冤罪無情 四
「婿どの……あなたは最近、ちっとも手柄を立てていませんね。大丈夫なのですか?」
朝食を食べていた中村左内に、義母のいとが嫌味を言ってきた。
「しかし母上、私のお役目が暇だということは、世の中が平和である証です。平和なのは、いいことではありませんか」
「どうでしょうねえ……お隣の滝田さんなどは、先日大黒屋で盗みをしていた盗賊を捕えたそうですよ」
今度は、妻のきぬからの口撃である。さすがに二人がかりでは、左内もたまらない。
こうなっては、下手に言い返しては薮蛇である。左内は下を向き、黙ったまま飯を食べた。
その後、左内は町を見回る。今日もまた、江戸は平和であるらしい。いいことだ……などと考えていた時、目明かしの源四郎が神妙な面持ちで近づいて来た。
「よう源四郎。不景気な面して、何かあったのか?」
気楽な口調で、左内は声をかける。だが、源四郎の表情は暗い。
「旦那、ちょっと話があります。来てください」
「おい、半平の件ならお断りだぜ」
「いいえ、仕事ですよ」
源四郎の表情は、真剣そのものであった。左内は首を傾げながらも、源四郎の後を付いて行く。仕事とは、言うまでもなく裏の方であろう。
ひとけの無い河原に来た二人。源四郎は懐から小判を取り出し、左内に手渡した。
全部で五枚だ。
「五両か……これじゃ、市の奴は引き受けねえぞ。で、的はどいつだ?」
「分かりません」
「はあ? 分からねえって、どういうことだよ?」
困惑する左内に、源四郎は顔を近づける。
「依頼人は、大工の半平です。吉蔵を殺った辻斬りが、今回の的ですよ」
「近いんだよ、お前は……それにしても、まいったなあ」
なおも顔を近づけて来る源四郎を、左内は無理やり押しのける。これは、非常に厄介な仕事だ。どこの誰かも分からない辻斬りを探しだし、仕留めなくてはならないのだから。
「とにかく、この金は旦那に預けますよ。あっしは、もう少し調べてみますから……」
「分かったよ。俺の方も、それとなく探ってみる」
・・・
「おい、大丈夫なのか?」
尋ねる隼人に、沙羅はぼんやりした表情で頷いた。
「えっ? うん、大丈夫だよ」
大丈夫、などと口では言っているが、心ここにあらずという表情だ。これでは、大道芸など出来ないだろう。手裏剣など投げようものなら、今の沙羅では受けきれまい。
二人は今、住みかにしている廃寺にいる。朝飯を食べているのだが、沙羅は昨日から呆けたような表情のままだ。顔色にも、今ひとつ覇気が感じられない。犬の白助も、心配そうに彼女の顔を見ている。
隼人はため息を吐き、沙羅の肩を叩く。
「今日はやめにしよう」
「えっ? そんな――」
「今のお前には、芸は出来ない。悩みがあるなら、気がすむまで話せ。俺で良ければ聞くよ」
「あの人は、私の兄よ。間違いない」
きっぱりとした口調で、沙羅は言った。
「そうか。だがな、あの男は違うと言っていたぞ」
隼人の口調は、あくまでも穏やかなものであった。
「じゃあ、私が嘘を言っているというの? 私は嘘なんか吐いてない!」
沙羅は彼女にしては珍しく、激昂した様子で怒鳴りつけた。すると、隼人はうんうんと頷いた。
「お前は嘘を吐く人間じゃない。それは、俺が一番よく知っている。嘘を吐いているのは、間違いなく死門の方だろうな」
「えっ……」
あっさりと引いてしまった隼人に、戸惑う沙羅。一方、隼人は神妙な面持ちである。
「だが、お前の兄にも事情があるのだろう。まずは様子見だ。あの男は今、龍牙会の元締であるお勢の用心棒をしている。そのため、下手に動けないのかもしれん」
諭すような表情で、隼人は語る。その落ち着いた態度が、沙羅にも伝染していく。彼女の表情も、少しずつ和んだものになってきていた。
「とにかく、今は向こうの出方を窺うとしよう。焦ったところで、死門の考えを変えることは出来ないだろう。いつかは、分かってもらえる時が来るさ」
そう言って、隼人は微笑んだ。さらに、白助も恐る恐る近づいて来て、鼻を鳴らしながら沙羅の顔を見上げる。犬は犬なりに、心配していたのだろう。
沙羅はくすりと笑い、白助の頭を撫でる。
「ありがとう、白助」
その言葉に、白助はくんくん鳴きながら彼女の手をなめる。大丈夫? とでも言いたげな様子だ。
沙羅は微笑みながら、白助を優しく撫でる。ようやく、いつもの彼女に戻ったらしい。
その光景を見て、隼人はほっとした。沙羅は一見するとか弱い女だが、芯は非常に強い。切支丹は凄まじい弾圧を受けているというのに、信仰を捨て去らないのも……彼女の持つ強さゆえ、であろう。
そんな隼人の思いを知ってか知らずか、沙羅は胸の前で手を組んだ。小声でぶつぶつと、呟くように何か言っている。神に祈りを捧げているのであろう。邪魔をしてはいけない……隼人は白助を抱き抱え、隣の部屋へとそっと移動した。
