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別れ

「ああ! まさか、『小林君が永久に奪い去られる』というのは……!」

 明智探偵は顔を真っ青にし、すっかり我を忘れています。

「ああ、僕はてっきり、小林君を連れ去るという意味だと……。それがまさか、こういう事だとは!」

 明智探偵は頭を抱えて嘆きました。しかしさすがは、世に名の聞こえた名探偵です。すぐに自分の成さねばならぬ事を思い出し、キッと顔を上げました。

「おのれ、怪人二十面相! よくも……」

 いつもの余裕は、明智探偵の表情からすっかり消え失せています。明智探偵は鬼のような形相で、怪人二十面相を睨みつけました。さっと銃を構えて怪人二十面相に向けると、怪人二十面相もすかさず銃を構えます。稀代の名探偵と、世にその悪名を轟かせる大怪盗。二人の間に、目に見えぬ緊張の糸が張りめぐらされました。

 ドン! 二発の銃声が同時に響き、まるで一発の銃声の様に聞こえました。

「先生、危ない!」

 美少年探偵団のリーダーが、咄嗟に明智探偵に飛びつきました。弾はすんでの所で外れ、屋上の大理石の床に当たって乾いた音を立てました。

「明智探偵!」

 先程鍵を取りに行った、美少年探偵団の一員が戻って来ました。私は彼から鍵を受け取ると、明智探偵に駆け寄って腕輪の鍵を外しました。

「美少年探偵団の諸君、行け! 怪人二十面相を逃がすな!」

 明智探偵が叫ぶと、美少年探偵団は健気にも、寄ってたかって東屋の屋根によじ登っていきます。

「おやおや、これはこれは」

 怪人二十面相は慌てる様子もなく、それどころか楽しげにすら見えます。

 しかし少年達は真剣そのものでした。初々しい頬を上気させ、必死に東屋の屋根によじ登ってゆきます。

「覚悟しろ! 怪人二十面相!」

 中でも特に年若い少年が、勢い良く怪人二十面相に飛びつきました。

「あっ」

 怪人二十面相は身軽にマントを翻して避け、勢い余った少年はバランスを崩してよろめきました。

「危ない! 気をつけろ!」

 誰かが叫びます。

 角度の急な屋根の上、滑り易い足場、そして強風。さすがの美少年探偵団も思う様に動きが取れません。もしも屋根から落ちれば、かすり傷では済まないでしょう。

 どおん、と、またしても花火が上がりました。打上場では明智探偵の雇った花火職人が、このような修羅場を夢にも知らず、呑気に花火を打ち上げているのです。

「あ、見ろ! おかしいぞ!」

 一人の少年が叫びました。夜空に描かれた色鮮やかな花火の真ん中に、ぽっかりと黒い穴が空いています。よくよく目を凝らしてみれば、それは空中に何か黒い物が浮かんでいて、花火の光を遮っているのです。  

「あっ、気球だ!」

 怪人二十面相にすっかり気を取られていた美少年探偵団は、いつの間にか真っ黒い気球が展望台の真上を漂っていたのに気づかなかったのです。気球を操作しているのは、明智探偵の後をつけ、この島までやって来た怪人二十面相腹心の部下でした。彼は気球を怪人二十面相の頭上に近づけ、そこからはらりと一本の縄梯子を降ろしました。

「では諸君、さらばだ」

「待てっ!」

 飛びかかろうとした美少年探偵団に、なんと怪人二十面相は乱暴にも、抱えていた小林君の首を投げつけました。

「ああっ」

 首はごろごろと屋根の上を転げ落ちてゆきます。そうして屋根の端から飛び出すと、下で待ち構えていた明智探偵の腕の中にすっぽりと収まりました。

「あっ、これは」

 明智探偵が叫びました。

「ハハハ。君とした事が動揺のあまり、私が人殺しをしない怪盗だという事をすっかり忘れてしまったようじゃないか」

 既にしっかりと縄梯子に掴まって中ほどまで登っていた怪人二十面相は、振り返りざまにそう言い放ちました。

 そうです。小林君の首は、蠟でできた作り物だったのです。

 先ほどバルーンが爆発して煙が辺りに充満した時、私は鳥籠に近づいて小林君に呼びかけ、近づいてきた彼に薬を嗅がせました。そして意識を失った彼の頭部だけを、鳥籠に敷き詰められたクッションで埋めてしまったのです。明智探偵が遠目にそれを見た時、既に切断された小林君の頭部を見せられていた事もあり、薄暗い上に煙幕の張られた場所で、それはすっかり首無し死体のように見えたのです。さらにニセの鎖の端についた首輪を明智探偵に見せ、怪人二十面相が皆を引きつけているうちに、少年から鍵を受け取った私が鳥籠の中から小林君を運び出していたのです。

