鬼人無情 二
「なぁかぁむぅらぁさん! あなた聞いてるんですか!」
いきなり怒鳴りつけられた中村左内は、びくりとして顔を上げる。
「へっ? 田中さん、どうかしましたか?」
「どうかしましたか、ですと……中村さん! あなたは馬鹿者ですか!?」
子供のように地団駄を踏みながら、田中熊太郎は左内を罵り始めた。もっとも、この田中の罵詈雑言は南町奉行所における恒例行事のようなものである。左内は既に慣れていた。
「なぁかぁむぅらぁさん! 最近のあなたの態度はなっていませんよ! あなた、このままだと牢屋見回りに格下げですよ!」
「はあ、それは困りますなあ。田中さんのお力で、何とぞ」
「出来るわけないでしょうがぁ! もっと真面目にやりなさい!」
この後、左内は怒り狂った田中により、たっぷりと説教されるのであった。
「いやあ、災難でしたね中村さん」
ようやく田中の説教から解放された左内に、声をかけてきた者がいる。同僚の渡辺正太郎だ。
「はあ、何ともお恥ずかしい話ですよ」
恥ずかしそうに頭を掻く左内。その姿を見た渡辺は、分かるよ……とでも言いたげな表情で頷く。
「いえいえ。ああいう神経質な人が上にいると、下の者が苦労するんですよ」
「まあ、そうですね」
愛想笑いを浮かべながら、うんうんと頷く左内。もっとも、この渡辺もうっとおしい存在であるのは間違いないのだが。
どうにか渡辺との無駄話を切り上げ、町の見回りに出た左内。もっとも、いつもながら彼には江戸の平和を守ろうなどという殊勝な心は無い。むしろ、町の小悪党からいかにして賄賂をせびりとるか……そればかりを考えているのだ。
十手をぶらぶらさせながら、辺りを見回す左内。だが、彼の目は気になるものを捉えた。
六尺(約百八十センチ)はありそうな大男の坊主が五間(約九メートル)ほど先に立ち、こちらに意味ありげな視線を送ってくる。
「鉄の野郎……今度は何の用だ?」
呟く左内。こちらを見つめている大男は、鉄以外の何者でもない。
その鉄は左内をじっと見つめていたかと思うと、一人で歩き出した。
左内もまた、何気ない態度でその後を付いて行く。
やがて鉄は、道端のあばら家の中に入って行った。左内はすました顔ですたすた歩き、あばら家の前で腰を降ろす。
「おい八丁堀、面倒なことが起きたぞ。市の野郎がいねえんだ」
あばら家の中から聞こえてきた鉄の言葉に、左内は眉をひそめた。
「はあ? どういうことだよ?」
「だから、ここ二日ばかり市の野郎の姿が見えねえんだよ」
鉄の言葉を聞き、左内は首を捻る。もともと市は、仕掛屋の面々とは距離を置いている。市が普段何をしているか、左内は全く知らないのだ。
「ひょっとしたら、温泉旅行にでも行ったんじゃねえのか」
「馬鹿野郎、あいつが温泉なんか行くかよ」
鉄の言葉に、左内は思わず苦笑する。確かに、温泉など市には無縁のものだろう。あの守銭奴が、そんなものに金を遣うとは思えない。
「それもそうだ。じゃあ、よそからの仕事じゃねえのか?」
「多分な。実はな、あいつは大口の仕事が控えてるとか言ってたんだよ。ただ、今までは完全に姿を消す……なんてことは無かったからな。ひょっとしたら、その大仕事で下手打ったのかもしれねえぞ」
「んだと? それはまずいぞ」
左内は思わず十手を握りしめた。市が仕事をしくじったとなると、自分たちにまで影響が及びかねない。
「仕方ねえな。鉄、みんなで手分けして市を探すぞ。場合によっちゃあ、あいつの口を封じなきゃならねえからな」
鉄と別れた後、左内は真っ直ぐ満願神社へと向かった。ここには、隼人と沙羅の夫婦がいるはずだ。この二人も動員し、早いうちに市を見つけださなくてはならない。