・・・
「おい源四郎……こいつは、かなり面倒だぞ。どうすんだよう」
苦々しい表情を浮かべながら、左内はぼやく。源四郎も、口元を歪めながら頷いた。
左内と源四郎は、亀吉が下手人とされた事件を調べてみた。北町奉行所の管轄である、この一件……下手に首を突っ込めば、確実にまずいことになる。それゆえ、二人は事件の関係者に、それとなく話を聞いてみた。
だが、知れば知るほど不自然なのだ。
まず、事件の起きたとされる日時は昼間とされている。しかし、亀吉は大工の見習いなのだ。当然ながら、昼は仕事をしている。仕事の合間に幼児をさらい、絞め殺して仕事に戻っていたというのだろうか。
しかも、亀吉を召し取った山田弥右衛門は……北町奉行所でも評判の無能な同心であり、北町の木偶の坊との二つ名の持ち主でもあるらしい。
そんな男が、どうやって亀吉が下手人であることを突き止めたのだろうか。
「旦那、こいつはおかしいですよ。あの山田って同心ですがね、普段は本当に怠け者らしいんですよ。ろくに仕事もせず、見回りと称して遊び歩いているとか……とにかく、いい噂を聞かないんですよ」
「何だ、そりゃあ。北町の木偶の坊の二つ名も、伊達じゃねえなあ」
左内は思わず苦笑した。まるで、自分にそっくりではないか。片や南町の昼行灯、片や北町の木偶の坊。これはいったい、どういう因縁なのだろうか。
「笑ってる場合じゃないですよ旦那。この山田って同心は、本当におかしな奴なんですよ。普段は仕事もせずに、のらりくらりとしてる男なんですがね……時々、妙な手柄を立てたりするんです。だから牢屋見回りに降格もされず、定町回りを続けていられるようなんです」
「何なんだろうな、そいつは……」
左内は首を傾げる。ひょっとしたら、手柄欲しさに下手人をでっち上げたのだろうか。亀吉に濡れ衣を着せ、幼児殺害事件の下手人に仕立て上げたのだとしたら?
いや、それはおかしい。そもそも、この件は穴だらけなのだ。大した証拠も証人もないまま、捕らえて拷問し自供させてしまったのだ。
となると、上の人間が絡んでいない限り不可能な話である。
「おい源四郎、こうなると俺たちだけじゃ難しいな。まずは小吉、それから鉄や隼人たちの力も借りなきゃならねえぞ」
左内の言葉に、源四郎は頷いた。小吉は殺しは出来ないが、情報収集の腕は馬鹿に出来ない。人に警戒心を起こさせず、懐に入り込めるのは天性の才能であろう。
「そうですね。ま、市の野郎は引き受けないでしょうが……」
翌日、左内は皆に召集をかけた。
その夜には、いつものごとく鉄、市、隼人、小吉の四人が集まる。彼らの前で、左内はこれまでのいきさつを説明した。
「てなわけで、今回は安い上に相手も分からねえ。どうするんだ?」
この言葉を聞き終えると同時に、即座に立ち上がったのは市であった。
「同心の絡む仕事で、一人あたり一両だあ? 冗談じゃねえ。悪いが、俺は降りるぜ」
そう言うと、市は出ていきかけた。だが、何を思ったか足を止めた。左内を冷たい表情で見つめ、口を開く。
「おい八丁堀……前々から思ってたんだがな、少しは仕事を選んでくれ。あんまり安い仕事じゃ、赤字になるだけだぜ」
「出来ることなら、俺も選びてえよ。だがな、そうもいかねえのさ」
市の嫌味たらしい言葉に、左内は憮然とした表情で答える。もっとも、市の言うことにも一理あるのだが……。
「で、お前らはどうするんだ?」
市が去った後、残った者たちの顔を見回す左内。それに対し、真っ先に返事をしたのは隼人であった。
「俺は殺る。相手が誰だろうと、殺ってやるよ」
「お前は、そう言うだろうと思ってたよ。で……」
言いながら、左内の視線は鉄へと移る。
「鉄、お前はどうするんだ?」
「俺は構わねえよ。特にやることもねえしな。それによ……俺は殺しをやらねえと、頭ん中に霧がかかるんだよ」
冗談めいた口調で、鉄は言葉を返す。もっとも、この男は、殺しが好きで好きで仕方ない……という傍迷惑な性癖の持ち主であるのは事実なのだ。
「そうか。となると、残るはお前だけだが……どうすんだ?」
左内は言いながら、小吉をじろりと睨む。有無を言わさぬ表情だ。小吉は、怯えたような様子でうんうんと頷く。
「そうか、やってくれるか。となると、四人で五両だから……一人あたり、一両と一分だな」
ぶつぶつ言いながら、左内は懐から金子を取り出す。
それを机の上に並べていった。
「ほら、前金の二分だ」
「やけに用意がいいな」
にやりと笑う鉄に、左内は苦笑した。
「どうせ、この面子でやることになるのは分かってたからな。それよりも、問題なのは……今のところ、同心の山田弥右衛門が絡んでること以外は何も分からないんだ。まずは、そのあたりからだ。皆で手分けして探るぞ。頼んだぜ」




