崩壊無情 六
廃寺は、重苦しい空気に包まれていた。
昨日、助け出された隼人は、ずっと寝たきりだ。両目は潰されたが、体は問題がない。念のため、医者にも診てもらったが、目以外の部分は問題ない……との見立てであった。
したがって、立って歩く程度のことは出来るはずだった。だが、布団の中で寝たまま動こうとしない。まるで、死んでしまったかのように。
部屋の隅には、沙羅が座り込んでいた。こちらもまた、死人のごとき様子である。涙や鼻水で汚れた顔を拭こうともせず、ぼんやりと床を見つめている。
普段なら、くんくん鳴きながら二人にじゃれつくはずの白助も、床に伏せたまま動かない。時おり、悲しげな目で二人を見つめるものの、すぐに視線を逸らす。
境内の中は、今や生ける屍の住みかと化していた。
「おい、邪魔するぜ」
沈黙を破った来客は、鉄であった。彼は返事も聞かずにずかずかと入って行き、どっかと座り込む。だが、隼人も沙羅も無言のままだ。ただ白助だけが起き上がり、彼の手に濡れた鼻をくっつけた。
「わん公、元気なのはお前だけか」
言いながら、白助の頭を撫でる鉄。白助はくんくん鳴きながら、鉄の顔を見上げた。普段と違い、悲しげな様子だ。
「あんまり元気でもなさそうだな」
鉄は顔をしかめながら、二人に視線を移す。だが、どちらも死人のような表情である。
さすがの鉄も、この空気の中では何も言えない。彼は、針のむしろのような空気を感じていた。下を向き、白助を撫でる。
そんな空気を、さらなるどん底へと叩き落とす者が訪れた。
「鉄さん、いるかい」
言いながら、すっと入って来たのは呪道だ。彼は仕掛屋とは無関係のはずなのだが、話を聞き付けて二人の所に食べ物などを運んで来ているのだ。
呪道は隼人たちを一瞥すると、鉄に目配せする。ここではしづらい話があるのだろう。だが、鉄は首を振った。
「構わねえ、ここで言えよ」
「いや、でもさ――」
「どうせ、市の話だろ? いいから聞かせてやれ。この二人も、知らなきゃならねえよ」
その言葉を聞いた瞬間、沙羅が顔を上げる。隼人も、上体を起こした。焼かれた目の痕が痛々しく、呪道は思わず目を逸らす。
ややあって、口を開く。
「あいつら、市の死体をばらばらに切り刻んだ。挙げ句に、俺たちの前に放り投げて言いやがった……夜魔一族に逆らった奴はこうなるんだ、てな。唯一の救いは、市は奴らに捕まる前に自分で首をかき切ってた、ってことだけさ」
直後、沙羅の口から嗚咽が洩れる。彼女は再び崩れ落ち、体を震わせて号泣していた。隼人もまた、見えなくなったはずの目で虚空を睨み、拳を握りしめている。
鉄は、ぼんやりと白助を撫でていた。敵の死体を切り刻み、他の者たちへの見せしめにする……それは、裏稼業では珍しくもない話だった。現に、鉄もまた同じことをしている。この世界に足を踏み入れた以上、待っているのは無惨な死に様なのだ。鉄も、いずれは似たような死に様を晒す覚悟はしている。
それでも、二人の姿は見るに忍びなかった。
・・・
中村左内は、とある場所に来ていた。埃にまみれた空き家の中に入っていき、一枚の床板を注意しながら外していく。すると、狭く小さな階段がある。左内は提灯を掲げ、ゆっくりと降りていった。
ここは昔、仕掛屋の根城であった。左内は、かつての仲間たちと語らい、時に対立したこともあった。しかし、当時の元締である政吉の死に伴い、この場所も使われなくなったのである。
政吉は死ぬ間際、左内にこう言った。
「八丁堀……俺の代わりに、この稼業を継いでくれ……この稼業は……誰かが……続けなきゃならねえんだ……頼んだぜ……」
その遺志を継ぎ、左内は仕掛屋の元締となった。しかし今、その仕掛屋は崩壊しようとしている。
それよりも問題なのは、自分が迷っていることだった。
「八丁堀、こんな所で何やってんだ?」
不意に声が聞こえた。遠い昔に聞いた覚えのある、懐かしい声だ。左内ははっとなり、顔を上げる。
ぎょろりとした目、ざんぎり頭、蕎麦屋の前掛け……確かに死んだはずの男が、そこに立っていた。
「ま、政吉……」
呆然とする左内の前で、政吉はどっかと椅子に腰かける。
「久しぶりだな。相変わらず、冴えない面してるな」
「余計なお世話だよ。それより、何しに来たんだ? 地獄からのお迎えか?」
どうにか言葉を返した左内。今の自分は、何を見ているのだろうか。幽霊か、それとも白昼夢か。
「死んだ源四郎だがな、あいつは俺の幼なじみだった」
そこで、政吉はくすりと笑った。
「あいつ、実は女形だったんだ」
「えっ……」
「そう。いかつい顔してたがな、あいつの心は女だったんだよ。しかも、お前に惚れてたらしいぜ」
その言葉に、左内は無言のまま俯いた。言われれば、思い当たる部分はある。だが、そんなことはどうでもいい。言うまでもなく、左内は女の方が好きだ。しかし、それとこれとは別である。
源四郎には、本当に面倒をかけた。あの男が動いてくれたから、仕掛屋は成り立っていたのだ。
それなのに、彼からの恩に報いることなく死なせてしまった……。
「八丁堀、これからどうすんだ?」
