愛憎無情 六
「ああ、そこそこ」
「ここか? ここがいいのか?」
「そうだよ、そこだよ」
長屋から聞こえてくる、男女の声。その言葉だけ聞くと、男女の情事の真っ最中だと思われるだろう。
だが実際には、六尺近い坊主頭のいかつい大男が、痩せた小柄な老婆の肩を揉んでいるのだ。
揉んでいるのは、言うまでもなく鉄である。自身の半分もないような目方の老婆に対し、実に見事な力加減で、肩周りの筋肉を揉みほぐし関節の凝りや疲れを取っている。その技術は、まさに匠のそれであった。
「おい婆さん、終わったぞ。これで大丈夫なはずだ」
言いながら、鉄は老婆の肩を叩く。すると老婆は立ち上がり、首を動かした。次いで、肩を動かした。
「すっかり良くなったよ。ありがと鉄さん」
「ああ、そうだろうよ」
「ところで鉄さん、お代は――」
言いながら、懐に手を入れる老婆。だが、鉄は首を振った。
「いいよ。あんたから金取る手間を考えたら、大根一本ですませた方がましだ」
「そうかい、助かるよう。ところで鉄さん、いい加減に嫁をもらったらどうなんだい? あんたも、もういい歳なんだからさ」
真顔で言ってくる老婆に、鉄は苦笑するしかなかった。
「わかったわかった。どっかにいい女がいたら、紹介してくれよ」
老婆が帰った後、鉄は畳の上で寝転がる。その時、またしても来客があった。
「ごめんよう」
不意に、戸口の方から声が聞こえてきた。明らかに、若い女のものだ……鉄はぱっと飛び起きた。
「おう、何の用だ?」
「鉄さん、ですよね? あたしは、お八って者です。是非とも、あなたに来ていただきたいんですよ」
障子戸の向こうから聞こえて来る声に、鉄は立ち上がり戸を開ける。
そこに立っていた女を見た瞬間、鉄は思わず感嘆の声を上げそうになった。肌の感じからして、若い女であるのは確かである。生まれつきの美貌と肉感的な体は素晴らしいものだ。
だが、それ以上に鉄を唸らせたのは、彼女の体からそこほかとなく香る不思議な色気であった。どこか謎めいた雰囲気と、数々の男を相手にして磨き抜かれてきた退廃的な色気……これは、普通の町娘に醸し出せるものではない。
仮に吉原の界隈にでも連れていけば、たちまち女衒たちが取り合いを始めるだろう。
「鉄さん、あんたの評判は聞いてますよ。そこで、一つお願いがあるんです。うちのおとっつぁんは、腰の具合が悪くて……是非とも、鉄さんに診てもらいたいんですよ。お代は、後のお楽しみということで」
言いながら、流し目をくれるお八。鉄は、しまりのない表情でうんうんと頷いた。
「あ、ああ。構わねえよ」
「じゃあ、付いて来てくださいな」
そう言うと、お八は歩き出した。鉄は、にやけた顔で後に続く。
さらに二人の後をつける者がいたが、お八は気づいていなかった。
鉄とお八の二人は町を外れ、林の中へと入って行く。やがて、一軒のあばら家の前に到着した。
と同時に、お八がにやりと笑う。
「悪いけどね、おとっつぁんなんていないんだよ。鉄、あんたも噂通りの馬鹿だねえ。こんな簡単に、ほいほい付いて来るとは思わなかったよ」
言葉の直後、あばら家の中から武三が姿を現す。続いて、達吉と清治も出てきた。
「命が惜しいなら、おとなしく言うことを聞きな。そうすりゃ、命だけは助けてやるよ」
くすりと笑うお八。武三は刀を抜き、巨体に似合わぬ素早い動きで、鉄の背後へと回る。
一方、清治と達吉は鉄の横側へと移動する。得物を手に、じりじりと近づいていく。
二人の顔には、険しい表情が浮かんでいる。四人がかりとはいえ、相手は名の知れた殺し屋である。しかも殺すわけではなく、生きたまま捕らえなくてはならないのだ。
だが、鉄の方は平然としていた。
「いいや、引っかかったのはお前らの方だよ」
言いながら、にやりと笑う鉄。と同時に、とぼけた声が響き渡る。
「おい、そこで何やってんだ?」
その瞬間、全員の顔が引きつった。木の陰からのっそりと現れたのは、なんと中村左内である。事情を知らない者から見れば、同心が皆を捕らえにきたように見えるであろう。
だが、左内の目的は違っていた。
「お前ら、これで勢揃いしたようだな。悪いが、死んでもらうぜ」
そう言うと、左内は刀を抜いた。
「お前……ただの同心じゃないね!」
怒鳴るお八に、左内はにやりと笑った。
「俺はな、仕掛屋の中村左内だよ」
その言葉に、いち早く反応したのは武三であった。大きな体に似合わぬ素早さで、左内へと斬りかかっていく。と同時に、隼人も姿を現す。
仕掛屋と、お八率いるはぐれ者たちの乱戦が始まった――
