出会無情 一
前作とは、名前が変更されたキャラが二人います。
隼人は、じっと佇んでいた。
時は既に子の刻を過ぎている。江戸の街は闇に包まれており、人通りもほとんどない。そんな街中ではあるが、顔を白く染め奇妙な着物を着た隼人の姿は、否応なしに目立つであろう。もっとも、彼に目を向ける者など誰もいないのだが。
そんな中、隼人の視線はある一点をじっと見つめていた。
どのくらいの時間が経過しただろうか……前から、一人の男が歩いて来た。十手をぶらぶらさせ、やる気の無さそうな表情で周囲を見回している。服装や腰の二本差しからして、間違いなく同心だ。
「あんた、町方の役人だよな?」
相手が通り過ぎた瞬間、後ろから話しかける隼人。すると、同心は面倒くさそうな顔で振り返る。とぼけた顔はどことなく馬に似ており、緩い雰囲気を醸し出している。お世辞にも強そうには見えない。
「ああ、町方の役人さまだよ。俺に何か用か?」
同心の口調には、堅苦しいところが無かった。態度にも、役人に有りがちな偉そうな部分が無い。親しみやすそうな感じだ。その反面、荒事は避けて通る部分も見える。
この男ならば、いざとなれば簡単に殺せるだろう。
「あんた、中村左内って男を知ってるかい?」
再び尋ねる隼人。すると、同心の表情が僅かに変化した。
「中村左内だぁ? 知らねえなぁ」
「そうか、知らないのか……知らなきゃ知らないでいい」
言いながら、隼人はゆっくりと左の手のひらを突き出す。
「なあ役人さんよ、金貸してくれねえか」
「はぁ?」
困惑したような表情を浮かべる同心。だが隼人は、なおも言葉を続ける。
「役人ってのは、懐に二両や三両の金は隠してるって聞いたぜ。なあ、哀れな大道芸人に恵んでくれよ。困っている市民を助けるのも、お役人さまの仕事だろうが」
言いながら、隼人は同心を睨み付ける。すると、同心は鼻で笑った。
「いい加減にしろよ。舐めた真似すると、怪我することになるぜ」
「怪我するのは、おめえの方だ!」
鋭い声を発した隼人。と同時に右手が動く。その手から、分銅付きの鎖が放たれた――
だが同心は地面を転がり、その一撃を避ける。直後、刀を抜き正眼で構えた。
その顔つきは、先ほどまでとは一変している。構えにも隙がない。隼人は、自身の見立てが間違っていたことを悟った。目の前にいる男はただ者ではない。数々の修羅場を潜ってきた、本物の強者だ――
「くそがぁ!」
隼人の顔が歪む。この同心は本当に強い。先ほどまでは、剣鬼の部分を見事に隠していたのだ。今は裏の顔を剥き出しにし、隼人と向きあっている。
だが、隼人も引き下がる訳には行かない。彼と彼の仲間は、昨日から何も口に出来ていないのだ。今日は何としてでも、金を手に入れなくてはならない。
今、出来ることは……この同心を殺し、金を奪うしかないのだ。
金を手にしなければ、あいつの病が悪化するかもしれない。
睨み合う隼人と同心。両者から放たれる殺気は、今や周辺の空気さえも侵食し始めた。隼人の額に汗が滲み、白い塗料が少しずつ流れ落ちていく。隼人は鎖を振り回しながら、じりじりと横方向に回り込む。同時に、左手は鎌を握りしめていた。
だが、その時……げほげほと咳き込むような声が聞こえてきた。
その途端、隼人の表情が一変する。
「沙羅!」
叫ぶと同時に、隼人は走った。同心に背を向け、路地裏へと入り込む。
一方、同心は刀を下ろした。額の汗を拭い、そっと隼人の後を追う。
そこには、一人の女がしゃがみ込んでいた。鳥追い笠を被り、みすぼらしい着物をまとった女が、苦しそうに咳き込んでいる。女の傍らには、三味線が立て掛けられていた。
その横では、隼人が懸命に女の背中をさすっている。先ほどまでの、殺気に満ちた表情が嘘のようだ。
同心は、その姿をじっと見つめた。
ややあって、懐から何かを取り出し、地面に放り投げる。
それは、一枚の小判だった。音に反応した隼人は振り向き、地面の小判を見つめた。次いで驚愕の表情を浮かべながら、同心の顔を見上げる。しかし、同心の表情は冷たいままだ。
「おい、勘違いすんじゃねえぞ。こいつは貸しただけだ。後で利子付けて返してもらうからな。俺はしつけえぞ。地獄の果てまで取り立てるからな」