予想通り、二人はそこにいた。いつもと同じく、顔を白く塗った隼人が手裏剣を投げる。手裏剣は寸分違わず、沙羅の持った的に命中している。見事な腕ではあるが、観ている客は少ない。ざるに入った小銭も僅かなものだ。こんな稼ぎでは、二人の大人が食べていくのは不可能だろう。
この二人には、裏の仕事が必要なのだ……左内は改めて、その事実を思い知らされた。
だが、いつまでも隠れて見ている訳にはいかない。左内はわざとらしく咳払いをした後、ゆっくりと姿を現した。
「おい、お前ら。ちょいと話を聞きたいんだがな……付き合ってくれねえか」
十手をちらつかせながら、左内は隼人を睨み付ける。端から見れば、貧しい大道芸人に因縁を付けている悪徳同心といった構図が出来上がっているだろう。
一方、隼人と沙羅の方も果たすべき役割を理解している。縮こまった様子で、左内の後に続く。大人しく、ひとけの無い場所まで付いて行った。
だが二人から聞いた真相は、左内の想像の斜め上をいくものだった。
「何だと? じゃあ市は、お前らの家にいるのか?」
左内の問いに、隼人は平然とした表情で頷いた。
「ああ。まだ怪我は治っていないが、命に別状はない。じきに歩けるようになるだろう」
何事もなかったかのように、すました表情で隼人は言った。だが、左内の表情は渋い。ただでさえ市は、他の仕掛屋の面々とは距離を置いた付き合い方をしている。口も悪い。しかも、隼人が夜魔一族の裏切り者だということに、いち早く気づいた男でもあるのだ。
そんな市と隼人が、果たして上手くやっていけるのだろうか?
いや、それ以前に……市は今、何をしているのだろう。
「で、市は今どうしてるんだよ?」
「どうしてるって……だから、俺の家にいるよ。大人しく寝てるんじゃないかな。あの体じゃ、歩くことも出来ないだろうし」
「そ、そうか……」
答えた直後、左内はある疑問を感じた。そもそも、市は何故そこまでの重傷を負ったのだろうか。
左内の知っている市という男は、損得勘定に長けた男である。法に触れるような真似や、つまらない喧嘩など一切しない。むしろ、鉄や隼人らの方が端で見ていて危なっかしい性格をしている。
つまり仕掛屋の中でも、市はもっとも慎重かつ冷静であり、危ない橋は渡らない性格のはずだ。しかも、市は腕も悪くない。左内の知る限り、市ほどの殺し屋は江戸でも数えるほどしかいないだろう。
そんな市に、重傷を負わせられる者とは……。
「ところで隼人、市は誰にやられたんだ?」
「いや、知らないよ」
「知らねえだと? お前、聞いてねえのか?」
左内は呆れ返った表情になった。しかし、隼人はすました顔で話を続ける。
「ああ。奴は言いたくないようだったからな。俺も何も聞かなかったよ」
「あのなあ……いや、何でもない」
思わず苦笑する左内。隼人は、本当に純な性格の持ち主であるようだ。言い方を変えれば、愚か者ということでもあるが。
「仕方ねえな。市のことはよろしく頼んだぜ。奴の怪我が治るまで、力になってやってくれよ」
そう言って、左内は歩き出す。何はともあれ、市が無事なら問題はない。後のことは、この二人に任せておこう。
だが、この時の左内は全く気づいていなかった……仕掛屋が、面倒な事態に巻き込まれようとしていたことに。
・・・
その頃、龍牙会の集会所ではちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。
いつものように、剣術道場にて集まっていた幹部たち。だが、そこに裏社会の大物である武内巌堂が上がり込んできたのだ。
