剣技無情 一
江戸の片隅に、ひっそりと建っている満願神社に訪れる客は、さほど多くはない。そんな神社の前で、隼人と沙羅は今日も芸を披露していた。
顔を布で隠した沙羅が、的代わりの丸い板を構えている。彼女から三間(約五・四メートル)ほど離れた場所では、顔を白く塗った隼人が手裏剣を構えていた。ただし、今回は沙羅の頭の上に的を乗せているのだ。狙いが外れれば、沙羅の顔に手裏剣が当たることになる。命を落とす可能性すらあるのだ。
観ている者たちの顔にも、緊張感が漂っている。しかし、隼人は落ち着いていた。ゆっくりと狙いを見定め、投げる動作を繰り返した。
やがて隼人は、すっと息を吸い込む。
次の瞬間、手裏剣を投げつけた――
手裏剣は一直線に飛び、狙い違わず的に命中する。
おお! と、どよめく観客たち。だが、隼人は手を止めない。さらに手裏剣を投げ続ける――
五本の手裏剣は、全て的に突き刺さっていた。
「おお! すげえぞ!」
「大した腕だ!」
「やるなあ!」
観客たちは口々に言いながら、地面に置かれたざるに小銭を投げていく。隼人はしかめ面をしながら、客に頭を下げた。
その時、一人の男が近づいて来た。
「よう、いい腕してるじゃねえか」
声に反応し、顔を上げる隼人。だが次の瞬間、彼は唖然とした表情になった……。
隼人の目の前には、奇怪な格好をした若者が立っていた。けばけばしい色の派手な着物、長くぼさぼさの縮れ毛に覆われた頭、骸骨のような形の首飾り……さらに右手には、奇妙な形状の杖を持っている。
そんな奇怪な姿を前に、きょとんとしている隼人に向かい、若者は一方的に喋り出した。
「俺は、拝み屋の呪道だ。この近くで、占いや祈祷を生業としている。呪道先生とでも呼んでくれ」
そう言って、胸を張りふんぞり返る呪道。一方、隼人と沙羅は困惑したような表情だ。
「は、はあ。呪道先生、ですか」
沙羅の言葉を聞くと、呪道はますます偉そうな態度になる。
「いかにも、我輩は呪道先生である。ところで――」
「おい隼人、そいつの言うことは聞くな。阿呆がうつるぞ」
不意に、後ろから声が聞こえてきた。隼人が振り返ると、大柄な坊主頭の男がこちらに歩いて来ている。
「あ、あんたは……鉄さん、だったな」
隼人の言葉に、頷く鉄。
「そう、鉄だよ。ところでな隼人、こんないかさま祈祷師の言うことなんか、真に受けるなよ」
言いながら、鉄は呪道の耳元に顔を近づけた。
「いいか呪道、この隼人は仕掛屋の新入りだ。妙な真似するんじゃねえぞ」
凄みの利いた声で囁く鉄。すると、呪道は口元を歪めた。
「なんだとお? そいつぁ惜しいな。龍牙会に、是非とも欲しい人材だったんだがな」
そう言って、呪道は肩をすくめる。
「残念だったな。まあ、他を当たれや。ところで呪道、お前に是非とも相談したいことがあるんだ。お前のこと、ずっと探してたんだよ」
にんまりと笑みを浮かべる鉄。対照的に、呪道の表情は曇っていった。
「なんだよ。また金の話かい」
「そうなんだよ。実は昨日、吉原で使い過ぎてな」
へらへら笑いながら、鉄は親しげな様子で呪道の肩を抱き寄せた。だが呪道は、嫌そうに顔をしかめる。
「またかよ。いい加減にしてくれや。この前の二分だって、まだ返してもらってねえんだぞ」
「そう言うなよ。俺とお前の仲じゃねえか」
言い合いながら、二人はその場から遠ざかって行く。大男の生臭坊主と、ぼさぼさ頭のいかさま祈祷師とは、何とも珍妙な取り合わせである。もっとも、仲は悪くないようだが。
「なんだか、変わった人たちだね」
沙羅が呟くと、隼人はくすりと笑った。
「本当だな。江戸には、おかしな連中が多いらしい」
そう言って、二人は笑い合った。もっとも、隼人は殺し屋だし沙羅は隠れ切支丹である。彼ら二人にしたところで、普通の人間から見れば、充分に「おかしな連中」ではあるのだが。
・・・
