冤罪無情 一
その日、市は足早に江戸の町を歩いていた。端正な顔を不機嫌そうに歪め、脇目も振らずに進んでいる。
やがて彼は、目当ての場所へと到着した。『よろず屋お佐代』という看板を掲げた店である。市は憮然とした態度のまま、店の中に入って行った。
「やあ、市さんじゃないか。どうしたんだい?」
入って来た市を見るや、親しげな表情で彼に語りかける男がいた。店番の利吉だ。一見すると柔和な印象を与える、優しそうな若者である。もっとも、裏では殺しの請け負いもやっているのだが。
にこやかな顔つきで、市を迎えた利吉。だが、市は不快そうな表情のまま口を開く。
「やあ利吉さん。お佐代さんはいねえのかい?」
「いや、今ちょっといねえんだよ。もう少ししたら帰って来るけど――」
「ならいい。利吉さんよう、あんたに聞きたいことがあるんだよ。あんた、仕掛屋を潰すよう依頼を受けたのか?」
鋭い口調で尋ねる市。すると、利吉は慌てた様子で首を振った。
「な、何を言ってるんだよ! 俺が、あんたらを敵に回すわけないだろ!」
「ほう、そうかい。だがな、仕掛屋に喧嘩を売った音松って奴は……くたばる前に、鉄にそう言ってたらしいぜ」
「おいおい市さん……あんたは、そんなどこの馬の骨かも知らん奴の言うことを信じるのか?」
利吉は、心外だとでも言わんばかりの表情で市を見つめている。
だが、市の方は冷たい目を向けていた。彼は目の前にいる男が、どれだけ腹黒いかを知っている。いざとなれば、自分の母親でも叩き売る……いや、場合によっては叩き殺すことも辞さない男だ。
はっきり言って、利吉は信用できない。まず間違いなく、この男は誰かから仕事を受けたのだ。
とはいえ、この男は秀治と深い繋がりがある。証拠もないのに、下手に手を出すわけにはいかない。かといって、このまま済ますことも出来ない。
「なあ利吉さん、一つ覚えておいてくれ。もう一度、同じことがあったら……仕掛屋の元締は、必ずあんたを殺す。あんたが本当に裏で糸を引いていようがいまいが、そんなことはどっちでもいいんだよ。注意しておくんだな」
・・・
「これにて、本日の集会は終了となります」
町外れの剣術道場では、龍牙会の幹部たちによる集会が行われていた。
集会は普段通り滞りなく進行し、いつもと同じように呪道の閉めの言葉で終わろうとしていた。
だが、いつもと違うことが起きる。
不意に、汚ならしい袋を担いで現れた鉄。彼が呪道に目配せする。
呪道は頷き、再度口を開いた。
「ああ、みんな、申し訳ないんだが……仕掛屋の鉄さんから話があるらしい。ほんのちょっとだけ、耳を貸してくれよ」
その言葉の直後、鉄は床にあぐらをかいて座る。袋の口を開け、中に入っているものを一つずつ取り出して床に並べていく。
それは、人間の首であった。塩漬けになり、顔の形も判別できない。それでも、本物であるのが見て取れる。
「こいつらはな、仕掛屋に喧嘩を売ってきた馬鹿どもだ。いいか、一つ言っておくぞ……俺たちに喧嘩を売るとこうなるんだ。覚えておけよ」
いい終えた後、鉄はにやりと笑った。愉快だ、とでも言わんばかりに。
しかし、居並ぶ者たちは誰も笑っていない。むしろ、引きつった表情をしている。
「あ、言いたいことはそれだけだよ。みんな、覚えといてな。俺たちは、みんなとは仲良くやりてえんだ。ただし、向かって来たら殺すけどな」
とぼけた口調で言いながら、鉄は首を袋に詰める。その様を、他の者たちは顔を引きつらせて見つめていた。彼らとて、裏社会の人間である。死体など、見慣れていた。
そんな彼らでも、殺した相手の首を切り、わざわざ人前に晒すような真似はしない。鉄の行動は、皆の心に強烈な印象を残したことだろう。