巌堂は不気味な子分を引き連れ、大げさに頭を下げる。
「集会の最中に申し訳ないですが、元締に会わせていただきたいんですよ。構わないですよね?」
自身のざんぎり頭を撫でながら、不敵な表情で幹部たちを見回す巌堂。
それに対し、幹部たちは露骨に不快そうな表情を浮かべている。だが、それも当然であろう。部外者であるはずの巌堂が、集会の最中にいきなり踏み入って来たのだから……普段はへらへらしているはずの呪道までもが、鋭い目で巌堂を見つめている。
しかし、鉄だけは違っていた。鉄は愉快そうに、この闖入者を眺めている。もっとも、何かあればすぐに動く体勢ではあるが。
「あんた、いきなり何しに来たんだ?」
言いながら立ち上がったのは勘助だ。表稼業は大工だが、殺しの腕も鉄たちに優るとも劣らない。勘助は、今にも襲いかかりそうな表情で巌堂を睨みながら口を開いた。
「なあ巌堂さんよう、あんた、ちょいと失礼すぎやしねえか。龍牙会なめてんのかよ?」
すると、巌堂の脇に控えていた手下がすっと前に出て来る。頬被りをした不気味な男だ。両手に一尺(約三十センチ)ほどの長さの棒を持ち、巌堂を守るように勘助の前に立つ。しかし、勘助の方も引く気配がない。
周りの者たちも、固唾を飲んで両者を見守っていた……その時、今度は呪道が前に出て来た。
「おいおい、二人ともやめようぜ。なあ巌堂さん、俺で良ければ話は聞くよ。いったい何の用だ?」
呪道にしては珍しく、鋭い表情で巌堂に尋ねる。しかし、対する巌堂の態度は室内の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「呪道さん、悪いがあんたじゃ話にならねえ。元締のお勢さんを呼んでくれよ。でないと、ちょっと面倒なことになるぜ。この金太はな、いったん暴れだしたら止められねえぞ」
そう言いながら手下を指差し、にやりと笑う巌堂。と同時に、金太と呼ばれた手下は低い姿勢で構える。まるで獣のように、歯を剥き出し唸り始めたのだ。しかも、よく見れば炭を塗りたくったかのごとき真っ黒な顔である。居並ぶ幹部たちも、たじたじとなっていた。
だが、呪道はその程度で怯む男ではなかった。
「俺じゃ話にならねえってか。じゃあ、とっとと出直すんだな。お前みたいな三下が会いたいと言って、はいそうですかと会えるとでも思っているのか? 元締は暇じゃねえんだ。さっさと消えろ。でないと……」
呪道は言葉を止め、まがまがしい形状の杖を巌堂に向ける。
「この俺が、力ずくで叩き出すぜ」
その言葉を聞いた瞬間、巌堂が笑みを浮かべた。
「上等じゃねえか……金太、構わねえから殺せ」
その言葉を聞くが早いか、今度は別の者が動いた。鉄である。鉄は巨体に似合わぬ速さで、巌堂に掴みかかる。
しかし、巌堂もただ者ではなかった。鉄の攻撃を、ぱっと飛び退いて躱す。
「鉄さん、あんたら仕掛屋さんには関係ない話だ。それとも、仕掛屋さんも俺たちの敵に回る気かい?」
低い声で尋ねる巌堂。
「巌堂さんよう、あんたが何しようが俺の知ったことじゃねえ。だがな、暴れるなら外に行け。喧嘩なら表でやれよ。何なら、俺が買ってやってもいいぜ」
そう言うと、鉄はにやりと笑う。
睨み合う両者。戦いの構図は、またしても変化していた。呪道と鉄、巌堂と金太という二対二の勝負となっている。いや、勝負などという生易しい言葉で表せるものではない。四人の体からは強烈な殺気が放たれ、辺りの空気を浸食し始めていた。
一方、周りにいる者たちは、その殺気に当てられ蛇に睨まれた蛙のような状態になっている。全員、固唾を飲んで行方を見守っていた。
