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闇の中

「大変なものとは、一体」

 私は驚いて尋ねました。彼の真剣な様子を見るに、只事では無いようです。しかし彼は言い淀みました。

「君は僕の奇妙な望みを叶えるために、力を尽くしてくれた。それなのにこんな事を告げねばならないなんて……」

 平素はハッキリと物を言う彼の、今日に限って何とも歯切れの悪い口調に、私は不安に駆られました。

「一体、何なのだい。どうか言ってくれ」

「……順を追って話そう。君が男爵夫人と共にこの部屋を出ていった後、僕はしばらくの間は感動の余韻冷めやらず、椅子の中でぼんやりと物思いに耽っていた。その時扉の開く音がして、誰かが部屋に入って来たんだ。僕は冷やりとして、覗き穴からそっと覗いてみた。するとそれは、その、僕は名前を知らぬが、君の家で世話をしている書生君だったのだ」

「書生だって? 彼が? 一体何しに来たのだろう」

「僕もそう思って見ていると、書生君は辺りを警戒するようにそっと窓際に忍び寄って、そら、そこの飾り棚の上に大きな花瓶があるだろう。その中に、手に持っていた紙片を滑りこませた。そして急いで部屋を出て行った」

「何だい、それは」

「ぼくも訝しく思った。そこでつい好奇心に負けて、人気が無いのを確認して椅子から這い出し、その紙片を取り出してみたのだ」

「何が書いてあったんだい」

「うん。それは一種の、他愛もない恋文だった。よくある陳腐な口説き文句をつらつらと並べ立てた挙句、明日書斎でお会いしようと書かれていた。そこで僕は、ははあ、この青年は屋敷の女中か誰かと良い仲で、こんな風に手紙をやり取りしているのだなと思った」

「へえ」

「だがそうこうしているうち、再び誰かがやって来る気配がしたので、僕は慌てて椅子に戻った」

「うん、それで」

 相槌を打つ私の顔を見て、彼は一瞬の間を置き、言いました。

「部屋に入って来たのは、和華子さんだったのだ」

「えっ」

「彼女は真っ直ぐに花瓶の所にゆき、紙片を手に入れて読んだ。そしてそれを持って部屋を出て行った」

 私は黙りこんでしまいました。

 それだけ聞くと、何だか、まるで……。

 彼は自分が悪い事でもしたかのように、申し訳無さそうに、黙っている私を見つめました。

「ええと、それは、一体……」

「つまりだね」

 彼は諭すように言いました。

「和華子さんと書生君は、逢引の約束を交わしていたんだ」

 私は思わずハッと息を呑みました。だが次の瞬間、思わず吹き出したのです。

「まさか、そんな事が在る筈無いよ」

 そうです、そんな事が在る筈は無いのです。彼は和華子さんの事を全く知らぬから、そのような邪推をするのです。まあ、無理もありません。しかしあの清楚で正義感の強い和華子さんが、逢引だなどと。そんな事は有り得ないのです。

「しかし僕の見た手紙には……」

「それはきっと……、そうだ、書生は何か内密の用事でも言い使ったんじゃないかね」

 私は自分でそう言ってから、はたと気付きました。もしそうなら、それだけでも二人が親密だという証ではありませんか。しかし私の家の書生と、隣家の令嬢である和華子さん。そう接点がある筈もありません。もちろん和華子さんは前にも述べたように、家族同然で私の家に出入りしていますから、書生とも顔見知りではあります。しかし私の知る限りでは、格別用も無いのに会話を交わしたりするような事は無かったはずです。

 そのはずですが……。私は俄に不安になり、むきになって反論しました。

「しかし、しかしだね。それは間違いなく和華子さんと書生だったのかね」

「どういう意味だい」

「君はそのどちらとも、ほとんど面識が無いじゃないか。この部屋の暗がりでてっきりそう思い込んだだけで、本当は別人だったんじゃないか」

「それは有り得ない」

 彼はまるで、私の言葉を打ち砕くような調子で言いました。

「確かに僕は和華子さんとは一度、いつだったか街で君と一緒にいて、偶然彼女に出くわした時に挨拶しただけだ。書生君に至っては、以前この家に寄らせてもらった際に見かけたきりだ。だが間違いでは無い。ぼくは人の顔を忘れぬたちなのだ。それに今宵の満月の月明かりで、部屋は昼間のように明るかった。確かにその二人だったと断言できる」

