愛憎無情 一
夜の江戸は、昼間の喧騒が幻であったかのように静まりかえっている。
普通の市民なら、今は眠っている時間帯である。こんな時間に活動しているのは、大抵の場合まともな人間ではない。
今、提灯を片手に歩いている女もまた、まともな人間ではなかった。
「ねえ、遊んでかない?」
ふらふら歩いていた町人風の男に、不意に声をかけてきた女がいた。見れば、まだ若い上に可愛らしい顔だ。やや短い丈の着物を身にまとい、上目使いでこちらを見ている。
この男、先ほどまで酒場で飲んでいた。したたかに酔っており、店を閉めるからと言われて連れ出されたものの、酔いは醒めていない。今夜は博打で大勝ちし、いつになく機嫌も良い。
そんな時だけに、警戒心が緩んでいた。しかも、見れば可愛らしい娘である。ならば、次はこの女と遊ぶのも一興だ。
「おう、俺は構わねえぞ」
男は、鼻の下を伸ばして付いて行った。
その先に、何が待つのか知らぬまま……。
・・・
「おい、何だこりゃあ」
中村左内のいかにも面倒くさそうな声に、源四郎は顔をしかめながら答える。
「旦那、ちっとはやる気を出してくださいな。見りゃ分かるでしょうが……殺しですよ」
「いや、殺しは分かるんだがな……こいつは、こんな場所で何をやってたんだろうな」
「それも、見りゃ分かるでしょうが。なにですよ」
呆れたような源四郎の声。左内は思わず苦笑した。
「まあ、そうだろうな。なにだよな」
そう言った後、左内は周囲を見回す。野次馬が集まり、げらげら笑いながら死体を指差している。
だが、それも当然であろう。死体は全裸で、しかも口を開けたまま死んでいるのだから。
「おい源四郎、あいつら追っ払え。仮にも人が死んでるんだ。見世物じゃねえんだぞ」
言いながら、左内は死体を確認してみた。外傷は無い。となると、酔っぱらった挙げ句に外で夜鷹でも買い、事が済んだ後に裸で寝ていて命を落としたのだろう。着物や金などは、通りすがりの連中に奪われたか。もっとも外で寝ていれば、どんな目に遭わされても文句は言えないが。
まあ、それはいい。この死体、一つだけ気になる点がある。
「なあ源四郎、この仏は島帰りらしいな。何をやったんだ?」
野次馬を追っ払った源四郎に、左内は尋ねた。そう、この男の腕には島帰りの証である二本線の刺青があった。となると、かつて罪を犯したということになるのだが……いったい何をしたのだろうか。
左内としては、些細な疑問のつもりで何気なく発した言葉であった。
しかし、源四郎の表情が歪む。
「それがですね、こいつはしようもない奴だったらしんですよ。名前は吉太郎ってんですがね、あっちこっちでほらを吹きまくり、挙げ句に盗みをやらかして島送りになったとか。やくざにもなれない半端者でさあ」
「嘘つきは泥棒の始まり、ってか。よくある話だな」
そう言って、左内は十手で死体をつつく。島帰りのお調子者が、酔っぱらった挙げ句に裸で寝ていて死んだ……珍しくもない話である。
だが、源四郎はそうは思っていないらしい。
「旦那……あっしも一つ、気になることがあるんでさあ」
「ん、何だよ?」
怪訝な表情を浮かべる左内に、源四郎は顔を近づけて来た。
「実はですね、この吉太郎の奴は、あちこちで吹きまくってたらしいんですよ……自分は仕掛屋だ、と」
「はあ? 俺はこんな奴知らねえよ」
左内は思わず顔をしかめる。言うまでもなく、こんな男を仲間にした覚えはない。
「ええ、もちろんでさあ。旦那が、こんな奴を仲間に入れるはずは無い……そいつは、あっしが一番よく知っています。ただね、こいつがあちこちで仕掛屋の一員だと吹いていたのは確かです」
「はあ? いったい何のためだよ?」
首を捻る左内。
「決まってるじゃないですか。仕掛屋は、あの龍牙会ですら一目置く組織ってことになってるんですよ。そんな仕掛屋の一員てことになれば、裏の連中の見る目も変わりますから」
その言葉に、左内は顔をしかめる。
「おい、まさか仕掛屋の名をあちこちで吹聴したため殺された……なんて話じゃないよな?」
「いや、そこまで大きな話じゃないと思いますよ」
・・・
その頃、現物の鉄は小吉と二人、家で酒を飲んでいた。
「いやあ鉄さん、昨日は吉原で遊んだよ……おかげで、すっからかんだけど」
小吉がそんなことを言ったとたん、鉄の表情が険しくなる。
直後、鉄は彼の頭をぽかりと叩いた。
「いてえよ鉄さん! いきなり何すんの?」
頭をさすり、抗議する小吉。
「馬鹿野郎! 吉原に行くなら、何で俺を誘わないんだ!」
「だってさあ、鉄さんを連れてったら洒落になんないじゃん」
「何が洒落にならないんだよ?」
「だってさ、鉄さん文無しだろ。そうなると、俺が金出さなきゃならないじゃんよう」
「それくらい出しても、罰は当たらねえだろうが。いつも俺に世話になってんだからよ」
言いながら、鉄は塩をふった胡瓜をかじる。
「ったく、お前と面突き合わせて胡瓜なんか食ってるとはな……俺は、自分が惨めで仕方ねえよ。ああ貧乏はやだやだ」
