剣技無情 三
「中村さん、あなたは何を考えているんです!?」
いつも通り、奉行所に出勤した中村左内。そんな彼をいきなり襲ったものは、上役である田中熊太郎の怒鳴り声であった。
「えっ? 何がですか?」
突然の叱責に、訳も分からずうろたえる左内。すると、田中は憤りも露に左内の前に立つ。
「中村さん、先日あなたは甲益屋に行ったそうですね!?」
「はあ、行きましたよ。それが何か?」
脱力しきった言葉で答える左内。すると、田中はいきなり地団駄を踏み出したのだ……まるで、子供が駄々をこねるように。
「なぁかぁむぅらぁさん! 甲益屋から苦情が来てるんですよ! あなたが用もないのにうろうろして、とても迷惑だと! どうしてくれるんですか!」
「いや、あの店に出入りしていた寛平という鳶が死んじまいましてね。話を聞きに行ったんですよ」
のほほんとした態度で答える左内。その途端、田中の目がつり上がった。
「その寛平の死と、甲益屋と、いったい何の関係があるんですか!」
「うーん、今のところ、直接は関係ないかと――」
「関係ない、ですとぉ! 今、関係ないと言いましたね!」
またしても地団駄を踏みながら、田中は子供のように喚き散らす。左内は神妙な表情で立っていたが、内心ではうんざりしていた。この田中は、徹底した事無かれ主義者であると同時に、やたら神経質な部分もある。ちょっとしたことで、すぐに下の人間を怒鳴り散らすのだ。恐らく、甲益屋から苦情が来たのだろう。
だが、事態は左内の予想を超えていた。
「いいですか中村さん! 大角さまが苦情を申し立てて来たんですよ! 分かっているんですか!?」
「大角? いや知りませんねえ。何者ですか?」
「何ですとぉ!? 大角さまを知らないのですか!? 中村さん、あんたは本当に馬鹿ですか!?」
耳元で騒ぎ立てる田中。左内はうんざりしながらも、表面的にはすまなそうな顔をする。
「うーん、馬鹿ではないつもりですが」
「いいや、あなたは馬鹿だ! 馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ! 大馬鹿者だぁ!」
唾を飛ばしながら、狂ったように騒ぎ立てる田中。左内は仕方なく、ぺこぺこ頭を下げまくる。
「いいですか、大角さまは大角屋の大旦那さんですよ! それくらい、覚えておいてください!」
「ああ、大角屋ですか。そういえば有りましたなあ、そんなのが」
左内は、ようやく思い出した。そういえば、大角屋なる麻問屋があったのだ。左内のような昼行灯など、最初から相手にしていないような店だったので、気にも止めていなかった。
しかし、その言葉が田中の怒りの炎に、油を注ぐ羽目になってしまったのである。
「そんなの、ですと!? 大角さまを、そんなの呼ばわりとは何ですか!? あなたは、やはり大馬鹿者だあぁ!」
この後、左内はたっぷり絞られた。
「中村さん、あなたも災難でしたなあ」
ようやく田中の説教から解放された左内に、渡辺正太郎が声をかける。
「いやあ、参りました。私はただ、話を聞きに行っただけなんですがね……あそこまで怒られるとは、その大角さんは余程の大物なんでしょうな」
左内の言葉に、渡辺は顔をしかめながら頷いた。
「大物というほどでもないですが、金を持っているのは確かですね。しかも、ここだけの話ですが……」
そこで、渡辺は声を潜めた。
「甲益屋の甲斐歳三は、大角屋の大角清吉の愛人なんですよ」
「愛人、というと……なるほど、大角清吉にはそっちの趣味がありましたか。嫌な話ですなあ」
左内は呆れたように首を振る。今のご時世、男色など珍しくもない話ではあるが。
「そうなんですよ。甲斐は大角屋の後ろ楯を得て、大手を振って商売をしているんですよ。甲斐は怪しげな噂が絶えないのに、取り調べることも出来ない。嘆かわしい話です」
言いながら、渡辺は不快そうな表情で首を振る。彼の言葉に、左内は引っ掛かるものを感じた。怪しげな噂、とはどういうことだろう。
「怪しげな噂があるのですか?」
左内は、さりげなく聞いてみた。すると、渡辺は堰を切ったかのように話し出す。
