鬼人無情 三
くんくんと鳴く声がする。足元を見ると、仔犬の白助が来ていた。心配そうに、彼の顔を見上げるてい。犬は犬なりに、彼の体調の悪さや怪我の具合などを把握し理解しているのだろうか。
市は微笑んだ。
「大丈夫だよ。せめて歩く練習くらいしておかないと、仕事に戻れないからな」
そう言うと、市は足を上げ一歩目を踏み出す。その瞬間、膝と足首に鋭い痛みを感じた。
思わず顔をしかめる市。だが、耐えられないほどではない。以前よりは、確実に良くなってきている。
腕の骨が折れている。あと、あばらも二本やられているな。治るまで一月はかかる。しばらく、ここで大人しくしていろ。
隼人の言葉が脳裏に浮かぶ。奴は市の体をあちこち触りまくり、訳知り顔で頷いていたのだ。
「くそが……余計なことしやがって」
一人呟く市。すると、白助が怯えたような表情で後ずさった。叱られたとでも思ったのだろうか。
「お前じゃない。隼人のことだよ」
優しい口調で言いながら、市は座り込んだ。まだ歩くのも一苦労だ。まして、裏稼業への復帰はしばらくかかるだろう。
ため息を吐きながら、市は手を伸ばした。白助の頭をそっと撫でる。白助は鼻を鳴らしながら、嬉しそうに市の手を舐めた。
だが次の瞬間、白助はふっと顔を上げる。何かを察知したような表情だ。
直後、市を無視してとことこと歩いて行った。廃寺の入り口の付近で、尻を地面に着け前足を揃えた姿勢でじっと佇んでいる。もうじき、隼人と沙羅が帰って来るのだろう。
ちっ、と舌打ちする市。昼間、白助は親しげな態度で寄っては来る。しかし、内心では二人のことだけを飼い主として認めているらしい。
「そうかい。どうせ俺は居候だよ」
市は不貞腐れたような口調で言うと、ごろりと寝転がる。
やがて、きゃんきゃん嬉しそうに鳴く声が聞こえてきた。同時に、二人の足音も聞こえてくる。市はそれらを無視し、目を閉じた。
「おい市、帰ったぞ」
隼人の声が聞こえてきた。市は面倒くさそうに目を開ける。
「やかましいな。言われなくても分かってるよ」
不愉快そうな表情で言うと、市は再び目を閉じる。この男の世話になっている今の状態は、市にとっては不快なものである。
だが、隼人の方はそんな気持ちにはお構い無しだ。いきなり手を伸ばし、市の体を撫で回す。
「お、お前! いきなり何すんだよ!」
慌てて隼人の手を払いのける市。だが、隼人はすました表情だ。
「おい勘違いするな。俺には、そっちの趣味はない。お前の怪我の具合を知るには、触ってみないといけないだろうが」
「うるせえ! 触らなくていい!」
いつもは冷静なはずの市だが、隼人だけは勝手が違っていた。端正な顔を歪めて怒鳴りつける。
すると、隼人は首を傾げた。
「男に触られるのが、そんなに嫌なのか。ならば、女に診てもらうとしよう」
「はあ!?」
市の口から、すっとんきょうな声が出た。しかし、隼人の方は全く引く気配がない。
「おい沙羅、ちょっと来てくれ」
「えっ? 何?」
これまた、とぼけた表情の沙羅が現れる。市は思わず顔をしかめた。この二人は、間違いなく似た者夫婦だ。どちらも、恐ろしいまでの世間知らずである。
だが、そんな市の思惑など隼人には関係なかった。
「沙羅、すまんが市の怪我の具合を診てやってくれ。男に触られるのが嫌いらしい」
「うん、分かった」
そう言うと、沙羅は何のためらいも無く手を伸ばす……市はぶんぶんと首を振った。
「違う! もう、お前でいいから!」
「お前、って……俺のことか?」
きょとんとする隼人。市は顔を歪めながら頷いた。
「そ、そうだよ! やるなら、さっさとやれ!」
「どうだ、痛くないか?」
