BlackSheep6
その日、屋敷には私とマリアだけだった。いつもレンは来られなかったし、シモンはちょうど外に出かけていた。もともとジーザスとトマスは屋敷を空けることが多かった。
「ねぇルカ。私がいなくなったら、レンを助けられないかな」
客室の長椅子で並んでいると、マリアが私に尋ねてきた。
「無理だよ」
私たちは子どもで、力も何も足りない。私はそのことに自覚的だったし、マリアがいなくなるなんてことはあまり考えたくなかった。
「そうだよね」
彼女もその答えは予想していたようだ。机に積んだ本から一冊取り出す。ミヒェル・エンデの『モモ』だ。分厚い表紙を撫でながら、彼女は呟く。
「あぁみんなが幸せになれる結末ってないのかな」
「どうだろう。現実は物語通りにはいかないよ」
私は優しく彼女の言葉を否定する。あるいは彼女自身が気づいていることを代弁しているのかもしれない。
「けど。私はマリアが願うことならなんだって叶えるよ」
それは覚悟みたいなものだ。そうすることで私の意味が生まれ、立場がはっきりとする。ただそんなことを彼女に打ち明けるのは、野暮な話だ。
「ありがとう。ルカ」
そういうと彼女は持っていた本を机の上に置く。彼女は立ち上がり、自分の上着を羽織った。
屋敷の電気代の節約のため、人の集まる部屋以外は外のように寒い。ただマリアは黒い手袋と白と黒のマフラーを首に巻く。
「どこかに行くの?」
「ルカも来て」
彼女に言われ、私も外出するために上着を着る。
部屋を出て、屋敷の廊下ではもう吐く息が白い。頬に当たる空気も寒さからか少し痛い。
特に冷える足元を身震いしながら、屋敷の冷たい廊下を進み。靴を履いて、屋敷を出る。黙ってマリアは私を先導する。こういう時は、だいたいマリアが私に見せたいものがあるんだ。私は黙って彼女の後ろをついていく。
屋敷に鍵をかけ、門から外へ出る。町に向かう道とは別の、屋敷の脇にある整備されていない道を歩く。踏み固められた地面は冬ということもあって、歩くのに支障はない。
「マリアどこに行くの?」
「もうすぐ」
彼女はそれだけ答えて、また黙る。次第に水の流れる音が聞こえ始める。夏の間にこの近くに来たことがあるが、沢の合流地点が深い淵になっている。もっともその場所はこの細道を脇にそれ、更に谷を下った場所だ。けどマリアはより山の奥のほうへ向かう。
少ししてから彼女は足を止めた。その場所の近くには錆と苔に覆われた橋があった。橋の下には少ないながらも水が流れている。
「どこまで行くの?」
「もうちょっと」
彼女は足の真ん中を歩いていく。私もその後ろを歩いていく。裏山という場所はこんなにも静かだっただろうかと不意に思った。寂しい冬の森。雪は降っていないけど、凍てつく空気と茶色が目立つ森は生命を感じにくい。
「こっち」
橋を渡りきると彼女はその近くの段差を下り始める。石の積まれ方から、一応人が歩くために整えられてはいるようだ。ただ折れた枝や、伸びた固い草が行く手を遮り、服にひっかかりそうになる。
マリアはそれを注意しながら避け、どんどん奥へと進んでいく。少ししてから目の前に大きく、神秘的な光景が広がっていた。
「ここだよ」
マリアが私に振り返って、笑って見せる。その顔は優しく誇らしく笑っていた。
それは巨大な氷柱だった。あるいは氷塊といっても良いのかもしれない。いくつもの氷柱が重なり、そして合体して上から流れる水に沿うように形成されていた。
おそらく氷柱が解けずに残り、それが時間をかけて成長したものだろう。氷柱自体の全長は二メートル以上だ。滝壺というにはあまりにも浅すぎるが、氷は滝の上から下まで龍のように連なっている。
「すごい」
「でしょ」
私の言葉に彼女の得意げな声が耳に届く。彼女は嬉しそうに駆け足で滝に歩みよる。
それが油断だったのだろう。私も、彼女も愚かだった。神秘的な光景に魅了されて、大事なことを忘れていたし、注意できていなかった。
避けられたはずのことだった。今でも歯がゆく、奥歯から血が滲みそうな気持ちになる。
どうして、止められなかった。
氷ができるということ。水が流れているということ。周りは土ではなくて、石だったこと。
凍った石の上を走るとどうなるか、そんな簡単なことを失念していた。
彼女の体が宙を舞った。続いて、ゴンと鈍い音が私の耳に届いた。急いで駆け出しそうになるのを、抑えられたのは奇跡だった。きっと私しかいない、そんな判断があったからだろう。
「マリア!」
叫んだ。けど彼女は答えなかった。私は急いでゆっくり彼女に駆け寄る。ヌルっとした感触が手のひらに広がった。
冷静に振舞おうとしていた自分がいる。血が流れている。ポケットから携帯電話を取り出して、手当たり次第に電話をした。ジーザス、シモン、他の人たち。そんな中最初に電話に出たのはなんと初さんだった。
声が震えていたのは寒さからか、恐怖からか判断はつかなかった。なんとか説明して、
