光
「お前は! 一体何故……」
さすがの怪人二十面相も、動揺を隠しきれないようです。もちろん、私達家族も同じでした。
「つべこべ言うな。さあ、全員手を上げろ」
私達に向けられた銃は冷たく光り、彼は何かあればすぐにでも撃つのだと私達に理解させました。言われた通りにするしかありません。私と隣にいた小林君は、互いに横目でチラリと顔を見合わせながら、静々と両手を上げました。
書生は油断なく辺りを伺いました。そうして和華子さんの姿を認めると、唇の端を上げて複雑な表情で笑ったのです。
「和華子さん」
彼は静かに呼びかけました。
「さあ、僕と一緒に来るのです!」
「……え?」
和華子さんは、戸惑いの表情を隠せません。我々も顔を見合わせました。
「僕は貴女が憎い。貴女は僕の心を弄んだ」
書生の言葉に私はハッとしました。そして、あの逢引の夜に、椅子の中で聞いた二人の会話を思い出しました。あの時は、ふしだらな恋の駆け引きとしか聞こえなかった会話。しかし、事によると彼は……。
「まあ」
和華子さんにも、思い当たる節があったようです。
「貴女は僕を騙していたのだと知った時の、僕の心を察して下さい。僕は誘拐の疑いをかけられ、死んだように見せかける芝居をしなければならなかった。しかしその後もずっと逃げ出さず、天井裏に潜んでいたのです。それも誘拐された貴女の身を案じての事です。貴女が戻った時に僕が生きていると知らせねば、貴女は悲しむとも思った。だから……。それなのに、それなのに!」
書生の声は上ずり、震え、妙に甲高く響きました。
「もう、男爵家はお終いですよ。あんな醜聞があったのですからね。僕を騙した報いです、自業自得ですよ」
和華子さんの顔色が変わりました。
「まさか……。貴方が兄達を撃ったんですの?」
「おや、さすがに貴女は賢い。そうです。僕のささやかな復讐ですよ! 思い知りましたか!」
「何て事を。狂言誘拐を考えたのは私です。兄達は何もしていませんわ」
「良いのです、和華子さん。男爵家が無くなって、帰る所が無くなれば貴女は……きっと……」
「貴方は間違っていますわ!」
和華子さんの言葉にも、書生は聞く耳を持ちません。
「僕は……、僕は貴女を許してあげます。その代わり……、貴女は僕と一緒に来るのです。心配はいりません。僕が必ず、幸せにします!」
書生の瞳のうちには、恋の狂気に侵されたものの煌めきがありました。これは、まずい。彼は本気だ。全員の間に緊張感が漂いました。私の額を、一筋の汗が流れ落ちてゆきます。
その時、私は気づきました。彼の斜め前で両手を上げている怪人二十面相が、じりじりと間合いを計っています。よし、そのまま……。私は心の中で呟きました。
「お兄様!」
和華子さんが、驚く程の鋭い声で私を呼びました。
「どうか、下がっていて下さらないかしら。小林さんも一緒に……。さあ」
和華子さんはそう言いながら、私の瞳をじっと見つめました。それで、私も気づきました。和華子さんは怪人二十面相の動きを書生に悟らせないよう、自分に注意を向かせたのです。
「わ、分かりました……」
私と小林君は両手を上げたまま、じりじりと後ずさりました。それを横目に、書生は引きつったような不気味な微笑を見せました。
「僕達の邪魔さえしなければ、危害を加えるつもりはありませんよ……」
そうして彼は私達が大人しくしているのを見届けると、和華子さんに向き直り、その胸にぴたりと狙いを定めて銃を構えたのです。
「さあ、和華子さん! つべこべ言っても無駄です! 大人しく、僕と一緒に来るのです!」
「ええ、ご一緒してもよろしくてよ」
落ち着き払った和華子さんの答に、皆度肝を抜かれました。当の書生ですら、一瞬、ぎょっとした表情を浮かべたのを私は見て取りました。
「ただ、その前にお聞かせ頂けるかしら。幸せにして下さると仰いましたわね。では、一体どうやって和華子を幸せにするおつもりですの?」
「えっ」
書生は、きょとんとした顔で和華子さんを見つめました。
「警察が調べたところ、貴方の経歴はまったくの出鱈目という事でした。そんな怪しげな身元の貴方が、どんなお仕事に就いて家族を養うおつもりですの?」
