鬼人無情 一
暗闇の中、市は息を殺して草むらに潜んでいた。
空に月は出ているものの、明かりとして充分とはいえない。一寸先は闇……とまではいかないが、見通しが悪いのは確かである。夜目が利くように幼い頃から訓練していた市でも、さすがに見づらい状況だ。
そんな中、市は草むらに身を潜め、じっと待ち続けていた。
標的は必ずここを通るはずだ。その時、確実に仕留めてやる。
どのくらいの時間が経ったのだろう……やがて、向こうから提灯と思われる明かりが見えてきた。明かりは、こちらにゆっくりと近づいて来ている。市は竹串を取り出した。
まだだ
まだ遠い。
もう少しだ。
じっと明かりを見つめる市。その時、彼は奇妙な感覚に襲われた……強烈な違和感を覚え、全身が硬直するかのような感覚に襲われる。この状況、何かがおかしいのだ。具体的にどこかは分からない。しかし、どこか変であるのは確かだ。
思わず顔をしかめる市。彼の内に潜む何かは、なおも自己主張を続けている。今回はおとなしく引き上げろ、とでも言っているかのように。
だが、市は胸の中に湧く違和感を無理やり呑み込んだ。気のせいだ……と、市は自分に言い聞かせる。
こんな仕事で怖じ気づくとはな。
俺もどうかしてる。
苦笑しながらも、市は竹串を構えた。もうじき、標的の男が目の前を通り過ぎるはずだ。噂では不死身の巌堂などと勇ましいあだ名で呼ばれているらしい。だが、有り得ない話だ。後ろから急所を刺せば、どんな人間だろうと死ぬ。
今日もまた、いつもと変わらない。後ろから急所を竹串で貫くだけ……実に簡単な仕事だ。それで五十両とは濡れ手で粟だ。
やがて、標的の男が通り過ぎて行く……その時、市は音も無く立ち上がった。竹串を構え、すっと間合いを詰める。
だが、市の頭を何かが襲った――
その一撃を躱せたのは、奇跡としか言い様がなかった。竹串を構え、襲いかかろうとした市。だが次の瞬間、彼の顔面を強烈な一撃が襲ったのだ。市は、咄嗟に上体を反らして躱す。ぶん、という風圧を顔に感じた。
だが、次の一撃はほぼ同時に市を襲った。凄まじい威力の打撃が、市の脇腹に炸裂する。
思わず呻き声を上げる市。あばら骨が折れたような激痛を感じた。だが、相手の攻撃は終わらない。さらなる連撃が市を襲う――
滅多打ちに遭いながらも、市は咄嗟に顔を両腕で覆った。同時に地面を転がり、草むらの中に身を隠す。
その僅かな瞬間、市は自分を襲った者を見た。背はさほど大きくない。だが、肌の色が真っ黒なのだ。その顔立ちも、自分たちとは明らかに違う。まるで妖魔のような風貌である。一尺(約三十センチ)ほどの長さの棒を両手に一本ずつ持っており、恐ろしい形相で襲いかかって来た――
こいつ人間か!?
市は、心底からの恐怖を感じた。草むらの中を転げ回り、必死で攻撃を躱す。だが相手の動きは素早い。しかも、正確にこちらの動きを読んでいたのだ。市は躱しきれず、数発の棒による打撃を受ける。その一撃だげでも、並みの人間なら戦意を喪失させてしまうほどの痛みだ。
強烈な打撃を受けながらも、市は咄嗟に持っていた竹串を足の甲に突き刺す。すると、獣のごとき声が聞こえた。どうやら少しは効いたらしい。相手の動きが、ほんの一瞬ではあるが止まった。
その隙に、市は立ち上がり思い切り走った。
直後、近くを流れている川に飛び込む――
「金太、捕らえられなかったのか。お前らしくないな……」
市が逃げ去った後、草原で二人の男が佇んでいた。一人は肌の色が黒く、腕が異様に長い。しかも、妖怪のように恐ろしい顔つきだ。目が細く鼻は潰れており、野生の猿のような雰囲気だ。その体型といい顔立ちといい、人間とは思えない風貌である。