 私は言葉を無くしてしまいました。ムクムクとまるで嵐の前の雲のように、胸に疑惑が湧き上がってきたのです。

「ついでに言うなら、二人は手紙のやりとりに慣れている風だったよ。部屋に入って真っ直ぐに隠し場所に向かって行って……」

 彼はそこで、はたと言葉を切りました。気づけば、私の顔をじっと見つめています。私はよほど打ちひしがれた顔をしていたのでしょう。私を見つめる彼の顔にも、苦痛の色が浮かび上がりました。

「……ねえ、君」

 彼は私の肩に、労るようにそっと手をかけました。

「僕はずっと椅子の中で、ああでもない、こうでもない、とか、果たして君にこの事を告げるべきか否か、などと考えていた。つい先程の、母と再会した感激すら忘れてしまう位、思い悩んだ。しかしこうして、ありのままを君に告げるのが一番良いと考えたんだ。どうか恨まないでおくれね」

「そんな、恨むなどと」

 私は力なく、彼に微笑みました。

 しかし、これは本当にどういう訳なのでしょう。

「僕はね、これが君だからこそこんなにも案じているのだ」

 彼がふと、その長い睫毛を伏せ、小声で呟きました。

「僕だからこそ、とは、どういう意味だい」

「君という人は、穿った所がこれっぽっちもない。疑ったり、騙したり、笑顔の裏に本心を隠していたり、人とはそういうものだ。しかし君は、人は皆根っこの所では善人なのだと信じている。……ところが女というものは、ねえ」

 妙に含みを持たせた言い方が、日頃の彼らしくもありません。その言い草に、私は少なかず腹を立てました。これではまるで、和華子さんが何か後ろ暗い本性の持ち主であるかの如くに聞こえます。

 しかし、彼女はそんな女性ではありません。何しろ私はほんの幼い頃から、彼女を知っているのですから。それに、そこらの下賤の女であればともかく、彼女は確かな身分の人なのだ。そう言いかけ、私は慌てて言葉を飲み込みました。それではまるで私が、身分によって人の心の貴賤を判ずる人間であるかの如く聞こえます。それに明らかに「確かな身分」でない彼の前で、そんな事を口にするのは憚られました。私は彼の人となりを知っていますから、生まれによって彼を蔑む気持ちなど毛頭ないのです。彼に誤解され、友情にひびが入るような事態を招きたくありませんでした。そこで結局私は、彼の言葉に対する反論も思いつかぬまま、ただ押し黙ってしまいました。

「ねえ、君」

 彼は優しく、畳み掛けるように私に言い聞かせました。

「結婚というものは、一大事だからね。後でやはり間違いだったと気づいても、それを正すのは容易でない。どうかこの事を良く考えて、正しい選択をしてくれ給え。僕は君が、君に相応しい女性と一緒になり、幸福になって欲しいと願っているんだ。何しろ君はこんな僕の、唯一無二の親友なのだからね」

 そろそろ夜が明け、使用人達が起きだして来る時刻です。私は慌ただしく彼を裏口から送り出し、半分魂が抜けたようになって自分の寝床に潜り込みました。


 次の日私は学校へも顔を出さず、朝からただ自室でぼんやりとしておりました。何となく、学校へ行き友人の顔を見るのが嫌でした。彼の顔さえ見なければ、この出来事が消え去ってしまうような気がしたのです。

 しかし、そうはいきません。やはり和華子さんに問い正すべきでしょう。いや、でも……。いえいえ、どうしてそんな事が出来るでしょう。そもそも私は正式に、和華子さんの何という訳でも無いのです。和華子さんを妻にして幸福な家庭を築くという、漠然と描いていた私の未来の絵図面。しかしそれはあくまでも、私が勝手に描いていたものです。私は婚約者でも何でもないのですから、彼女が他の男と逢引しようが、それを責める資格はありません。改めて考えてみれば、和華子さんが私の家に嫁ぐというのは、幼い頃から両家の親達が言い続けてきただけの話です。いつの間にか暗黙の了解のようになっていましたが、和華子さんはそれをどう考えていたのでしょう。華族の結婚は親が決めるのが当然なので、私はこれまで和華子さん自身に問うてみた事などありませんでした。しかし思い起こせば、この話が出る度、和華子さんはどこか戸惑うような表情を見せていた気がします。はっきり嫌とは言えないものの、もしかしたら和華子さんには他に想う人があったのではないでしょうか。そしてそれが、あの書生なのでは。しかも男爵夫人の話を聞いた後ですから、殊更に説得力があるのです。もし和華子さんが男爵夫人のように駆け落ちなぞしてしまったら、私はどうしたら良いのでしょう。