「最近、甲益屋に出入りしている若者ですが……皆、評判の良くない連中ばかりなんですよね。夜中に鍋や釜を棒で叩いて、騒いでいたという話です。しかも、妙な薬を売っているという話も聞いたことがありました」
「妙な薬? 阿片ですかねえ?」
「いや、阿片ではなさそうなんですが……あの店では、変な匂いがしてるんですよね――」
「中村さん! それに渡辺さん! 仕事もしないで、何をべらべら話しているんですか!」
田中の怒鳴り声が飛んで来た。二人は即座に黙り込み、外回りへと出掛けた。
・・・
江戸の町外れに、大きな剣術道場が建てられている。もっとも、竹刀で打ち合うような音は一切聞かれない。
その代わり、夜になると数人の男たちが訪れる。見るからに堅気でないような風貌の男たちが、緊張したような面持ちで道場に入っていく。一時(いっとき・今でいう二時間)ほどした後、ほっとしたような表情を浮かべて出てくる。
厳つい人相の男たちが、ほっとした表情でぞろぞろ出ている様は、見方によっては滑稽であるが……そうなってしまうのも仕方ないだろう。何故なら、ここは江戸で最も力のある闇の組織『龍牙会』の集会所なのだから。
そして今も、龍牙会の者たちが集まっていた。
本来、剣術の稽古場であろう畳の部屋には、十人ほどの男たちが座布団を敷いて座っている。彼らの前であぐらをかいているのが、ぼさぼさ頭の拝み屋呪道であった。
「さて……最後に残るは、甲益屋の甲斐歳三だ。こいつは若いが、妙な薬を捌いている外道だ。あちこちから苦情が来てるんだよ。放っておいたら、さらに面倒なことになる。今のうちに潰せ……というのが、元締の考えだ。こいつを殺って欲しいんだが、誰か殺ってくれる奴はいねえのか?」
言いながら、皆の顔を見回す呪道。
すると、一人の男が手を挙げる。小柄な行商人風の中年男だ。片目の潰れた風貌は凄みがあり、呪道を見る目からは圧倒的な自信が感じられる。
その中年男に、呪道は頷いてみせた。
「うん、あんたは上州の熊造さんだね。分かった、あんたに頼むよ。後で、元締から話を聞いてくれ」
やがて集会が終わり、道場からぞろぞろ出ていく男たち。その中には、鉄の姿もあった。気だるそうな表情を浮かべ、のんびりと歩いている。
「鉄さん、待ってくれよ」
不意に、後ろから声をかけられた。誰かは見なくても分かる。呪道だ。
「何だよ呪道、またお勢の呼び出しか?」
面倒くさそうに立ち止まる鉄。だが、呪道はにこにこしながら近づいて来た。
「いや、違うよ。ちょっと、ここだけの話なんだが……」
言いながら、鉄の耳元に顔を寄せる呪道。
「もし、上州熊が仕損じたら……甲斐歳三を、仕掛屋さんの方で仕留めてもらっていいかな?」
「何だと? どういうことだ?」
鉄の方も、思わず声を潜める。
「ああ。あの仕事は厄介なんだよ。甲斐の他に、お玉と用心棒の立島右京を仕留めなきゃならないんだ。ところが、この立島は凄腕なんだよ。しかも、甲斐の方も只者じゃねえんだ」
「上州熊は仕損じる……お前は、そう思っているのか?」
鉄の問いに、呪道はにんまりと笑った。
「さすが鉄さん、話が早いね。十中八九、上州熊は仕損じる。そん時、あんたら仕掛屋に殺ってもらいたいんだよ」
「どうにも回りくどい話だなあ。だったら、なぜ最初から俺たちに頼まねえ?」
鉄の鋭い視線が飛ぶ。だが、呪道は怯みもしない。
「こっちにも、色々と考えがあるのさ。まあ、受けるか受けないかは、あんたらの自由だ。もし、あんたら仕掛屋が受けなかったら……俺が、甲斐を殺ればいいだけの話さ」
「ほう、そうかい」
気の抜けたような言葉を返し、鉄は上を向いた。この話自体は、別に悪くはない。ただし、話の裏に呪道なりの計算があるのは間違いない。
まあいい。考えるのは、あの八丁堀に任せよう。仕事があるなら、やるだけだ……鉄はにやりと笑った。
「いいだろう。元締に言ってはみる。ただし、受けるか受けないか、決めるのは元締だ。そこは承知しておいてくれよ」
「分かってるって。さて、上州熊の香典を用意しておかないとな。ここんとこ、出費がかさむぜ」
涼しい顔で恐ろしいことを言いながら、呪道はぼさぼさ頭をぽりぽり掻いた。この男は、一見すると軽薄ないかさま祈祷師である。だが、頭の回転は早い上に度胸がある。さらに、殺しの腕も鉄に劣らない。