一方、その者の前に立っているのは……三十過ぎの着流し姿の男である。頬に刀傷があるのが、提灯の薄明かりでも見て取れる。五分ほどの長さのざんぎり頭をゆっくりと動かしながら、周囲に目を配っていた。
「す、すみません」
金太と呼ばれた色黒の男は、ぎごちない口調で言った。すると、ざんぎり頭の男は微笑む。
「まあ、逃がしたものは仕方ない。お前が仕留め損ねたということは、相手もただ者では無かったのだろうよ。それに、怪我は負わせたのだろう?」
「う、うん。う、腕、足、腹、殴った。で、でも、頭は殴らせなかった。あ、あいつ、強い」
「そうか……まあいい。どうせ、川の中で溺れて土左衛門になるだろうからな」
・・・
隼人は夜道を慎重に歩いていた。飼い犬の白助が、今夜は妙に落ち着かないのだ。
この白助は犬にしては珍しく、普段あまり外に出たがらない。縄張りである廃寺の周辺をうろうろしているだけだ。なのに、今日に限って廃寺の外をちらちら見つめては、何か言いたげな様子で隼人らの顔を見上げるのだ。時おり何かを訴えかけるかのように、くんくん鳴いている。
隼人は仕方なく、紐を付けて外に連れ出した。すると白助は、何かを察知しているかのように、とことこと歩き出す。まるで、何か重要な目的でもあるかのように。
やがて白助は、川岸へとやって来た。こんな場所に何の用だろうか……思わず首を傾げる隼人。だが、彼の目はおかしなものを見つけた。
一間(約百八十センチ)ほど先の草むらに、人が倒れているのだ。夜目の利く隼人でなければ、確実に見逃していたであろう。
土左衛門か?
そっと近づいていく隼人。もし死んでいるなら、身ぐるみ剥いで川に捨てる。死んでいなかったら、身ぐるみ剥いで放置する。無関係な人間が、死のうが生きようが知ったことではないのだ。
倒れている者に近づき、隼人は服を引き剥がそうとした。だが、その表情か歪む。
倒れている者は知り合いだった。しかも、よりによって仕掛屋の一員だ。名前は市……すかした態度が鼻につく男である。
だが、仕掛屋の仲間でもある。
隼人は市の体を担ぎ上げた。全身が濡れていて持ちにくい上、意識が無いため異様に重く感じる。それでも、隼人はどうにか市の体を背負った。そして寝ぐらである廃寺へと運んで行く。その後ろから、白助が不安そうな面持ちで付いて来ていた。
「どうしたの、この人?」
市を担ぎ込んできた隼人の姿を見て、沙羅は目を丸くする。その顔を見て、隼人は思わず苦笑した。そもそも、自分たちに人助けなどするような余裕などないはずなのだが。
「こいつは知り合いだよ。誰かに襲われたらしい」
「だったら、助けてあげないとね」
そう言うと、沙羅は火鉢に火を点ける。一方、隼人は市の濡れた服を脱がせる。すると市が呻いた。
「おい、大丈夫なのか?」
語りかける隼人。だが返事はない。まだ意識は回復していないらしい。
それよりも、体のあちこちに打撲傷らしきものがあるのが気になる。恐らく、棒状の物で滅多打ちされたのだろう。
どういうわけだ?
隼人は考えてみた。この市という男、腕は立つ。性格は良くないが、殺し屋としては一流だろう。かつての隼人の仲間にも、優るとも劣らない。
そんな男をここまで痛めつけるとは、一体どんな奴なのだろうか。
「ねえ隼人、どうすればいい?」
沙羅の声で、隼人は我に返った。今、優先すべきは市の怪我を治すことだ。今までの言動からして、この男からの礼の言葉は期待できないが、かといって見捨てる訳にもいかないのだ。 「まずは、温かくして寝かせておけ。あちこち怪我しているようだが、それは目を覚ましてからだ」
遠くから、妙な声が聞こえる……さらに、濡れた何かが顔に触れる感触も。
市は薄目を開けた。見覚えの無い光景が目に入ってくる。ぼろぼろの壁、穴の空いた床板、蜘蛛の巣の張った天井……。
ここはどこだ?
