崩壊無情 七
乞食横町は、江戸という街の塵芥の集積所と呼ぶに相応しい場所である。特に夜になると、あちこちから怪しげな者たちが集まって来て、たき火を囲み得体の知れない集会を開いている。その風景は、現世に表れし魔界のようであった。
そんな乞食横町を、渡辺正太郎は悠然と歩いていた。色白で端正な顔立ち、しかも同心姿である。こんな場所には不似合いであり、否応なしに目立ってしまう。だが、渡辺はお構いなしだ。今さら、恐れる者など何もなかった。彼は、奉行所の上層部の首が飛ぶような情報をいくつも握っている。
この情報を上手く使えば、渡辺は一介の同心から一足飛びに出世できたはずだ。しかし、彼はそちらを選ばなかった。
渡辺が理想とする世界、それは裏の人間を使い正義を実行することである。
「渡辺さん、ちょっと待ってください」
不意に、とぼけた声が聞こえてきた。いったい何者だろうか……渡辺は、刀の柄に手をかけつつ振り返る。
そこにいたのは、みすぼらしい着物を身につけた男だった。中肉中背、汚れた手ぬぐいで頬かむりしているために顔は見えない。
だが、その声には聞き覚えがある。誰だろうか?
「お前、誰だ?」
言いながら、渡辺は相手との間合いを計る。まさか、自分を殺りに来た刺客だろうか?
その時、男は手ぬぐいを捨てた。
「そんなに殺気立たないでくださいよ。私です、中村左内です」
彼の顔を見た瞬間、渡辺は眉間に皺を寄せた。この男は、ここで何をやっているのだ?
「中村さん……あなた、ここで何してるんですか? だいたい、その格好は何です?」
「渡辺さん、実はね………私、奉行所を辞めました」
「はい?」
想定外の言葉に、渡辺は思わず聞き返した。この昼行灯は、何が起きようと奉行所の職にしがみつく……そう思っていたのに。
「それだけじゃありません。私はね、中村家を出たんですよ。昨日、離縁してきました。そう、私は中村の名を捨てたんですよ。もう、私には何もありません。ですから、今日かぎり江戸を離れることにしました」
そう言って、左内はにっこりと笑う。話を聞くかぎりでは、何もかも失ったはずなのに……彼の表情は不思議な清々しさに満ちている。渡辺は異様な物を感じ、思わず下がっていた。
「な、なぜです? どうして、そんな馬鹿なことをしたんです?」
渡辺が震える声で尋ねると、左内は下を向く。静かな口調で、ぽつぽつと語り出した。
「私と源四郎は、長い付き合いでした。あいつには、本当に世話になりましたよ。それとね、小吉と市は、私が仲間に引き入れたんです。小吉は頼りない奴でしたが、あいつがいなかったら仕事が成り立たないこともありました。市は仲間意識の薄い男で、勝手な行動ばかりしていました。安い仕事は受けねえ、が口癖だった市が、自分の命をただ同然の値段でくれてやるとはね。本当に皮肉なもんですよ」
左内の声色からは、何の感情もうかがえない。にもかかわらず、渡辺の体は震え出していた。彼は周囲を見回すが、誰もいない。付け火による燃え残りの残骸が、無惨な姿を晒しているだけ。
そう、ここは無法地帯なのだ。何が起きようが、奉行所に訴える者などいない。
渡辺の頭に、以前に裏の人間から聞いた話が甦る。仕掛屋が他の者たちから恐れられている理由、それは元締の存在ゆえであった。かつて鳶辰が江戸の大物を次々と潰していった時、仕掛屋の元締が動いた。鳶辰と、部下の主だった者たちを全て粛清したのだと……もっとも、渡辺はそれをはったりだと思っていたのだ。仕掛屋の面々が作り出した実体のない幽霊のごとき存在、それが元締の正体だろうと。
「まさか、あんたが……」
渡辺はぎりりと奥歯を噛み締め、刀の柄に手をかける。すると、左内は顔を上げる。
「その、まさかだよ……渡辺さん」
その顔には、ひとかけらの感情も浮かんでいなかった――
