冤罪無情 二
左内を前にした若者は、一瞬ためらうような仕草をする。
だが、意を決したような表情で語り出した。
「お、お役人さま! お願いがあります!」
「えっ……」
戸惑う左内の前で、若者はいきなり土下座する。そして叫んだ。
「お願いです! 俺の……俺のあんちゃんを助けてください! このままだと、あんちゃんは……あんちゃんは!」
「はあ? お前、何を言ってるんだよ?」
左内は、さらに混乱した。あんちゃんだの、助けてくれだの言われても……何のことやら分からない。
すると、横にいた源四郎が助け船を出した。若者のそばにしゃがみ込むと、優しい表情で尋ねる。
「おい、顔を上げな。まずは、何があったのか言ってみろ」
この若者は吉蔵という名であり、大工の半平の息子である。兄の亀吉と共に、大工の見習いをしていた。
ところが数日前、亀吉は役人に捕まり奉行所に連れて行かれてしまったのだ。その罪状は殺しである。亀吉はまだ年端もいかぬ幼い娘をたぶらかし、乱暴した後に首を絞めて殺した。挙げ句、川に捨てたのだ……役人は、そう言っている。
吉蔵は信じられなかった。亀吉が、そんなことをするはずがないのだ。父と共に役人に、兄の無実を訴える吉蔵。だが、全く取り合ってもらえない。
しかも取り調べが進むにつれ、他の罪状も次々と明るみに出た。なんと亀吉は、幼女を次々と殺害していた腐れ外道だというのだ。
「お前の兄貴の亀吉はな、年端もいかぬ子供を襲っていたんだよ! 俺たちには証拠もあるし証人もいるんだ!」
町方にそう言われては、一介の大工見習いである吉蔵に返す言葉がない。
しかし、吉蔵と父親の半平は納得できなかった。その証拠が何なのか、教えて欲しいと奉行所に申し出た。だが、役人たちは取り合ってくれない……。
「お前らは、そんなことは知らなくていいんだ!」
その一言で、追い返されたのだという。
「んなことを、俺に言われてもなあ……」
話を聞き終えた後、左内は頭を抱えた。その一件の噂なら、小耳に挟んだことがある。幼女を次々と襲い殺した、とんでもない奴がいたらしいと。
もっとも、その件に関しては……左内は何も出来なかった。
何故なら、それは北町奉行所の仕事だからだ。
「いいか、俺は南町の同心なんだぞ。北町の仕事に下手に口出してみろ、とんでもねえことになるんだぞ」
「えっ?」
戸惑う吉蔵の前で、左内はしゃがみこんだ。
「もう一度言うぞ。お前の兄貴の亀吉は、北町の同心に捕まったんだ。南町の俺には、どうすることも出来ねえ」
そう、北町奉行と南町奉行とでは管轄が違う。北町奉行所が下手人を挙げた事件を、南町奉行所の左内が新たに調べている……そんなことが知れたら、非常に厄介なことになるのだ。
ましてや、左内は南町の昼行灯の異名を取る駄目同心である。下手に事件を調べたりしたら、確実に問題になる。最悪の場合、牢屋見回りにまで落とされるかもしれない。
「だいたいなあ、お前の兄貴の亀吉がやってねえっていう証拠があんのか? やったっていう証拠はあるんだぜ。こりゃ、どうみても分が悪いよ」
「そ、それは……」
言葉につまり、吉蔵は下を向いた。
左内は口元を歪めながら、吉蔵を見つめる。左内の言葉は詭弁でしかない。やってないことを証明するのは、ある意味やったことを証明するより難しい。
しかし、そんな詭弁でも用いなくては、この若者は引きそうもない。
仮に下手人が亀吉でないとしても、それを南町の同心である中村左内が暴いたとなると……確実に面倒なことになるのだ。
「いいか、人間には誰しも裏の顔がある。亀吉にだって、お前らにゃ分からない裏の顔があったのかもしれないだろうが。それにな、お上の言うことに逆らっても何の得にもならねえぞ。諦めるんだ」
がっくりと肩を落として去って行く吉蔵。その背中を、源四郎は気の毒そうに見つめる。
「旦那、いいんですか?」
「何がだよ」
そう言葉を返したものの、源四郎の言わんとするところは分かっている。吉蔵は、兄の亀吉が下手人ではないと思っている。その件を、本人の気の済むまで調べてやってはどうか? と言いたいのだろう。
源四郎は体も大きく、いかつい風貌だ。腕っぷしの方もなかなかのものである。悪党への聞き込みには、なくてはならない存在だった。
しかし欠点もある。風貌に似合わず、妙に細やかで気が優しいことだ。今回も、吉蔵に感情移入してしまっている。左内は、源四郎を睨んだ。
「おい源四郎、この際だから言っておく。ああいう奴らに、あんまり肩入れするな。俺たちは仕掛屋なんだぜ」
「へ、へい」
「下手なことに首を突っ込んだ挙げ句、お上に目を付けられる……こいつはな、俺たちが避けなきゃならねえことだ。いいか、あの小僧には関わるなよ」
「わ、分かりましたよ」
不満そうな顔をしながらも、源四郎は頷いた。
小さくなっていく吉蔵の後ろ姿を、じっと見つめる左内と源四郎。気の毒な話だが、二人に出来ることはないのだ。
