9.8歳_2
思い返してみると、純恋の記憶はとある企業の人事課長と面接をしたのが最後だった。
私は本当に一般的な就職活動をしていると思っていたけれど、マルルーシェとして八年も生きていればわかる。あの面接は次の転生先の斡旋所だったのだろう。
あの世が都心にあるような高層ビルって夢がないなって思うが、社畜だった私には一面お花畑よりも現実味があった。
そしてあの人事課長が言っていた「海外からの役員のアシスタント」……それはつまり、海外=界外で、役員=高位な立場と変換すると、魔界から来た王子の世話係が今のマルルーシェの役割なんじゃないか。
……って、そんなのあんまりだよ! きちんと説明してくれないとわかるわけないじゃない!
怒りや嘆きや悲しみなど、ごちゃ混ぜの感情がこみ上げてくるが、やっぱり今の一番は恐怖だ。
このままじゃマジで死ぬ……!!!
「飛べ、マルル」
空の上から父の容赦のない一言が落ちてくるが、そんなんことを言われても無理だ!
悪魔には悪魔のやり方がって、あまりにも無茶だ。こんな命がけな荒療治をされるなんて思ってもいなかったよ!
あわあわと両手を動かしてみるも、私の身体に変化はない。
飛べ~飛ぶんだ! このままじゃ地面に落ちて即死だぞ!!
「羽、生えて……!」
っていうか漫画だと命の危機に陥ったときに主人公の潜在能力が開花されて、なんかパワーアップしたり死神になったりするんじゃないの!? ただの高校生だった俺がひょんなことから非日常に巻き込まれて特殊な力に目覚めて……っていう王道、大好物なので私にも恩恵がほしいのですが!
人事課長が丸腰じゃかわいそうだからとかなんとか言って、私になんらかの恩恵を与えてくれたらしいのに、未だにそれがなんなのかわからない。最初から言葉が通じる以外のなにかを実感したことはない。
どうしよう、どうしよう……このまま八歳で死ぬなんて。しかも死因が父親に拉致られた後に空から落とされたなんて、誰にも信じてもらえないやつじゃない……!
こんなときにハッと気づく。
もしかしたら私が死んだ後、お母様が悲しまないように私の身代わりをどこからか攫ってきて、マルルーシェとして育てるんじゃ……実の子供じゃなくても、母がルーシェとして認識していれば悪魔的には問題ない。十分優しいだろう? とか言ってきそうな気がする!
酷い、酷いよこの人でなし……!
私に対しても、攫われて来た子供に対しても被害者量産だ。そしてこんなときに、本物のルードクロヴェリア公爵令息のお墓の在処が気になった。
偽物が出しゃばっててごめんなさい。せめて私は、このピンチを乗り切れたらお墓参りに行くから……!
いや、私が一緒に墓に埋葬される可能性が高い。そもそも墓を作るという概念すら悪魔にはないかもしれない。
「い、やあああー!」
地面がどんどん近づいてくる。私の頭はもうなにがなんだかわからずパニックだ。
まったく動く気配のない父に、藁にも縋る想いで助けを乞う。
「助けて、おとうさまー!」
背の高い木々が間近に迫った瞬間、私の落下が止まった。
頭が揺さぶられて眩暈がしそう。重力に引っ張られていた浮遊感は消えて、お尻の下に腕が回る。
「お、とうさま……」
顔を上げると、ムカつくほど冷静な顔をした悪魔が私を見下ろしていた。この男の存在自体が夜の闇に溶け込みそう。
心臓がバクバクとうるさく騒ぐ。私はぐったりと脱力し、震える手で父の服をギュッと掴んだ。
そんな娘を見て父が放った一言は、「生えぬか」だった。
「……そこは、大丈夫かとか、ごめんなさいじゃないの!?」
羽を生やす実験で殺されたらたまったものじゃない!
身体がぺしゃんこにならなくて安堵した後に湧き上がる感情は、当然ながら怒りだ。
「ひどい、ひどい! 私がどんなに怖い想いをしたか、羽のあるお父様にはわからないんでしょう!」
怒りと一緒に涙がこみ上げてくる。
今まで父に感情をぶつけた記憶はなかった。だって悪魔を逆上させるのは怖いし、そもそも父親というよりは横暴な上司というほうがしっくりきたから。
家族の愛情なんて、前世から縁がない。お母様のことは好きだけど、母親に甘える娘という関係とも少し違う。多分可愛い後輩を見つめるような、そんな感情だ。
この身体は確実に両親からつくられたものだけど、中身は純恋なんだもの。八年間マルルーシェとして生きて来ても、私の根幹はきっと純恋のままだ。
気難しいクライアントを怒らせるような真似は一切したくないのに、今回ばかりは感情のコントロールができなかった。ポカポカと、小さな手で父の胸板を殴りつける。
バサバサッ、と羽が空を切る音がする。私を抱いたまま上空へ移動したらしい。
「に、んげんは、死ぬんです! ほんとに、ささいなことでも死んじゃうの!」
「そうか」
「お父様は、私が消えてもいいの!? ……っく、い、なくなれ、っておもってる!?」
えぐえぐと嗚咽がこみ上げてくる。
自分で言いながら本気で怖かったのだと実感した。なかなか震えが止まらない。
身体は寒いし素足はかじかむし、落下の恐怖で気絶しなかったのが奇跡だ。いっそ気を失ってしまったらよかったとも思うけど。その場合、助けを求めなかったから死んでいたかもしれない。
人でなしな悪魔に抱き着く。こんな冷血漢なのに、父の身体は温かい。
悪魔には体温なんてないんじゃないかと思ったけれど、外見だけなら普通の人間と変わりないのだ。ちょっと外見が整い過ぎているだけで。
涙と鼻水でべちゃべちゃになった顔を、父の肩にこすりつける。
「マルル」
名前を呼ばれて顔を上げた。
父は微塵も悪いと思っていない表情をしていたけど、そもそもそんなに表情筋が動かないからなにを考えているかわからない。
でも身体を支えてくれていることからきっと同じことはしないだろうと思えた。
「悪かった」
「……うう……っ」
たった一言謝罪しただけで私の気持ちが治まるわけがないのに。私の恐怖心とまったく釣り合わないのに、悪魔が謝ったというのがレアすぎて胸に響いてしまう。
こんなにろくでもなくて娘を娘とも思っていなくて酷い悪魔なのに。心の底から嫌いになれないのはどうしてなの。
悪魔にしがみついてワンワン泣いて、詰りながらも抱き着く腕を緩められない。
多少なりとも情が湧いたなんて思いたくないのに。嫌いになれたらスッキリするのに、憎しみのような感情は湧いてこない。
一番どうかしているのは私なんじゃないか。自分の心がどこを向いているのかさっぱりわからなかった。
私の涙が枯れた頃。無事に屋敷に到着し、父は窓から私の部屋に侵入した。
私をベッドに寝かせると、雑に毛布と布団をかぶらせてくる。
罪滅ぼしの気持ちがあるのかはわからないが、彼は何故か私が眠りに落ちるまで部屋にいると決めたらしい。ベッドがよく見える場所にあるソファに座り、黙って私を見守り続ける。
暗闇に光る金の目が恐ろしくて。
私は生きた心地がしなかった。