そんな空気の中で対峙する呪道と金太、そして鉄と巌堂……だが、膠着状態は長く続かなかった。
「巌堂、私に何か用か?」
言葉と同時に現れたのは、龍牙会の元締お勢と用心棒の死門である。冷静な表情で、すたすたと歩いて来た。
すると、巌堂の表情が緩む。
「おやおや、お勢さんではありませんか。やっと来てくれたのですね。もう少し遅かったら、私はこの二人を殺しちまうところでしたよ」
「んだと……上等じゃねえか」
低く唸り、一歩前に進み出る鉄。しかし呪道が音も無く近づき、彼の腕を掴んだ。
「鉄さん、元締の前だ。今回は引いてくれ。頼む」
その言葉に、鉄は顔をしかめながらも頷いた。
「ああ、分かったよ」
口ではそう言っているが、鉄の視線はずっと巌堂を捉えている。
その時、お勢が声を発した。
「巌堂、別室に来てくれ。他の者たちは、もう帰っても構わん」
お勢と巌堂、金太と呪道そして死門の五人は奥の部屋へと移動した。部屋の中には、依然として殺気を帯びた空気に満ちている。いつ暴発するか分からない……そんな雰囲気であった。
「で、巌堂……私に何の用だ?」
静かな口調で尋ねるお勢に、巌堂は大げさに首を傾げて見せた。
「おやおや、あなたほどの人なら既に知っているかと思ってましたが……それとも、あえて知らぬ存ぜぬを決め込む気ですかい?」
そう言って、くすりと笑う巌堂。龍牙会の元締であるお勢に対し、あまりにも無礼な態度だ。彼女の横に控えていた死門は表情を一変させ、刀の柄に手を掛ける。
だが、当のお勢は平然としている。
「はて、何のことか分からんな。巌堂よ、分かるように説明してくれぬか?」
「では仕方ありませんな。先日、私は刺客に襲われました。幸い、金太が刺客を撃退してくれましたが……そいつは、恐ろしく腕の立つ男でした」
「ほう、それは災難だったな。だが、その件と私と、何の関係があるというのだ?」
静かな口調のお勢に、巌堂は口元を歪めた。
「この金太はね、狙った獲物は必ず仕留めます。こいつに勝てる奴はいやしません。ですが、刺客はこいつから逃げ延びました。そこらのごろつきとは明らかに違います。ひょっとしたら、龍牙会の人かと思いましてね」
その時、死門が動いた。音もなく立ち上がり、細身の剣を抜く。だが、金太もその動きに反応した。猿のように身軽な動きで、死門の前に立つ。
睨み合う二匹の鬼……だが、お勢の声が飛んだ。
「死門、下がれ」
「しかし――」
「私は今、下がれと言ったのだが……聞こえなかったのか?」
有無を言わさぬお勢の言葉に、死門は剣を鞘に収めた。不満そうな表情を浮かべながらも、元の位置に戻る。
「さて、巌堂。私はお前の殺害を命じた覚えはない。そのような報告も受けていない。つまり、その件と龍牙会とは無関係だ。分かったら帰れ」
淡々とした口調で語るお勢。しかし、巌堂は引き下がらなかった。
「では、その証拠はありますか? 私を襲った刺客が、龍牙会の人間ではないという証拠を見せられますか?」
「証拠? そんなものは無い。元締であるこの私が、龍牙会は関係ないと言っているのだ……それ以上、何が必要だと言うのだ?」
お勢は怯む様子もなく言い放った。それに対し、巌堂は目を細める。
「そうですか……それでは仕方ないですな。しかし、私はこのまま終わりにするつもりはありません。あの刺客を今後も探しますし、見つけたら口を割らせます。お勢さんも、この件で何か分かったら教えて下さいね」
そう言った後、巌堂は大げさな態度で頭を下げる。
「いいだろう。その刺客を見つけ次第、お前に引き渡してやる」