 そうして私はその時にはもう、小林君の身体を背に担ぎ、気球に乗り込んでいたのでした。

「待てっ! 逃がすか!」

 明智探偵は、小林君を乗せて今や飛び去ろうとする気球に追いすがりました。そして懐から重りのついた縄を取り出すと、投縄の要領で、気球から下がっている縄梯子の端にそれを引っ掛けたのです。縄をがっしりと掴んだ明智探偵は、てこでもその場を動くまいと踏ん張りました。

 しかし、人間一人の力と大きな気球では比べ物になりません。明智探偵はすぐにバランスを失って倒れ、それでも縄を離そうとせず、展望台の床の上をずるずると引きずられました。

「先生!」

 美少年探偵団が一人、また一人と飛びつき、必死に明智探偵に加勢して縄を引っ張ります。

「うう。先生……」

 ふと見ると、意識を失っていた小林君がうめいています。そっと目を開き、身体を起こしました。

「あっ、先生」

 明智探偵の姿を見た小林君は、小さく叫びました。

「先生、危ない!」

 小林君は泣き出しそうな顔で、自らも気球から身を乗り出します。私は慌てて、小林君の身体を押さえました。

「小林君!」

「和馬君、離してくれ。僕を降ろしてくれ!」

「駄目だ、小林君。君は僕と一緒に帰るのだ」

「そんな事は出来ない! 僕は、先生がいなければ……」

「そんなのは嘘だ。彼は君を慈しみ、守り、そして崇拝させた。彼なしでは何も出来ないと思わせた。君を闇の中で彷徨わせていたのは、彼の愛なのだ!」 

 気球はだんだんと高く舞い上がり、引きずられてゆく明智探偵の身体は展望台の端まであと僅かです。美少年探偵団も必死になって縄に取りすがり、気球を逃すまいと懸命です。しかしその努力も虚しく、一人また一人と脱落してゆきます。

 身体のあちこちを擦りむいて傷だらけ、血だらけになった明智探偵は、しかしそれでも縄を離そうとせず、ただ小林君の名を掠れた声で繰り返しています。

「ああ、小林君……。小林君……」

「先生、もう、無理です!」

 少年達の一人が叫びました。

 確かに、このままでは明智探偵は縄を掴んだまま空中に引き上げられてしまいます。そうして力尽きて手を離したが最後、地面に叩きつけられてしまうでしょう。それなのに、明智探偵は縄を離そうとしないのです。

「先生! どうか手を離して下さい! このままでは、先生が」

 小林君は悲痛な声で叫びました。

「離してたまるものか。君は僕の大切な……」

 気球を見上げる明智探偵の瞳が、花火の光を反射して輝きました。

「ああ、このままでは」

 その時です。怪人二十面相が、ぬっと小林君の前に立ちました。その手には一振りのナイフがあります。

 怪人二十面相はただ黙って、そのナイフを小林君に差し出しました。小林君は躊躇いましたがやがて震える手でナイフを受け取り、縄と、その端に繋がった明智探偵とをじっと見つめました。明智探偵も、瞬きもせずに小林君を見つめています。

 嗚呼。その一瞬の間、二組の瞳の間に、どれ程の、言葉にならぬ言葉が交わされた事でしょう。私などには到底計り知れません。

 やがて、小林君はキッと唇を一文字に結びました。そして気球からぶら下がっている縄梯子を、一気に切り落としたのです。

「ああ、小林君……。君は……」

 埃と汗と滲む血に汚れた明智探偵の顔が、こちらを仰ぎ見ています。

「先生。僕は……、僕は……」

 小林君が言い終わらぬうち、気球は一気に上昇し、パノラマ島を眼下に見下ろし飛んで行きました。

 どおん、と、最後の花火が夜空に散りました。

 

 半日の後、気球は東京上空に差し掛かっていました。

 ほんの少しの間離れていただけなのに、東京はまるであの島とは別世界の様に思われました。人々は今日も忙しく、街を行き交っています。そんな人々の群れを空の上から眺めるのは、何とも言えず痛快なものです。

