犯人は?
「それでは今伺ったお話の要点をもう一度繰り返しますので、間違いがあればご指摘下さい」
波越警部はそう前置きして調書を手に取り、たった今私が証言した内容を繰り返しました。私は椅子の事は伏せ、偶然扉の隙間から逢引の様子を見た、そしてしばらくしてから和華子さんと話をしようと再び書斎に向かった所、誘拐の現場に出くわしたという風にして、目撃した出来事を話したのです。嘘の証言をするのは気が引けましたが、事情が事情なだけに仕方ありません。
「目撃した時間は覚えておいでですか」
「はい。たぶん十時頃だったかと思います」
波越警部は懐中時計を取り出してちらと眺めると、話を続けました。
「では、ここからは男爵夫人の証言になりますが……。同じく午後十時頃、小早川男爵夫人は、用事があって令嬢和華子さんの部屋を訪ねた。ところが部屋に姿が見当たらず、邸内を探したがやはりどこにもいない。そこで隣家である秋月伯爵家の方に来ているかと、使いをやって尋ねた。ちょうど同じ頃秋月伯爵邸では、帰宅した伯爵が、書斎の窓が開け放しになっているのを発見。室内には何やら争ったような形跡もある。そこへ小早川男爵家から使いがやって来たので、その事を話した。使いの者は男爵夫人に伝え、夫人が警察に通報した」
「はい、その通りです」
男爵夫人が答えました。
「……どうやら和華子さんは伯爵家の書生と親密な仲であったらしい。先程我々が書生の所在を確認した所、出掛けたきりまだ戻らないそうで、書生は和華子さんの行方不明と何らかの関わりがある可能性が……」
「はい、きっとそうですわ!」
男爵夫人はキッと顔を上げ、警部の言葉を遮りました。
波越警部は咳払いを一つして、続けます。
「……ご家族一同、他に和華子嬢が誘拐さるる理由の心当たりは?」
「あるはずがありません」
男爵夫人が苛立たしげな声を上げました。
「和華子はそんな娘ではありません。あの書生が和華子を連れ去ったのです。そうに決まっていますわ。先程から申し上げているではありませんか」
日頃穏やかな男爵夫人が、このように強い口調で断定的なもの言いをするなど珍しい事です。しかし波越警部は夫人のそんな態度に気を悪くもせず、落ち着いた声で答えました。
「どうぞご心配なく。書生に関しては、発見しだい連行せよと、先ほど既に通達を出しております。今頃は大勢の巡査が街を巡回しているはずです」
「まあ、そうでしたの。……すみません、つい気が動天してしまって」
男爵夫人はややきまり悪そうに、椅子の上で姿勢を正しました。
「お察しします」
明智探偵が答えました。
「……あの」
その時、それまで黙っていた父が口を開きました。すっかり動天し、落ち着きなく両手を組んだり解いたりを繰り返しています。苦痛を露わにした表情は痛々しい程です。日頃とは打って変わって動揺を隠しきれない父のそんな様子に、私は少々驚かされました。しかし、我が娘のように幼い頃から可愛がってきた和華子さんの事であれば、無理もないかもしれません。
「何でしょう」
波越警部の鋭い視線が父の上に止まりました。
「仮に書生が犯人だとしても、彼の目的は何なのでしょう。もしかしたら誰か他の人間の仕業という可能性もあるのでは」
父は躊躇いがちに意見を述べました
「……決めつけてしまうのは危険だと思います。それに和華子さんが、その、書生と親密な仲だなどと。何かの間違いでは? 和華子さんは人一倍、曲がった事が嫌いなたちです。その和華子さんが、そのようなふしだらを……」
それは私とて同じ心持ちでした。父の言う通り、曲がった事には激しいまでの怒りを露わにする和華子さんが、あの純情可憐な和華子さんが、と、心のどこかでは信じられずにいるのです。
「何を仰るんですの」
父の言葉に、男爵夫人が強い口調で反論しました。
「あの書生の仕業に違いありませんわ」
「しかし……」
「まあまあ、皆さん」
口々に意見を述べる二人を、波越警部が手を上げて制しました。
「……おやおや」
それまで黙って一同を眺めていた明智探偵が、呟きました。
「皆さんどうやら、いっぱしの素人探偵のようですね。……ねえ、和真さん」
その口ぶりに、どこか人を小馬鹿にしたような……、何とも言えぬ不快な響きを感じ取り、私は思わずはっとして彼を見つめました。そう言えば波越警部も、先程から時折チラチラと私の方を見ています。
