崩壊無情 五
乞食横町は、江戸の暗部を象徴しているような場所だった。塵や埃が風に吹かれて低い場所に溜まるように、江戸の中でも最悪の人種が集まり勝手に町らしきものを作ってしまった……そんな場所である。まともな人生を歩んでいる者ならば、まず近づこうとはしないだろう。
そんな場所に、市は足を踏み入れる。頭からぼろきれを被った姿で、周囲に気を配りつつ歩いていた。既に小吉も潜伏しているはずだ。隼人の監禁されている場所も分かっている。後は、助け出すだけ。
そのためには、かなり無茶をする必要があった。
突然、あちこちから煙が上がる。それを見て、住人たちは血相を変えて逃げていく。火事と喧嘩は江戸の華という言葉があるが、現実の火事は恐ろしい災害である。わざわざ火事の中に進んで行くのは、火事場泥棒と呼ばれる人種だけだ。
今日の市は、その火事場泥棒をやるつもりである。盗み出すのは隼人だ。
周囲を見回し、市は目の前の建物へと入っていく。かなり前の時代に建てられたものらしく、あちこちがたが来ている。壁板は腐りかけ、中からは嫌な匂いがしていた。見張りは火事の様子を見に行ったのだろうか……姿が見えない。
市は違和感を覚えた。おかしい……いくらなんでも簡単すぎる。
夜魔一族といえば、裏の世界でも有名な連中だったはず。そんな奴らが人質を監禁しているというのに、ここまで警戒が手薄だとは。
有り得ない話だ。これは、罠ではないだろうか?
だが、今さら後戻りは出来ない。こうなった以上、罠だろうと強行突破するしかない。市は、中へと入って行った。
建物の中は、さほど広くはない。かつては物置か倉庫だったのだろうか。
そして部屋の隅からは、人の気配がする……それも一人。見張りらしき者の姿はない。市は眉間に皺を寄せる。どういうことだろうか。警戒が、あまりにも手薄なのだ。
市は、さらに近づいていく。
「隼人、いるか?」
市は、そっと声をかける。すると奥から、くぐもった声が聞こえてきた。
「誰だ」
「俺だよ、市だ。助けに来たぞ。早く逃げよう」
言いながら、そっと奥へと進んでいく。罠を警戒しつつ進んで行ったが、それらしき物はない。これなら、簡単に開けられる。
だが、この警戒心の無さは異様だ。市は漠然と、不吉なものを感じていた。渡辺正太郎は間違いなく頭の切れる男だし、夜魔一族も裏の世界で恐れられていた連中である。そんな奴らが、牢に鍵もかけないとは?
市の疑問は、すぐに答えが出る。牢の隅にあったぼろきれのような物が、微かに動いたのだ。中から、隼人が体を起こす。その両腕は、縄で縛られていた。
「市、すまないが一人で逃げてくれ。俺は、もう駄目だ」
「冗談言ってる場合じゃねえぞ。お前を助けると、沙羅さんに約束したんだからな」
言った直後、市は今の状況をようやく理解した。呆然となり、その場に立ち尽くす。
隼人の両目は、無惨にも潰されていたのだ。まぶたの部分は、火傷の跡のような引き攣れた皮膚で覆われている。恐らく、火で焼かれたのだ……。
「ひでえことしやがる……」
思わず声を上げた市。その声に反応し、隼人がにじり寄る。
「俺は、もう駄目だ。市、俺を殺してくれ。頼む」
蚊の鳴くような声で、隼人は言った。その言葉で、市はようやく平静さを取り戻す。
「くだらねえこと言うな。知ってるだろうが、俺は安い仕事はしねえんだよ。どうしても俺に殺して欲しけりゃ、金を払ってからにしてくれねえかな」
冷たい口調で言うと、市は隼人の手を掴み乱暴に引き上げる。だが、隼人は首を振った。
「やめてくれ。こんな体で帰ったら、沙羅の負担になるだけだ。頼む、俺を殺してくれ」
市の手を握りしめ、隼人は懇願した……その姿はあまりにも痛々しく、市は思わず目を逸らした。
ひょっとしたら、死なせてやった方が……。
一瞬、そんな考えが市の頭を掠める。だが、憤怒の形相で隼人の襟首を掴み引き起こした。彼を縛る縄を、短刀で切る。
「いい加減にしろ。俺はな、沙羅さんに頼まれてお前を助けに来たんだぞ。その分の代金は、まだ一文ももらってねえんだよ。俺は、絶対にお前を死なせない……沙羅さんに頼まれた仕事は、必ず果たす。その代わり、お前ら二人には一生働いてもらうぞ。俺に代金を払うまでは、生き抜いてもらうからな」