その時、左内は人の気配を感じた。そっと振り返ると、こちらに歩いて来る者がいる。
それは同心だった。ただし、南町奉行所では見た覚えの無い者である。背は高いが痩せており、どこかとぼけた雰囲気の持ち主だ。
「あなたは……南町の方でしょうか?」
同心は、そう聞いてきた。一見すると、頼りない感じの顔つきである。しかし、その立ち方や目配りなどを見るに、ただ者ではないのは明白だ。
「はい。私は南町の同心、中村左内です。私に何か用ですか?」
にこやかな表情で尋ねる左内に、同心は軽く頭を下げる。
「いえ、用というほどのことではありません。私は北町の同心、山田弥右衛門と申します。先ほど、吉蔵と話をされていたようですが……あなたも、兄は無実だという話を聞かされたのではないですか?」
「ええ、まあ」
言葉を濁しながらも、左内は頷く。すると、山田と名乗った同心はため息を吐いた。
「そうですか。まったく困ったものです。吉蔵の兄の亀吉は、これまでに何人もの幼子をかどわかし、殺しました。亀吉は病気です。救いようがありません」
顔をしかめながら、首を振る山田。
左内は、神妙な面持ちで彼を見つめる。世の中には、様々な趣味嗜好を持った者がいるのは知っている。
男の中には幼児をさらい、乱暴した挙げ句に殺す者がいるのも知っている。左内はこれまでにも何度か、そうした事件を扱ったことがある。
しかも、そういった事件の下手人は……ほとんどが普通の男なのだ。少なくとも鉄や源四郎のような、見るからに人相の悪く厳つい男である例はまずない。
そのため、親兄弟はほとんどの場合、自分の家族が幼児を殺すようなおぞましい存在である……などという話は信じない。真実を受け入れず、お上を恨む者まで出る始末だ。
「同じ町方なら、事情はお分かりですよね。本当に困ったものです」
そう言うと、山田は苦笑した。
「いや、分かります。私も、そういった類いの話はよく聞きますから」
みなまで言わずとも分かっている、とでも言わんばかりの表情で、左内は頷いて見せた。
「そうですか。いやあ、助かります。まさか、あいつが南町奉行所の管轄をうろうろするとは思わなかったものですから」
言いながら、頭を下げる山田。左内も、大げさに顔をしかめて見せた。
「お互い、大変ですな」
「旦那、やっぱりおかしいですよ。本当に、ほっといていいんですかい?」
山田が去った後、源四郎は真剣な表情で左内に迫って来た。
「なにがだ?」
「こいつは、どう考えても変ですよ。もし本当に亀吉が下手人だという確証があるなら、わざわざ北町の同心がここまで出て来ますかね?」
その言葉に、左内は顔をしかめた。源四郎の言うことにも一理ある。仮にも北町の同心の立場にある者が、吉蔵のような一介の大工見習いの行動を調べるというのは、明らかに妙だ。
だが、左内は首を振る。自分もまた、一介の見回り同心に過ぎない立場なのだ。その上、仕掛屋の元締でもある。下手な動きをして、目を付けられるわけにはいかないのだ。
「源四郎、俺の立場ってものを考えてくれよ。今、あいつの頼みを聞いて事件を調べて回ったりしたら、一体どうなる?」
「えっ……いや、それは――」
「お前だって分かるだろうが。役所ってところは、妙に縄張り意識が強い。俺たちはな、波風を立てずおとなしくしてるしかねえんだよ」
「は、はあ」
口ではそう言っているが、源四郎は不満そうな様子だ。しかし、そんなのは左内の知ったことではない。何事も無かったかのように、足早にその場を離れた。
・・・
その日の夜。吉蔵は一人、夜道を歩いていた。
あれから、いろいろ考えてみた。しかし、役人たちの態度はやはり納得がいかない。居丈高な口調で追い払われるだけだ。どうすれば兄を助けられるのだろうか……そればかりを考え、とぼとぼ歩いている。
彼は気づいていなかった。後ろから、何者かが後を付けて来るのを。
背後から聞こえてきた金属音に反応し、吉蔵は振り向く。だが、遅かった。
直後に背中を斬りつけられ、吉蔵は呆然となる。刀による痛みよりも、驚きのあまり動くことが出来なかったのだ。
しかし、相手は動きを止めない。さらなる斬撃が吉蔵を襲う。その一太刀により、彼の命は奪われた――
「山田、相変わらず大したものだな。ところで、あの小僧は誰に訴えていたのだ? あとあと問題になっても面倒だ」
「確か、中村左内とかいう定町廻りです」
「中村左内? ああ、あいつか……あいつなら、大丈夫だ。中村左内といえば、南町の昼行灯との二つ名で有名だからな」
「昼行灯、ですか……」
「そうだ。いつ牢屋見回りに格下げになってもおかしくない、そんな役立たずだよ」
「私には、そうは思えませんでした。断言は出来ませんが、なかなかの腕前の持ち主という印象を受けました」
「有り得ない。奴はただの昼行灯だよ。もっとも、あんな奴の評価など……今はどうでもいい。とりあえずは、うるさい吉蔵を始末できた。あとは亀吉に、幼女を殺した下手人として死んでもらうだけだよ」