直後、渡辺は悲鳴を上げる。左内の刀で、胸元を斬られたのだ。一瞬遅れて、血が吹き出す。だが、左内は止まらない。怨念を全て叩きつけるかのように、さらに斬りつける。
渡辺は倒れながらも、必死で逃げようとした。地面をはいつくばりながらも、どうにかして生き延びようと足掻く。
だが、その背中を左内が踏み付けた。彼は短刀を抜き、渡辺の首を串刺しにする――
「ざけんじゃねえよ。お前みたいな砂利餓鬼が俺の真似をしようなんざ、百年早いんだよ」
動かなくなった渡辺に向かい、左内は低い声で毒づいた。が、その表情が一変する。
向こうの方から、罵声が聞こえる。さらに、悲鳴らしきものも……左内は刀の血を拭き、そちらへと走った。
・・・
その少し前。
夜魔一族の根城に、奇妙な者たちが訪れていた。片方は、龍牙会の呪道である。そして、もうひとりは……黒い着物に身を包んだ者である。顔に布を巻き、手には奇妙な形状の棒を握りしめていた。
「呪道さん、今日はいったい何の用だい?」
彼らの頭領である隆賢が、不快そうな表情で尋ねる。だが、呪道はへらへら笑いながら応対した。
「まあまあ、そんなに怒らないでくれよ。それに、話があるのは俺じゃない。この人だ」
言いながら、横にいる者を指差す。隆賢は、じろりと睨んだ。
「あんた誰だ? 面くらい晒せよ」
その言葉に、黒装束の者はゆっくりと動いた。顔に巻かれた布を外す。
途端に、隆賢は息を呑んだ。
「お、お前は……」
そこにいたのは沙羅だった。闇の色に染まった衣を身にまとい、冷酷な表情で口を開いた。
「悔い改める気持ちのある人は、今のうちに懺悔してください。全員、死んでもらいますので」
言った直後、彼女は立ち上がる。と同時に、剣を抜いた――
その一撃を躱せたのは、ほとんど奇跡に近い。隆賢は板の間を転がり、沙羅の一刀をからくも避けた。
「こいつらを生かして帰すな!」
叫ぶ隆賢。と同時に、一族の者らが立ち上がり、一斉に襲い掛かっていく。
隆賢はにやりと笑った。たった二人で、自分たちに挑むとは……あまりにも愚かな連中だ。
だが、その表情は凍りついた。
沙羅の剣技は、彼らの全く知らないものであった。鋭い剣先が、相手の急所を正確に切り裂く。刀の刃で斬るのではなく、剣が鞭のようにしなり、相手を貫く……これまで見たこともない変幻自在に動く剣術を前に、夜魔一族はなす術がない。
しかも、敵は沙羅だけではない。呪道も一緒になり、水を得た魚のように暴れているのだ。彼とて、伊達に龍牙会の幹部の座にいるのではない。殺しの腕に関しては、裏の世界でも知られた存在なのだ。
完全に意表を突かれた夜魔一族の面々。その上、体験したことのない剣術を使う沙羅の前に、なす術もなく次々と倒されていった――
勝ち目がないと見た隆賢は、すぐさま裏口へと走る。こうなったら、まずは渡辺正太郎の元に身を隠すしかない…彼は外に出て、辺りを見回した。
が、その表情が歪む。そこには、二人の男が立っていた。片方は大柄な坊主頭、もうひとりは……。
「は、隼人!?」
そう、隼人が立っていたのだ。光を失ったはずの目で、じっとこちらを向いている。
「あんたら、見せしめのために隼人を殺さず痛めつけてたんだってな。まあ、それはいいよ。とりあえず、隼人があんたに話があるそうだぜ」
鉄が言った。と同時に、隼人はゆっくりと歩いていく。幽鬼のような不気味な動きで、両手を突き出し隆賢に迫っていく――
「こ、このくたばり損ないが!」
叫ぶと同時に、隆賢は短刀を抜いた。が、その瞬間に鉄が動く。隆賢の腕を掴み、肘関節を極める――
ぼきり、という嫌な音の直後、短刀が落ちた。一瞬遅れて、隆賢が痛みのあまり呻いた。
「めくらを相手にするのに、刃物はねえだろうが。腕一本折られてるくらいが、まともな勝負になるだろ。ほら、行け」
言いながら、鉄は彼の背中をどんと突いた。隆賢はよろめき、隼人の伸ばした手に触れる。
その瞬間、隼人は動いた。飛びつくと同時に、両足を隆賢の胴に巻き付ける。