言いながら、市の右腕をゆっくりと回していく隼人。その動きは、現在の肩の可動域を確かめるためのものである。手つきは慎重そのものだ。
一方、市は憮然とした表情で答える。
「ああ、痛くねえよ」
「そうか、肩は問題ないな。後はあばらと足だな……ちょっと横になってくれ」
そう言うと、隼人は市を寝かせた。そして、体のあちこちを揉んだり動かしたりし始めた。市は顔をしかめながらも、されるがままになっている。
「うん、順調に治っているようだな。後は、腕のいい按摩に揉んでもらうといいんだが……そうだ、鉄さんに来てもらうか?」
隼人の言葉に、市は首を振った。
「冗談じゃねえよ。あいつの馬鹿力で揉まれたら、治るものも治らなくなるだろうが」
「そうか……分かった。じゃあ、俺で我慢してくれ」
そう言うと、隼人は市をうつ伏せの体勢へと転がした。
・・・
その頃、中村左内はいつものように町の見回りをしていた。もっとも、この男の見回りは単なる徘徊兼小遣い稼ぎでしかない。巨悪は見て見ぬふり、小悪は賄賂の額によっては見逃す。彼にとって、江戸の平和など知ったことではない。
面倒くさそうに、町を歩く左内。だが、その表情が一変する。
先日に続き、またしても巨漢の坊主が前方に立っている……鉄だ。鉄は目配せをすると、ゆっくりと歩き出す。
どうやら、またしても面倒事が起きたらしい。左内は何気ない風を装い、鉄の後を付いて行った。
やがて、鉄は空き家の中に入って行く。左内は辺りを見回すと、空き家の前に座りこんだ。
だが、鉄の話は面倒事という言葉で済ませられるものではなかった。
「おい鉄、そりゃどういうことだ?」
左内が尋ねると、鉄の押し殺したような声が返ってきた。
「よく分からねえが……武内巌堂って奴が、殺し屋に命を狙われたらしいんだ。すると巌堂は、龍牙会に乗り込んで来やがったんだよ。俺の命を狙った奴を探せ、ってな」
「何だそりゃ。そんなもん、俺たちに関係ないだろうが」
「それがな、巌堂を襲った奴ってのは……竹串を使う殺し屋だったらしい」
「竹串だと?」
思わず顔を歪める左内。竹串を使う殺し屋といえば、真っ先に思い付くのは市だ。
「おい鉄、そいつは市のことなのか?」
「んなこと分からねえよ。こればかりは、本人に聞いてみねえとな。だから八丁堀、ちょいと行って聞いてみてくれよ」
鉄の口調自体はのんびりしている。だが、のほほんと聞いていられるような話ではない。下手をすると、市のせいで龍牙会を敵に回すことになるかもしれないのだ。
「で、仮にその巌堂を襲ったのが市だったとしたら……お前はどうするつもりだ?」
「こいつぁ俺の意見だがな、市の野郎を引き渡した方が無難だと思うぜ」
鉄の口調は静かなものだった。だが静かな分、本気であることを感じさせる。左内は思わず、周囲を見回していた。
「おい鉄、俺たちは龍牙会の手下じゃねえんだぜ。そこまで龍牙会に義理立てする必要は――」
「じゃあ、市を助けるために龍牙会と巌堂の両方を敵に回すつもりか?」
鉄の問いに、左内はまたしても顔をしかめる。巌堂が何者かは知らないが、龍牙会は敵に回したくない相手だ。
かといって、市を簡単に引き渡す訳にもいかない。これは何も、市に対する仲間意識から……という訳ではないのだ。龍牙会の圧力に屈し、仲間を売ったという行動は、確実に仕掛屋の評判を落とすことになるだろう。また、龍牙会にも付け入る隙を与えることになりかねない。
仕掛屋という組織の元締としては、その辺りも考えて動かなくてはならないのだ。もっとも、他に選択肢が無ければ市を殺すしかない。殺して、龍牙会に引き渡す……でないと、市の口から左内の正体がばれるかもしれないからだ。
様々な考えを巡らせながら、左内は口を開いた。