「そ、そんな事はどうとでもなります」
「あら、そうかしら。和華子は世間知らずの小娘かもしれませんが、世の中というものがそれほど甘い所ではないという事くらいは分かります。それとも貴方には何か、良いお仕事に就ける才能や技能がおありかしら?」
「そ、それは……」
「まさか私と結婚しても、強請や犯罪まがいのことを続けてゆくおつもりではないでしょうね? そのような世間から隠れた生活で、和華子が幸せになれるとお思いかしら」
「そ、そのような思いはさせません。悪事からは足を洗います! 貴女を幸せにします!」
「幸せ幸せと先程から仰るけれど、貴方は何が和華子の幸せなのかご存知なのかしら?」
「そ、それは。夫に大切にされる妻となれば……、幸福では……」
「それを決めるのは貴方ではありません」
和華子さんはきっぱりとそう言い、小さく溜息をつきました。
「……騙した事は、謝ります。でも強請の件があるのですから、おあいこですわ。和華子は貴方とは参りません。和華子が何者であるのが幸せか……、それを決めるのは、和華子自身ですから」
「そ、そんな……」
書生は呆然と立ちすくみました。暫しの沈黙……。
「貴女は……、貴女はやはり、これっぽっちも僕を愛していないのですね!」
書生はいきなり絶叫すると、持っていた銃を自分のこめかみに当てました。
「!」
「危ない!」
皆が口々に叫ぶのと同時に、
「うわっ!」
書生が声を上げました。和華子さんとの会話に夢中になっている間に、彼の背後に怪人二十面相が忍び寄っていたのです。怪人二十面相は彼を羽交い締めにし、小林君が素早く駆け寄って銃を取り上げました。
「馬鹿な事をするんじゃない!」
怪人二十面相はそう言うと、大きな身体でがっちりと書生を押さえ込み、気球に放り込みました。そして自分もひらりと身軽に飛び乗りました。
「怪人二十面相! 」
和華子さんが叫びました。
「この青年の事は任せておきたまえ。手土産代わりに連れてゆくとしよう」
「どうなさるおつもりですの?」
「悪いようにはしない。だが貴女はもう心配しなくて良い」
怪人二十面相はぶっきらぼうにそう言いましたが、その瞳は優しげな光を湛えて、和華子さんを最後にじっと見つめました。
「では、私はそろそろ行こう。……お元気で」
怪人二十面相がそう言うと同時に、気球はふわりと宙に浮き上がりました。そうして見るまに高く舞い上がり、呆気に取られている人々を後に残して、すぐに見えなくなってしまいました。
「些か呆気ないお別れだったね」
もう豆粒のように小さくなった気球を見上げ、小林君がぽつりと呟きました。
「うん。まあでも、またきっと会う事もあるのじゃないか……。それにしてもあの書生、根っからの悪人では無かったようだね。あの書生も君と同じように、明智探偵の元で育てられたのだろう」
「うん。彼は元々、『チンピラ別働隊』という、上野公園辺りの浮浪児を集めて明智先生が結成した部隊のリーダーでね。少年探偵団が表立った探偵活動をするのに対してこっちは、まあ、あまり世間には公に出来ないような活動をさせるための部隊だったんだ。謂わば影の部隊さ。今回の事も、元々明智先生の指示で男爵家に入り込んだんだ。先生は一種の復讐というか、そういった意味で男爵夫人を強請の相手に選んだんだと思う」
「復讐?」
「うん。先生にとって男爵夫人は、僕を見捨てた無責任な親だ。先生は僕のために復讐しようと考えたのだろう」
「だけど君はそんな事望んでいなかったのだろう」
「ああ。だけど……」
小林君は考えこみながら言いました。
「僕が思うに、僕の為の復讐と言いながらも、本当は先生自身の復讐なのかもしれない。先生ご自身も、僕やあの島にいる数多の少年達と同じ様に、悲しい生い立ちを背負っているのだよ」
「……やはり、そうだったのだね」