言うと同時に、隼人の手を乱暴に引いていく。辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、隼人の頭にぼろきれを被せる。彼の手を引き慎重に出て行った。
市は、何事もなかったかのように歩いていく。あちこちから煙が上がり、乞食たちは慌てた様子で逃げている。だが市は、素知らぬ顔で歩いていく。やがて横町を抜け、林道へと入って行った。
「小吉、いるか?」
辺りを見回し、そっと声をかける。すると道端の茂みから、小吉が顔を出した。
「上手くいったな、市」
「馬鹿野郎、まだ終わっちゃいねえ。隼人は、両目を潰されちまったんだ。二人で行かないと――」
その時、市の表情が歪んだ。横町の方から、ひとりの同心がのんびりと歩いて来る。若く色白で、すらりとした体型だ。
「お前、誰だ?」
低い声で、市は尋ねる。もっとも、その答えはわかりきっていたが。
「私は、渡辺正太郎だ。あなたは、仕掛屋の市さんだね?」
「そうだよ。俺に何か用か?」
言いながら、市は周囲を見渡す。やはり罠だったのだ。
「あなたに用はない。私が会いたいのは、仕掛屋の元締さんだよ。まあ、この際あなたでも構わないがね」
そこで、渡辺は微笑んだ。
「市さん、我々と組もうじゃないか。悪いようにはしない。あなたが橋渡しになってくれれば――」
「断る。今あんたは、悪いようにはしない……って言ったがな、既に充分すぎるくらい、悪いようになってるんだよ」
言いながら、市は背中に隠していた九寸五分の短刀を抜く。隼人さえ五体満足なら、こんな奴は怖くない。だが、今は隼人を助けることを優先しなければならないのだ。
「小吉、隼人を頼んだぞ。今はお前だけが頼りだ」
低い声で市は言うと、短刀を構えた。目の前にいる同心には、付け焼き刃の剣術など通用しないだろう。ならば、刺し違える覚悟でいくしかないのだ。
その時、渡辺は溜息を吐いた。
「あなたは、救いようのない愚か者だな。この状況で、我々と闘う気か?」
直後、数人の男たちが現れる。それぞれが手に得物を持ち、市たちを睨んでいる。彼らの額には、入れ墨が彫られていた。
間違いなく、夜魔一族だ……。
「市さん、観念するんだね。あんたは腕が立つらしいが、ひとりじゃどうしようもないよ」
「そいつはどうかな」
言うと同時に、市は襲いかかっていく。短刀を振り上げ、渡辺に切りかかった。しかし、渡辺は表情ひとつ変えずに躱す。
と同時に、男たちは動いた。隼人たちの後を追い、一斉に駆け出した。だが、市はもうひとつの武器を抜く。
次の瞬間、銃声が轟く。追っ手のひとりがばたりと倒れ、その場にいた全員の動きが止まった。
質屋の秀次が、死ぬ間際に持っていた短筒……それが今、市の手に握られていた。さすがの夜魔一族も、飛び道具が相手では動けまい……市は、鋭い声で叫んだ。
「お前ら、下がれ!」
その言葉に反応し、彼らはじりじりと下がる……かに見えた。
直後、市は唖然となった。自身の肩に、刃物が刺さっている。夜魔一族の誰かが、手裏剣を投げたのだ。抜く手も見せずに放たれた手裏剣は、市の肩に深々と突き刺さり、神経に損傷を与えていた。右手の感触がなく、力が入らない……。
一瞬の間を置き、短筒が地面に落ちる。次いで、市は地面に崩れ落ちた。だが、それは痛みゆえではない。こうなった以上、やるべきことをしなくてはならなかった。
男たちが、一斉に襲いかかって来る。だが、その動きはひどく遅かった。少なくとも、市の目にはひどく遅いように思えた。
何故だろうか……そんなことを思いながら、市は己の首筋に剃刀の刃をあてる。最後の最期に使う武器として、隠していたものだ。
直後、勁動脈を一気に切り裂いた。大量の血液が、空中に向かい吹き上がっていく。その光景を、市は他人事のような冷めた目で眺めていた。
かつて、育ての親である質屋の秀治から叩き込まれた裏の世界の掟。