市は上半身を起こそうとした。だが、そのとたんに脇腹に激痛が走る。思わず呻き声を上げ、再び仰向けになる。
その時、白い仔犬がそばにいることに気づいた。仔犬は鼻を鳴らしながら、市の顔を見つめている。
市はうろたえた。この犬は、どこから入ったのだろうか。
だが犬は、市の気持ちなどお構い無しだ。無邪気な顔つきで、じっと市を見つめている。その様子はあまりにも可愛らしい。こんな状況にもかかわらず、市は微笑んだ。
手を伸ばし、仔犬に触れる。仔犬は市の手の匂いを嗅ぎ、ぺろぺろと舐め始めた。
「お目覚めですか?」
不意に声が聞こえ、市はびくりと反応した。声のした方向に、ぱっと向き直ろうとする。
だが、またしても脇腹に激痛が走る。市は呻きながら顔をしかめた。
「大丈夫ですか?」
今度は、すぐそばから聞こえて来る。市は痛みで顔を歪めながら、目線をそちらに向けた。
そこにいたのは、不思議な顔の女だった。髪は金色で短く、肌は白い。鼻は高く瞳は青い……この顔立ちは南蛮人に特有のものだ。
もっとも、市は南蛮人を見たことはない。あくまで聞いた話ではあるが。
「お前……誰だ?」
うろたえながらも尋ねる市。
「私は沙羅といいます。市さん、怪我は大丈夫ですか?」
女は心配そうに話しかけてきた。市は戸惑いながらも、どうにか言葉を返す。
「い、いや大丈夫だよ……それより、お前は俺を知っているのか?」
市がそう尋ねた直後、部屋に入って来た者がいた。
「市、気がついたのか」
その声に反応し、顔を上げる市。すると、そこに見覚えのある男がいた……隼人である。隼人は、真面目くさった表情で市を見下ろしていた。
「お前は……どうしてここにいる?」
驚愕の表情を浮かべ、市は尋ねた。
「どうしてって、ここは俺の家だからだよ」
当たり前だろ、とでも言わんばかりの表情で答える隼人。市は思わず顔をしかめていた。
「お前の家だと? 何で俺はここにいるんだ?」
「川で溺れかけていたお前を、この白助が見つけ出した。そして、俺が担いで運んで来た」
言いながら、隼人は白い仔犬を指差す。
市は嫌な気分になった。よりによって、この世間知らずに助けられるとは。
「礼は言わねえぞ。お前が勝手にやったことだし、俺も別に頼んじゃいねえんだからな」
不貞腐れたような口調で市は言った。日頃から馬鹿にしていたはずの隼人に命を助けられ、借りを作ってしまった……いい気分ではない。
やがて、隼人と沙羅は出て行った。いつものように、芸を見せに行くらしい。一人残された市は周囲を見回す。
ぼろぼろの廃寺ではあるが、居心地は悪くない。床板もまだまだ使える。もともとの建物がしっかりしていたのであろう。いい場所を見つけたものだ。
その時、くんくんと鳴く声がした。見ると、白助がとことことこちらに歩いて来る。隼人と沙羅がいなくなってしまい、寂しいのだろうか。
市の顔に、優しい笑みが浮かぶ。彼は手を伸ばし、白助の頭を撫でた。すると白助は鼻を鳴らし、市の手を舐める。その小さな目には、溢れんばかりの親愛の情があった。
「お前、可愛いな」
言いながら、市は白助の背中を撫でる。犬を撫でるなど、本当に久しぶりだ。そういえば、子供の頃に近所の犬と遊んだ記憶がある……だが、そんな幼い頃の微笑ましい記憶は、いつの間にか血塗られた記憶に塗りつぶされてしまっていた。人間を殺し続けていくうち、犬の可愛らしさすら分からなくなっていた気がする。
白助を撫でながら、市は何気なく辺りを見回した。すると壁の上の方に、小さな窪みがある。そこに、皿に乗った白いものが入っているのが見えた。
何だろうと思い、壁に手を付きながら、どうにか立ち上がる市。起き上がるのも、立ち上がるのも一苦労だ。市は痛みで顔を歪めながら、窪みを覗いてみる。
そこには、握り飯が二つ置いてあった。
市の胸の中に、何とも言えない不思議な気持ちが湧いて来る。他人の作った握り飯を食べるなど、何年ぶりだろうか。
「馬鹿野郎が。あいつら、本当に余計なことばかりしやがって……」
毒づきながら、市は座り込み握り飯を口に入れる。
何故か、塩の味が強く感じられた。
その時、くんくんと鳴く声が聞こえた。市が顔を上げると、白助がじっとこちらを見つめている。いかにも物欲しそうな様子だ。
「お前、腹が減ってるのか?」
市が言うと、白助は鼻を鳴らして返事をする。微笑みながら、市は握り飯を半分に割った。
「ほら、食べてみろ」
そう言うと、市は握り飯の片割れを差し出した。白助は嬉しそうに、握り飯を食べる。
そんな白助を見つめる市の胸は、久しぶりに暖かいものに満たされていた。