 小林君はあれからずっと口数少なく、今もただぼんやりと、眼下の光景を眺めていました。

「怪人二十面相」

 私は尋ねました。

「これから、私達をどうするおつもりですか」

「うむ。そうだな……」

 怪人二十面相は思案顔をすると、ふと、何かを思いついたようにニヤリと笑いました。

「君達にはひとつ、人質になってもらおうか」

「何ですって」

「君達を人質にして、あの指輪と交換するのだ」

「指輪……」

 小林君が呟きました。

「あの指輪には、一体どんな秘密があるのです」

怪人二十面相は黙って東京の街を見下ろしていましたが、やがて静かに口を開きました。

「……今から二十年あまりも前の事だ。上海で、ある男女が出会い恋に落ちた。女の方は良家の子女、男の方は身分も何もない、一介の貧しい青年だ。二人は結婚の約束をし、女は両親に許可を得るため、一人でいったん帰国した。しかし彼女の両親は結婚を許さず、娘を無理に嫁がせてしまった。だがその時には、彼女は既に身ごもっていたのだ。それに気づいた彼女は婚家を逃げ出し、身元を隠して秘密裏に出産した。そして産まれたばかりの赤ん坊を抱いて上海への船に乗った。男の元に戻ろうとしたのだ。しかし産後の無理がたたったのか、船旅の途中で流行病に罹りあっさりと死んだ……」

 ただ東京の街を俯瞰している彼の表情からは、その心を推し量る事は出来ません。しかしその瞳は、これが犯罪者なのかと思わせる程に、深く澄んでいました。

「……事情を知らなかった男は、彼女が裏切ったのだと思い込んだ。そして絶望した男はその後、芸術に残りの人生を捧げる犯罪者となった。彼が真実を知ったのは、ずっと後になってからの事だ。指輪は、彼女が帰国する前に二人が用意したものだ。再会した時にお互いの指にはめようと約束していた。一方、彼女の産んだ赤ん坊は、たまたま船に同乗していたある夫妻に引き取られ、養女として育てられた。そうして立派に育った娘は、もうすぐ嫁いでゆく……」

「実の父から祝福の言葉も無く、ですか」

「…………」

 小林君の言葉に、怪人二十面相は否定も肯定もしません。

「……貴方はやはりあの雑誌の写真で、指輪を見たのですね。それで男爵家にやって来た。男爵夫人はおそらく、和華子さんの母の身元を知る人が名乗り出てくるかもしれないと、写真撮影の時にあえてあの指輪を付けたのでしょうが。しかし貴方が何故名乗らなかったのか、僕には良く分かります……」

 小林君は俯きました。

「しかし……!」

 黙っていられず、私は叫びました。

「しかし貴方は、名乗る代わりに変装して男爵家に入り込んだ。それは何故です。そんな事をせずとも、指輪を盗めたのではないですか。貴方は……、」

「獅子は鼠を追うのにも全力を尽くすものさ。私は狙った獲物を確実に盗み出す為に、いつも万全を期す主義なのだ」

「嘘です。貴方は、名乗る事は出来ずとも、束の間和華子さんの傍にいたかったのでは。そして彼女が幸福に暮らしているか、見たかったのでは」

 私の言葉に怪人二十面相は何も答えず、ただ遠くを見つめていました。


 気球は、男爵家の上空に差し掛かりました。庭にいる使用人達がこちらを見上げています。さらに近づいてゆくと、男爵夫妻、それに和華子さんが庭に走り出て来るのが見えました。

 その時です。

「さて」

 いきなり、怪人二十面相が小林君に銃を突き付けたのです。

「な、何をする!」

 私は真っ青になりました。

「おっと。どうやら君は、私が怪盗だという事をすっかり忘れていたようだね」

 怪人二十面相は、いかにも悪漢らしい顔でニヤリと笑いました。

「まあ、そう慌てなくとも良い。私は怪盗だから、盗んだものをただで手放す訳にはいかないのだよ」

 小林君は抵抗する様子もなく、落ち着き払っています。私はどうしたものかと戸惑いました。

「……指輪を盗むのに失敗した怪人二十面相は、今度は二人の青年を誘拐し、身代金代わりに指輪を要求した。そういう筋書きで良いのですか」

 小林君が静かな声で言いました。

「ああ。その通りさ」

 私はハッと気付きました。彼は明智探偵を庇おうと決めているのです。明智探偵の誘拐まがいの行動も、あの不思議な島、明智探偵の王国の事も、世間に公にするまいと。

「……ありがとうございます」

 小林君が、聞こえぬ程の小声でそう呟きました。

 やがて気球は、ゆっくりと男爵家の庭に降り立ちました。男爵夫妻が恐る恐る怪人二十面相を見つめています。私の姿を認めて駆け寄ろうとした和華子さんを、怪人二十面相は身振りで制しました。私と小林君に銃が突きつけられているのを見て、和華子さんはぴたりと立ち止まりました。