「逃げられねえ時は、てめえでてめえの口を封じるんだ。一度捕まったら、知っている情報を話したところで殺される。しかも、ただ死なせちゃくれねえよ。それこそ地獄のような苦しみを味わった挙げ句、本物の地獄のに送られる。だったら、苦しまずにすぱっと逝った方がましだ」
その教えに間違いはない。だからこそ今、実行したのだ。もうすぐ、あの世に逝く。
薄れゆく意識の中、市の脳裏に浮かんだもの……それは、ひとりの女だった。金色の髪と白い肌を持ち、青い瞳には悲しげな色があった……。
沙羅さん、隼人を頼んだぜ。
あんたには、大事なことを言いそびれちまったな。
俺は、あんたのことが……。
いや、言えなくてよかった。
二人で、俺の分まで幸せになってくれ。
あーあ、俺は何をやってんだろうな……。
もっと器用に、賢く生きるつもり……だった……のに……。
小吉は走った。だが途中、違和感を覚えて立ち止まる。今までは興奮していて気付かなかったが、何かが脇腹に刺さっていた。どうやら手裏剣らしい。逃げる最中、敵の投げたものだろう。とはいっても、ほんのかすり傷程度のものだ。刃先が僅かに刺さっているだけだ。江戸で生きていれば、この程度の傷は珍しくない。
再び歩き出そうとした小吉。だが、体の力が急に抜けていくような感覚に襲われた。その場で立ち止まり、額の汗を拭く。
手足が痺れてきた。さらに、頭痛と吐き気も……小吉は、その場に崩れ落ちた。
「小吉、どうしたんだ? 大丈夫か?」
隼人が不安そうに聞いてきた。だが、大丈夫ではない。もう、歩くことすら困難なのだ。小吉は荒い息を吐きながら、必死で考えた。自分の体に何が起きたのかは分からないが、このままでは共倒れだ。
その時、小吉の頭にひとつの考えが浮かぶ。
「隼人……お前、俺を背負って歩けるか?」
「あ、ああ」
「だったら、俺を背負ってくれ……どこに行けばいいかは、俺が教えるから……」
息も絶え絶えになりながら話す小吉に、隼人も状況を理解したらしい。無言のまま、その場で片膝をつく。
小吉は、その背中におぶさった。
「隼人……そのまま進め……」
・・・
乞食横町にて、付け火があったらしい……そんな話を聞きつけた中村左内は、急いで乞食横町へと向かった。どうも嫌な予感がする。これは、市らが関係しているのではないのか。
掘っ立て小屋の建ち並ぶ一角にて、多くの人々が右往左往しているのが見えた。とはいえ、火事から必死で逃げているという緊迫感はない。むしろ、困ったなあ……とでもいいたげな空気が漂っている。地の底をうごめく者に特有の諦念が感じられた。
そんな中、左内は人混みをかき分けて進んでいく。目をあちこちに動かし、見覚えのある顔がないか探した。だが、その目があるものを捉えた。
ぼろ布を頭から被った者が、人混みの中を慎重に歩いている。その背中には、今にも死にそうな顔の若者がおぶさっている。
間違いなく小吉だ。
左内は、その二人に素早く近づいていく。わざとらしく大声を出した。
「お前ら、ちょっと番屋まで来てもらおうか――」
言いかけた左内だったが、すぐに絶句する……ぼろ布の隙間から見えたもの、それは隼人の顔だった。ただし両目のあたりを、火傷の跡が覆っているが……。
「中村さん……」
隼人が呟くように言った後、小吉が顔を上げる。
「八丁堀……来てくれたんだね。助かったよ……」
その声は弱々しい。顔色も異様だ。蒼白を通り越し、もはや死人のそれである。
「んなこと言ってる場合か。さっさと行くぞ」
言いながら、左内は隼人の手を引いていく。これまで多くの死に立ち会ってきた彼には、よく分かっていた。
小吉は、もう助からない。
廃寺の中で、沙羅は泣き崩れていた。
隼人は彼女の手を握り、虚ろな表情で座り込んでいる。逃げ出せた安堵感などは欠片も感じられない。まるで、死んでしまったかのように。
その隣には、本物の死人がいた……小吉が横たわっている。しかし、彼の表情はどこか満足げである。何か重要な任務を成し遂げたかのように、安らかな顔つきであった。
そして左内は、じっと天井を睨みつけていた。既に二人が倒れた。話を聞く限りでは、市の生存も絶望的である。隼人は両目を潰され、もはや戦うことは出来ない。残るは、左内と鉄の二人だけ。
仕掛屋は、もう終わりなのだ。




