あの日さよならは言えなかった
新卒で入社して2年、今だに一人での取材は慣れない。ボイスレコーダーを持ってきたか気になってかばんをごそごそとしているところで喫茶店のドアが開く音が聞こえた。
私の前に現れた彼女の第一印象は、あぁきれいな方だな、というものだった。
すみませんお待たせしてしまって、と言いながら私の前に座る。
一瞬、私を見て驚いたような気がした。どこかで会ったことがあるのだろうか。
私は今まで会ったことのある人を頭の中に思い浮かべたけれど彼女の顔は出てこない。きっと私の気のせいなんだろう。
肩に触れて揺れている柔らかそうな髪の毛、透き通った肌に白いブラウスがよく似合っている。細くしなやかな指先には桜色のネイルが控えめに光っていた。
ついじろじろと見てしまった私に彼女は視線を向ける。
「…あ、すみません。じろじろと見てしまって」
彼女はふふっと笑う。
「そんなにおかしいです?」
「いえ、想像を絶する美人さんだと思って」
「いきなりそんなこと言われても、ちょっと疑っちゃいますね」
と言いながらも彼女は微笑んでいる。
私が彼女と会ったのは、上司の紹介だった。
記事にしたらよくも悪くもかなりの反響があるだろうネタがある、と言われて彼女を紹介されたけれど、彼女がどんなネタを持っているのかは全く教えてくれなかった。そもそも信憑性にも問題がある、とか言っていた。
目の前のこの美女が、どんなネタを持ってるんだろう…?
私は考えをめぐらせた。
この美貌で何人もの男を落としてきたとかそういう系なのか?いやそれなら当たり前すぎる。今さら大したネタにもならない。
すごく成功した整形とか?…それも違う気がする。
「相田さんから聞いてたとおり、とてもかわいらしい方でちょっと安心しました」
彼女が口を開く。
相田というのは私の上司だ。私はネットニュースを配信している出版社で働いている。
「相田とはどんな関係で…?」
あぁ、と彼女は思い出したように名刺を差し出した。
「…なるほど」
私は思わず頷いていた。
私の会社と大口の取引がある大手広告代理店の秘書。言われてみれば確かに秘書っぽい。おおかた接待か飲み会かそんなところで相田さんと出会ったんだろう。
「お会いしてからずっと考えてるんですけど、全然わかりません」
「あぁ、私のことですか?」
私は頷く。
「そうですね…話しても信じてくれる人っていないんですよ」
「え?」
「私としては、それが自信にもつながっているところがあったりもして」
話がつかめない。
よほど私が怪訝な表情をしていたのか、彼女は少し笑って言った。
「私、5年前まで男だったんですよ」
あぁ…なるほど。納得した。
男性から女性になったすごく成功した例ってことか。
でもそんな話、今じゃ珍しくも…
「あ、手術とかじゃないんです。自然に、っていうんでしょうか」
「自然に…?」
「女性化したんです。5年前に」
「女性化?」
え?あの漫画とかでよく見るあれ?
いやそんなことが実際にあるのか?
私は何を聞けばいいのか戸惑った。聞きたいことは頭の中に渦巻いているのにうまく言葉にできない。
「えっと、それは…」
「って言っても信じられないですよね」
彼女は、紅茶の入ったカップに口をつけた。
そのしぐさからも、とても5年前まで男性だったなんて信じられない。
「そう…ですね」
そう言っていいのか。でもそれが正直な感想だった。
あの時のこと、今まで誰にもちゃんとお話ししたことなかったんですけど…ちょっと長くなってもいいですか、と言って彼女は5年前の話を始めた。
5年前、私は社会人2年目でした。
大学を卒業して入社した会社はそこまでブラックじゃなかったのか、それとも2年目でまだ全然使い物にならなかったからか、そんなに残業もなかったんですよ。学生並に暇だったんです。今思うと甘すぎですけど。
こう見えて、私もともとチャラ男って言うんですかね?あ、今言わないですよね。なんていうんだろう…軽かったんですよ。学生の頃から彼女が切れたことないタイプで。ほんとクズなんですけど正直浮気とかも普通にしてて。でも私からしたら浮気というかみんな遊びだったんですよね。だから相手も別に他の男と付き合っても私はなんとも思わなかったんですけどね。あ、今は違いますよ。昔の私を殴ってやりたいくらい。
でも、あの5年前に初めてちゃんと好きな人ができたんです。あ、相手は女性です。
もちろんこうなることなんて想像もつかなかったし。
チャラかったんで、けっこうナンパとかもしてたんですけど彼女ともナンパで知り合いました。しかも女子高生だったんですよ。今思うとかなり犯罪のにおいですよね。制服も着てたから言い逃れできないですよ。
でも私としては、単純に好みの子だったんですよね。女子高生だからとかそういうのじゃなくて。
