話しまくる高取さんにぴったりのポジションだよね……。
「この法案は内容そのものも価値観の押し付けで問題なのだけども、
それ以上に異常だったのは“民主主義の崩壊”が起きていることよ。
与党の委員会すらも反対意見を押しのけて強行突破。
国会での議決は党議拘束で反対を許さない体制を築いている。
党議拘束に反すれば除名処分になって当選しにくくなるからね」
「僕もその流れについては大いに問題だと思いましたね……」
ただ、問題に思っても心の中では成立することを応援していたけどね。
「各制度はそれぞれ法令違反ではないのだけども、“悪用”されているのよね。
法令違反でなければ裁判所も追及できないし、とても歯がゆいわ」
「なるほど……」
この“なるほど”は高取さんの遵法精神に対して感心したのだ。
たとえ理不尽なことでも法令の範囲内ならやむを得ない、
だからこそ正攻法で何とかしようとしていることが伺えたからだ。
「お嬢様。市役所に着きました」
「佐久間君、一応一緒に行きましょう。“夫婦”であることを市役所に対しては示さないと」
そう言って高取さんはロールスロイスから降りながら僕の腕に掴まる。
こんなに美しく優秀な高取さんが体を預けてくれている――とても嬉しい状況のはずなのに、愛情が無いのが明らかのためか虚しいだけだった。
そして高取さん自身もひんやりしているような気がした。
身分を示す学生証と先ほど書いた婚姻届けを出す。
ちょっとして学生証を返されて。ピンクのハートマークの付いた結婚証明書を貰った。
こんなにも儀式的な婚姻届けになるとは、思わなかった。
どちらかと言うと結婚に憧れていた僕は無機質な紙切れ1枚で関係が繋がるとは思わなかった。
本当に外見だけの仮面夫婦で、法案廃止の成功報酬がお金というビジネスライクの関係だ。
「お幸せにー」
最後に役所の人に笑顔でそう声をかけられた。“ありがとうございます”と言おうとしたが声が出てこなかった。
外国人が永住ビザのために外見上の結婚をする“偽結婚”と言うのがあるらしいが、
まるで僕たちはそれのようだ。
彼らはまだ合意形成がある程度なされているから僕よりマシかもしれない。
僕に至ってはなし崩し的に欲しくもないお金のためになぜか知らないが協力させられているだけだ。
幸せとは程遠かった。