冤罪無情 六
中村左内と山田弥右衛門は、じっと睨み合った。
やがて、弥右衛門が口を開く。
「中村さん、あなたに話がある。ちょっと来てもらえないか」
乾ききった声だ。その顔には、ひとかけらの感情も浮かんでいない。何を考えているのか、表情からは窺い知れなかった。
左内は、そんな弥右衛門をじっと睨み付ける。
少しの間を置き、ゆっくりと尋ねた。
「話とは、いったい何でしょう?」
「あなたには、分かっているはずだ。それとも、今ここではっきりさせるか? あなたも私も武士だ。立ち合いたいというなら、異存はあるまい」
そう言うと、弥右衛門は腰の刀に手を伸ばす。
顔色を変え、十手を構える源四郎。だが、左内がそれを制した。
「源四郎、お前は番屋に行ってろ」
「で、でも――」
「いいから行ってろ。この方は、俺に話があると言ってるんだ」
左内の有無を言わさぬ態度に、源四郎は仕方なく頷く。
それを見た後、左内は弥右衛門の方を向いた。
「では、参りましょう」
「あのう、ここは?」
戸惑う左内。彼が連れて来られたのは、なんと武家屋敷である。あまり手入れが行き届いてはいないが、それでも屋敷の外観は立派なものである。さぞかし名のある家だったのだろう……昔は。
「ここは、俺の家だ。大したもてなしも出来ないが、まあ入ってくれ」
そう言うと、弥右衛門は家に入って行く。左内は首を傾げながら、その後に続いた。
屋敷に入ると、左内の困惑はさらに大きくなる。
通された部屋は、六畳ほどの広さの殺風景なものであった。家具などは一切なく、畳が敷かれ座布団があるだけ。壁は汚れており、四隅にはほこりが見える。掃除がきちんと出来ていないのは一目瞭然であった。
さらに弥右衛門がもう一つのふすまを開けると、薄暗い部屋に布団が敷かれていた。
「はな、客人が来た。つらいだろうが、挨拶だけでもしてくれ」
その言葉に、布団から上体を上げて会釈した女がいる。年齢は若く、まだ二十代であろう。医学に関しては素人である左内の目にも、病に冒されているのが分かる顔色だ。
だが、女はよろよろしながら立ち上がった。壁に手をつき体を支えながら、こちらに歩いてくる。
その時、弥右衛門がすっと立ち上がった。女の体を支えつつ、一緒にゆっくりと歩く。
女は左内の前にて正座し、深々と頭を下げる。
「はじめまして、山田はなです。いつも、主人がお世話になっております」
かしこまった態度に、左内は頭を掻いた。お世話などしていない。そもそも、弥右衛門は北町で左内は南町である。表稼業に関して言うなら、二人は全く無関係なのだ。
だが、はなはそんな事情など知るはずもない。左内を見つめ、にこにこしながら話しかけてくる。
「中村さま、うちの主人の仕事ぶりはどうでしょうか?」
「えっ、どうと言われましても……」
困惑する左内。すると、見かねた弥右衛門が助け船を出した。
「はな、奉行所の役目は複雑なのだ。しかも職務上、家族であっても言えぬことが多々ある。中村さんを困らせるな」
「あ、そうでしたね。ごめんなさい」
はなは、ぺこりと頭を下げた。弥右衛門は照れくさそうに咳払いし、左内の方を向く。
「中村さん、外で一杯やらないか?」
「えっ? ああ、そうですね」
左内が答えると、弥右衛門ははなの方を向いた。
「はな、俺は中村さんと大事な話がある。それが終わったら、すぐに戻るからな。無理せず、おとなしく待っているのだぞ」
「まあ、そうですの……でも、こんなに早くから帰って来て大丈夫ですか?」
訝しげな表情で尋ねるはなに、弥右衛門は笑ってみせる。
「ははは、大丈夫だ。こう見えても、俺は上役から期待されているのだよ。実際に、これまで手柄を立てているからな。多少は多めに見てもらえるのだ」
二人は表に出た。すると、弥右衛門が鋭い目つきで辺りを見回す。
誰も見ていないことを確かめると、左内の手に一枚の小判を握らせる。
「いいか、つまらんことを考えるな。今やっていることから手を引け。でなければ、お前を潰す」
弥右衛門の声には、あからさまな敵意がこもっている。だが、左内は無言のまま、じっと彼を見つめた。
その反応に、弥右衛門は苛立ったらしい。表情を歪め、再び口を開く。
「お前が下手な詮索をすれば、自分の首を絞めるだけなのだぞ。分かっているのか?」
「ってことは、詮索されちゃまずい事情があるってことですな」
左内の言葉に、弥右衛門の表情が険しくなった。
「お前も、分かっているはずだ……奉行所がどんな所なのか。北町も南町も腐りきっている。それでも、俺は同心を続けなくてはならん」
「何のためですか……って、まあ聞くまでもないですな。奥方様のためですね」
左内の言葉に、弥右衛門の表情が歪んだ。
「あいつは、もう長くないだろう。俺は今まで、はなに迷惑ばかりかけてきた。はなが生きているうちは、俺は同心でいなくてはならんのだ」