「まあともかく、書生は先生の指示で男爵家に入り込んだものの、和華子さんから恋文を渡されて動揺したのだね。僕達は、強請をやるような青年にそのような純情な一面があるとは思いもしなかった。だけど初めての少女との恋路に、世間知らずの書生君は思いつめたのだ。彼は死体消失事件の後、打ち合わせ通りに逃げたはずだったし、僕もてっきりそう思っていた。しかし実はずっと天井裏に隠れていた。おそらく本気で、和華子さんの身を案じていたのだろう。ところが天井裏から盗み聞きして、誘拐事件の真実を知ってしまった。男爵家の人達が彼を追い払うために一芝居打ったのだと知った彼は、復讐心に燃えて機会を伺っていたのだろう。あの後脅迫状が舞い込んだ事で、警備が一段と厳しくなった。それで中々機会を掴めずにいるうち、和寿君と僕との密談を聞いた。僕の邪魔をして、和寿君が本当に和明君を撃ったように見せ、男爵家に復讐しようと考えたのだろう」
「そうか……。彼も、少々気の毒だったね」
「うん。だけどあの青年の事は、怪人二十面相に任せておけば安心だろう」
「そうだね。でもどうして怪人二十面相は彼を……」
私はふと、怪人二十面相の語った昔話を思い出しました。愛する女性に裏切られたと思い、道を外れてしまった彼は、同じ様な境遇に陥った青年を放っておけなかったのかもしれません。
それにしても、不逞の輩だとばかり思い込んでいた彼に、あのような真心があったとは。人とはなんと、分からないものでしょうか。
「和真君、どれだけ心配したか! 無事かい。怪我は無いか」
ふと我に返ると、男爵夫妻が私達に駆け寄ってきていました。小早川男爵は、私の肩をがっしりと大きな手で掴みました。
「ええ、大丈夫です。僕も小林君も……」
その時、小刻みに身体を震わせていた男爵夫人の口元から、小さな囁きが漏れました。
「ああ、貴方は……」
夫人はよろめくように一歩前に出ました。そうして、気まずそうに佇んでいた小林君の手をしかと握りました。
「やはりそうだったのですね。最初にお顔を見た時から、まさかとは思っていたのです。貴方が、私の息子なのですね」
「言ってはなりません」
小林君は鋭い声で夫人を制しました。
「狂言誘拐を仕組んでまで秘密を守ろうとしたのは、何の為です。貴女は僕を疎ましく思っていらしたのでしょう。どうか忘れてしまって下さい」
小林君はきりりと眉を引き締め、無理やり夫人の手を引き離しました。
しかし男爵夫人は、突然、小林君を抱きしめたのです。
「ああ、それは違います。どうして我が子を疎ましく思う事などあるでしょうか」
小林君は、凍りついたようにそのまま動けなくなってしまいました。しかし、やがて小林君も夫人の肩の上に顔を伏せ、両腕を辿々しく夫人の背に回しました。
一度で良いから、生みの母をこの手で抱擁したい。
小林君のその願いが、今、叶ったのでした。
「あの子が、そんな風に考えていたとは」
私が、和寿君と小林君の取引の事、そして怪人二十面相から聞いた発砲事件の真実をすっかり話し終えると、小早川男爵は深い溜息をつきました。そうして長椅子の背に身体をどっしりともたせかけました。兄が小林君の方をちらと見やり、多少気まずそうに咳払いなどしています。
小早川男爵は和明君に向かって言いました。
「なぜもっと早くに話してくれなかったのだ」
ふざけた態度も今やすっかり消え失せてしまった和明君は、
「それでは駄目なのです、お父さん」
と呟き、顔を伏せ、
「それでは意味が無いのです」
と、静かに繰り返しました。
「僕が養子だからとか、家督を放棄したからあいつが、というのでは駄目なのです。あいつこそが家督を継ぐのに相応しく、実子であるあいつが一番に可愛いからこそ家督を譲りたい。お父さんが……、他でもないお父さんが皆の前でそう宣言し、僕を廃嫡してあの子を取り立てるのでなければ駄目なのです」
私にも、和明君の言わんとする事は分かりました。疎外されていると強く感じている和寿君が拘っているのは、本当は家督そのものでなく、敬愛している父親だったのではないでしょうか。
和寿君の心を想うと同時に、私の胸にも怒りが沸いてきました。信頼と尊敬を裏切られたという思いが。私は二組の夫婦をキッと睨みつけました。
「和寿君は誰よりも、男爵を父として敬愛していたのですよ。自分が実子でないと知った時の、彼の心を察してやって下さい」
「ああ」