不気味な沈黙が、その場を支配する……だが、そんな空気をものともしない男もいた。
「じゃあ、今回はここまでとなります。皆さん、お疲れさまでした」
呪道は、平然と閉めの言葉を放つ。この男とて、伊達に龍牙会の幹部をやっているわけではないのだ。
その言葉の直後、鉄が出ていく。ややあって、他の者たちも続いた。
「鉄さん、ちょいと待ってくれないか?」
首の入った袋を担ぎ、すたすたと歩いていた鉄。その背中に、声をかけた者がいた。
振り向くと、大工の勘助が神妙な顔つきで立っている。
「何だよ勘助……また俺に、龍牙会を辞める手助けをしてくれってのか?」
「違うよ。鉄さん、あんたに言っておきたいことがある……ちょっと付き合ってくれねえか?」
「待てよ。俺は、こんなもん抱えてんだぜ。こいつも一緒でいいのか?」
言いながら、鉄は首の入った袋を指差した。すると、勘助は顔をしかめる。
「あ、ああ、構わないよ。付き合ってくれたら、そいつを俺が始末してもいいしな」
「本当か。そいつはありがてえ」
鉄はにんまりと笑った。
「で、話って何だ?」
ひとけの無い林の中のあばら家で、鉄と勘助は相対した。勘助は神妙な顔つきで、鉄を真っ直ぐ見つめ口を開く。
「鉄さん、あんたに一つ言っておくことがある」
「何だよ?」
「前に俺は、仕掛屋を潰すよう依頼を受けた」
勘助の口調は静かなものだった。顔つきも真剣そのものである。冗談を言っている素振りなど、微塵も感じられない。
「そうかい。で、お前は何と言ったんだ?」
鉄の方も、表情一つ変えずに尋ねる。
「もちろん断ったよ。俺の腕で、あんたらを殺れるはずがないからな」
「分かってるじゃねえか……で、俺たちの始末を依頼したのは、どこの馬鹿なんだ?」
さらに尋ねる鉄。だが、勘助は首を横に振った。
「そいつは、俺の口からは言えない」
「そうかい。ま、想像はついてるけどな」
にやりと笑う鉄。だが、勘助は神妙な表情のままである。いや、むしろ不安そうなのだ。
「鉄さん、おかしいと思わないか?」
「……何がだよ?」
「仕掛屋を潰すのに、俺みたいなのに依頼するか? もう少し腕の立つ連中に依頼するだろうが」
勘助の言葉に、鉄は険しい表情で下を向く。確かにその通りだ。実のところ、勘助は腕は悪くない。殺しの腕に関する限り鉄たちに劣らないだろう。その上、度胸もある。
だが、勘助は基本的に一人で仕事をこなすことが多い。多少なりとはいえ、裏の世界の事情に通じている者なら……仕掛屋を潰すのに、彼を選ばないはずだ。
「勘助、こいつらだがな……」
言いながら、鉄は袋を指差す。
「はっきり言って、ど素人だったよ。五十両に釣られて、俺たちを潰しに来たが……実際のところ、万に一つも勝ち目は無かったんだ。何故こんな連中に依頼したのか、全く分からねえんだよな」
「鉄さん、こいつは裏があるぜ。あんた、気をつけなよ。たぶん、この程度じゃあ終わらねえぞ」
・・・
「中村さん、何か心配事でもあるんですか?」
渡辺正五郎の声に、中村左内は我に返った。
「ああ、すみません。いやあ、心配事は絶えませんよ。いつ牢屋見回りに落とされるか、分からないですからね」
そう言うと、ため息を吐いて見せる左内。すると、渡辺は苦笑した。
今、左内は渡辺と共に奉行所にいる。二人して、調べ物をしている……ふりをして休憩しているのだ。左内は南町の昼行灯という異名の持ち主だし、渡辺も似たような存在だ。
出世など、左内はとうの昔に諦めている。だが渡辺は若い。今後よほどの下手を打たない限り、出世の可能性はまだ残されているはず。