武三の鋭い打ち込みを、左内はかろうじて躱す。この男は、そこらの痩せ浪人とは違い剣の腕だけは本物だ。左内は間合いを離し、正眼に構える。
「まさか、同心が仕掛屋だったとはな……その構え、奥山新影流か」
言いながら、じりじりと横に回る武三。左内は、その動きをじっくりと目で追う。この男は、ただの浪人ではない。
二人は睨み合い、じりじりと動いていった。
そんな中、隼人は手近にいる若い達吉へと襲いかかる。その手から、鎖が放たれた。
鎖に付いた分銅が、銃弾のような速さで達吉の頭に命中する。その威力は、杉板にも穴を穿つほどだ。衝撃に耐えられず、達吉は脳震盪を起こし倒れた。
隼人は、一気に間合いを詰める。跳躍し、鎌を降り下ろした――
鎌に急所を突かれ、達吉は絶命した。
「くそが! ぶっ殺してやる!」
叫びながら、隼人に襲いかかったのは清治だ。彼は達吉と違い、裏の世界で長く生きてきた。修羅場の経験も豊富だし腕も立つ。
清治は長どすを構え、切りかかっていく。一撃で仕留めるのではなく、手足を切りつけて出血させ、失血による死亡を狙うやくざ剣法だ。
彼の太刀筋はまるきりでたらめなものだが、それだけに軌道を読みづらい。隼人は地面を転がり、攻撃を避ける。
だが、そこに手裏剣が飛んできた。手裏剣は隼人の頬をかすめ、地面に突き立つ。
「何やってんだい! さっさと殺しちまいな!」
怒鳴ると同時に、お八は手裏剣を投げる。隼人はぱっと飛び退き、立ち上がり鎖鎌で威嚇した。だが、清治は長どすをぶんぶん振っていく。さらに、お八も手裏剣を構え、隼人の背後に回ろうとした。
その時、草むらから現れた者がいた。
彼はお八の背後から、彼女の細首に腕を回す。お八は必死でもがくが、腕力が違いすぎた。動きを完全に封じられたお八の耳に、囁くような声がした。
「仕掛屋は甘ちゃんが多いからな。女を殺すのは、ためらう奴が多い。だから、あんたを殺す役は俺が引き受けたのさ」
言いながら、腕に力を入れた者……言うまでもなく鉄である。乱戦が始まると同時に、草むらに伏せていたのだ。彼は躊躇なく最後の一捻りを加え、一気に首をへし折った。
お八は、痛みすら感じる暇もなく絶命した。
その様に、一瞬ではあるが気を取られる清治。その時、隼人が攻勢に転じる。前転して間合いを詰め、地面から襲いかかった。
手にした鎌で、喉を切り裂く――
想定外の攻撃に、清治は呆然となった。喉から血を流しながら、それでも隼人に斬りかかろうとする。
だが、途中で力が抜けた。視界が薄れ、意識が遠のいていく……。
清治は膝を着き、その場に倒れた。
そんな二人の死に様を見た瞬間、武三の表情が一変した。
「お、お八いぃ!」
鬼のような形相で喚きながら、刀を振るい突進してきた武三。その勢いは凄まじく、さしもの左内も防戦一方だ。
だが不意に、武三の足に何かが巻きついた。直後、強い力で引っ張られる――
足を取られた武三は、耐えることが出来ず、うつ伏せに倒れた。言うまでもなく、隼人の放った鎖によるものだ。
その隙を逃すほど、左内は甘くない。転倒した武三めがけ、一気に刀を振り下ろした。
直後、左内の切っ先が頸動脈を切り裂く――
武三の首から、大量の血が吹き出る。その血は止めようがない。もはや、彼の命は尽きたも同然である。
それでも武三は、必死の形相でお八のそばに這って行く。大量の出血により意識は薄れ、体もほとんど動かない。だが、僅かに残された力を振り絞る。
「お、お八……」
死体となったお八に、武三は手を伸ばす。
彼の手が、お八の手に触れる。そこで、武三は息絶えた。
その様を、隼人はじっと眺めていた。
一方、倒れているお八を見下ろしているのは左内である。彼は、こんな女に見覚えなどない。だが、お八の方は自分たちを知っていたらしい。
いや、知っていたどころではない。お八は、仕掛屋に激しい恨みを抱いていた。そのため、関係ない人間が何人も死んだ。
彼女は仕掛屋に、どんな恨みがあったのだろうか……それは左内には分からないし、分かりたくもない。確かなことは、今回は相手が死に、自分たちが生き延びたという事実である。
いつかは自分たちが死に、相手に見下ろされる時が来るのだろう。それもまた、確かな話である。
・・・
その頃、質屋『大滝屋』では、妙な男たちが集まっていた。年齢も背格好もばらばらではあるが、彼らには共通する部分が一つある。全員、堅気ではない雰囲気を漂わせていた。
「いいか、お前ら。明日から仕事にかかるぞ」
そう言ったのは、店の主人である質屋の秀次だ。
「龍牙会に、俺たちで引導を渡してやろうぜ」