男爵は小さく叫び声を上げ、両手で顔を覆いました。
「私達が悪かったのか。私達が……」
男爵夫人が静かに言いました。
「私達は、ただ、私達の平和と幸福を守ろうとしただけなのです」
父も、俯いたまま言いました。
「私達は、これが悪い事だとは思いませんでした。でも、私達のやり方は間違っていたのかもしれません」
そして母も。
「和寿さんは、私達の作り上げた虚構の幸福の報いを受けてしまった。私達は何と言ってあの子に詫びれば良いのか……」
私は思わず声を荒げました。
「何を言っているのです! このようなふしだらな行いが、許されるはずがないではありませんか!」
「違う、違うのだよ、和真君」
男爵が顔を上げました。
「何が違うと言うのです。僕はもうすっかり、真実を知ってしまったのですよ。今更言い逃れなど……」
「私達は、あの子には宝を与える事が出来たと思っていたのだよ。一番の宝を」
「一番の宝?」
「そう」
男爵は頷きました。
「家督などに縛られず、自由に自分の思うように生きる、という宝をね」
「それは一体、どういう……」
「君達は、我々が小林君の事を世間に知られるのを恐れて、あの書生にあっさりと金を渡したと思った事だろう。しかしそれは違う。我々は、もっと大きな秘密が露見してしまう事を恐れて強請に応じたのだ。私達二つの家族の秘密が……」
「家族の秘密……、それはつまり……」
小林君が、つと身を乗り出しました。
「小早川男爵。どうか今こそ、本当の事を話して下さい。ご家族の本当の秘密を」
「秋月伯爵家と小早川男爵家の邸は隣同士で、同じ歳という事もあり、私とこの秋月君とは幼い頃から仲の良い友人同士でした」
小早川男爵が静かに話し始めました。
「我々が成長するに従って、家柄の格の違いから、周囲は私達の交友にやかましい事を言い始めました。しかし私達は意に介さず、変わらぬ付き合いを続けていたのです。秋月君の婚約が決まった頃、ある夜会の席で、彼は私に婚約者の玲子さんを紹介しました。今ここにいる、秋月伯爵夫人です。その時玲子さんは女学校の友人であった桃代さんとご一緒で、ここにいる私の妻ですが、彼女を私達に紹介しました。それが全ての始まりだったのです。秋月君と桃代さんはすぐに恋に落ちました。そして秋月君の婚約者である玲子さんと私も、お互いに惹かれ合いました。しかし……」
小早川男爵は、手元のカップからお茶を一口啜りました。
「秋月君と玲子嬢とは、家同士が決めた婚約者でした。どちらも由緒ある伯爵家です。比べて私と桃代さんの家は、家柄の格も資産も比べ物になりません。私と玲子さん、秋月君と桃代さんはお互いに将来を誓い合う仲になりましたが、とうてい認められる訳もありません。思い余った私達は、駆け落ちを決意したのです。私達四人は東京を離れ、一年余り、四人で一緒に暮らしました」
では、小林君の話にあった、男爵夫人の駆け落ちの相手というのは……。私は息を呑みました。
「それは私達の人生で、最も幸福な時期でした。愛する伴侶と友人に囲まれ、疎ましい家柄や格式から解放された、平和で幸福な日々だったのです。やがて秋月君と桃代さんとの間に男の子が産まれました。私と玲子さんも、まるで我が事のように歓喜したものです」
ふと見ると、父が優しい目で小林君を見つめていました。
「しかし、そんな生活は長くは続きませんでした。とうとう私達は発見されてしまい、無理やり家に連れ戻され、秋月君達は子供を取り上げられてしまったのです」
男爵夫人が、当時を思い出しているのでしょう、ハンカチでそっと目元を拭いました。
「私達はいっそのこと四人で心中してしまおうか、とすら囁き合ったものです。しかしちょうど、玲子さんが身籠っている事が分かりました。私達は心中する訳にもいかなくなったのです。しかしその代わりに、ある考えが浮かびました。死んでしまうくらいならいっそ、表面上は親の言うなりに結婚しよう。そうして、秘密裏にそれぞれの家庭を育んだらどうかと……」
「それは……、まさか」
小林君の声が震えました。男爵は彼の顔を見つめ、頷きました。