 散々クヨクヨと思い悩んだ挙句、その煩わしさに耐えかねて、私はため息混じりに立ち上がりました。じっとしていても気が滅入って仕方ない、と、ともかく部屋を出たのです。

 既に午後になっていました。私の足は自然、書斎に向かいました。

 書斎に入ってゆくと、例の「人間椅子」が、まだそこに置いてあるのに気づきました。そういえば昨夜はすっかり忘れていましたが、なるべく早いうちにこっそりと運び出さねばなりません。

 私はそっと、その人間椅子に掛けました。上質のスプリングは僅かの音も立てません。クッションは硬過ぎず柔らか過ぎず心地良く身体を包み、素晴らしい座り心地でした。確かに、上等な椅子のようです。

 私は椅子にもたれ、目を閉じ、しばらくその座り心地を楽しみました。そうしているうち私の心は少し落ち着きを取り戻してきたのです。

 私はふと、友人の言葉を思い出しました。ああ、これが、彼の言っていた「闇」なのかもしれない。今の私は、ちょうど彼の言っていたように、心にぽっかりと穴が空いてその中に暗闇が広がっている様な気がします。どこへ行けば良いのか解らない、迷い子の心持ちがします。あの時には何気なく聞き流した彼の言葉が、今になってひしひしと私の胸に蘇りました。

 はっきりと和華子さんに問いただすべきか、否か。ああでもない、こうでもないと、取り留めもなく考える時間は恐ろしく苦痛なものです。ああ、もし、人の心が読める機械があったなら。私はそのような馬鹿馬鹿しい事さえ考えたものです。和華子さんの正直な胸の内を、知る事が出来たなら。人というのは誰でも、他人の前では多かれ少なかれ自分を装うものです。してみると、この世の中の誰も、どんなに親しい間柄であっても、自分以外の人間の内面を完全に知る事は出来無いのではないでしょうか。誰にも見られていない時の、その人の真の姿を見る事は出来無いのですから。それを見る事の出来る機械がもしあるならば、きっと誰もが欲しがる事でしょう。

 私は無意識に椅子の肘掛けの上質な革を撫でながら、そんな事を考えていました。そして、その手にはたと目を落としたのです。

 嗚呼、次の瞬間に私が何を思ったか。賢明なる読者諸君には、言わずもがなお解りでしょう。


 どこからか重たい足音が近づいて来たかと思うと、書斎の扉が開きました。私の心臓が音を立てて鳴ったかと思うほど、激しく跳ね上がります。

 私は恐る恐る、覗き穴に目を当てました。

 そうです。私は、椅子の中にいたのです。暗闇の中で、私は和華子さんを待ち受けていたのでした。

 しかし、その時書斎に入って来たのは私の父でした。父は書物机に落ち着くと、ベルを鳴らして女中を呼び、お茶の用意を言い付けました。そしてお茶の用意が出来ると、カップを抱えて机の前を離れ、私の入っている「椅子」に腰掛けたのです。

 私は思わず身体を強張らせました。

 ずっしりとした父の身体の重みが椅子にかかり、私にもそれが感じられました。それは何とも言い表しようの無い、不思議な感覚です。思えば幼い頃私が父に抱き抱えられた事はあっても、あべこべに私が父をそうするなどというのは初めてです。いつか父が年老いた時には、そのような事もあるのでしょうか。私はとても面映い気分で、父の身体の重みを感じておりました。父の燻らせるシガーの香りが椅子の中にも入り込み、それは私をひどく感傷的な気分にさせました。