伊達に龍牙会で、元締であるお勢の片腕を勤めている訳ではないのだ。
「そりゃあ災難だな。ま、俺は上州熊なんか知ったことじゃねえけどよ。ほんじゃあ、失礼するぜ。こっちも面倒だよ。うちの元締と会わなきゃならねえから」
そう言って、鉄はその場を後にした。
その翌日、鉄はふらふらと町を徘徊していた。すると、妙に不機嫌そうな顔をした左内の姿が目に入った。十手をぶらぶらさせ、ぶすっとした表情で歩いている。何か嫌なことでもあったらしい。
鉄は立ち止まり、さりげなく左内に目配せをした。それに気づいた左内は、ちらりと一瞥した後、鉄の前をすたすた歩いて行った。
少し距離を置き、左内の後を付いて行く鉄。あちこち見回しながら、いかにも暇そうな顔つきでぶらぶら歩いていた。
やがて左内は、町外れの空き家の中に入って行く。鉄はあたりを見回し、さりげなく空き家の前に腰掛けた。草履を脱ぎ、足の裏をぼりぼり掻き始める。
「おい鉄、何か用か?」
背後から、押し殺したような声がする。言うまでもなく左内の声だ。鉄は下を向き、足の裏を掻きながら声を出した。
「実はな、呪道の奴から依頼が来た。甲益屋とかいう薬屋の、甲斐歳三って奴を殺ってくれって話だ」
「はあ? 甲斐かよ……で、幾らだ?」
「それがな、まだ本決まりじゃねえんだよ」
「何だと? どういうことだ?」
「ちょいと、入り組んだ事情があってな……」
鉄は油断なくあたりを窺いながら、呪道とのやり取りを語った。
・・・
数日後、甲斐歳三は提灯を片手に夜道を歩いていた。傍らには、お玉と立島右京がいる。
既に亥の刻を過ぎており、周囲に人通りは無い。そんな中、甲斐は怪しげな表情を浮かべて歩いている。だが、不意に立島に近づいた。
「先生、さっきから妙な奴らが付いて来てますね」
いかにも楽しそうな表情で、甲斐は囁いた。
「ああ、そうらしいですね。気を付けて下さい」
「しかし、付いて来られるのも不愉快ですね。さっさと片付けてしまいましょう。先生、頼みましたよ」
言うと同時に、甲斐は立ち止まった。その美しい顔に、ぞっとするような不気味な笑みを浮かべる。
「用があるなら、さっさと出てきなよ。ここで、話をつけようじゃないか」
すると、その声に反応し四人の男たちが物陰から現れた。全員が様々な得物で武装し、その目には殺意を漂わせている。
「甲斐歳三……死んでもらうぜ!」
男らは鋭い声と共に、甲斐たちの周囲を囲む。だが、甲斐は余裕の表情だ。
「しょうがないなあ。先生、お願いします」
その声と同時に、立島は刀を抜く。
狂ったような笑みを浮かべ、突進していく――
稲妻のような早さで、刀を振るう立島。一瞬にして二人を斬り捨て、もう一人へと斬りかかっていく。だが、一人の男が甲斐に迫る。片目の男が、短刀を手に甲斐に突進した。しかし、甲斐は逃げようともしない。余裕の表情で、懐から何かを取り出す。
次の瞬間、銃声が轟く――
片目の男は眉間を撃ち抜かれ、ばったりと倒れた。その様を、つまらなさそうに見下ろす甲斐。彼の手には、短筒が握られている。
「今どき、刃物なんて古いんだよ。ましてや短刀で向かってくるとは、何という愚かさ……そうは思いませんか、先生?」
甲斐は、爽やかな笑顔を立島へと向ける。立島は残りの一人にとどめを刺し、刀に付着した血や脂を拭いている。
しかし、不意に顔を上げた。鋭い視線を甲斐に向ける。
「つまり、私の剣術など意味がない……そう、仰りたいのですか?」
「いやいやいや、何を言ってるんですか。先生の剣術は別格ですよ。今だって、先生のお陰で助かりましたから」
いかにも親しげな口調で言いながら、立島に近づく甲斐。
「先生、これからもお願いしますよ。不埒な輩が来たら、先生の剣術で片っ端から切り捨てて下さいね」
馴れ馴れしい態度で、立島の肩をぽんぽん叩く甲斐。その時、お玉が口を開いた。
「それにしても、こいつら誰に雇われたんだろうね。殺し屋にまた来られたら、ちょっと面倒だよ」
「そうですねえ……」
しばし考え込む甲斐。
「この際、龍牙会の方に釘を刺しておきますか」