にもかかわらず、渡辺からは奉行所の仕事に対する熱意が、まるきり感じられないのだ。左内は、ためらいがちに声をかけてみた。
「渡辺さん、あなた大丈夫ですか? 私と一緒にいたりすると、上の人から睨まれますよ」
「えっ、なぜですか?」
「私のあだ名は御存知でしょう? 南町の昼行灯と呼ばれている私と仲良くしていると、田中さんに何を言われることか」
「ああ、そんなことですか。別に構いませんよ。私も似たような者ですから」
そう言って、渡辺は笑った。
「いやいや、あなたはまだ若い。出世の望みも、まだ充分にありますよ」
「そんなものは、とうの昔に捨てました」
言いながら、渡辺は再び人別帳を調べ出す。あるいは、調べるふりをしているだけかもしれないが。その顔には、冷めた表情が浮かんでいる。
「中村さん、ここだけの話ですが……私はね、今の仕事にどうにかしがみついていられればいいんですよ――」
「二人とも、何をしているんですか?」
不意に後ろから、甲高い声が聞こえた。左内は作り笑いをしながら振り返る。確かめるまでもなく、上役の田中熊太郎である。
「あ、いや、ちょっと調べ物をしておりました」
へらへら笑いながら、頭を下げる左内を、田中はきっと睨んだ。
「で……何の事件を調べているのです?」
「はい、五年前の盗人の件です。越前屋から反物が盗まれた事件ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、田中の表情が一変する。
「中村さん、今なんと言いました?」
「は? ええと、五年前に越前屋から反物が盗まれた――」
「私の記憶が正しければ、その件はもう解決したはずですが?」
左内を睨みつけ、迫っていく田中。
「は、はあ。でも、ひょっとしたら本当の下手人は別にいるのかもしれませんし――」
「本当の下手人、ですと……中村さん、あなたはふざけてるんですか?」
尋ねる田中の体は、ぷるぷる震えている。これは言うまでもなく、怒りのためだ。渡辺はというと、この場から音も無く姿を消している。
「なぁかぁむぅらぁさぁん! そんな下らないことをしている暇があるなら、さっさと外回りにでも行きなさい!」
左内は仕方なく、十手をぶらぶらさせながら江戸の街を回っていた。後ろから、目明かしの源四郎が付いて来ている。
「ところで源四郎、奴の話をどう思う?」
いきなりの左内の問いに、源四郎は面食らった顔つきになる。
「へっ? 何がですか?」
「あの音松とかいう餓鬼の言ってたことさ。本当に、利吉の野郎が俺たちを潰そうと動いたのか……」
「どうでしょうね。ただ、あの音松は江戸に来たばかりでしたからね。利吉の名をかたる何者かにはめられた、って可能性もありますね。だいたい、利吉なんて名前はいくらでもありますし」
「だよなあ……」
言いながら、左内はさりげなく後ろを見る。さっきから、何者かが付いて来ているのだ。
「おい源四郎、妙な奴が来てるんだが……気づいてるな?」
小声で囁くと、源四郎は頷いた。
「へい、分かっておりやす。まだ餓鬼のようですがねえ……」
「ああ。まいったな」
左内は頭を掻いた。ちらりと見た感じ、年の頃は十五〜十六くらいの若者だ。薄汚い着物を着て、こちらに妙な視線を向けていた。一応は役人とはいえ、昼行灯の異名を持つ左内に、いったい何の用があるというのだろう。
左内は源四郎に目配せすると同時に、足早に移動する。その場を離れ、ひとけの無い裏路地へと入って行った。
若者も、後を追い裏路地へと入る。その途端、左内は立ち止まり振り返った。
「おい、俺に何か用か?」