 その時女中が再び現れ、電報だと言って父に紙片を手渡しました。父は何気なく電報の紙を眺めましたが、その途端に慌てて椅子から立ち上がり、書物机に戻って食い入るようにそれを見つめています。何事かと訝しみ、私は目を凝らして覗き穴から父の様子を伺いました。父の大きな書き物机はちょうど椅子の正面にありましたから、私には父の表情を良く見る事が出来たのです。

 父の顔には、動揺がありありと浮かんでいましした。

 父は口数の少ない厳格な男です。普段家族の前でも、感情を露わにする事はありません。ですからその時の父の、今まで見た事も無い表情は、私にとって非常な驚きでした。誰にも見られていない時、人の表情というのはこんなにも変わるものなのでしょうか。

 父は女中に命じて兄を呼びにやりました。それから姿見の前に立ち、身なりを確認しました。襟元を整えながら、自らに落ち着きを取り戻させているようです。そうして兄が部屋に入って来た時には、いつも通りの堅苦しい無表情で、扉の前に立つ兄の方に振り向いたのでした。

 父は兄を傍に呼ぶと、二人で何やら深刻に話し合っている様子です。二人共低い声で、まるで内緒話でもするかのように話していますので、私のいる椅子の中までその声は届きません。ただ時々、「銀行に」「工場が」「支配人を」「不況で」といったような言葉が、途切れ途切れに耳に入りました。

「……ともかくすぐに出掛けるので、お前は後の事を頼む」

 父はそう言うと、幾つかの書類を鞄に詰め込み、兄に見送られて慌ただしく書斎を出てゆきました。ちょうどそこへ執事がやって来て、兄に何事か告げました。どうやら来客のようです。兄がその来客と話しているうちに、また別の客が書斎に通されてきました。そしてその客が帰らぬうちに、また次の客が。ものの一時間と経たぬうち、書斎は人でごった返してしまいました。

 やがて、人々が口々に話す内容から、私にも何事が起こったか推察する事が出来ました。我が家で所有している織物工場の一つで、事故があったらしいのです。そして客達は、その工場に出資している人々のようでした。


 私は家の事業などにとんと関心がなく、家督を継ぐ訳でもない次男という立場を良い事に、今まで何も学んできませんでした。ですので、仮に私がいた所で出来る事など何ひとつありません。それでも、こんな時に椅子の中で縮こまっている自分自身の滑稽さに、私は身のすくむ思いでした。しかし、だからと言って、一体どうしたものか。まさか人々の面前で、椅子から突然這い出る訳にもいきません。

 結局、二、三時間もの間でしょうか。私はそのまま椅子の中で過ごす羽目になってしまったのです。

 為す術もなく、私は外を覗いていました。見れば債権者達の殆どは、見知った人々です。親戚もいます。父の長年の友人であった男もいます。いつも私にまでおべっかを使っていた、商売上の付き合いの者達。窮地にある時に父が救ってやった事のある者や、金を貸してやった事のある者。そういった人々が、表立って声を荒げ兄を責め立てはしないものの、取りはぐれはすまいとでも言いたげな顔で兄をじろじろと眺めていました。

 私は愕然としました。今まで私達に笑顔で接していた人々が、まるで別人のように様変わりしているのです。

 外は夕闇が迫ってきましたが、債権者達は一向に立ち去る気配を見せません。互いに牽制し合い、無言のまま、ちらちらと自分以外の人間を伺っています。金の亡者共め、私は胸の中で彼らを悪し様に罵りました。

 やがて、出先から急いで戻ったらしい小早川男爵が駆けつけました。

 辣腕事業家として有名な彼は、さすがに手際よく、

「皆さん、とにかくここでは手狭ですから、我が家の書斎に場を移しましょう。はっきりした事も分からないまま話し合っても仕方ありません。秋月氏からすぐに電報が来るでしょうから、ともかくそちらで知らせを待ちましょう」

 と、よく通る声で人々を促しました。

 小早川男爵と客達はぞろぞろと書斎を出て行き、兄もその後に続きました。やがて全員が出て行って使用人が茶器などを片付けた後、部屋の中はしんと静まりかえりました。

 いつの間にか窓の外はすっかり暗くなっています。壁にかかった時計を見れば、もう八時を回っていました。和華子さんと書生が約束しているという逢引の時間は、何時なのでしょうか。

