吾輩はコミュ障である
私はコミュ障である。
言い訳とかではなく、本当に苦手だし、支障をきたしている。なんというか、人とリズムが合わないのだ。
最近気づいたのだが、私は口を動かしている時は深く物事を考えることができない。考えるためには、沈黙する必要がある。ところで、私は表情の動かない方らしい。考えようと沈黙すると、相手が更に言葉を重ねようとする。言葉を重ねられると、考える時間が増える。場合によっては私が答えられないと判断して話を先に進められてしまう。
まあ、以前から、会話が終わった後になってから、自分の言いたいことが見つかる方だとは思っていた。だから大体人と話をすると何かしら後悔することになるのだ。
ちなみに喋りながら考えることはできないが、文字を書きながら考えることはできる。これは慣れの問題かもしれないが。
考えることができないというのは、全く思考を停止しているわけではない。例えていうなら、作業台の上に現在載っている情報しか参照できない、ということである。深く考えるためには、棚や引き出しにしまってある情報も引っ張り出してこなければならない。その為には立ち上がる必要があるが、喋る時は作業台の前に座っていなければならない。話す相手からのリアクションという情報を作業台に並べなければならないからだ。
作業台に乗っている情報というのは、直近に受け取った分類収納前の情報と、直近の作業で必要として収納から引っ張り出していた情報である。そして当然ながら、作業台の面積には限りがあるので、新しい情報を乗せたら前に乗っていたものが台から落ちたりもする。
いや、文字を書きながらでも深い思考はできていないかもしれない。
沈黙が長くなってしまうのは、私のこだわりが強い所為もあるだろう。口にした言葉を誤解されることを可能な限り避けたいので、言葉選びに時間がかかる。そもそも自分が相手の言葉を誤解していないか不安なので、相手の言葉の分析から始めて、自分の考えをまとめて、言葉を選び組み立てる。とても、時間がかかる。だから会話は苦手だ。
昔は、雑談などするのが苦手なのは、基本的に他者に興味がないことが原因だと思っていたが、それだけでもなかったらしい。人の話を聞くこと自体は嫌いではないが、それに感想を述べたりするのは苦手だ。
一応、私は自分にそれなりの思考能力自体は備わっていることを自負している。ただ、それをいつでも発揮できる人間というわけではないだけで。陳腐な言い回しになるが、冷静に考えることができれば、大体わかるのだ。それに時間がかかる。
小説の傾向として、ぽんぽん掛け合いをして会話が進んでいく展開が好きなのも、自分が実際できない理想の姿みたいなものなのかもしれない。
私は、その場でポンと出た言葉は大体、言いたいことを正確に表現できていないように思う。更に言葉を重ねて、不足を補っていかなければならない。補足に使う言葉は相手の理解や誤解に合わせて変えなければならない。それが難しい。よほどのことがないと言葉は誤解されるものな気さえする。
自分自身のことさえ、私はよく考えないとわからない。自分の気持ち、感情であっても、快不快以上のことはちゃんと分析してみないとわからない。どう思っているかと問われても咄嗟にはわからない。
正直なところ、沈黙しなければ思考できないことで、私が困るのは、人と会話して意思疎通しようとする時だけだ。決まったやり取りをするだけ、一方的に伝言するだけ、話を聞くだけ、ならば困らない。だから、日常で困るかというと、沈黙していて支障がないなら私は困らない。そもそも会話による他者との意思疎通にあまり関心がない。深く考えられなくても簡単な受け答えはできる、多分。
おそらくだが、ワンセンテンス話して沈黙して、返答して、沈黙して、というスローな会話をお互いに許せる相手なら、会話できるだろうと思う。しかし、他ならぬ私自身がわりと生き急いでいるので、そんな手間をかけて会話をするという行為を避けたいと思っている。必要ならば仕方ないが、そこまで会話したいと思ったことがない。
沈黙しないと思考できないといったが、その思考の結果をまとめるのには、やはり言葉にするのが一番だ。というか、口に出したり文字にしたりしないとまとまった後の情報を改めて作業台に乗せられないらしい。口にしてから新たなことに気付いたりする。だから私は独り言が多くなるようだ。