不意に政吉が聞いてきた。だが、左内には何も答えられない。その疑問の答を探すべく、ここに来ているのだから。
「なあ八丁堀、どんな選択をしようが、それはお前の自由だ。とやかく言う気はない。だがな、ひとつだけ忘れて欲しくないことがある。この世界に足を踏み入れたが最後、幸せなんてものは掴めやしねえんだ」
「んなこと、分かってるよ」
言いながら、左内は顔を上げる。だが、政吉の姿は消えていた。影も形も見当たらない。今のは、何だったのだろう……。
左内はしばらくの間、その場に座り込んでいた。
ふと、かつての仲間のことを思い出す。標的と相打ちになった以蔵。仲間を助けるために大立ち回りを演じ、最期に左内の腕の中で死んでいった島帰りの龍。江戸の大物・鳶辰を道連れに地獄に逝った政吉。
生き残った者もまた、無事では済まなかった。多助は拷問の末、歩くことすら出来なくなった。お松は、そんな多助の介護のために共に旅だって行った。
ただひとり、左内だけが無傷で生き延びている……。
「そうだよな政吉。俺は忘れてたよ……あいつらのことを。あいつらだけじゃねえ、俺の手で死んでいった奴らのこともな。俺ひとりだけ勝ち逃げなんざ、あまりにも虫が良すぎるよな」
・・・
不意に、くっくっくっく……という不気味な声が響き渡る。鉄と呪道は、ぎょっとした表情でそちらを見た。
声の主は、沙羅であった。さっきまで泣き崩れていたはずなのに、狂ったような笑い声を上げながら、ゆっくりと上体を上げていく。
「みんな、これまでしてきたことの報いを受けたんですよね。隼人と市さんは、大勢の人を殺しました。小吉さんは、その人殺しの手助けをしてきました。これも、神の御意思なのでしょう。仕方のないこと、受け入れなくてはならないことなのでしょうね」
言いながら、沙羅は立ち上がる。その表情を見た瞬間、鉄は凍りついていた。
沙羅は、涙を流しながら笑っていた。
「神は言いました……汝の敵を愛せよ、と。また、こうも言っておられます……復讐は人間のものでなく、神のものであると」
そこで、沙羅は胸のあたりで両手を組んだ。天を見上げ、祈りを捧げるかのような表情を浮かべる。
「神よ、あなたは正しいのでしょう。私は不完全な人間です。しかし、これ以上あなたの言うことを聞く気にはなれません。私は、完全に頭にきました……この仕打ちだけは、受け入れることが出来ません!」
直後、彼女の手が首の十字架を掴む。
一瞬の後、沙羅はそれを引きちぎった――
「沙羅、お前は何を言ってるんだ……」
異変を感じた隼人が、ためらいながら声をかける。だが、沙羅はその言葉を無視した。部屋の隅に立てかけてある三味線を掴む。
次の瞬間、それを振り上げ床に叩きつけた。三味線は粉々に砕けたが……中から、奇妙な形の杖が出てくる。
いや、あれは杖ではない。呪道には見覚えがある。あれは、呪道の知る最強の剣士・死門の使う刀と同じ形だ。
沙羅はその刀を手に取り、鞘から抜く……銀色に光る刀身があらわになった。
彼女は二、三回、軽く振った。そして、呪道の方を向く。
「夜魔一族とやらは、どこにいるのですか? 居場所をご存知でしたら、案内してください」
「あ、案内って……あんた、何しに行くんだよ?」
「奴らを皆殺しにします」
即答した沙羅。彼女の目を見た時、呪道は背筋に冷たいものが迸る……今の沙羅は、死門と同じ目をしているのだ。
呪道は、これまでにも沙羅と会ったことはある。また、二人が兄妹であることも知っている。呪道の記憶の中の死門と沙羅は、水と油と言っていいくらい違っていた。
だが、今の二人は驚くほどそっくりに見える――
「あんた、何を言ってるんだ……そんなこと出来るわけない、殺されちまうぞ」
呪道は、かろうじて言葉を絞り出した。しかし、沙羅は首を振る。
「私は、兄と同じ剣術を両親から仕込まれてきました。兄に負けないくらいの技は持っているつもりです」
「えっ……」
「これまでは神の教えに従い、この剣を封印していました。しかし今となっては、もう誰に気がねする必要もありません」
「けどよ――」
言いかけた呪道の表情が硬直する。ほんの一瞬、まばたきするかの僅かな間に、沙羅が間合いを詰めていたのだ。
しかも、呪道の喉に剣の切っ先が当たっている――
「私はね、龍牙会も許せないんですよ。あなたたちさえしっかりしていれば、奴らは江戸に入り込めなかった。市さんも小吉さんも死なずにすんだんです。隼人も目を潰されずに済んだはずです。教えてくれないなら、龍牙会も潰します。手始めに、あなたをこの場で殺しますよ」
淡々とした口調で語る沙羅。呪道は確信した……今の沙羅は、死門よりも恐ろしい。死んでいった者たちへの想いが、彼女を本物の鬼へと変貌させてしまった……。
その時だった。
「呪道、教えてやれよ。このお姉ちゃんは、俺たちにゃ止められねえよ。気の済むようにさせてやれ」
鉄の乾いた声が、廃寺に響き渡る。
・・・
左内は、屋敷へと戻っていった。義母のいとと妻のきぬを見つめ、静かな口調で切り出す。
「急な話で申し訳ないですが、離縁していただきます」