 よし、乗りかかった船だ。ここでこのまま二人を待ち受けよう。

 私がそう決めたまさにその時、扉が静かに開く音がして、私は動きを止め息を殺しました。

 部屋の中をパタパタと歩いてくる、軽い足音。それはまるで踊りを踊っているかのような、音楽的な響きを持った、耳に心地よいものでした。

 私はそっと覗き穴から外の様子を伺いました。やはり、和華子さんです。和華子さんは書斎の中に誰もいないのを確かめるように、キョロキョロと室内を見回しました。そして事もあろうに、私の入っている椅子にぴょんと飛び乗るように腰掛けたのです。同時に私の心臓も跳ね上がりました。もし見つかったなら、どうなる事でしょう。私は自分の心臓の音が椅子の外にまで漏れ聞こえてしまうのではないかと、気が気ではありませんでした。しかしもちろんそのような事もなく、和華子さんは何も気づかずに椅子に腰掛けています。何だか落ち着かない様子で、身体を時々モゾモゾと動かしていました。私はそんな彼女の子供のような様子が、何だかとても愛おしくなりました。椅子の背もたれと肘掛けごしに彼女の身体をそっと抱きしめると、なお一層、その愛おしさは強くなるのでした。

 嗚呼。和華子さんが逢引などと。やはり、何かの間違いに決まっています。

 私は急に、自分のしている事が馬鹿馬鹿しくなりました。椅子の中に隠れ息を殺している自分が滑稽で、思わず笑い出したくなる程でした。まるで子供が隠れんぼをしているようではありませんか。

 やはり、このような真似は良くありません。隠れて人を盗み見るなど、卑劣です。こんな事はやめ、直接、男らしく、和華子さんと率直に話し合うのです。しかし私がそう決心した刹那、再び足音が聞こえ、書斎の扉が静かに開く音がしました。

 覗き穴からそちらを伺うと、あの書生が部屋に入って来たのです。


「本当にいらして下さったのですね、和華子さん。昨日、何度も躊躇った挙句にお誘いの手紙を書いたのですが……」

 書生は甘ったるい声で、和華子さんに語りかけました。改めて見てみると、この書生は中々の美男子です。そう、いかにも和華子さんのような若いお嬢さんが懸想しそうな。

「お誘い頂いたのですもの、当然参りますわ」

 椅子に掛けたまま、和華子さんが答えます。

「私も、とても嬉しいんですのよ」

 私はぼんやりと椅子の中で座ったまま、どうする事も出来ませんでした。やはり……、やはり間違いなどでは無かったのです。一抹の希望が無残にも打ち砕かれて私の心臓は凍りつき、先程までとは逆に、動くのを止めてしまったかのようです。

「しかし、どうして私のような一介の貧しい書生に。あなたは男爵家のご令嬢ではありませんか」

「あら。令嬢でも恋はしますわ。ましてや、いずれは親の言いつけ通りに嫁がなければならない身ですもの。秘密の恋ぐらいして、何が悪いと言うのでしょう。皆さんやっている事ですわ」

「これは驚きました。貴女は、いわゆる当世風の女性というやつなのでしょうか」

 書生は下卑た笑い声を立てました。

「ええ。和華子は進歩的なんですのよ」

 私は聞くに耐えず、耳を塞いでしまおうかと思いました。しかし身動きして気取られるのが恐ろしく、結局、阿呆のように、その穢らわしい会話をただ黙って聞いていたのでした。

「和華子さん!」

 突然、書生が和華子さんの前に膝まづくようにして、その可愛らしい両手をしかと握りしめました。

「まあ」

 和華子さんは驚いた様子で、慌てて手を引っ込めました。

「いけませんわ。もしこのような所を兄にでも見つかれば……」

 書生もハッとした様子で、慌てて手を引くと俯きました。

「そうですね。僕のような者が相手では……、お兄様方もお怒りになるでしょうね」

「ええ……。兄達は私を溺愛しておりますし、日頃から父よりも口やかましいくらいですから……」

「しかし、貴女は僕を想って下すっているのでしょう」

「ええ、お慕いしておりますわ」

 和華子さんのその言葉は、雷のように私の心を引き裂きました。

「ですから思い余ってお手紙を差し上げたんですの。……ねえ、兄達に見つからないようにして、これからも時々こうしてお会いできますわね?」

「ええ、勿論です、和華子さん。今日は僕は急用が出来てしまって、これからすぐ出かけなければいけません。でも、またすぐお目にかかります。何なら明日にでも……」


 書生が部屋を出て行った後も、和華子さんは椅子から動きませんでした。二人は人目につかぬよう、時間をおいて別々に部屋を出るようにしたようです。和華子さんがそのような小賢しい真似を。あの、和華子さんが。