「ええ、そうです。玲子さんは秋月伯爵家に嫁ぎました。私は、桃代さんを妻として娶りました。そしてお互い表面上は夫婦として生活しつつ、私と玲子さん、秋月君と桃代さんとは、秘密の結婚を続けていたのです」
「では、あの本棚の裏の隠し扉は……」
「ああ、君達はあれを見つけていたのですね。……ええ、そうです。あれも、そのための工夫のひとつです。それぞれの両親が生きていたうちは特に、細心の注意を払って隠さねばなりませんでした」
ああ、そうだったのか。私は身体の力が抜けてゆくのを感じました。
「やがて玲子さんが双子を出産しました。産まれたばかりの我が子を奪われた桃代さんはそれ以来塞ぎ込みがちだったのですが、赤ん坊を見ていると心が幾らか安まるようでした。そこで玲子さんは、口実を設けて双子の一人を男爵家に養子に出したのです。桃代さんの慰めになるように、そして私が実の子と暮らせるように、と」
小林君が身を乗り出し、男爵に尋ねました。
「それはつまり……、養子と思われていた和明さんは、実は小早川男爵と秋月玲子さんの間の子、男爵家の本来の跡取りという事ですか」
「その通りです」
「そうだったのですね。おかしいと思ったのです。結婚してずっと跡取りが産まれないというならともかく、まだ結婚したばかりで、これから実子が産まれてくる可能性が充分あるのに養子をとって家督を継がせるなどと」
「はい。現に、和明がその事で引け目を感じてあんな風になってしまったのだと、私達は責任を感じていました」
「実際、後から和寿君が産まれた訳ですしね。しかし結果として、男爵夫人と秋月伯爵の間に出来た和寿君でなく、実は実子の和明さんが男爵家を継げるようになった訳ですが……」
「違うのです。和寿も、玲子さんと私の間の子なのです」
「えっ」
「そして、和馬君は桃代さんと秋月君の間の子なのです。二人はちょうど同じ時期に産まれました。それを幸いに私達は、人に知られないように、産まれて間もない二人を交換したのです」
「僕が……? そんな。おばさまが、僕の母ですって」
あまりの事に、私は喘ぐように言いました。
「……ええ。お父様は、どうしても貴方を手元に置いて育てたかったのよ。その想いを察して、私は貴方達を交換したの」
男爵夫人は顔を上げ、少し悲しげに微笑みました。そんな男爵夫人を、私は改めてじっと見つめずにはいられませんでした。ずっと感じていた親しみの正体が、まさか実の母であるが故のものだとは。
「私達は、いつか二つの家族が一つになって、皆一緒に平和に幸福に暮らせるようにと願いました。洋行の際に船旅で一緒になった和華子の母が亡くなった時、私達は和華子を密かに引き取る決意をしました。女の子に恵まれない両家ですが、和華子が育ってもう片方の家に嫁いでくれれば、両家は本当の家族になれるではないかと」
男爵はそう言って、話を締めくくりました。
男爵の口から全てが明らかになった後、私達兄弟は驚きのあまりしばらくは口をきくことも出来ませんでした。私達兄弟全員の名に入っている、「和」の文字。家柄やしがらみや、様々なものに縛られて意思を貫くことの出来なかった父母達は、その文字に自分たちの願いをこめたのでしょう。
「椅子人間」など、存在しなかったのです。様々な人間の思惑と情と欲が絡み合い、椅子人間という幻想の人物を生み出したのです。そんな事を思った刹那、私の脳裏にあの島の光景が鮮やかに蘇りました。
あの不思議な幻想世界、人の心の想像力の賜物。私が今いるこの場所とあの島とは、案外近くにあるのかもしれません。
しかし私は、こうして戻ってきました。そして、これから自らの手で、現実を切り開いてゆかねばならないのです。そう、もはや誰かに任せず、自らの手で。
静まり返った部屋の中、私は咳払いを一つしました。
「ところで、まだ一つ、問題が残っています」
私はそう言うと一同を見回し、最後に和華子さんの顔を見据えました。そして彼女に問いかけました。
「和華子さん、貴女が一体誰と結婚するのか。それを決めてもらわねばなりません」
「えっ。私が」
和華子さんは戸惑いました。