隼人の手足が、蛸のように隆賢の体に絡みついていく。
「何しやがる! 離せ!」
喚きながら、隆賢は必死でもがいた。だが、隼人は離れない。取り憑かれたような顔で、隆賢の首を脇に抱えこむ。
次の瞬間、一気に絞め上げた――
十年前の隆賢ならば、たとえ片腕であろうと隼人をねじ伏せることが出来たかもしれない。仮にも、暗殺者集団の頭目を張っている男なのだから。
しかし、今の隆賢は弛みきっていた。子分たちを顎で使う立場になり、しかも江戸に来たら簡単に金を稼げる。結果、隆賢はただの中年男へと成り果てていた。
隼人の技により、隆賢はあっという間に絞め落とされた。だが隼人は容赦せず、さらに絞め続ける――
やがて、隆賢の肉体から命が抜けていった。
「は、隼人……」
沙羅の声に、隼人はようやく腕を離した。沙羅は近づき、彼に手を伸ばす。
隼人は、その手を掴んだ。
「沙羅……」
「これからは、私があなたを守るから」
そんな二人を、左内は複雑な表情で見つめていた。少しの間を置き、声をかける。
「二人とも、達者で暮らせよ」
その声に、二人は振り返る。隼人も沙羅も、万感の思いがこもった表情であった。
「中村さん、あんたには本当に世話になった。あんたがいなかったら、俺たちは今まで生きてこれなかった」
隼人の言葉に、左内は苦笑しながら首を振る。
「中村さんはよしてくれ。俺はやっと、あの名前からおさらば出来たんだからな。ま、どんな体になろうが生きていく方法はある。俺の知ってる奴で、両足が動かなくなったのに賞金稼ぎやってる奴もいたからな」
「本当か?」
「ああ、本当だよ」
確かに、左内は嘘は言っていない。その賞金稼ぎは、仕掛屋に仕留められた事実を話していないだけだ。
「では、左内さん……あなたもお元気で」
沙羅が、今にも泣きそうな様子で口を開く。
「おいおい、お涙ちょうだいはごめんだぜ。あんたに、渡しとく物がある」
言いながら、左内は懐から何かを取り出した。沙羅の手を掴み握らせる。
それは、小判の束だった。
「こ、これは……」
「今まで、悪党どもからせしめた金だ。その、ほんの一部だから気にするな」
「左内さん、ありがとうございます」
沙羅は、深々と頭を下げる。
「いいってことよ。二人とも、幸せになれよ」
そう言って、左内は笑みを浮かべる。もっとも、彼には分かっていた。沙羅も隼人も、幸せになどなれない。いつかは、無惨な死に様を晒すことになる。
この二人もまた、その運命を理解しているはずだ。
左内は向きを変え、鉄と呪道が立っている方を見た。
「心配すんなよ。このことは誰にも言わねえ。俺だって、元締の言い付けに背いて、ひと暴れしたわけだからな。今回の件は、仕掛屋の元締がひとりでやった……ってことにしとくよ」
呪道は、いつになく神妙な顔つきだ。左内は頷き、彼の肩を軽く叩いた。
「すまねえな。あとのことは頼んだぜ。あいつらを守ってやってくれ」
言いながら、左内は隼人と沙羅の方を見る。呪道は、心得た、とばかりににっこり笑った。
「そっちも任せとけ。しかし驚きだな。南町の昼行灯が、まさか仕掛屋の元締だったとは――」
「おい呪道、誰にも言うんじゃねえぞ」
横から、鉄が口を挟む。すると呪道は、真面目な顔で頷いた。
「ああ、もちろんだよ」
「と、言うわけだ。こいつが喋ったら、俺が殺す。だから安心しとけ」
そう言うと、鉄は口元を歪めて目を逸らした。左内もまた、目を逸らす。
「後は頼んだぜ、鉄。今日から、お前が仕掛屋の元締だ」
「そりゃ違うな。仕掛屋の元締は、今まで通り謎の男だ。俺は、あくまでも代理だよ」
「そうか……元気でな」
左内は鉄たちに背を向け、去って行く。
鉄は、視線を逸らしたままだった。下を向いたまま、呟くように言った。
「いつか、また会えるさ。どうせ極楽へは行けねえ俺たちだ。会うとしたら、地獄だろうぜ。生者必滅会者定離ってな」
完