「なるほど。そのためなら、罪なき者を打ち首にするのも構わない……というわけですか」
冷たい口調で、左内は言い放った。すると、弥右衛門が低い声で唸った。
「何だと……」
険しい表情で、刀の柄に手を伸ばす弥右衛門。だが、左内はへらへら笑いながら両手を前に出す。
「まあまあ、そんなに怒らないでください。私は、この件を公にするつもりはありませんから」
「本当か?」
「ええ。はっきり言って、私ごときが騒いだところで何もなりませんから。それは、あなたもご存知でしょう」
そう言うと、左内は自嘲の笑みを浮かべる。
だが、その表情が一変した。
「ただ、一つだけお聞かせ願いたいのです。あなたは先ほど、奉行所が腐っていると仰っていましたね。では、あなたのしたことは何でしょうね? 無実の人間を打ち首にする……それはまさに外道の所業、下衆の極みかと私は思います。そんなあなたに、奉行所を批判する資格などありませんね」
「お前……もう一度言ってみろ!」
怒りを露にし、左内に迫る弥右衛門。だが、左内は平然としている。
「ここで揉め事を起こす気ですか? そんなことをしても、誰も得はしませんよ。損得勘定すら、出来なくなりましたか?」
左内の言葉に、弥右衛門はぎりりと奥歯を噛みしめる。
だが、左内はすました表情で語り続けた。
「奉行所に絶望したのなら、さっさと辞めるべきでした。ところが、あなたは中途半端な正義感を捨てきれず……さりとて、同心の職を投げうつことも出来ない。その結果、今の状態を招いた。あなたは、実に臆病な人ですね」
「お前、俺を愚弄する気か……」
低い声で迫る弥右衛門。その体は、わなわなと震えている。
だが左内は、なだめるように両手を前に出した。
「お気に障ったのでしたら、あやまりますよ。ただね、あなたを見ていると他人に思えないんですよ」
左内は、静かな口調で語った。その瞳には、穏やかな光が宿っている。弥右衛門は舌打ちしたが、それ以上は近づこうとはしなかった。
そんな弥右衛門に、左内は語り続ける。
「私はかつて、上司に楯突いたために出世できなくなりました。今では、南町の昼行灯と呼ばれています。もはや、出世は諦めておりますよ。あなたも、北町の木偶の坊と呼ばれているそうですね」
「……それがどうした」
「あなたは、病気の奥方のために手柄を立てなくてはならない。結果、罪のない男を獄門へと送ることになった。しかも、それにより筧屋が得をする……まさに、一挙両得ですな。ただ、私にあなたを責める気はありません。あなたの気持ちは分かりますから」
そう、左内と弥右衛門は立場こそ違うが、どこか似ている。片や南町の昼行灯、片や北町の木偶の坊。どちらも奉行所の腐敗ぶりに幻滅し、やる気を失ってしまった。
「先ほども言いましたが、私はこの件には関わりません。後は、ご自由に……私は、これで失礼します」
そう言うと、左内は向きを変え歩き出した。すると、後ろから声がする。
「その言葉に、偽りはないのだな? 本当に関わらないのだな?」
左内は立ち止まり、振り向いてにっこり笑う。
「ええ。南町の定町回り同心・中村左内は、この件はもう詮索しませんから……ご安心ください」
・・・
その頃、鉄は仏頂面で江戸の街を歩いていた。どうにも景気が良くない。飲む打つ買うに金を費やした結果、懐には一文もない状態である。
この懐の寒さを、どう解消したものか……などと考えていた時、不意に背後から近づいて来た者がいる。
「鉄さん、待ってくれよ」
呪道の声だ。鉄は、面倒くさそうに振り返る。
「何だ呪道」
「ちょっと来てくれ。話があるんだよ」
そう言うと、呪道は鉄の着物の袖を掴み引っ張って行く。
ひとけの無い場所に来るなり、呪道は渋い表情で首を振った。
「おい鉄さん、あんたは面倒なことに首突っ込んじまったな」
「何だよ」
「あんたの言ってた山田弥右衛門だがな、奴は奉行所の始末屋だ」
その言葉に、鉄は顔をしかめる。
「始末屋だと? 何だそりゃあ?」
「山田は、上役の菅田信三郎とつるんでやがる。この菅田ってのは、名のある商人たちに便宜をはかってるのさ。龍牙会でも、たまに名前を聞く奴さ」
訳知り顔で語る呪道。だが、鉄は首を捻る。
「その菅田と、この件はどんな関係があるんだ?」
「つまり、筧屋の息子があちこちで悪さをした。初めは、菅田が庇っていたが……だんだん庇いきれなくなってきた。そこで動いたのが山田さ。山田が、筧屋の息子に似た奴を下手人に仕立て上げたって訳さ。要は、菅田の後始末をする役目なんだよ」
「なるほどな……となると、今回の獲物は菅田と山田、そして筧屋の親子って訳かい。面白くなってきたねえ」
いかにも嬉しそうに、鉄は笑みを浮かべた。