愚痴る鉄。その時、入り口の障子戸の前に人影が見えた。何者かが立っているらしい。
「鉄さん、隼人だ。入っていいかな?」
「隼人?」
鉄は首を傾げた。隼人がわざわざ訪ねて来るとは珍しい。いったい何事だろうか。
「おう、入れ」
鉄が返事をすると、障子戸が開く。堅い表情の隼人が、ためらいながらも入って来た。
「よう隼人、何しに来たんだよ?」
軽い口調で、小吉が話しかける。すると、隼人はもじもじしながら口を開く。
「て、鉄さん、あんたは龍牙会に顔が利くんだろ?」
「はあ? 顔が利く、ってほどでもねえが、一応は知り合いも多いけどな。それがどうかしたか?」
「あの……しもん、ってどんな奴だ?」
その言葉を聞いた時、鉄の表情が歪んだ。これは厄介なことになってきたぞ……彼の勘が、そう告げている。
「死門、か。一応は知ってるけどな、あいつは龍牙会の元締・お勢の用心棒だぞ。下手に関わると殺られるぜ」
鉄の表情は、いつになく堅い。だが、それも当然だろう。既に呪道より、彼らの事情を聞いている。
確かに、鉄は龍牙会の面々から一目置かれる存在ではある。しかし同時に、己の分をわきまえている男でもある。龍牙会の決め事に対し、横から口を出したりはしない。
ましてや、死門に関することとなると……はっきり言って、関わりたくはなかった。
「じゃあ、その死門て奴と会えないかな?」
鉄の思いとは裏腹に、そんな言葉を吐く隼人。だが、鉄は首を横に振った。
「お前の事情は分かっている。だがな、奴とは関わるな」
「なぜだ?」
「前にも言ったがな、龍牙会は仕掛屋とは違うんだよ。奴らの掟は、鋼よりも硬く厳しいんだ。その掟を破ったら、死門に処刑されるんだよ」
「それとこれと、何の関係がある?」
真剣な表情の隼人に、鉄は頭を掻きながらため息を吐く。こいつは、どこまで世間知らずなのだろう。
「いいか、死門は仕事柄、お勢のそばを離れられねえ。あいつが一人になれる時間なんて、ほとんどありゃしねえんだ。お前が頼んだからって、あちこち勝手に出歩けるような人間じゃねえんだよ」
「そこを、何とかならないだろうか……」
申し訳なさそうな顔で、隼人は頭を下げる。だが、鉄の態度はにべもない。
「ならねえ。だいたい、俺はあんな奴とは話したくもねえんだよ。いい加減、死門のことは忘れろ。でないと、お前ら龍牙会から狙われることになるぞ」
「しかし、沙羅がな……」
そう言った後、隼人は言いにくそうにうつむいた。すると、小吉が心配そうな表情で声をかける。
「おい隼人、沙羅ちゃん大丈夫なのか?」
「いや、芸に身が入らなくてな。あれじゃあ、人前で芸は出来ない」
「そうか……なら、俺が手伝おうか?」
真顔で、そんなことを言う小吉。すると、隼人の表情が明るくなった。
「えっ、いいのか?」
「ああ、構わないよ。お前らには世話になったからさ、俺に出来ることなら手伝うぜ」
・・・
「あんた、仕掛屋と知り合いなんだって?」
仕事の帰りに、夜道を一人で歩いていた猪之吉。そんな彼に、いきなり声をかけた者がいる。誰かと思い振り返ると、そこには女が立っていた。まだ若いが、綺麗な顔立ちだ。着物越しではあるが、体つきもなかなかのものに見える。
「おう、そうだよ。俺はな、仕掛屋の一員だよ。で、何か用かい?」
にやにやしながら、猪之吉は尋ねた。すると、女は上目遣いで彼の裾を引っ張る。
「あんた、噂の仕掛屋なんだあ……あたし、いろいろと聞かせてもらいたいことがあるんだよね」
言いながら、女は手招きする。猪之吉は鼻の下を伸ばしながら、女の後を付いて行った。
「こいつも、違うみたいだよ。ったく、男って奴は……何で、こんなつまらない嘘を吐くのかねえ」
町外れのあばら家……その中では、先ほどの女がぶつぶつ言いながら、全裸の猪之吉を蹴飛ばす。
だが、猪之吉は倒れたきり何の反応もしない。
「ったく、どいつもこいつも嘘吐きばっかりだ……仕掛屋ってのは、どこにいるんだよう」
憎々しげな表情で言いながら、女はなおも猪之吉を蹴飛ばす。しかし、猪之吉は何の反応もしない。
だが、それも当然だろう。何せ、彼は既に死んでいるのだから。傍らには、猪之吉の着ていた服や持ち物が置かれている。言うまでもなく、お八は全てをいただくつもりなのだが。
「おい、お八。こんなことを続けていたら、いずれ奉行所の役人に目を付けられるかもしれんぞ」
そう言ったのは、険しい顔つきの男である。野武士のような荒々しい風貌であり、体つきも逞しい。大小二本の刀を腰に差しているところから見るに、侍のようだが……身にまとっている着物はぼろぼろだ。
全体的にみすぼらしい雰囲気ではあるが、着物から覗く腕は太く逞しい。数々の修羅場を潜っていることは、鋭い面構えからも窺える。
「んなこと、言われなくても分かってるよ! あんたは黙って、あたしの指示に従ってりゃいいんだよ!」
そう言った後、お八は虚空を睨む。そこに、憎い仇がいるかのように。
「仕掛屋……絶対に潰してやるよ。お父ちゃんたちを殺した罪を、あたしが償わせてやる」