「そうです。私達四人の兄弟は、皆同じように貴女を想っています。あの書生の事もお忘れではないでしょう。貴女は謂わば、この事件の要因のひとつであったのです。和華子さん、貴女は今こそはっきり自分の意思を表して、皆を安心させてあげねばいけません」
「私は……、」
「和華子」
男爵の声が、和華子さんの言葉を遮りました。
「私達は、決して強制したつもりは無かった。しかしお前は、自分が養女だという事で私達に義理を感じていたんじゃないかね」
「それは……」
和華子さんは心を見透かされたように狼狽し、私は少々心が痛みました。やはり和華子さんには、私ではなく、想う人がいるに違いありません。
男爵夫人が言いました。
「良いのですよ、和華子。貴方が二つの家族を結ぶ架け橋になってくれたら、というのはあくまでも私達の夢物語なのですから。貴女には、自分の意思で、自分の進む道を選んで欲しいのよ」
「私の、意思で?」
「そうよ、和華子さん」
母も、にっこりと微笑みました。
兄と和明君。その時双子の兄弟が咄嗟に見せた表情は、まるでそっくりでした。それで私はこのような時におかしな事ですが、やはりこの二人は双子の兄弟であるのだと実感したのです。しかしこの私自身もきっと、同じ表情をしていた事でしょう。もしこの場にいたとしたら、和寿君も。
同じように和華子さんを想っている四人の青年。そして和華子さんが本当に愛しているのは、一体誰なのか。
「私は、」
和華子さんがゆっくりと口を開きました。私達は、それこそ判決を待つ犯罪者のような面持ちで次の言葉を待ちます。しかしその言葉は意外なものでした。
「どなたとも結婚しません。和華子は、職業婦人になります」
にっこりと、あの大輪の向日葵のような笑顔で、和華子さんはそう言ったのです。
「何ですって」
「職業婦人?」
「一体、それは」
私達は口々に、驚きの言葉を口にしました。
「はい。以前にあの探偵さんが、私がどうして夜間に一人で出歩いていたのか、お尋ねになりましたわね」
和華子さんは小林君に向かって微笑みました。
「ええ」
「実は、ある先生の開いておられる私塾に、内緒で通っていたのです」
「私塾?」
「ええ。先生は婦人の教育に関する啓蒙活動をしておられて、その私塾で色々な事を教えて下さるのです。婦人はどのように生きる事ができるか、幸福な社会を作る為に何ができるのか、そういった事を」
そう語る和華子さんの瞳は、いつもにも増して活き活きと輝き始めました。
「そこで先生のお話を聞いているうちに、和華子は思ったのです。職業を持ち、社会に参加すること。それこそが、婦人が本当に自由に生きるために必要なのだと」
「まあ」
母が、感嘆の溜息を漏らしました。
「和華子は……、数奇な運命の元に生まれました。もし一歩間違えば私も、あの可愛そうな貰い子達のように、人知れず闇に葬られていたかもしれません。私は幸運にもお父様お母様に救われましが、ずっと、心の中にぽっかりと黒い穴が空いていたのです。和華子は、自分が何者であるのか分からなかった。それをずっと知りたいと思っていました。でも……、和華子は……、これから、何者かになるのです。それを自分で決める事を、お父様とお母様が許して下さると言うのなら。和華子はもっと学んで、社会に参加して、何者かである自分を、自分自身で作っていきたいと思うのです」
和華子さんは少し恥ずかしそうに、俯き加減になってそう言いました。
こうして私達兄弟は、全員見事に振られてしまったのでした。しかし私は不思議と、穏やかな心持ちでした。和華子さんのあんなに嬉しそうな笑顔を見せられては、仕方ありません。
その後和華子さんは、我が国で初めての、女子と男子が同等の教育を受けられるという学校に入学しました。
ある朝父が、食後のお茶を口元に運ぶ手をふと止めて、学校に向かう和華子さんの後姿を窓からじっと見つめていました。
私も隣の椅子にかけると、黙ったまま彼女を眺めました。和華子さんは美しかった黒髪を惜しげも無く断髪にし、洋装で男子学生と肩を並べ、颯爽と学校へ向かいます。その様は、とても眩しく私の目に映りました。私は何故自分が和華子さんに惹かれたのか、今やっと分かる気がしました。自分に与えられた生命を精一杯生きようとするその姿が、眩しくない筈がありません。