「あ、ああ」
女の背中をさすりながら、答える隼人。一方、同心は背を向け、何事も無かったかのような態度で去って行った。
・・・
「婿どの、あの犬をどうなさるつもりですか?」
義母のいとの問いに、中村左内は顔を上げた。
「えっ、ええ。可愛いですし、この先も飼ってやりたいのですが、駄目でしょうか……」
左内は恐る恐る、上目遣いで言ってみた。すると、妻のきぬの表情が変わる。
「犬を飼うとなれば、餌がいります。あなた、餌代はどうなさるのです?」
その言葉に対し、左内はうつむきながら目刺しを食べた。
中村家は今、朝食の時間である。左内はいつもの如く、義母のいと、妻のきぬに嫌味を言われながらの朝食だ。ただ、今朝はいつにも増して激しい口撃である。その原因は、左内が拾ってきた仔犬にあった。
下を向いたまま、黙々と箸を進める左内。だが、二人の口撃は止まらない。
「とにかく、あの犬は無駄飯食らいな上に、きゃんきゃん吠えるだけの役立たずです。あなたのお手当てで、犬など飼えると思っているのですか? さっさと新しい飼い主を見つけてください!」
きぬの小言に、左内は顔をしかめた。
「分かりましたよ……引き取り手を探してきますから、それまで待っててください」
昼過ぎ、左内は町をうろついていた。彼は、曲がりなりにも定町回りの同心である。町の治安を守るのが仕事だ。
もっとも、左内の場合は他の同心とは違う業務に励んでいたのだが。
「おい銀太、おめえ何やってやがるんだ?」
十手をちらつかせながら、目の前の男を睨み付ける左内。
「い、いやだなあ……旦那、あっしは何もしてませんよう」
銀太と呼ばれた若い男は、へらへら笑いながら頭を掻いている。顔つきや身なりからは小悪党の雰囲気を漂わせているが、どこか素直な部分も滲み出ている。だが、左内は容赦しない。十手をぶらぶらさせながら、顔を近づけて行く。
「そう言えば、そこの越後屋で高い着物が盗まれたって聞いたんだよ。まさか、お前じゃないよな? お前によく似た男がうろうろしてたそうだが」
「このあっしが、そんなことするはず無いじゃないですか」
言いながら、左内の手にさりげなく金子を握らせる銀太。すると、左内は笑みを浮かべる。
「なるほど、確かにお前はそんなことはしないよな。俺の勘違いらしい。まあ銀太、真面目に働けよ」
わざとらしく大声で言いながら、左内はその場を後にする。残された銀太は、ついてない……とでも言いたげな様子で、顔をしかめながら首を振った。
もっとも、左内に悪事に関する情報を知られたのは、彼にとって幸運な話なのだ。左内は賄賂さえ渡せば、少々のことには目を瞑る男である。これが真面目な同心ならば、銀太は確実に捕らえられていただろう。
さらに、町中を歩き続ける左内。すると、後ろから声が聞こえてきた。
「旦那ぁ! 待ってくださいよ旦那!」
独特の、野太い声……左内は、うんざりした表情で振り返る。
「なんだよ源の字。でかい声だすんじゃねえ」
「何いってるんですか。旦那、あっしを置いてうろうろしないで下さいよ」
ぼやきながら、こちらに走って来たのは目明かしの源四郎だ。いかつい顔とがっちりした体格の持ち主であり、悪党連中への聞き込みに連れて行くにはちょうどいい男である。
「うるせえな。俺は町の見回りで忙しいんだよ」
「どうせ、あちこちで賄賂をせびってたんでしょうが……それより旦那、仕事ですよ」
左内と源四郎は、ひとけの無い空き家へとやって来た。ここには、かつて蕎麦屋があったが……今は誰も住んでいない。この近くには素性の怪しげな者が多く住み着いており、町方も迂闊に手を出せないのだ。事件があったからと言って下手に首を突っ込むと、非常に面倒なことになる。
そんな場所にある店を買い取ろうなどという物好きは、さすがにいなかった。したがって、この店も未だに空き家のままである。
もっとも、左内はそんなことはお構い無しだ。ずかずか入って行った。
「旦那、あっしはどうも、あの二人は信用できないんですよ」
店の地下室に入るなり、いかにも不満そうな表情で言う源四郎。一方、左内は椅子に座り、面倒くさそうに源四郎の言葉を聞いていた。