その頃、中村左内は町の見回りをしていた。十手をぶらつかせ、やる気のなさそうな表情でうろついている。当然ながら、この男には江戸の平和を守ろうなどという殊勝な気持ちはない。とりあえずは、日々のお役目の時間をどうにかやり過ごそうという考えの下に動いているだけだ。
「中村さん」
後ろから、彼を呼ぶ声が聞こえた。左内のことを「中村さん」などと呼ぶ者はさほど多くはない。だが、今の声には全く聞き覚えがなかった。左内は首を傾げながら振り返る。
そこに立っていたのは、見るからに不気味な風体の男だった。髪を肩まで伸ばし、白い着物と青い袴姿である。腰に刀をぶら下げているところから察するに、浪人者であろうが……こんな男、全く見覚えがない。
直後、左内は背筋にぞくりとするものを感じた。目の前に立っている浪人は普通ではない。これまで何人もの人の命を奪ってきた、そんな匂いを漂わせているのだ。
「お前、誰だ?」
低い声で、左内は尋ねた。左手は、腰に下げた刀へと伸びる。
その時、浪人が口を開いた。
「中村さん、私をお忘れですか? 右京です。立島右京ですよ」
「立島、右京?」
怪訝そうな顔で、その名前を繰り返す左内。聞き覚えはある。だが、どこの何者であるか、までは分からない。
すると、立島は苦笑いした。左内の表情から、全てを察したらしい。
「昔、道場でお世話になりましたね。あの時は、池田さんと中村さんが道場の双璧でした。私もよく、稽古をつけてもらいましたね。もっとも、一方的に叩きのめされてばかりでしたが」
その言葉を聞いた時、左内はようやく思い出した。昔、剣術道場に通っていた頃、やたらと突っかかって来る若者がいたのだ。当時、道場には二十人以上の門下生がいたが、中でも飛び抜けて強かったのは、左内と池田左馬之介という男であった。
そんな二人に、毎日のように挑んできた若者がいた。何度も倒され、道場の床に這いつくばりながらも、若者はすぐに立ち上がってきた。そして気合いの声とともに、必死の形相で左内に立ち向かってきたものだった。
その若者の名が、立島右京である。
「おお、やっと思い出したよ。いや、すまんすまん。顔の印象がまるで変わっていたからな。あの頃とは別人のようだよ」
そう言って、左内はすまなそうに頭を下げる。もっとも、内心では立島を警戒していた。この男は、ただの浪人ではない。確実に人を斬っている。それも、一人や二人ではないだろう。
そんな左内の思いをよそに、立島は笑みを浮かべつつ頷いた。
「恥ずかしながら、いろいろありましてね。私も仕官が叶わず、今は浪人の身です。しかし、腕の方は磨き続けてきました。今なら、あなたにも負けない自信はありますよ」
そう言って、立島はにやりと笑った。
まるで、幽鬼のごとき笑みである。
「中村さん、どうです? ここで会ったのも、何かの縁です。暇な時にでも、お手合わせ願えませんか」
「いやいや、申し訳ないがね……私は腕が錆び付いている。今のあなたには、とうてい勝ち目はないよ。そもそも、私に勝っても何の自慢にもならない」
左内の言葉に、立島はため息をついた。
「そうですか。是非とも、あなたに稽古をつけて欲しかったのですが……ご存知かとは思いますが、池田左馬之介さんは既に亡くなっていますしね」
「そうらしいな」
左内は、目の前の浪人をじっくりと見つめる。かつて、純粋に強さを追い求めていた若者の面影は、完全に消え失せていた。目には、何かに取り憑かれているがごとき強い光が宿っている。頬はこけ、やつれたような印象を受ける。反面、着物の袖から覗く腕は逞しい。言葉の通り、今も鍛練を欠かしていないのだろう。
もっとも彼の場合、ただの鍛練ではない。この立島右京は、確実に人を斬っているはずだ。
これまで、仕掛屋としで何人もの人を斬ってきた左内には、匂いで分かるのだ……。
「先生、どうかされましたか?」
不意に声がした。と同時に、立島に近づいて来る者がいる。まだ若く、二十歳になるかならないかという年齢だろう。美しい顔立ちをしており、体つきもすらりとしていた。まるで絵草紙に登場する主人公のような佇まいである。
