愛憎無情 五
武三は、外で木刀を振るっていた。
今は寅の刻(午前四時前後)だろうか。辺りはまだ暗く、人の気配はない。もっとも、彼の住みかは町外れの林にあるあばら家だ。そんな場所を、わざわざ好き好んで訪れるような物好きはいない。
だが仮にそんな物好きがいたとしたら、そこにいる武三の鬼気迫る表情には圧倒されることだろう。事実、彼は鬼のごとき形相で木刀を振るっていた。
武三には分かっている。己が色欲の前に屈し、お八という女の手駒となってしまったことを。
本音を言えば、武三はお八が憎い。出来ることなら、今すぐ切り捨ててやりたかった。お八とさえ出会わなければ、武三は人殺しに身を堕とすこともなかったのに……。
だが、彼にはそれが出来ない。お八を憎みながらも、彼女を斬ることは出来ない。
もし、お八が死んでしまえば……その時は、武三も生きてはいられないであろう。これは、世間でいう恋だの愛だのといったものとは明らかに違う。
では、いったい何なのだろうか。
「暗いうちから、精が出るねえ」
からかうような声が聞こえ、武三は振り返った。そこには、けだるそうな雰囲気のお八がいた。あばら家の戸口にて、一糸まとわぬ姿で壁に寄りかかり、武三をじっと見ている。
「何を考えている。さっさと着物を着ろ。誰かに見られたらどうする」
ぶっきらぼうな口調で言うと、武三は目を逸らした。これまでに幾度となく味わっているはずの、お八の肉体……だが、未だに飽きるという感覚がないのだ。これが俗に言う「体の相性」というものなのであろうか?
もっとも、武三はお八以外の女体を知らなかった。ひょっとしたら、ただ単純に、自分が異常な女好きであるだけなのかもしれないのだが。
いずれにしても、今の武三には……お八のいない生活など考えられなかった。
「まあ、好きなだけ稽古しなよ。その腕で、鉄の奴を殺してもらうから」
お八の言葉に、武三は木刀を振る手を止めた。
「鉄を殺すのか? 生きたまま捕らえて、元締の情報を吐かせるだけではなかったのか?」
「殺すに決まってるじゃないか。あたしの目的は、仕掛屋を潰すことだよ……鉄だけじゃない。竹細工師の市にも死んでもらう。それに元締の奴にもね」
「だが、鉄には元締の名前を吐かせるのであろう? 名前を吐かせた挙げ句に殺すというのは、外道の所業ではないのか?」
武三がそう言うと、お八の表情が硬くなった。
「はん、外道だって? 今さら何を言ってるんだい。人斬りのあんたにゃ、言われたくないんだよ」
お八の言葉は、針のように心を刺した。武三は表情を変え、お八を睨む。
だが、お八に怯む気配はない。
「何よ? なんか文句でもあるのかい? だったら、はっきり言ってみなよ」
言いながら、挑発的な目を向けるお八。その美しい瞳は語っていた。
お前には、あたしを殺すことは出来ない……と。
ぎりり、と奥歯を噛みしめる武三。次の瞬間に木刀を投げ捨て、お八を押し倒す。
荒々しく、お八の肉体をむさぼる武三。だが、お八の表情は冷めている。
・・・
満願神社には、今日も隼人たちが来ていた。沙羅も、ようやく芸をやる気になったらしい。久しぶりに出ている。
さらに今日も、小吉が客引きとして活躍していた。
「よう、そこのお姉さん! 見ていきなよ!」
言いながら、小吉は道行く人たちの手を引っ張る。
そんな二人を、沙羅はやや離れた位置から見ている。彼女はまだ芸をやる気にはなれず、今日は荷物の見張り番であった。
小吉が、大げさな身ぶり手ぶりで通行人たちを引っ張って来る。本当に見事なものだ。沙羅は微笑みながら、その様子を見ていた。
「お前、何をやってんだ」
不意に背後から声をかけられ、彼女は振り返る。
背が高くしなやかな体つきの青年が、沙羅を見下ろしている。
彼は竹細工師の市だ。こんな所に顔を出すとは珍しい。
「あら、市さん。久しぶりね」
沙羅は立ち上がり、市に挨拶をする。だが、市は視線を外した。
「あいつら、何をやってんだ?」
彼が言っているのは、隼人と小吉のことだった。ここから五間(約九メートル)ほど離れた場所で、観客たちを前にして手裏剣を投げている。ただし、逆立ちした体勢からだが。
「いつもと同じですよ。大道芸です」
「そうかい」
言いながら、市は再び沙羅へと視線を戻す。
「ちょっと聞いてもいいか?」
「えっ、何をですか」
きょとんとする沙羅に、市はちらりと周りを見た。
「あの……龍牙会の死門だが、お前の兄貴だって本当なのか?」
その言葉に、沙羅の表情が暗くなる。視線を落とし、地面を見つめた。
市は思わず舌打ちした。彼女の態度に腹を立てたのではない。自分に腹を立てたのだ。
「すまねえな。言いたくねえなら、言わなくていい」
「いえ、違うんです。私は、あの人は兄だと思っています。でも、あの人は違うと言いました。私は、どうすればいいのか分からないんですよ」
言いながら、沙羅は力なく笑った。
「そうかい。一つ忠告しとくがな、龍牙会には関わらないようにしとけよ。あんたも色々と思うところはあるだろうが、下手に深入りすると命取りだぜ」