「書生に関しては、我々も、あくまでも可能性の一つと考えています。ご令嬢の安全を考えて早手回ししただけの事です。もちろん警察は、あらゆる可能性を検討しますよ。あらゆる可能性をね」
警部は何となく含みのある口調で、そう言いました。
「ですが、あの書生でなければ一体誰だと言うのです。他に動機のある人間などおりませんわ」
男爵夫人が、あくまでも言い張りました。
「そうですね……」
明智探偵は顎に手を当て、考え込む素振りで、部屋にいる一人ひとりの顔を順繰りに見回しました。そして、ふと私の所で視線を止めました。
「例えば、こちらの和真さんですが。動機云々を言うなら、和真さんにも動機がありますね」
「何ですって!」
「和華子さんは口約束ではあるものの、両家の間で和真さんの許嫁のように扱われていたと言うではありませんか。不貞を働いた和華子さんに憤って拉致監禁し、その罪を恋敵の書生になすりつけようとした、という筋書きはとても自然です。また、和真さんには機会もあった。『たまたま』誘拐の瞬間に書斎に入った彼は、犯人を追跡したが逃してしまったと言う。しかしその証言を裏付けるものは何一つ無いのです。実は彼こそが和華子さんを書斎から連れ出し、どこかへ隠しておいて、何食わぬ顔で帰宅したのかもしれない。どうです、理にかなっているではありませんか」
「まあ! なんて事を仰るんですの」
「ち、違います。僕はそんな……」
本人を目の前にしての大胆不敵な発言に、私も男爵夫人も度肝を抜かれました。その時です。
「明智先生」
静かな、しかし怒りの込もった声が響きました。
「和真君の証言は、僕が裏付けします。それに、彼はそんな事をするような人ではありません」
それは小林君でした。
明智探偵は一瞬、おや、という顔で眉をしかめました。しかしすぐに元の笑顔になると、
「まあまあ、そう怒らないでくれたまえ、小林君。ちょっとした軽口だよ」
と戯けて見せました。
「軽口ですって」
「ああ。もし僕が本当に彼を犯人と考えているならば、本人にこんな事を告げるはずがないじゃないか。だいたい犯人にしては、わざわざ君に助けを求めたり、行動が不自然だ。いや待てよ。それも、こちらの裏をかく計略と考えられない事も無いな……」
明智探偵は最後の方はまるでからかうように、真剣な表情の小林君に言ってのけました。しかしその口調とは裏腹に、眼光はするどい光を放っています。
「先生! 一体……」
小林君は明智探偵に詰め寄りました。しかし明智探偵はそれに答えず、
「和真さんは君にとって、随分大切な友人のようだね」
と、目を細めて微笑みました。
小林君は、可哀想に、顔を伏せてしまいました。
「さて、小林君をからかうのはこれぐらいにしておこうか」
明智探偵は平然と、男爵夫人の方に向き直りました。
「つまり僕が言いたいのはですね、客観的に物事を見て、感情論抜きで判断を下す必要があるという事ですよ」
さすがに男爵夫人も、これには返す言葉がありませんでした。
「警部、失礼します。邸内の人員配置ですが……」
先程から脇で控えていた巡査の一人が、書類を手に何やら警部と打ち合わせを始めました。私は心なしかほっとして、掛けていた長椅子の上で身体をほぐしました。ふと横を見ると、父が眉をしかめ、目頭を指で抑えつつ溜息をついています。男爵夫人も、今にも泣き出しそうな顔をしています。
「ああ、どうしたら良いのかしら。こんな事になってしまって……」
男爵夫人が、誰にともなく呟きました。
「奥様」
出し抜けに力強い声が響き、夫人は驚いて顔を上げました。見れば、小林君です。小林君は夫人の前に進み出ると、その小さな手をしかと握りしめました。
「奥様、どうぞ気を確かにお持ち下さい。お嬢さんはきっとご無事で帰っていらっしゃいます」
不器用な小林君らしい唐突な感情表現に、男爵夫人は少々戸惑ったようです。が、しかし、夫人はすぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべました。
「まあ、ご親切に。和真さんのご友人であるだけで、こんなに親身にして頂いて良いものかと思いますが……。今はご厚意に甘えさせていただきますわ。ありがとうございます」
「あ、いえ……」
小林君は真っ赤になって、慌てて夫人の手を離しました。父は少々訝しげな表情で二人を眺めています。
「お父さん、今夜はお帰りになれないかもと思っていました。工場の方は大丈夫なのですか」