「おや、甲斐さん。これはすみません。昔の先輩とお会いしたものですから」
青年に向かい、頭を下げる立島。明らかに立島より年下のはずの青年に、敬語を使い丁寧に頭を下げている。どうやら、この青年が立島の雇い主らしい。
「おお、そうでしたか。はじめまして、私は甲斐歳三といいまして、この近くで薬屋を営んでいる者です。こちらの立島先生には、常日頃より助けていただいておりまして……」
にこやかな表情で、頭を下げる甲斐。
「これはこれは……私は中村左内という者です。お若いのに薬屋を営んでいるとは、大したものですね」
言いながら、ぺこぺこ頭を下げる左内。この甲斐という若者からは、金の匂いがする。仲良くなって損はない。
もっとも、その用心棒である立島から血の匂いがするのが、気になるところではあるが。
「そんな大した者ではありませんよ。ごく小さな商売をしているだけですから。では申し訳ないですが、先を急ぎますので……先生、参りましょう」
甲斐のその言葉に、立島は頷いた。
「分かりました。では中村さん、いずれまた」
立島は丁寧に頭を下げると、甲斐とともに去って行った。
その後ろ姿を、じっと見つめる左内。あの甲斐という男は、ただの薬売りではないだろう。立島と組んで何をしているのかは不明だが、堅気の商売でないのは確かだ。
もっとも、左内には関係のない話ではある。左内にしても、裏稼業で稼いでいるのだから。
「旦那ぁ、こんなところで何やってるんです?」
遠くから、野太い声が聞こえてきた。と同時に、こちらに向かい走って来る者がいる。目明かしの源四郎だ。大柄な体を揺らしながら走り、左内の前で立ち止まる。
そんな源四郎の姿を見た時、左内はふと思うことがあった。
「なあ源四郎、お前は喧嘩は強いよな?」
「へっ? いやまあ、腕には自信がありますけど」
「そんなお前でも、喧嘩で負けたことはあるよな?」
「ええ、そりゃあもう。世の中、上には上がいますからね」
うんうんと頷く源四郎。
「じゃあ、負けた時はどうした? 悔しくて、復讐したりしたか?」
「復讐ですか? いや、したことはないですね。あっしは、一晩寝れば大抵のことは忘れちまうんで」
「そうか。まあ、普通はそうだよな」
言いながら、左内は立島の去って行った方向を見つめる。立島は、何度負けても自分に向かって来た。しまいには、さすがの左内も嫌気がさしたほどだ。
あの立島は、今も自分に勝ちたいと思っているのだろうか?
左内は、修行に励んでいた若い頃のことを思い出した。彼が剣を学んだ理由、それは活人剣こそが理想の剣の道である……という師の言葉に感銘を受けたからだ。人を活かすための剣、それは綺麗事かもしれない。しかし、当時の左内は活人剣という理想を追い求め、時間を惜しんで修行に励んだものだった。
そんな左内にとって、他人との勝負を好み、勝ち負けにのみこだわる立島の姿は、率直に言って好ましいものでは無かったのだ。
左内は、他人との勝負を競うためだけに剣を習っていたのではない。むしろ、自分の剣で他人を活かしたかったのだ。
もっとも、そんな左内も今では仕掛屋の元締である。活人剣の理想など、とうの昔に捨ててしまった。
今の左内が振るうのは、完全なる殺人剣だ――
「ちょっと旦那、大丈夫ですかい?」
源四郎の声で、はっと我に返る左内。柄にもなく、過去を思い出し感傷的な気分に浸っていたらしい。
「ああ、大丈夫だよ。それより、何かいい儲け話でもないのか?」
「んなもん、あるわけないでしょう。しばらくは、真面目に働きましょう。たまには、表稼業で手柄を立てましょうや」
「冗談じゃねえや。手柄なんか立てたって、出世の見込みなんかねえんだ」
ぶつくさ言いながら、左内は歩き出した。その後を、源四郎が付いて行く。
そして左内はいつものように、町を徘徊しながら小銭稼ぎに精を出すのであった。