「なあ鉄、ここは俺に任せてくれ。まずは、市から話を聞いてみる。その上で、俺が判断する」
「仕方ねえな……ま、元締はお前だからな。お前に任せるよ」
鉄との話し合いの後、左内は番屋へと向かった。まずは、巌堂という男について調べてみなくてはならない。左内も同心であるため、裏の人間に関して一般人よりは知識があるはずだった。しかし、武内巌堂なる人物の話は聞いたことがない。
龍牙会にすら口出しできるほどの大物なら、名前くらい聞いていてもいいはずなのだが。
番屋に行くと、数人の目明かしが座っていた。その中には、左内の片腕ともいうべき源四郎がいる。
「おい源四郎、ちょっと来てくれねえか?」
左内の言葉に、源四郎は慌てて立ち上がった。
「へい、分かりやした」
左内と源四郎はしばらく歩き、ひとけの無い河原へと到着する。辺りには河原者が徘徊していたが、左内と源四郎の姿を見ると慌てて離れて行った。
周辺に人がいなくなったのを確認すると、左内はその場にしゃがみこむ。すると源四郎も、その隣に座り込んだ。
「なあ源四郎、武内巌堂って奴を知ってるか?」
左内の問いに、源四郎は首を傾げる。
「武内巌堂ですかい? あいつは、昔は派手にやってたらしいですが……今は足を洗ったはずですよ」
「足を洗った? じゃあ、今は堅気なのか?」
「ええ、そのはずですがねえ」
源四郎の言葉に、左内は首を捻った。堅気であるのなら、なぜ命を狙われたのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
「実はな、その巌堂が殺し屋に命を狙われたらしいんだよ。で、怒った巌堂が龍牙会に乗り込んで行ったんだと」
「へえ、そんなことがあったんですかい」
のんびりした口調で、源四郎は言葉を返す。左内は思わず彼を睨み付けた。
「おい、そんな呑気な話じゃねえんだよ。龍牙会の元締お勢はな、巌堂を狙った殺し屋を見つけ次第、奴に引き渡す……って約束したらしいんだよ」
「なるほど。でも、あっしらには関係ないんじゃないですか?」
「それがな、巌堂を狙った殺し屋は市かもしれねえんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、源四郎の顔が引きつる。ようやく事態の深刻さを理解してくれたのだ。
「えええっ! 本当ですかい!」
「こんなことで嘘吐いてどうすんだ。まだ確認は出来てねえが、巌堂は竹串を使う殺し屋に狙われた、とはっきり言ってたんだよ」
「竹串ですか……となると、市以外にいませんね」
言いながら、顔をしかめる源四郎。そう、市は殺しの道具として竹串を使う。ありふれた竹串に焼きを入れ、さらに水で冷やして強化するのだ。その竹串で、急所を一突き……他の殺し屋と違い、かさばる得物を用意する必要がない。
しかも使った竹串は、すぐに始末していた。結果、現行犯でもない限り、市を捕らえるのは非常に困難なのである。
とはいえ、並の人間では竹串を凶器として使うのは非常に難しい。市のように、乱戦の中でも急所に突き刺せる腕がなければ無理だろう。
「旦那、これからどうなさるんで?」
「そうだなあ……まずは、市の奴に聞いてみなきゃならねえ。奴は今、隼人の隠れ家にいるからな」
「えっ、奴ら一緒に住んでるんですか?」
不思議そうに尋ねる源四郎。
「隼人の話によると、市が川で倒れていたのを見つけたんだとよ。そこで隼人は、市を担いで家まで運んだらしい。それ以来、市は隼人の家で寝泊まりしてるんだとよ」
「へえ……大丈夫なんですかい、あいつら」
「それがなあ、奴ら上手くやってるんだよ。不思議な話だよな……俺は市の奴と暮らすなんて、まっぴら御免だけどな」