私がそう聞くと、父は私の方に疲れた顔を向けて答えました。
「ああ、それが、ひどい話だ。ただのデマだったのだよ」
「デマですって」
「ああ。知らせを聞いて慌てて現地に向かったのだが、着いてみると現地では事故など起きていないと言うのだ。とんだ悪戯電報だ。たぶん、商売敵の嫌がらせか何かだろう」
父は溜息をつきました。
「先に電報で確認すれば良かったのだが、何しろ大事故が起こったかのような知らせだったもので、慌ててしまってね」
「そうですか。それは災難でしたが、工場の方が無事で何よりです」
「ああ」
返事をした父は、半ば上の空でした。今は仕事などよりも、和華子さんの事で頭が一杯なのでしょう。
「あの。和真さん」
ふいに、男爵夫人が私の方に身を寄せました。
「貴方、以前からご存知でいらしたの。あの書生のこと……」
夫人は小声でそう言いかけ、すぐ近くに小林君がいることに改めて気づいたようで、はっと口をつぐみました。家庭内の醜聞を、警察はともかく部外者である小林君の前で堂々と話すのは気が引けたのでしょう。察しの良い小林君は然りげ無く席を立ち、部屋の中で忙しく立ち働く巡査達と何か話し始めました。おそらく彼も、夫人とこうしてずっと差し向かいで座っているのが気まずかったのかもしれません。そんな小林君の背を眺めつつ、私は、
「いえ、その……」
と上の空で答えたのですが、その事で再び私の心に、あの消えない炎のような感情がめらめらと燃え上がりました。和華子さんが、あのように軽佻浮薄な男と。それを思い出すと、私の胸は嫉妬と怒りで火が付いたように熱くなったのです。
「まあ、そうでしたのね。貴方がご存知だとは思いもよりませんでしたから。少し驚きましたわ」
夫人が私の顔をじっと眺めているのに気づき、私は我に返りました。嗚呼、私は今、嫉妬に囚われた醜い男の顔をしていなかったであろうか。私は嫌な考えを振り払うかのように、軽く頭を振りました。
それにしても夫人は、以前から二人の仲を知っていて、黙認していたのでしょうか。
「どうしておばさまは……」
私の言葉の終わりは、廊下から響いてきた、ドタドタという乱暴な足音でかき消されてしまいました。続いて何やら喚き散らしている、呂律の回らない大声。私は慌てて椅子から立ち上がりました。波越警部と明智探偵は訝しげに顔を見合わせましたが、私達家族には、それが誰なのかすぐに分かったのです。
ばたんと大きな音を立て、和明君が居間の扉を開きました。
「おやおや、これは皆様お揃いで……」
いつもにも増して、今日はひどく酔っているようです。どうにか歩くのがやっと、という体でした。
「和明さん」
男爵夫人が、静かな声で、しかし鋭く窘めました。
「ああ、お母さん。可愛い息子がただ今お帰りですよ、と。すみませんが、女中に水を一杯言い付けてもらえませんか。ああまったく、ひどい酒でしてね、今夜は」
和明君はそう言うと、だらしのない姿勢で長椅子に身体を投げ出しました。
小林君や波越警部達の眼前での醜態に、私は身が縮こまる思いです。
「和明君! いい加減にしたまえ。警察の方々の前で」
「……警察?」
そのまま眠り込んでしまいそうだった和明君は、その言葉に顔を上げました。
「和明君。落ち着いて聞くんだ。和華子さんが誘拐されたのだ」
「何だって!?」
和明君は長椅子から半分腰を浮かしたまま、言葉を失ってしまったかのように、口を半開きにして私をじっと見つめました。しかし次の瞬間、私に向かって矢継ぎ早に質問を浴びせてきました。
「一体どういう事なんだ! 誰が……、誰がそんな事を。一体どうして」
私は和明君の隣に席を移すと、静かに彼を座らせました。
「僕の家の書生に連れ去られた可能性があるんだ。和華子さんは彼と、その、親密な間柄であったらしい。それで……、その事情と、書生が邸内にいない事を考え合わせた上で……」
「和華子が、あの書生とだって?」
和明君が驚くのも無理はありません。私は小さく頷きました。
「そ、それで書生は、一体どこに和華子を……」
「落ち着いて。警察が既に手配をして、探している」
「落ち着いてなんかいられるか!」
和明君はいきなり立ち上がり、大声で怒鳴りました。
「こうしている間にも、和華子は……。万が一の事になる前に、あいつをとっ捕まえて、締めあげてでも白状させて……」