私はふと、隣に座る父の横顔を眺めました。二組の男女の恋物語を聞いた時私は、この厳格な父にそのような情熱的な一面があったのかと、意外な気がしたものです。しかし同時に、父も一人の人間なのだと知り、どこか安心したような心持ちになりました。そしてそれ以来、今までは少々苦手だと感じていた父に、親近感を覚え始めているのです。
「……お父さんにそんな一面があったなんて、想像もつきませんでしたよ」
私が笑いながらそう言うと、父も微笑みました。
「ああ……、若かったのだね。しかしこの頃になって思うのだよ。私達が本当に求めていたのは、何ものにも縛られず自由に生きる事だったのかもしれないね。それがたまたま、恋という形を取って、私達の目の前に現れたのかもしれない……」
父はそう呟いて、その「自由」を体現するかのような女性に育った和華子さんをもう一度、目を細めて眺めました。
私達の証言と、改めての現場検証でそれを裏付ける弾痕が見つかった事もあり、和寿君は晴れて潔白の身となりました。私と小林君が家に戻った数日後、退院してきた和寿君は、最近完成したばかりの絵が一枚消えているのに気づきました。傍には一枚の手紙が残されていたそうです。
「親愛なる椅子人間君。一杯食わされた意趣返しとして、未来の有名画家の初期作品を一点貰い受ける。私の美術館の一角を飾るに相応しいであろう。 怪人二十面相」
和寿君は嘆くどころか、どこか嬉しげにそれを皆に報告したものです。熱狂的美術収集家の怪人二十面相に認められたとあっては、至極尤もでしょう。この頃ではますます創作に没頭し、画壇でも評価され始めているようです。
和明君は不肖の息子のお芝居をやめ、学校に戻りました。双子の兄とも、この頃では上手くやっているようです。兄はついに家督を継ぐ決意をしました。私に対する遠慮は必要ないのだと、説得に大分時間がかかりましたが。
小林君は男爵家に養子の形で迎えられました。和華子さんにすまなかったと詫びる彼を、和華子さんは快く許してくれました。今ではすっかり、仲の良い兄妹です。両親とは、ゆっくりとではありますが、失われた親子の時間を取り戻していっています。もちろん、私との、実の兄弟としての時間も。
この頃では、小林君の私に対する恋情は嘘のように消えてしまいました。それは単に私が実の弟だったからという事ではないのでしょう。小林君は、闇を自ら断ち切ったのです。そうして今や自分自身が光を放つ存在であるのです。ですから、かつての彼にとっての「光」であった私は、もう必要ないのでしょう。
明智探偵はあれきり引退という名目で、世間にも私達の前にも姿を現す事はありませんでした。自らの意思で離れていった小林君を遠くから見守りつつ、今もまだ、あの奇怪な島で暮らしているのでしょう。愛とは依存なのだと、彼は思っていました。それも愛の一つの形なのでしょう。しかし私のような若輩者にはまだ、愛や人の心の何たるかが分かりません。嗚呼、人とはなんと、分からないものなのでしょうか。
そんな事を思う時、おかしな事ですが、いつかまたあの島に訪ねてゆきたいという想いが私の胸をよぎるのです。
あの、世界から切り離された楽園、美しいパノラマの島に。
親愛なる読者諸君。長きに渡る物語にここまでお付き合い下さり、筆者は諸君に感謝の念を禁じ得ない。少しでも楽しんで頂けたのなら、文士としてこの上ない幸福である。
この小説はあくまでも諸君の気軽な娯楽として、物語の筋を楽しんでもらえるよう意図して書いたものであるが、同時に筆者は人の心の「闇」に焦点を当てる事を試みた。
諸君らも時々は、その胸のうちにある「闇」に、自らの心を遊ばせる事があるであろう。……おやおや、何もそう照れる事はありますまい。世界から自らの身を隠し、誰にも気づかれる事無く、ただそれをこっそりと眺めていたい。そのような想いは誰にでもあるものです。そう、誰にでも。もしかすると今この瞬間にも、誰かが諸君の近くで、その想いを果たそうとしているのではないかしらん。
そら、今まさに諸君が座っているその椅子――。
完