 ふと、これは夢なのではないか、という考えが心をよぎりました。

 そうです。きっとこれは全部夢なのです。一眠りして目を覚ませば、何もかも悪い夢だったと気づくのでは。しかし依然として、確かに聞いた二人の会話が耳に残っています。最早無かった事には出来ません。和華子さんと話し合わなければ。そう、椅子から出て。

 しかし私は何故か、そうする気にならないのでした。まるでこの椅子の中は別世界です。ここから出さえしなければ、椅子に入ってさえいれば、先程の出来事は現実でなくなるような気がしました。しかし一歩椅子から出てしまえば、それはやはり現実になってしまう。私はそのような妄想に取り憑かれ、身動きもせず、椅子の中でじっとしていました。

 和華子さんが、このようなふしだらを。次第に、私の胸に怒りが湧き上がってきました。私というものがありながら、書生風情と。

 私は友人から男爵夫人の恋の話を聞いた時には、気の毒に思いこそすれ、ふしだらなどとは思わなかったのです。それが我が身の事となると、このように違ってくるのです。人間の善悪の判断基準が、こうも揺らぎ易いものだとは。

 和華子さんは私の信頼を裏切った。私の愛情を穢した。俄に、胸の奥から、まるで虫が湧くようにどす黒い感情が湧き上がり、私はそれを止める事が出来ませんでした。

 そ知らぬ顔をしていても、もう騙されないぞ。私は覗き穴から和華子さんを睨みつけました。

 和華子さんが部屋を出たら椅子から出て、そうだ、構わない、今夜のうちに貴女と結婚などしないと宣言するのだ。そして、貴女のしている事を皆に暴露してやる。どのような顔をするか見ものだ。自らの行いを悔いても遅いのだ。

 私はそんな底意地の悪い感情を、まるで強い酒を煽るように、熱と快楽と共に私の身体のうちに呑みくだしました。

 和華子さんはそんな私の心など露ほども知らず、椅子から立ち上がると、すました顔で部屋の中をぶらつきました。そして本棚の本を見るとはなしに手に取ったりしています。用心して、時間を潰しているのでしょう。益々憎々しげに、私は心の中で呪いの言葉を吐き続けました。

 その時です。静かに扉の開く音がしました。和華子さんはそちらを振り向くと、

「あら」

 と、声を立てました。

 誰だろう。私は覗き穴から見てみましたが、書斎の中は薄暗く、顔が良く見えません。書生が戻って来たのでしょうか。

「どうなさったの、お兄様」

 和華子さんの声だけが、静かになった室内に響きました。次の瞬間、荒々しい足音が部屋を横切りました。私の位置からでは後ろ姿しか見えません。しかしどうやら若い男のようです。

「あっ」

 男が素早く、片手を和華子さんの口元に充てがいました。和華子さんが声を上げる間もありません。男の手にはハンカチのようなものがあり、男はそれを強く和華子さんの口元に押し付けました。和華子さんは呻き、か細い指を男の力強い両手に掛け、それを外そうともがきました。さらに男の服の袖口を掴んで、必死に引き離そうとしています。男の着物が乱れ、女のように白い肩口が覗きました。

「あっ」

 それを見た途端、私は椅子の中にいる自分を忘れ、驚きのあまり思わず声を上げました。しかし二人には聞こえようはずもありません。和華子さんは必死に抵抗を続けていましたが、とても男の力に敵うものではありません。やがて彼女の身体全体が、まるで人形ようにがくんと力を失い、男の腕の中に崩れ落ちました。

 そうして男は軽々と和華子さんを抱え上げると、仏蘭西窓から外に向かったのです。

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