「小早川男爵夫人。さ、夫人お一人だけ、こちらにいらして下さい。他の者は下がるのだ」

 怪人二十面相は人質の小林君と私に銃を突きつけたまま、両手を上げさせました。

「さあ、男爵夫人。貴方の息子達を失いたくなければ、取引に応じて貰いましょう。あの指輪を渡して下さい」

「息子達、ですって」

 男爵夫人の顔色が変わりました。その時です。

「指輪ならここですわ!」

 凛とした声が響きました。和華子さんです。

「お母様は下がっていて下さい」

 有無を言わせぬ調子でそう言うと、和華子さんはつかつかと怪人二十面相に近寄り、指輪を差し出しました。

「さあ、貴方はこれが欲しかったのでしょう」

「……また会いましたね、お嬢さん」

 怪人二十面相は、目を細めて和華子さんを眺めました。

「ええ。その節は大変ありがとうございました」

 和華子さんも負けてはいません。ニッコリと、艶やかな笑顔を見せました。怪人二十面相の眉がぴくりと動きました。

「さあ、どうぞ。この指輪はお持ち下さいませ。お兄様達を返して下さいな」

 怪人二十面相は、そっと指輪を受け取りました。そしてしばしの間、愛おしそうにその指輪を眺めていました。

「……お嬢さん。ひとつお願いがあるのだが」

 怪人二十面相は、重たく口を開きました。

「この指輪を、私の指にはめてくれないかね」

 そう言って彼は懐から、もうひとつの指輪、和華子さんの物と揃いの指輪を取り出したのです。それは和華子さんの物より一回り大きい、男性ものの指輪でした。

「……ええ。分かりました」

 和華子さんは大きく節くれだった怪人二十面相の手をそっと取ると、指輪を受け取り、その指にはめました。指輪はまるであつらえたように、彼の指にぴったりと収まりました。

「……ありがとう」

 怪人二十面相は、静かにそれだけ言いました。そして俄に、まるで西洋の騎士の様に和華子さんの前に跪いたのです。

「ではこれを、私から貴女に。大人になったお祝いとして……」

 そう言って怪人二十面相は和華子さんの小さな手を取ると、その指に、先程受け取ったばかりの指輪をはめたのです。

「私が持っていても、よろしいんですの」

 和華子さんは困惑顔で彼に尋ねました。

「ええ。私はただ、約束を果たしたかったのですよ……。古い約束を、ね」

 怪人二十面相は静かに微笑みました。そして彼は小林君の背中を軽く叩き、

「さあ、行きなさい。君はもう自由だ」

 と促しました。

「では、私はそろそろ行かねば。うるさい波越君がやって来ないうちにね」

 そう言って、怪人二十面相がひらりと気球に飛び乗った、その時です。

「手を上げろ!」

 突然、怪人二十面相の背後から、鋭い声が響きました。

 その場に居た全員がギョッとして動きを止め、声の方を見つめました。そこには怪人二十面相の腹心の部下、ここまで気球を操ってきた男が、銃を構えて立っていたのです。

「抵抗する奴は、容赦なく撃つ」

 男はそう言うと、目深にかぶったハンチングと、顔をほとんど覆うマスクの間から覗くギラギラした目で、皆をぐるりと見回しました。

 突然の出来事に、何が起きたのか理解できる者は誰一人いませんでした。しかし怪人二十面相が、いち早く冷静さを取り戻しました。

「お前は何者だ。いつ私の部下と入れ替わった? 目的はなんだ」

 怪人二十面相が男に向かってそう言うと、男は静かにマスクとハンチングを取りました。

「あっ」

 家族の者達は、思わず口々に声を上げました。男の顔には、確かに見覚えがありました。

 そこにいたのは……、あの、書生だったのです。

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