抗争無情 一
沙羅は、両手を合わせて祈っていた。
彼女の前には、ご飯の入った茶碗や野菜の煮物などが置かれている。極めて質素ではあるが、米が食べられる分だけましなのだ。何せ江戸に来る前には、雑草を食べて飢えをしのいだこともあるのだから。
その傍らにいる隼人は、無言のままじっとしている。時おり、くんくん鳴く犬の白助の頭を撫でていた。白助としては、おこぼれを期待しているのだろうが、隼人らが食べないのでは始まらない。
隼人にとって、沙羅の祈りとは理解不能なものだ。何のためにしているのか、そもそも何を言っているのか、未だに分からない。
それでも、分かっていることはある。沙羅にとって、この儀式は重要なものであるということだ。彼女にとって重要であるなら、邪魔してはいけない……隼人は神妙な顔つきで、祈りが終わるのを待っていた。
やがて、沙羅の祈りが終わった。彼女は目を開け、にっこり微笑む。
「さあ、食べようか」
二人と一匹は、朝の食事をとった。つましいものではあるが、粗食には慣れている。
だが、殺しをやらなければ……この粗末な食事ですら、味わうことは出来ないのだ。
隼人は裏の連中から追われる身だし、沙羅にいたっては隠れ切支丹である。表の仕事に就くことなど、出来はしない。大道芸の稼ぎなど、微々たるものだ。二人が食べていくことなど、不可能だろう。
「次の仕事は、いつになるの?」
不意に、沙羅が聞いてきた。仕事とは、言うまでもなく裏の方である。
「さあ、いつだろうな。そろそろ仕事にありつけないと困る」
「そう、だね」
沙羅は切ない表情を浮かべる。未だに、人殺しという仕事には割りきれないものを感じているらしい。
この点もまた、隼人には理解できなかった。人はみな、いずれ死ぬ。その時を、少しばかり早めてやるだけのこと……隼人にとって、人殺しとはその程度のものでしかない。
幼い頃から、人殺しが当たり前という環境で育ってきた隼人。彼にとっては、殺すことは日々の糧を得る手段に過ぎないのだから。
その翌日、隼人と沙羅は満願神社にいた。小吉が客を連れてきて、二人が大道芸を披露し投げ銭をもらう……いつも通りである。
だが、その日はいつもと違うことがあった。
やや離れた位置から、背の高い男がじっとこちらを窺っている。地味な色の着物姿で、編み傘を被っているため顔は見えない。そもそも、本当に男かどうかも分からないが……着物と背の高さから察するに男であろう。
隼人は芸をしながらも、その存在が気になっていた。明らかに、他の者とは異質な気配を放っている。
もしや、裏の人間だろうか……などと注意しつつ、その動きに注意を払っていた。
男が近づいて来た。隼人は、そっと懐に手を入れ手裏剣を握る。だが、彼の隣にいる沙羅の反応は違っていた。
「に、兄さん?」
その声は、微かに震えている。隼人は彼女を見て、次に男の方を向いた。編み笠を被っているため顔は見えない。しかし、沙羅には分かっているらしい。
男は、境内を指差した。
「話がある。そこの裏まで来てもらおうか」
境内の裏で、男は編み笠を取った。白い肌、金色の髪、彫りの深い顔……間違いなく、龍牙会の死門である。
「兄さん……今まで、どうしてたの……」
涙を浮かべながら、沙羅は問う。だが、死門は首を振った。
「お前の兄は死んだ。今の俺は、龍牙会の死門だ。分かったら、二度と俺に関わるな」
その口調は、氷のように冷たいものだった。次いで彼は、隼人の方を向いた。
「沙羅を連れて、さっさと江戸を出ろ。ここは、お前らのような者のいる場所ではない」
「それが出来れば、とっくにやっている。だが、今の俺は江戸を出ることは出来ない」
隼人の口調も淡々としたものだった。死門を恐れている気配はない。
すると、死門の表情に僅かながら変化が生じた。
「沙羅、お前は信仰を捨てたのか?」
「いいえ! 私は信仰を捨ててはいません!」
強い口調で言い返す沙羅。すると、死門は口元を歪めた。
「ならば、何故この男と一緒にいる?」
「そ、それは……」
沙羅は顔を歪め、下を向いた。だが、死門は容赦しない。
「この男は仕掛屋の一員のはずだ。つまりは、人殺しを生業にしているのであろう――」
「お前には関係あるまい」
口を挟んだのは隼人だ。背の高い死門を、じろりと睨みつけた。
「俺と沙羅は、一緒に暮らしている。兄として接する気がないなら、これ以上口を出すな」
その時、死門の目が光る。怒りの感情らしきものだ。しかし、それはほんの一瞬であった。すぐに氷のごとき表情へと戻る。
「確かに、お前のいう通りだな。この女がどうなろうと、俺の知ったことではない、好きにするがいい」
吐き捨てるように言うと、死門は再び編み笠を被る。二人に背を向け、去って行った。
「ねえ、大丈夫?」
小吉が、案ずるような顔つきで近寄って来た。
「俺は大丈夫だ。しかし……」
言いながら、隼人は沙羅に視線を移す。
沙羅は、複雑な表情を浮かべていた。死門の言葉は、彼女にとってもっとも痛い部分だったのであろう。