「わかった。すぐ向かわせる」
と突き放すような初さんの言葉に逆に安心した。
「ルカ」
「無理しちゃ駄目。大人しくしてて。大丈夫だから」
目の上を切ったのか彼女の流血が酷い。血液特有のヌルっとした感触が酷く不快だ。
「ごめんね。ルカ」
「大丈夫だからじっとしていて!」
けどマリアは何か必死に訴えようと口を閉じない。
「とまれ。とまれ」
持っていたハンカチで傷口を抑えるとすぐに赤くなっていく。
「ルカ。私が死んだら、レンに私の代わりをしてほしいの」
死。反射的に叫びそうになるのを、飲み込んで彼女の言葉に耳を傾ける。昔から得意なことだ。自分の感情を置き去りにして、他人の言葉に耳を傾けるのは。
「そしたらレンはまだみんなと一緒にいられるから。それにユーイチはきっと壊れちゃう。私がそばにいないと、あの人は死んじゃう」
マリアが私の袖をつかむ。赤く染まった手で、私は彼女の手を掴む。
「初さんは私のこと嫌いだけど、ユーイチのことは大事だから、きっと分かってくれる。だからあの人に相談したらいいよ。ごめんね。ルカ」
言葉を詰まらせながら彼女は私に語りかける。
「わかった。わかったから、もう話さないで。自分のことを大切にして!」
初めて会った時のことを思い出す。私は彼女のこういう優しさに救われていた。無垢で純粋で、自分のこと以上に他人を思いやる彼女に助けられた。
「氷綺麗だよね」
かすかに開いたマリアの目の先には、滝に連なる大きな氷柱。あぁ確かに美しい。けど白く冷たいその姿、命を奪う冬の姿にも思えてしまう。
救急車の音が響いて、私は大声で叫んだ。そこからは目が回るようにその場から移動して、私も救急車に乗り込んだ。
「そして私は約束を果たした。ちょっと彼女の望んだ通りにはならなかったけど、今レンがマリアの代わりにこの家にいるの」
「ちょっと待って。マリアはどうなったの?その後病院行ったのよね?」
「知らない」
「知らないってどうして?」
「うるさい!」
思わず怒鳴り返してしまった。震えを隠すように自分を抱きしめる。
「知りたくないの。それにシモンもジーザスも教えてくれなかった。死んだとも、生きているとも言ってくれない。それに私は知りたくないの!死んでたらどうしたらいいかわからなくなる!」
思いの丈をぶつけるように大声で拳をテーブルに叩きつける。
「私のマリアを殺さないで」
口にして胸が一層締め付けられる。同じ仲間だったトマスに、私は今最低なことをしてる。
大きく深呼吸をして、私は残りの大事なことを説明することにした。
「今はレンのことが大切なの。あの子は、今でも自分がマリアの居場所を奪ったと思ってるから」
私はレンに、「ジーザスはマリアがいなくなると死んじゃうかもしれないからあなたが代わりをしてほしい」と言って騙した。それは今も続いている。
けどジーザスは知っているのだ。彼は騙されたフリをしている。そうじゃないと、レンはマリアの居場所を、大儀なく奪ったことになってしまう。
「だから私たちはレンを騙す。トマスも手伝って」
「ちょっと待って。いきなりそんなこと言われても困る」
「じゃあレンと話してみたらいいよ。ただ私とシモンとジーザスの数年を無駄にはしないで」
今度はわざとらしく目元を拭う。
「何時まで騙すの?」
彼女の答えにひとまず安心した。
「時期はジーザスが決める。多分数年後になるかな。レンに話しても大丈夫になってから」
婚約の解消もその段階の一つだ。
「怒った?」
「それどころじゃないよ。ねぇルカ。あなたは本当に大丈夫なの?」
意外なことを言われて、驚いたことを隠せなかった。
「私は大丈夫。何年も前の話だもの。今はレンが一番大変だから。助けてあげて」
「うん」
話はこれで終わりだ。少し気持ちを落ち着けたいから、少し早いが今日はすぐ帰ることにした。
「ルカ」
玄関でトマスが私を呼び止める。
「また来ていいからね。ここにあなたのマリアはいないけど、私たちは仲間だからね」
不器用に言葉を選んでいるのがわかる。その頬を撫でるような優しさに、私は笑顔で答えた。
「ありがとう。そうね。また来るわ」
別れを済まして、私は屋敷を後にした。いつもの道とは反対の道。屋敷の裏山に通じる道をじっと見る。
「はぁ。ごめんね。トマス」
ため息と一緒にそんな言葉が零れた。きっと私は向いていないのだ。嘘をつくということが。
中途半端な自己嫌悪を置き去りにしたくて、踵を返す。
けど頭はそんな簡単に切り替わりはしない。だから私は心の中でもう一度謝る。
ごめんね。トマス。私はあなたに本当のことを全部話していないんだ。
ルカ 戸松陽歌
マリア 吉祥香恋
ジーザス 新道寺祐一
シモン 門田祐樹
トマス 吉相由紀美
レン 椎名蓮子
今
ルカ 戸松陽歌
マリア 椎名蓮子
ジーザス 新道寺祐一
シモン 門田祐樹
トマス 吉祥由紀美
椎名蓮子→吉祥香恋
新道寺初