その言葉に、沙羅は笑みを浮かべた。
「心配してくれてるんですね……ありがとうございます」
「別に心配なんかしてねえよ」
市は口元を歪め、ちらりと隼人を見る。煽り立てる小吉の隣で、隼人はぴょんぴょん飛び跳ねていた。沙羅のことは見ようともしていない。
「あいつら、何やってんだろうな……」
呆れたような口調の市に、沙羅も笑いながら頷く。
「本当ですよね。あの人は、子供みたいなんですよ」
言いながら、沙羅は隼人を見つめる。その瞳には、優しい光があった。市は柄にもなく戸惑い、ぷいと横を向く。
その時、離れた場所からこちらを見ている者の存在に気づいた。険しい表情を浮かべつつ、市に目で合図を送る。
「八丁堀の奴、何の用だよ……」
低い声で市は呟いた。そう、こちらを見ているのは中村左内であった。さりげない表情で、こちらに目配せをしている。間違いなく裏稼業の話だろう。
市は左内から目を逸らし、すたすたと歩き出した。左内とは目を合わせることなく、彼に近づいていく。
目は隼人たちの方に向けつつ、小声で呟くように言った。
「八丁堀、何か用か?」
「実はな、ちょいと面倒なことになった。仕掛屋を狙ってる奴がいる」
こちらを見ようともせずに、左内は言葉を返した。
「狙ってる? どこの馬鹿だよ」
「それがな、若い女らしいんだ」
左内の言葉に、市は思わずため息を吐いた。何者かは知らないが、その女を待っているのは死である。
「そいつはどこにいるんだ? 金さえ払えば、俺が殺してやる」
「いいや、今回は只働きだよ。誰も金払ってくれねえんだからな 」
その言葉を聞き、市は頭を抱えた。さりげなく上を向き、低い声で答える。
「八丁堀、悪いが俺は降りるぜ。金にならねえ仕事は御免だ」
「そう言うだろうと思ったよ。好きにしろ」
「ああ、させてもらう。それよりも、おめえも元締だったら、自腹切って俺たちを雇うくらいのことをしろ。今回の場合、仕掛屋の敵なんだからよ……俺たちを雇っても、問題ないだろうが」
「馬鹿野郎、そんな銭があるわけないだろ。こちとら家庭持ちだぜ。かかあとばばあに、けつの毛までむしられる運命なんだよ」
「んなこと知るか。そんなに嫌なら、とっとと別れちまえよ」
言いながら、市は話を切り上げるため立ち去ろうとした。
しかし足を止める。
「そういえば八丁堀、こないだ叔父貴が家に来たんだがな、妙なことを言ってたぜ」
「叔父貴ってえと、質屋の秀次か?」
十手をいじりつつ、左内は言葉を返した。左内も、秀次の名は知っている。というより、裏稼業にて秀次を知らない者などいないであろう。
「そうだよ。叔父貴の奴、俺は仕掛屋とは仲良くしていきたい……とか何とか言ってたな」
「仲良く? そりゃ、どういう意味だ?」
左内は眉間に皺を寄せた。質屋の秀次といえば、裏の世界でも大物である。その大物に仲良くしたいと言われるのは、ありがたい話ではある。
もっとも、仕掛屋さんとは仲良くしたい……という言葉の裏には、仲良くしたくない何者かがいるということではないのか。
となると、それは何者だろう。
「さあな。俺には、奴の考えてることなんか分からねえよ。とりあえず俺たちに害がないなら、それでいいじゃねえか」
そう言うと、市はさりげなく左内に近づき、脇を通って去っていく。
「じゃあな。たまには、金になる話を持ってきてくれよ」
その日の夜。
市を除く仕掛屋の面々は、隼人たちの住みかである廃寺へと集合していた。
「その、お八ってのはなあ……どうやら、仕掛屋を狙っているらしいんだよ。しかも傍らには、武三とかいう用心棒が付いてる。それだけじゃねえ、近ごろでは鉄のことを調べているって話だ」
そこで、左内は皆の顔を見つめる。
「じゃあ、次は俺を狙ってくるってわけか」
面倒くさそうな様子で、鉄が言葉を返した。自分が狙われているというのに、怯えている様子がまるでない。
「そうだ。そこでだ、ちょいと考えたんだよ。鉄をおとりに使い、そいつらを誘き寄せ全員殺す……ってのはどうだ?」
「考えた、ってほどの案かよ。まあ、手っ取り早い方法だけどな。俺は構わないんだが……」
言いながら、鉄はちらりと隼人を見た。
「おめえはどうすんだ、隼人?」
「仕掛屋の危機だったら、やらない訳にはいかないだろう」
即答する隼人だったが、小吉は渋い表情だ。
「ちょっと待ってよ。銭はどうなってんの?」
尋ねる小吉に、答えたのは左内だった。
「銭だと? こいつは仕事じゃねえんだ。出るわけないだろう」
「ええっ? じゃあ、ただ働きなの?」
「当たり前だ。こいつは仕掛屋の危機なんだぞ。銭金抜きでやるのが当然だろうが。なあ隼人?」
左内が隼人に振ると、隼人は神妙な面持ちで大きく頷いた。
「もちろんだ。仕掛屋の危機は、俺たちみんなの危機でもある。黙って見過ごすわけにはいかない」
「ほれみろ。お前もな、少しは隼人を見習え」
言いながら、左内は小吉の頭をこづいた。
「もう、いてえなあ……分かったよ」
不満そうな顔をしながらも、小吉は頷いた。
「よし、今回は俺たちだけでやるからな。まずは情報集めだ」