今でこそ言わなくなったが……かつては、人殺しが罪であることをしつこいくらい口にしていた沙羅。隼人はうっとおしくて仕方なかった。出会った頃のことを思い返してみると、よくもまあ今まで続いたものだ……と、自身の根気強さには呆れるばかりだ。あるいは、これが愛情というものなのかもしれない。
もっとも、それは沙羅の方も同じだろう。隼人は、自分が殺し以外は何も出来ない人間であることを理解している。
そんな自分に付いて来てくれた沙羅……彼女は、自らの信仰とどう折り合いを付けているのだろうか。
いや、恐らくは沙羅の中でも結論は出ていないのだろう。結論が出ないまま、隼人とずるずる行動を共にしている……そう思えるのだ。
いずれにしろ、今の沙羅では危ない芸は出来ない。死門との会話で、心が乱れてしまっている。
「沙羅、今日はもうやめておけ」
隼人の言葉に、沙羅は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫だから――」
「いや、俺もそう思うよ。沙羅ちゃん、今日は引き上げようよ。ね?」
小吉も、案じるような顔で声をかけてくる。沙羅はすまなそうな顔で頷いた。
・・・
その満願神社から半里(約二キロ)ほど離れた大通りでは、拝み屋の呪道が出店を出して叩き売りをしていた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! この南蛮渡来の器、なんとたったの二朱! 安いよ安いよ!」
ぼさぼさ頭を振り乱し、大声で通行人に呼びかける呪道。すると、一人の男が足を止めた。十手をちらつかせながら、器を手に取った。
「おい、なんだよこいつは。これが、本当に南蛮渡来かよ……どう見ても、そこらの安物に色付けただけだろうが」
呆れたように言ったのは、中村左内である。すると、呪道が口を尖らせた。
「へん、あんたなんかに南蛮渡来の何が分かるんだよ。商売の邪魔だよ、さっさと消えろ昼行灯」
「んだと……おめえ、お上に向かってその口の利き方はねえだろうが。調子に乗ってると、しょっぴいてやるぞ」
言いながら、左内は顔を近づけていく。とはいえ、本気で呪道をしょっぴくつもりではない。この男、仮にも龍牙会の大幹部である。下手に手を出したら、ただではすまない。
もっとも呪道も、自身の立場をかさに着るような真似はしない。彼は頭の切れる男である。同心の躱し方くらい、きちんと心得ている。
「まあまあ、とりあえずこれでも見て下さいよ」
言いながら左内に近づき、器を見せる呪道。と同時に、さりげなく袖の下に金子を入れる。
とたんに、左内の表情が一変する。
「ほう、なるほど! 近くでよく見ると、間違いなく南蛮渡来の品だな! いや、すまんすまん。こいつは、本当に見事なもんだ!」
「そうだろうが。おいみんな、この品は中村の旦那のお墨付きだぜ。さあ、買うなら今のうちだよ」
言いながら、呪道は皆を見回す。一方、左内はそそくさと去って行った。
呪道が龍牙会の大幹部であることを、左内はちゃんと知っている。しかし、左内が仕掛屋の元締であることを呪道は知らない。もっとも、その事実は仕掛屋以外の者は誰も知らないのだが。
したがって、二人の関係は奇妙なものであった。お高いに、相手が自分の裏の顔を知らないと思っている。ところが、左内は呪道の裏の顔を知りつつ、知らないふりをしている。一方、呪道は本当に左内の裏の顔を知らないのだ。
左内としては、二人の間に漂う奇妙な空気に戸惑うこともある。にもかかわらず、町で呪道を見かけると、ついつい絡んで行ってしまう。呪道は、話してみると面白いし不思議な魅力がある。
あるいは、この魅力こそが大幹部まで昇りつめた所以なのかもしれない。
・・・
村雲の大介は、夜道を独りで歩いていた。大介という名の通り、体の大きさは六尺(約百八十センチ)近い偉丈夫である。迫力のある風貌であり、荒事にも長けていた。
事実、彼は裏の世界でも知られた人物だ。龍牙会や仕掛屋とも付き合いがあり、いわば中堅所である。中堅とは言っても、皆から一目置かれる存在である。子分は少ないが、横の繋がりには侮れないものがあったのだ。
その時、大介は愛人の経営する小料理屋に顔を出した後、一人で帰り道を歩いていたのである。
「もし、村雲の大介さんですかい?」
後ろから、尋ねる声が聞こえてきた。大介はゆっくりと振り返る。
「だったらどうした。仕事の話なら、明日にしろ」
低い声で答える大介。彼はしたたかに酔っており、警戒心も薄れていた。もっとも、それ以前に大介を襲うような者などいない。
だが、それは甘い認識であった。
「だったら、死んでもらうぜ」
言葉の直後、何かが大介の体に突き刺さる。細長い鉄の棒だ。鋭く尖った針……いや、巨大な五寸釘のような何かが、彼の背後から心臓を貫いていた。
大介は、声も出せずにぱたりと倒れる。一方、手を下した者は無言で凶器を引き抜く。
そのまま振り返りもせず、立ち去って行った。