「旦那、あっしは思うんですよ。奴ら二人からは、仲間意識ってものが感じられないんですよね」
いかにも不快そうな表情でぼやき続ける源四郎。左内は黙ったまま、彼の言葉を聞いていた。
「……とにかく、市と鉄は信用できませんや。旦那、奴らと組んでて大丈夫なんですかい?」
ひとしきり二人に対する文句を言った後、案ずるような顔で尋ねる源四郎。
「まあ、お前の言いたいことも分からなくもねえ。確かに、奴らは信用できないな。しかし、今は奴ら以外に組める相手がいねえんだよ」
市の表の顔は竹細工師だが、裏の顔は一匹狼の殺し屋だ。もっとも市は、色んな連中と付き合いがある。したがって、あちこちから仕事を引き受けているのだ。この場合の仕事とは、言うまでもなく殺しである。
一方、鉄はさらに始末に終えない。現物の鉄との二つ名を持つ彼は、六尺(約百八十センチ)近い身長と二十五貫(約九十三キロ)の体格を誇る巨漢だ。この男は、江戸でもっとも有名な裏の組織である『龍牙会』と個人的に繋がっている。その上、恐ろしい病を抱えてもいるのだ。
中村左内は、その二人と共に『仕掛屋』という裏稼業を営んでいる。晴らせぬ恨みを晴らし、許せぬ人でなしを消す殺し屋稼業を。
「まあ、今のご時世じゃあ仕方ないんだろ。それにだ、裏の世界で仲間意識なんか持っていたところで、何の役にもたちゃしねえよ。奴らは、俺のことを仲間だなんて思ってねえからな」
自嘲の笑みを浮かべながら、左内は言った。すると、源四郎が思い詰めたような表情で立ち上がる。
「旦那、あっしは違いますからね。あっしは、大恩ある旦那のためなら命を捨ててもいいと思ってるんですよ。あっしにとって、旦那は仲間……いや、それ以上の存在ですから」
言いながら、顔を近づけて来る源四郎。間近に迫る厳つい顔に、左内はおぞましいものを感じた。前から思っていたのだが、この源四郎には男色の気があるのではないだろうか。
「あ、ああ、分かってるよ。俺もお前だけは、仲間だと思ってるから」
言いながら、さりげなく顔をそむける左内。しかし、源四郎はさらに顔を近づけて来る。
「旦那、あっしの目を見てください。ほら、あっしの目を。奴らの目とは違うでしょう――」
「ああ分かったよ! それより、仕事の話はどうなったんだ!」
乱暴な口調で言いながら、左内は源四郎を押し退ける。すると、源四郎は不満そうな表情をしながらも、しぶしぶ口を開いた。
「わかりましたよう。今回の標的は、羅漢寺の一家ですよ」
「羅漢寺だと? そいつは厄介だな」
左内は、思わず顔をしかめた。羅漢寺といえば、江戸でも有名なやくざの一家である。百人近い子分を抱えており、縄張りも広い。同心ですら、迂闊に手出しできない大物だ。
「そうなんですよ。羅漢寺の親分である政次郎、その女房のお光と若頭の勘八を殺ってくれってのが、向こうさんの依頼でさぁ。しかも、お代はたったの十両です」
「十両だと? あのなぁ、そいつはちょっと無理があるぞ。たったの十両で、羅漢寺に殴りこめってのかよ。市と鉄だって、うんとは言わねえだろう。特に市は、安い仕事は引き受けないからな」
「そうですよね。じゃあ、この仕事は断りますか?」
源四郎の問いに、左内は首を捻った。羅漢寺一家は確かに強敵である。それを十両でやれというのは、割に合わない話だ。断るべきかもしれない。
だが、今はそれよりも優先しなくてはならないことがある。
「そうだなぁ……とりあえず保留にしといてくれ。それよりも、お前に一つ頼みがあるんだよ」
「頼みですか? 何なりと言ってください」
言いながら、またしても顔を近づけてくる源四郎。左内は、思わず顔をそむけた。
「近いんだよ、お前は……それより、白塗りの旅芸人を探してくれ」
「白塗りの旅芸人、ですか?」
訝しげな表情を浮かべる源四郎。
「ああ、顔を白く塗った野郎だ。背は低いが、身は軽い。三味線を持った、背の高い女と組んでる。女の名前は沙羅だ。手がかりはそれしかないが、とりあえず探してみてくれ」
「分かりました。乞食連中や河原者たちに、ちょっくら聞いてみます」