ひと目みて、かわいい子だなって思ったんです。雰囲気はそうですね…どこか寂しそうだったかな。でも平日の夕方だったんですけど、そんな時間に新宿とかに一人でいるって時点でやっぱりどこか孤独みたいなのを感じるんですよ。あ、私が癒やしたいとかそういうのじゃないんです。ただ惹かれたってだけ。
ご飯を食べて、初対面なのにいろんな話をして。
すごく楽しかったんですよ。今までいろんな子と付き合ってきたけど、この子は違うっていう直感?みたいなのがあったんですよね。
付き合うまで時間はかかりませんでした。
彼女は高校生だったんで、そんなに会える時間もないし、ましてや家に泊まるとかそういうのもできなかったんです。私としてはそれでも全然よかったんですけどね。
それでも全然いい、って思えたのが我ながら不思議だったんです。ほら、やっぱり女の子と付き合うって男にとっては体が目当てみたいなところありますよね。いや、あるんですよ。私がおかしかったのかな…でも周りもそんな感じだったし。まぁ若かったってのもありますけど。ごめんなさい、私がクズすぎて。
付き合ってすぐにやりたいって思うのは、なんていうか短期決戦みたいなものなんですよ。
そこまで長くはないなって思うと、できるだけ集中的にやりたい、みたいな。
でも彼女とはそう思わなかったんですよね。きっと私の中ではこの先ずっと、長く一緒にいたい人だったんです。
彼女と付き合い始めたのは春ごろで、夏休みに入ると時間もそれまでより取れるようになったからいろんなところに一緒に行ったりして、初めて体の関係を持ったのもその頃でしたね。あの時、ほんと楽しかったな…あ、すみません。今そんなこと思っても仕方ないですよね。
夏休みが終わったあたりだったかな。
熱が出たんです、私が。何日も下がらなくて。
普通、熱が出たら頭が痛いとかだるいとかそういうのあるじゃないですか。でも全然なかったんですよ。ただ少し腹痛があったくらいで。
仕事を休んでも熱が続くから、病院に行ったんですね。
そこで初めて聞いたんです。私の体がこれからどうなるか。
最初は何言ってるか全然理解できなかったです。そんな話あるわけないって、普通信じられないですよね。
でも、女性ホルモンが異常に出てるとかお腹の中のエコーとかを見せられるともう信じるしかないんですよ。受け入れざるを得ないというか。
病院の先生は、命に関わることじゃないってことをくどいくらい言ってました。
でも性別がいきなり変わるなんて、いくら命に関わらないって言ったって自分の人生ですごい大ごとですよね。
仕事のことや、これからの生活のこととか、ほんと心配しかなかったんですけどそれでも一番心にあったのが彼女のことでした。
彼女とはもう付き合えない。それがつらくて、でもこのまま私の体のことを隠して付き合ってもそんなの時間の問題じゃないですか。私の体が変わってしまう前に別れないと、ってそれはずっと思っていました。
それから彼女に別れを切り出しました。
私の体は、熱は下がったんですけど日に日に変わっていくんですよ。それもすごく怖いんですけど、彼女に知られることが一番怖かった。
私のことを、彼女はとても好きでいてくれたんです。私も彼女が好きなように彼女も私のことを好きでいてくれて、だから彼女の中の私は変わりたくなかったっていうんですかね、そんな感じでした。
彼女は別れたくないって泣いてました。
私だって泣きたかった。
でも、この変わっていく怖さを彼女に負わせたくなかったからもうこの日で会うのは最後って決めていました。
彼女にはまた別の、こんなレアな変わり方をしない男の人と穏やかに恋愛をしてほしいし、私との思い出はそのままでいてほしかったんですよね。
普通の男と普通に付き合って、普通に別れるという経過を彼女には辿ってほしかったんです。
冬になる頃には、私は完全に女性になっていました。
こうなることはもう覚悟していたし、ある日突然女になってるってわけじゃないんで心構えみたいなのはできるんですよね。
彼女とは別れるって話をしてから全く会わずに、私も自分の体がそれどころじゃなかったからってのもあってそこまで未練はなかったんですけど。
「今になってふと思い出すんですよね」
彼女は呟いた。
「その彼女のことですか?」
私の目からは確かに涙が流れていたのに、彼女は気にする様子もなく続けた。
「私、もうすぐ結婚するんです」
だから昔の恋愛のことを思い出すのかな、と彼女は言った。
「それは…男性と結婚されるってことですよね」
「そうですね。…不思議なもので、体が変わると考えっていうか思考も変わるんですよ。私の適応能力が高かっただけなのかもしれないですけど」
「もう、男性に戻りたいとか思わないんですか?」
彼女は首を振った。
「もういいですよ。これ以上疲れますもん」
彼女…さん、今どうしてるんでしょうねと私が聞くと、彼女は少し微笑んだ。
「幸せだといいですね。私の努力が報われてほしい、ってすごい自分勝手ですけど」
「幸せです、それなりに」
思わずそう口走ってしまった私を見た彼女の目にも涙がたまっていたような気がした。