和明君は真っ赤な顔をして、腕を振り回して叫び散らしています。放っておけばそのまま当てもなく街に飛び出し、書生を探して走り回ろうかという勢いです。
そんな和明君の様子に、私は唖然としてしまいました。その態度の変わりようには、驚かずにいられません。いつも酔っ払って軽口ばかり叩いている和明君からは、想像もつかない深刻な表情です。まるで昔の、まだこんな風になってしまう前の和明君が戻ってきたようでした。
「お話中、失礼」
波越警部が咳払いをしました。
「私は本件を担当します、波越と申します。貴方は小早川男爵家のご長男でいらっしゃいますね」
「え、ああ、そうです……」
「こちらは探偵の明智小五郎先生です」
「え、あの明智小五郎?」
「はい、そうです。よろしくお願いします」
和明君の無礼な態度には構わず、明智探偵は穏やかな笑顔で答えました。さすがの和明君も気恥ずかしくなったのか、
「あ、それはどうも」
などと挨拶をしてお茶を濁しました。
「しかし、和華子が……。畜生……」
和明君は俯き、独り罵りました。酔いもすっかり冷めたようです。
「さ、和明君、とにかく座って」
窘める私の言葉を無視し、和明君は一人ぶつぶつと呟きながら部屋中を歩き回りました。
「書生……、書生だって?」
その時ふと、彼の目線が、部屋の隅にいた小林君の上に止まりました。その途端和明君はいきなりつかつかと小林君の前に進み出て、
「あんたは……、警察の人間じゃないな。誰だ。どうしてここにいる」
と、無礼な言葉をぶつけたのです。
「和明君!」
私の堪忍袋の緒が切れました。
「酔って醜態を晒すのは君の勝手だが、僕の友人に迷惑をかけないでくれたまえ。彼は好意で捜査に協力を申し出てくれたんだ。礼を言いこそすれ、その無礼な態度は以ての外だ」
私は強い口調で彼を窘めました。
「友人? 調査に協力だって?」
和明君はじろじろと小林君の顔を眺め回しました。私は小林君が終いには怒りだしてしまうのではないかと心配しましたが、さすがに小林君です。
「はい。僕は明智探偵とは昔からの馴染みでして、お仕事の手伝いをした事もあるのです。それで友人の和真君の役に立てればと思って」
と、冷静に答えました。
「そう、そうなのか……?」
和明君はようやく落ち着いたようで、投げ出すように椅子に身体を沈めました。
「和明さん。そこまで捜査に協力的になって頂けるのであれば……。少々、お話を伺ってもよろしいですかな」
波越警部が和明君の前に進み出ました。
「え? あ、ああ」
「ありがとうございます。では先程まで、どこで何をしていらっしゃったかお話頂けますか」
「何ですか、それは。ああ、アリバイの確認というやつですか。あんた達は、和華子の兄である俺の仕業だと?」
和明君は噛み付くような勢いで、警部に食って掛かりました。
「なに、形式的なものですよ」
波越警部は動じず、いかにも気楽な調子で構えつつも、和明君のほんの少しの表情の変化をも見落とさないよう、抜かりがありません。
「覚えていませんよ。確か夕方くらいからいつもカフェーで飲み始めて……、それから……、ええと、何軒かはしごしたのでしょう。どうやって帰ってきたのかもさっぱり覚えていません」
和明君はそう答えました。
「そうですか……、分かりました。ところで、」
波越警部は、男爵婦人と父に尋ねました。
「両家の他のご家族はどうされていますか」
「ああ、ついうっかりしていましたわ。……皆に知らせなくては」
男爵夫人が慌てた様子で立ち上がると、波越警部はそれを手振りで制しました。
「男爵夫人、急がずとも結構ですよ。私と明智先生は、まず書生の部屋と、現場の書斎とを調べてみたいと思います。その間にご家族にお知らせ下さい。後で全員に詳しくお話を伺いましょう」
彼はそう言うと、明智探偵と共に立ち上がりました。
「そうそう、小林君、君が手伝ってくれるのだったね。一緒に来てくれるかい」
明智探偵がそう言って小林君を手招きすると、小林君も静かに立ち上がりました。
「小林君、たまたま君がこの件に関わったのも何かの縁だろうね。君の助けを当てに出来て助かるよ。何しろ君が大学に通うために僕の元を離れて以来、優秀な助手がいなくて大変苦労しているのだよ……」
明智探偵の、一見親しげなその口調の裏に、どこか含むところがあるように思えたのは私の気のせいでしょうか。
「……はい、先生」
私に背を向け歩き去りながら、小林君が小さな声でそう答えるのが聞こえました。